まずはTV版の『まどマギ』について。
私は本放送をリアルタイムで見た。最終回以外はゲタゲタ笑って楽しんだ。ゲタゲタ笑って楽しむ、という以上のものではないし、以下でもない。ためつすがめつして眺め回したり、唖然としたり、「あれがああだったら、これがこうだったら」と益体もない妄想にふけったり、といった楽しみを引き出せる作品ではない(最終回以外は)。ただ、ゲタゲタ笑えることは間違いない。
ゲタゲタ笑えるとは、どういうことか。一発ネタ、というのに近い。さらに言い換えれば、「お前それは無理すぎるだろ!」と突っ込んだら負け、というのに近い。「お前それは無理すぎるだろ!」と思っても突っ込むのは野暮、「どんだけ無理だよ!」とゲタゲタ笑って続きを楽しむ、というスタンスを視聴者に求める作品が『まどマギ』である。
『まどマギ』における無理は、もっとも端的には、ほむほむの沈黙という形で表れている。「話しても信じてくれなかった」といっても先に話しておけば後で信用を得られるだろうに、というのはまさに「突っ込んだら負け」であり、ゲタゲタ笑って楽しむことをお勧めする。
個々の無理の例をいちいち挙げていくときりがないので、一番大きいところだけ指摘する。悲劇なのに、破滅する人々をあまり尊敬できない。尊敬に値する人々が、その尊い行いゆえに破滅するからこそ、悲劇は泣ける。『まどマギ』の破滅した魔法少女たちのなかで、尊い行いをしていると多少なりとも感じられるのは巴マミだけだ。もっとも、尊敬に値する女子中学生ばかりがたくさん登場する話もそれはそれでグロテスクだから、小手先ではどうにもならない無理の表れと見るべきだろう。
こういう無理があるので、「部分に全体が宿り、全体に部分が宿る」というような一貫性を『まどマギ』は備えていない。が、それゆえに開かれる可能性もある。たとえば、『まどマギ』の日常空間は異様な近未来オサレセレブだが、ああいう異様さと見事に一貫した作品を作るのは、あまりにも難しい。あの異様な近未来オサレセレブ日常空間と蒼樹うめキャラデザの取り合わせを眺める楽しみは、『まどマギ』が一発ネタだからこそ可能になった。
こういう偉そうなことを並べ立てる奴はどんな大層なものを作るのか、とお思いの向きは完全人型をどうぞ。要iOS / Androidです。
さて、劇場版について。
今回見たのは前編であり、TV版の総集編(さやか魔女化まで)という位置づけなので、私の場合、TV版をもう一度見るのに近い体験となった。それよりはずっと時間の節約になったが、得るものはそれだけだった。まだ『まどマギ』をご覧でなく、無理なものを見て「どんだけ無理だよ!」とゲタゲタ笑う度量をお持ちのかたには、お勧めする。
一発ネタを繰り返し見るのは、駄洒落の解説を聞くのに似ている。「ああそうだね」とわかるだけで、楽しくない。劇場版ということで、TV版にない楽しみが追加されているのではないかと思ったが、少なかった。
追加・変更されたもの:
・OPでほむまどがいちゃいちゃしている。といっても全部で10秒くらい。
・ホスト同士の会話の演技。TV版では、「これはいったいどういう作品解釈なのか」と唖然としたが、劇場版では違和感がない。
追加・変更してほしかったもの:
・音響のダイナミックレンジ。TV版と同じ音作りに聞こえた。映画館の静かさや音響設備を生かせていない。
・奇怪な構図。近未来オサレセレブ日常空間、イヌカレー空間、蒼樹うめキャラデザ、という素材をさらに生かす奇怪な構図の画面がもっと欲しかった。
一発ネタを繰り返し見れば、アラが目立つのは仕方ない。今回気づいたアラは以下のとおり。
・携帯の番号を交換するのを二度続けて忘れるまどか。「どんだけ無理だよ!」とゲタゲタ笑うには少々厳しい。
・杏子が自身の「ゾンビ化」をどう思っているのか、よくわからない。さやかの絶望を相対化する要素を持ち込みたくない、というのはわかるが、これもやはりゲタゲタ笑えない。
そして一番気になったアラは、
・巴マミのティーセット。あの近未来オサレセレブな部屋に、あの30年前に田舎のスーパーで買ったようなティーセット! あれをリテイクせずに通したのはどこの木偶の坊か。BDではまともになっていることを期待する。私のお勧めはロイヤルコペンハーゲンのグリーンフルーテッド。
今回あらためてその良さに感じ入った要素もある。
・ほむほむのアオリ構図。アオリ構図の完成形、と呼びたいくらい完成度が高い。
・イヌカレー空間。映画館で見ると一層いい。
・全体にオサレ&ファンシーな画面。おかげで客層に女性が加わる。リリカルなのは劇場版とは大違いだ。
後編では、ほむまど大盛りを期待する。TV版は百合的には消化不良の感があった。