「年の差カップル」というとき、ここでは仮に、中学生以下と18歳以上ということにします。
皆様のお手元にある、志村貴子『青い花』(太田出版)1巻38、39、65ページをご覧ください。「でも どのみち 無理なんだもんね」(39ページ)、「ふみちゃん 私じゃ いや? こわい?」(65ページ)。
またこれも皆様のお手元にある、玄鉄絢『星川銀座四丁目』第3話をご覧ください(どうしたことか私は今、本棚から単行本を探し出せないので、『つぼみ』を見ています)。「…乙女がよくて 私がよくても この国の法律が 許さないの…」。
百合における年の差カップルはしばしば、こういう「不自由」をモチーフにします。
まんがを読む目でなく、ニュースを読む目で眺めれば、先に掲げた2つの人間関係は「性的虐待」という単語を呼び起こします。
作品というのは日常生活と違って便利なものなので、両者の合意の深さや十全さ、支配・強制がないことを描けます。しかし日常生活では、そんなことを確かめるすべはありません。他人同士の関係はもちろんのこと、たとえ自分自身が当事者であっても、怪しいものです。
この怪しさは、法律や、社会の同性愛への理解や、性的虐待に対する社会的許容度などよりも、はるかに根源的で動かしがたいものです。
作品の便利さを使って、こういう根源的なものを操作する作品には、いかがわしさがつきまとう――と表現すると語弊がありますが、少なくとも、読者はこうした操作に自覚的であるべきでしょう。
根源的で動かしがたいものを取り除いておきながら、社会通念ごときの不自由をモチーフとして残す――百合の年の差カップル一般に対して私が感じる違和感は、ここにあります。
もちろん、これは一個の一般論にすぎません。個別の作品を一個の一般論によって裁断することはできません。上で例として掲げた作品は、どちらも優れたものです。
それでも、百合はBLなどに比べて年の差カップルが少ない、と感じるのは、私の気のせいでしょうか。「BLなどに比べると、中高生同士以外のカップルに人気がないから」で済む問題でしょうか。
百合以外のジャンルに目を向ければ、前述の怪しさをモチーフとして用いる作品は多数あります。きづきあきら『モン・スール』(ぺんぎん書房)は、表現のありかたが百合に近い作品なので、わかりやすいでしょう(『エビスさんとホテイさん』と同じ作者です)。
が、百合ではこの手はあまりうまくない、と私は考えます。男が年上のヘテロカップルに比べて、性行為の侵襲性などの派手さを欠くからです。
百合は、年の差カップルについて、まだ十分な答えを出せていません。私自身もいずれ自分の作品でこの問題に取り組みたい、と考えています。
次回のテーマは、「売買春」です。なお『紅茶ボタン』と『完全人型』も(略)。