2007年、アメリカでのことです。保守派の(=非常にゲイに優しくない)上院議員(男性)が、空港のトイレでおとり捜査中の警察官(もちろん男性)を性的に誘ったとして現行犯逮捕され有罪を認めた、という事件がありました。
事件そのものは、見てのとおりのものであり、私から言いたいことはなにもありません。私がここで問題にしたいのは、この事件に対してどんな態度を取るか、です。
「自分自身もゲイでありながら、政治家になるために保守派に媚びた」とその議員を批判するのは、よくある態度であり、立派な態度でさえありうるでしょう。が、作品を読む・書く態度ではありません。
もうひとつの例を見ましょう。
1980年代のHIVパニックが収まってから現在に至るまで、欧米におけるゲイの権利運動というと、同性婚がもっとも注目されています。外野から見ると、ゲイの権利運動イコール同性婚、とさえ見えるかもしれません。
欧米におけるゲイの権利運動は1990年に始まったわけではありません。70年代、60年代、50年代にもあり、当時の運動の担い手の多くは現在も生きています。そんな人々のひとりが、同性婚の争点化について、こんな感慨(大意)を述べていました――「どうしてゲイの権利運動は、恋愛結婚のヘテロカップルの真似事に熱中するようになってしまったんだろう。私たちの時代はこんな風ではなかった。恋愛結婚のヘテロカップルの真似事でない、ゲイらしい人間関係とライフスタイルを目指していたのに」。
以上の2つの話を並べられて、さて、読者諸氏はどんな態度を取りたくなったでしょうか。あくまでも、作品を読む・書く態度として、です。
私の模範解答――「もしかすると例の上院議員は自分なりに、『ゲイらしい人間関係とライフスタイル』を実践していたのかもしれない」。
これはどう見ても、立派な態度ではありません。「この非国民め!」と罵られても仕方なさそうです。が、作品を読む・書く態度とは、こうしたものであるべきだと私は考えます。
「セクシュアリティ」という言葉が使われる世界では、立派な態度が求められます。立派な態度とはたとえば、「恋愛結婚のヘテロカップルの真似事>>>>公衆トイレで行きずりの男を漁るゲイヘイトの政治家」というヒエラルキーを受け入れることです。
このヒエラルキーは、善悪でいえば圧倒的に正しいのです。しかし作品とは、善に奉仕するものではありません。
善に奉仕し、立派な態度を人に求める――そんな世界の概念を、そのまま作品を読む・書くときに持ち込めば、「窃盗犯が罰されないから『ルパン三世』はダメ」ということになります。
読むときであれば、まだ害は少なくてすみます。前記のダメ論を心の底から奉じながら『ルパン三世』を楽しく読む、という二重思考をする人は、おそらく、たくさんいます。しかし書くときにこの二重思考をするのは、ずいぶんな離れ業でしょう。
では、立派な態度が求められる世界の概念は、作品を読む・書くときにはすべてシャットアウトしなければならないのか? まさか。ダメなのは、そのまま持ち込むことです。持ち込むときには、ある魔法をかけてやらなければなりません。
多くの既成ジャンルでは、作者が自分でこの魔法をかける必要はありません。すでに先人がかけてくれているからです。しかし百合ではまだ当分、作者が魔法を使えるべきです。
その魔法とは、どんなものか。それは、今後の連載を通じて解き明かしてゆきたいと思います。
次回のテーマは「年の差」です。なお『紅茶ボタン』と『完全人型』もよろしくお願い申し上げます。