2011年04月28日

モテる芸術家

 TVドラマ『TAROの塔』を見たら、岡本太郎という存在について少し書きたくなった。
 「芸術は爆発だ」と本人は言っていたが、その伝でいえば、岡本太郎は衝突だ。作品が単独でぽつんと置かれていると、あまり面白くない。太陽の塔にしても、大屋根を貫いて「衝突」していればこそ、また万博と「衝突」していればこその作品だ。『TAROの塔』は、意識してのことか図らずもなのか、見事に岡本太郎を衝突として描き出していた。
 岡本太郎の芸術論も、やはり衝突だ。彼は「いわゆる芸術」を否定し、「いわゆる」のつかない、カギカッコもつかない芸術を対置した。
 「いわゆる芸術」とは、
・世間から芸術家と認められている人々が作る
・美術館に展示してある
・サザビーズなどで売買される
・大学で教えられている
・権威ある
・お馴染みの
・人を元気づけたり慰めたり喜ばせたり泣かせたり挑発したりする
 ものである。
 「いわゆる芸術」は、大金持ちがほんの一握りであるように、社会のごく一部に偏在している。ほとんどの人間は、資本とは到底呼べない小銭しか持てずに資本を遠くから眺めるだけのように、「いわゆる芸術」を学校教育やマスコミ越しに眺めるだけだ。資本に生産という社会的役割があるように、「いわゆる芸術」にも社会的役割がある。「いわゆる芸術」の社会的責任を担う専門家として「芸術家」がいる。
 「いわゆる芸術」は、社会的役割を果たし社会的責任を担う、合理的・合目的的な、立派な社会活動である。

 もちろん、こういう社会性百点満点の活動が芸術なわけがない。というより、社会性百点満点の活動など、この世にひとつもない。それはちょうど、この地上に生きる人間の誰一人として、「よいパパよいママよい家族」ではありえないのと同じだ。……なに、あなたは「よいパパよいママよい家族」の実例を知っている? なら死ね。
 ほとんどの人は人間をよく見ているので、「よいパパよいママよい家族」を真に受ける人は珍しいが、「いわゆる芸術」はそうではない。みんな芸術をよく見ろ、「いわゆる芸術」なんて悪い冗談だーー
 岡本太郎はこうして、「いわゆる芸術」と芸術を衝突させた。
 この衝突は確かに輝いている。だが、岡本の望んだ世界、「いわゆる芸術」ではない芸術が普及した世界、ちっとも「芸術家」らしくない人がごく当たり前のこととして絵を描くようになった世界が訪れたとしよう(現在すでにかなりそうなっている)。はたして、その絵はどれだけ輝くだろうか。東郷青児よりはマシ、という線を何歩も出ないようなものを、「いわゆる芸術」と衝突させずに単独で眺めるとき、芸術はどれだけ輝くだろうか。
 (『TAROの塔』を見て一番驚いたのは、岡本が東郷青児と一応つきあっていたらしいことだ。岡本はよくまあ軽蔑を隠せたものだと感心する。「東郷も『いわゆる芸術』の被害者だ」とでも考えたのか)
 芸術それ自体を単独で輝かせるのではなく、「いわゆる芸術」との衝突によって輝かせるこの手法は、太陽の塔のときと同じだ。大屋根や万博ぬきの太陽の塔はあまり面白くない。
 岡本は衝突を必要とした。衝突先は外部に求めるしかない。そのことが岡本の芸術に社会性を与え、また岡本をマスコミの寵児にした。
 だが、芸術がすべて衝突だと思ったら大間違いだ。
 
 運命的なもの、と仮に呼んでおこう。
 『モテる技術』という本がある。女にモテる、という目的を恐ろしく生真面目に追求した本で、どれくらい生真面目かというと、デート前のチェックリストのなかに「財布を忘れない」という項目がある(ちなみに私の友人は実際に財布を忘れたことがあるという)。この本には、「一人の女を『彼女こそ運命の女だ』と思い込むのはやめろ」というアドバイスが頻出する。こういう思い込みをしたら、他のチャンスを逃すし、「なにがなんでもうまくやらなければ」とプレッシャーになって楽しめない、という。また私から付け加えさせてもらえば、こういう思い込みは、自分の頭のなかの「運命の女」なるものを生身の人間に投影する行為にすぎない(投影されて嬉しがる人もいるが)。
 「運命の女」が本人の頭のなかにしかないように、運命的なものは、本人以外にとってはちっとも運命ではない。「彼の両親は貧しく忙しかったので~」式に納得できるものは、運命的なものではない。恋愛対象になりうる女が一人だけの環境で生きている人にとって、その女が「運命の女」ではないのと同じだ。また、社会的に価値が認められているものは、運命的なものではない。若くて健康で金持ちで美人で頭がよくて等々すべて満点の女が「運命の女」ということはありうるが、その動機が満点の羅列なら、それは「運命の女」ではない。
 運命的なものとは、社会にとっては認識不可能な異物である。岡本太郎のような衝突が社会性を生み出すのに対し、運命的なものは社会との断絶を生み出す。衝突はモテる。運命的なものはモテない。
 モテなかった人々のことを思い出そう。アンリ・ルソーやゴッホのことだ。彼らは、「うまい」「きれい」「心地よい」ーー岡本太郎が否定した三つの価値ーーに従わなかった。もしかすると従おうとしたのかもしれないが、彼らの頭のなかにある「うまい」「きれい」「心地よい」は、社会のそれとは根本的に異なっていた。ちょうど、「運命の女」が生身の人間とは根本的に異なっているように。
 運命的なものは往々にして安っぽい。ギュスターヴ・モローの描くサロメを見よ。世の恋愛小説のおおよそ半分は、「運命の女」がどれほど安易なものかを描く(たとえば近年の渡辺淳一)。
 根本的に勘違いし、社会と断絶し、ひとりよがりでさえなく(よがれるのならまだ救いがある)、安っぽく滑稽で無惨。森見登美彦が『太陽の塔』で描いた世界だ。
 その世界には、根本的に重要なものがある。社会がその重要さをけっして認識できないがゆえに重要なものが。というのも、これもまた社会にはけっして認識できないことだが、人間は、程度の違いこそあれ一人残らず、根本的に勘違いしているからだ。ちょうど、「いわゆる芸術」が悪い冗談であるように。この地上に生きる人間の誰一人として、「よいパパよいママよい家族」ではありえないように。
 
 岡本太郎の作品には、運命的なものの影が薄い。岡本が乗り越えようとしたピカソもそうだ。二人とも、自分の勘違いに気づいて修正する賢さがあった。二人がモテたのは偶然ではない。
 しかしピカソが評価したのは、自分と同じような賢い人間ではなく、アンリ・ルソーだった。「私は日ごとに下手に描くことによって救われている」というあの言葉も、そういう意味として聞くことができる。
 ピカソにとってのアンリ・ルソーを、岡本は持っていただろうか。アンフォルメルを推す岡本を見ると、また民俗や古代を指向する岡本を見ると、どうも、そうではないように思える。

Posted by hajime at 2011年04月28日 00:12
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