2012年07月31日

白善燁『若き将軍の朝鮮戦争』(草思社)

 白善燁『若き将軍の朝鮮戦争』(草思社)を読んだ。
 長大な経歴を持つ著者が書いた長大な回顧録であり、あらすじもそれなりに長大なものになり、書くのが面倒なのでAmazonなどに任せる。
 歴史の資料という観点から、気になったところを書いてゆく。

 
・「昭和一四年、戦前日本の最盛期をこの目で見たことになろうか」(17ページ)
 日本の現代史の感覚でいうと、1939年はすでに国際関係が相当まずくなっていて、景気がよかったのは軍需のせい、という時代だが、著者はそれを「最盛期」と書いているのが興味深い。
 
・日清戦争において、葉志超の軍は成歓・牙山で敗北したあと、ほぼ全力が歩いて平壌に再集結した。これは清国兵が日本で言われたほどの弱兵ではなかったことを示す。(29ページ)
 朝鮮戦争初期に敗軍を率いて落ち延びた著者の見解と思うと、味わい深い。
 
・「日本の「なんでも法治主義」にも問題があった。恣意的な人治よりも法治のほうが合理的かつ公平というのは日本人の論理であって、アジア全般に通じる論理ではない。日本は西洋から学んだ法治主義に、江戸時代に培った「お上は万能」精神を加味したものをアジア全体に押しつけようとした。韓国ではあまり言われなかったが、中国では日本人を「法匪」と呼んでいた。法律を振りかざす匪賊の意味である。大陸に渡った日本の官吏は、せっせと法律をつくって人びとの生活に干渉したのだから、反発されるのも無理はなかった」(47ページ)
 法律や裁判とはつまるところお役所仕事である。お役所仕事が別に大したものではないことは誰でも知っている。年金問題で見たように、名簿の管理ひとつに右往左往するのがお役所仕事だ。
 なのに、どうやら日本には、カギカッコつきの「法律」や「裁判」があるらしい。「法律」は完全無欠の正義を体現している。そうでなければならない。「裁判」は常に事実を究明する。そうでなければならない。
 これらがお役所の手に負える仕事かどうか、一秒でも考えれば答えは明らかだ。が、どういうわけか、「事実が知りたいんです」という原告の言葉は、「こいつ馬鹿か」という批判的な沈黙に迎えられたりはしない。
 こうした「法律」や「裁判」が日本の外で通用するものではなかったことの証言として、上の記述は興味深い。
 
・学校教練・配属将校について「さらに大きな効果は、これによって軍国主義がより深く国民のあいだに浸透したことであった。敗戦後の日本では、「教練が苦手で泣かされた」「配属将校に睨まれてあやうく落第だった」「殴られた」と悪評ばかりだが、本当にそうだったのだろうか。洋の東西を問わず、元気な男の子はチャンバラや戦争ごっこが好きなものである。中学に入って初めて小銃を手にしたとき、緊張感とともにある種のときめきを感じなかったか。悪く言えば、日本軍部はこの若者の心理につけこみ、軍事を一般社会に浸透させたと言える」(62ページ)
 同時代を生きた植民地人の証言として、また現在も徴兵制の害悪に悩む韓国からの視点として、興味深い。
 
・「ゲリラを捕捉したときは、どんなに小さな集団であっても、全力をあげて文字どおり殲滅するまで叩きあげねばならない」(76ページ)
 この箇所に限らず、こういう意味での「叩きあげる」という言葉がよく出てくる。現在の日本語とはずいぶん違うが、どこかの隠語のたぐいなのだろうか。
 
・間島特設隊の北支での活動は、住民を丁重に扱ったために成功した(78〜79ページ)
 食料を得るときには必ず代金を十分支払ったというが、その金はどこから出てきたのかと首をかしげる。著者の書きぶりが軍国美談めくときには、どうも話が怪しい。
 
・「私にとっては初めての転勤で、一家をあげて引っ越しをしなければならなかったのだが、支給される旅費は私の分だけで、引っ越しの費用や家族の旅費すら出ないとのことだった」(116ページ)
 この箇所に限らず、当時の韓国政府には金がなかったという話が至るところに出てくる。汚職の気配を感じる。
 
・「韓国軍にアメリカ軍の制式装備が入り始めたのは一九四八年夏のことだった。第五師団に入ったのは、おそらく四九年になってからだと思う。(中略)ところが聞いてみると、戦闘射撃ができる演習場はもちろん、基本射場もない始末であった」(136ページ)
 これが1949年7月のことで、開戦は1950年6月なのだから、練度を云々するのもおこがましい。こうした実情はすべて北朝鮮に筒抜けだったはずだが、撤退を決めた米軍には伝わっていなかったらしい。
 
・「アチソン声明が北の侵略決意をうながしたと言う識者もいるが、戦争準備に必要な時間から考えて、これを結びつけるのは無理があるように思う」(149ページ)
 韓国軍はろくに小銃も撃てない連中だわ、米軍地上部隊は撤退するわ、戦車はたんまりあるわ、国共内戦を戦ったばかりの歴戦の2個師団はあるわで、どう考えても負けるわけがない、と金日成は思っただろう。
 やってみなくちゃわからない(声:細野晴臣)。
 
・もし戦車への対抗手段があれば、ソウル陥落を免れた可能性は高い(172ページ)
 北朝鮮軍が韓国軍の実情を知った上で作戦を立てたであろうことを考えると、やや身内びいきがすぎるように思う。
 突破された侵攻路は谷底にあった。もし敵に強力な対抗手段があるなら、そもそも戦車を投入しない。守りの堅いソウルを迂回したかもしれないし、戦力を第一師団の担当正面に集中したかもしれない。
 
・「われわれは捕虜を多く得たが、ほとんどが少年であった」(176ページ)
 韓国軍第一師団と相対した北朝鮮軍は第一師団なので、北朝鮮の支配地域で徴募された兵と思われる。
 著者は書いていないが、おそらく韓国軍の兵士も同様に少年ばかりだったのだろう。
 
・「二人とも連隊長だ」(197ページ)「第一五連隊は独断で大邱に募集班を派遣し、人手を集めた。どこの部隊でも物資の荷揚げなどの労務員を独自に集めていたから、ここまでならば問題はない。ところが第一五連隊は三〇〇〇人もの人員を集め、これに階級を与えて大隊三個と補充大隊一個に編成していたのである」(222ページ)
 戦場ではどんなデタラメなことも起こりうる、という話。
 
・「臨津江の緒戦から感じ、この一戦でさらにはっきりしたと思ったのは、敵がわれわれ同様、未熟だということであった。「ソウルを奪った以上、勝ったも同然」と思いこんでいたのだろうが、四列縦隊で無警戒に行進して来るなど、正気の沙汰ではない」(200ページ)
 少年兵の件といい、北朝鮮軍の人材不足を感じる。こんな状態でも一時は大邱の近くまで進んだのだから、戦争は難しい。
 
・7月14日、錦江の線を守れず大田を奪われた(209ページ)
 米軍の担当正面での出来事のためか、さらっと書いてあるが、錦江の次はもう洛東江しかない。もし釜山を落とされていれば、重大な敗因として挙げられるところだ。著者の書きぶりに注目。
 
・「当時から国軍全員が感謝し、こんにちもなおその思いを新たにしていることは、国民の積極的な協力である。(中略)その団結の核は、李承晩大統領その人であった」(239ページ)
 戦中の李承晩はカリスマとして国民の信望を集めていた、という記述が随所にある。戦後の李承晩はこの信望に応えなかった。
 「国民の積極的な協力」なる胡散臭いものを、李承晩の名前と並べたところに、著者の思いが垣間見える。
 
・「仁川上陸作戦によってソウル収復が早まったのは、結構なことではあった。しかし、上陸作戦の真の目的は達成されなかった。(中略)敵の主力はこれをうまくすり抜けた」(261ページ)
 仁川上陸作戦の結果を批判する意見はあまり見ない。だが調べてみると著者の言うとおりで、どうして仁川上陸作戦が成功とばかり言われるのかわからなくなる。
 もしソウルから元山までの線が速やかに遮断されていたら、果たして中国は介入しただろうか。ソウルの東をすり抜けた北朝鮮軍主力は、介入の呼び水として重要な役割を果たした。
 
・「ソウルの町で平壌の名物である冷麺や焼肉がさかんに食べられるようになったのは、韓国戦争以降である」(304ページ)
 ちなみにボルシチは元はロシアではなくウクライナ料理。
 
・「韓半島で戦ったアメリカの将軍たちに共通していたのは、いずれもヨーロッパ戦線の経験者であること、そして大戦中には陸軍参謀総長、戦後は国務長官、国防長官を歴任したジョージ・マーシャル元帥の眼鏡にかなって戦後も軍に残った、ワシントンの意向に忠実な軍人であることだろう。そこにただ一人、マッカーサー元帥という偉大であるが、どこか異質な人物がいたという構図を見失うと、韓国戦争を真に理解できないと思う。マッカーサー元帥解任という出来事も、この構図を知っていれば、さほど驚くことはないのである」(309〜310ページ)
 のちのリッジウェイの記述とあわせて読むと、微妙に毒のある書きぶり。
 
・「リッジウェイ将軍は、空挺服に空挺靴、右のサスペンダーには手榴弾、左には包帯セットを吊るし、厳寒のなかジープは幌なしと、なかなか勇ましい姿だった。訓示を聞きながら、ある種のスタイリストであると思ったが、超一流のファイターであることも間違いなかった」(310ページ)
 「リッジウェイ将軍が着任してからしばらくすると、アメリカ軍の将校食堂の装いが一新した。糊のきいたリンネルのテーブルクロスがかけられ、食器もプラスティックのものはなくなり、すべてが陶器となった。陶器の裏を見ると、どれも「ノリタケ・チャイナ」とあり、日本から大量に購入したものとわかった。私はここで食事したとき、将校に聞いたことがある。
 「お国は贅沢ですね、戦争中だというのに立派な食器を使う」
 「いや、贅沢ではないのです。これは軍司令官じきじきの命令なのですよ。将校たる者、裸のテーブルについて粗末な食器で食事をするものではないと言われ、どれも新調したのです」
 マーシャル元帥の眼鏡にかなう軍人とは、ここまで細かいところに気を使う人物なのかと認識を新たにしたものだった」(314ページ)
 好意的な書き方にはあまり見えない。
 
・李承晩は休戦会談に反対と言いつつ、「では大韓民国の軍人が会談に参加するわけにはいかない」と著者が言ったら、「いやきみ、それはそれ、これはこれだよ。アメリカとの関係もあるから、会談には韓国軍代表として参加しなさい。しかし、われわれの基本方針は忘れないように」と言った(346〜347ページ)
 次のバンフリートの言葉を参照すると味わい深い。
 
・「まずはスタッフや隷下指揮官の言うことをよく聞く耳をもつこと。そしてイエスかノーかをはっきりさせることだ。どうにでも解釈できる曖昧な答えはいけない。難しい問題ならば早急に結論を出さず、一晩よく寝てから回答しなさい。人前で怒ってもいけない。そうすれば参謀総長であれなんであれ、その職責をはたすことができるものだ」(375ページ)
 休戦会談に反対と言いつつ会談に代表を出す李承晩はまさに「どうにでも解釈できる曖昧な答え」を与えていた。著者の意図を感じる。
 
・アーレイ・バークいわく「日本海軍の敗因ですか……それはおおむね人事の問題に帰結するのではないでしょうか。人事が硬直していたと聞いておりますよ」(351ページ)
 大統領が替わると局長クラスまで首がすげ替わる国のほうが、戦争には向いている。
 
・「敗残兵を除くと、ゲリラには大別して二つのタイプがあった。一つは純朴な農村、漁村の青年であり、純情な女学生である。最後まで抵抗し、捕虜になってからも死を願うのは彼らであった。純朴であるがゆえに、より強く洗脳され、最後まで戦うのである。彼らを救うのがわれわれの使命であったが、こちらもまた命がけであるから、やむなく射殺しなければならないことも多々あった。今ここに、彼らの冥福を祈るものである。
 もう一つが、高学歴のインテリである。純朴な青年たちを洗脳した憎むべき連中である。始末の悪いことに、この連中は情勢不利と見るや進んで投降した。彼らは弁舌さわやかに転向を誓い、「きみたち国軍は立派だ、国の宝だ」と追従まで口にした」(362〜363ページ)
 インテリも、まさか出世や金が目当てでゲリラに身を投じたわけではないだろう。命を惜しむのを悪く言うのは、日本陸軍のDNAのなせる業か。
 
・「高級軍人であれば議会の圧力に敏感なはずだが、バンフリート将軍は動じなかった」(369ページ)
 では「議会の圧力に敏感」な高級軍人とは誰なのか。リッジウェイとその親分のマーシャル、というわけだ。
 
・1952年8月の大統領の改選において、李承晩は議会での間接選挙(従来の方式)を不利と見て直接選挙への切り替えを図った。「大多数の国民が大統領を熱烈に支持している事実は無視できるものではなかった」「李承晩博士は有効票の七〇パーセントを集めて圧勝した」(374ページ)
 胡散臭い書きぶり。「国民の積極的な協力」も参照。こうした李承晩との距離感は、本書最大の読みどころかもしれない。
 
・李承晩について、「軍人の経済的な待遇には厳しかったが、のちに「軍人が金銭の味をしめたら国は滅びる」という博士の哲学に、なるほどとうなずかされるようになった」(414ページ)
 どういう経緯でうなずかされることになったのか、著者は書いていない。朴正煕時代のことと読めるが。

Posted by hajime at 2012年07月31日 21:42
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