『魔法少女まどか☆マギカ』のことを、「悲劇なのに、破滅する人々をあまり尊敬できない」と前回書いたが、そういえばラシーヌ『アンドロマック』もそうだった、と思い出した(参考)。
「尊い行いのゆえに破滅するからこそ泣ける」というのは、たとえばオスカー・ワイルド『幸福の王子』を思い出していただきたい。ツバメは、生き延びることよりも、尊い行いのほうを優先させたがゆえに死んだ。尊いことをしたが、それを現世での栄光と両立させるには致命的に何かが欠けていた――そんな人々こそ悲劇の主人公である。
生き延びつつ尊いこともする、そんなよくできたツバメは、食あたりのような不運以外ではなかなか死にそうにないし、よくできたツバメが食あたりで死ぬ話はなにをどうやっても泣けそうにない。そういうよくできたツバメが失われるほうが、この世にとっては大きな損失のはずなのだが、人が泣くのは損失の大きさのゆえではない。
また、もしツバメが、共感はできるが尊敬には値しない形で出来の悪い奴だったら、どうか。たとえば、救貧ではなく吝嗇のために死んだのなら? 悲劇ではなく笑い話だ。ところが、『アンドロマック』は、これに類することをやって、なおかつ悲劇で通っているらしい。
『アンドロマック』に登場する、熱狂的で破滅的な恋に焦がれる人々はいったい、吝嗇なツバメに比べて、どれほど尊敬できるというのか。吝嗇のために死ぬと笑い話になり、熱狂的で破滅的な恋のために死ぬと悲劇になるのは、いったいどういうわけなのか。
さて話は『まどマギ』に戻る。
『アンドロマック』の奇怪な謎に比べれば、『まどマギ』は多くの面ではるかに納得感が高い。
たとえば『アンドロマック』の脇役たちは、誰も主人公たちにツッコミも入れずスルーもせず、熱狂的で破滅的な恋を相対化するきっかけさえ提示されない。主人公たちが王や王妃であることを考えると、作為が強引だと感じる。それに比べて『まどマギ』の魔法少女たちは、巴マミとほむほむが示したとおり孤独であり、相対化のきっかけはうまく排除されている(ゾンビ化の件ではあまりうまくなかったが)。
が、「悲劇として通すために作中での相対化を避ける」という同一の手法を用いている点では、『アンドロマック』と『まどマギ』は共通している。
作中での相対化さえ避ければ、それでいいのか――これが今日のテーマである。破滅する人々を尊敬できなくても、作中でそのことを露わにしなければ、悲劇として通るのか。
通らない、と私は感じる。少なくとも、今では通らない。
トンデモ妄想になることを承知で言えば――
近世から近代にかけて、フィクションの登場人物を一種の理想像、超越的存在として読むことが流行った。坪内逍遥が『南総里見八犬伝』の八犬士に「仁義八行の化物にて決して人間とはいひ難かり」と言い掛かりをつけたのは、この文脈で理解されるべきだ。八犬伝を今読めば、(少なくとも前半の)八犬士は、坪内の言い掛かりを跳ねつける。作品としては、島田清次郎『地上』や小杉天外『魔風恋風』に強く感じる。こうした作品が大ヒットした事実に、当時の読者の態度を見て取ることができる。
中世ヨーロッパの宇宙観では、天と地は別の法則で動いていた。超越的存在としての登場人物は、あたかも中世ヨーロッパの天のように、日常生活を営む読者とは別の法則で動く。熱狂的で破滅的な恋のために死ぬと悲劇になるのは、それが当時の天上の法則だったからではないか。
現在では、こうした読み方は流行らなくなった。フィクションの登場人物は、天上の超越的存在として読まれることをやめ、「キャラ」になった。「キャラ」とは、この地上のどこかに生活していそうな人々であり、もし熱狂的で破滅的な恋にのめり込んでいたら「どうかしてる」と苦言を呈したくなる相手であり、仲間意識を覚える隣人である。
日常生活を送る人々がそうであるように、「キャラ」にとって相対化は、日常茶飯事として当然起こる。起こるというより、相対化を通じて人々は互いに認識しあっている、と言える。相対化のきっかけを持たない人とは、それこそ『まどマギ』の魔法少女のように孤独な人だ。そうした孤独もなんらかの真実を含むが、「キャラ」の世界からは見えない真実だ。
超越的存在としての登場人物は、フィクションの読み方として歪なものではなかったか。『アンドロマック』を悲劇として通すには、天上の法則についての暗黙の前提が必要であり、それ抜きでは不可解でしかない(私の推測も、まるごと的外れのトンデモかもしれない)。
どんな作品もリアルタイムでは、なんらかの暗黙の前提のもとに読まれるが、その前提を失っても、輝きを失うどころかいっそう増すように思える作品もある。たとえば『ドン・キホーテ』は当時流行の騎士道物語を前提としているが、今の読者はその騎士道物語にほとんど触れるすべもなく、それでも『ドン・キホーテ』は十分どころではなく面白い。これは『ドン・キホーテ』の登場人物が「キャラ」として読めることと大いに関係しているだろう。
徹底的に「キャラ」であるような登場人物の多い昨今のアニメのなかでは相対的に、『まどマギ』の登場人物はあまり「キャラ」ではない。『まどマギ』のファングッズがいささか発想・ビジュアルの両面で単調に思えるのは、そのためではないか。
作中での相対化を避ければ、その登場人物は「キャラ」としての可能性を失う。
「キャラ」が流行中だからそれはビジネス的にまずい、とビジネスマンなら思うだろうが、私は別にどうでもいい。ただ、読み方の可能性を損なう選択は、一般論としては、よい選択ではないだろう。
もちろん、一般論は必ずしも個別の作品の良し悪しを決めない。私は『まどマギ』を大いに楽しんだ。それと同じく、個別の作品に楽しいものがあるからといって、一般論として優れた手法だとは限らない。
作中での相対化を避ける――この手法は、『魔法少女リリカルなのは』にもよく見られる。
作中において、なのはの正義や立場の相対化は徹底的に避けられている。たとえば時空管理局の理念と運営は、現実の暴力機関に向けられるような疑いを免れるのか? 作中ではこの疑いは徹底的に避けられている。なのフェイはセックスレスのほうが萌えるのではないかなどと私が思うのは、作中におけるなのはの無謬性のゆえだ。
魔法少女は『リリカルなのは』によってバトル化し、『まどマギ』によってオサレ&ファンシー化した。次の一歩はキャラ化だ、と私は予想する。
(蛇足になるが、『リリカルなのは』にはもうひとつ、百合化という重要な功績がある。この功績をバトル化より高く評価される読者諸氏におかれましては、完全人型をどうかお引き立てください)