2013年02月18日

百合だからコラム百本 第7回 制度としての売買春

 権威ありげなお堅い雑誌で「思想」として取り上げられている主張のなかには、「言ってみただけ」という種類のものが多く含まれています。「まあ、そう言って言えなくはないか」というリアクション以外のものを最初から期待していない主張です。ただしこれは周囲の受け取り方の話で、言っている本人は大マジで体を張っていることもあるので、ご注意ください。
 これからご紹介する「思想」も、そういう種類のものです。
 「現在の社会のもとでは、すべての男女間の性行為は強姦であり、すべての結婚は売買春である」。理屈はこうです。
1. 男性全体が社会制度のありかたを自分に都合よく仕切っている
2. 性行為や結婚は制度的なものである
3. よって、性行為や結婚には、男性全体からの押し付けが多く含まれている

 「まあ、そう言って言えなくはないか」くらいに受け取っておくのがいいでしょう。あそこが雑だ、ここも雑だ、と言い始めると、きりがありません。「自分はどう考えても『男性全体』の最下層カーストだ」と反論したい殿方も、ここは鷹揚にうなずいておくと、きっとカーストが上がります。
 この主張の前提のひとつに注目してみましょう。「売買春は、性行為や結婚と同じく、制度的なものである」。
 こう書いてみると、ずいぶんとわかりきった話のように聞こえます。百合が売買春というモチーフを扱いかねているのは、おそらくは、これが「わかりきった話」であるがゆえです。
 
 売買春をモチーフにした百合作品は、少なくとも私の見聞のかぎりの印象では、BLに比べて少なく感じます。ヘテロよりは多い、とも感じますが。
 最近の『百合姫』から探したところ、井村瑛『リバーサル』(2011年3月号、『最低女神』所収)と、ちさこ『欲望パレード』(2012年11月号)が見つかりました。後者は制度的な売買春には触れていません。前者も、本編ではかなり狭い範囲でしか、売買春の制度を使っていません。ただ、扉絵には、なにか由々しいものがあります。
 読者諸氏も、ぜひ本棚から『百合姫』2011年3月号あるいは『最低女神』を取り出して、件の扉絵をもう一度ご覧ください。(広義の)売買春の現場でチラシなどに使う写真の様式を、真似て描かれたものだと思います。男性週刊誌用語で言うところの「過激」なところは一切ないこの絵が、なぜこうも由々しい印象を与えるのか。まずは、こういう見事なモチーフを見つけてきた作者に拍手を送ってから、この由々しさについて考えてみます。
 
 子供に歴史を教えなければならない、というのは不幸な話です。近世の春画を見れば、歴史の面白さが一目でわかります。
 現代の目で春画を見ると、なにがどう「エロい」のやら、まるで理解不能です。「エロい」とは、制度的なものであり、同じ制度のなかに生きていない人間には通用しません。研究によって、ある程度までは理解できるようになるでしょう。が、それではたして「エロい」と感じられるかどうか。私は否定的です。今はない制度のなかに生きていた人々を見つめることで、自分自身もやはり束の間の寿命しかない制度のなかに生きていることがわかる――これが歴史の面白さのひとつです。
 件の扉絵も、おそらくは300年後には、その由々しさを失っているでしょう。おそらくは人工知能の歴史家が、好事家の読者に「この絵はこういう絵です」と解説することでしょう。
 春画は制度の要請に従って描かれましたが、売買春の制度は、件の扉絵のような由々しさを要請するものではありません。作品という制度、まんがという制度、百合という制度が、ああいう由々しさを要請し、可能にしました。件の扉絵において売買春の制度は、作品を描かせるのではなく、作品のモチーフとして、使われているのです。
 とはいえ、制度をモチーフとして使うのは、なにも珍しいことではありません。世の百合作品の1割くらいは、結婚という制度をモチーフにしているように思えます。それが売買春になると、なぜ由々しさが生じるのか。
 ……などと問いを立てておいてなんですが、その答えは「思想」に任せておきます。「このモチーフは難しいが、大きな可能性がある」と読者諸氏に感じていただければ、私としては十分です。
 
 売買春の制度的な姿を見つめ(モチーフを使うにあたっては、まずは観察です)、その要請に従うのではなく、モチーフとして使うこと。
 ヘテロの恋愛ものやBLでは届かない、「まさに百合」と言うべき可能性がここにはある、と私は感じています。
 次回のテーマは「距離感」です。なお『紅茶ボタン』『完全人型』も(略)。

Posted by hajime at 2013年02月18日 01:18
Comments
Post a comment






Remember personal info?