2013年03月03日

ジョージ・L・モッセ『英霊―創られた世界大戦の記憶』(柏書房)

 全人類に読ませたい。ジョージ・L・モッセ『英霊―創られた世界大戦の記憶』(柏書房)161~166ページ。

 第一次大戦が終結して間もない時期、戦争体験の神話は闘争というものに、国民的・個人的再生の手段という新たな側面をもたらした。戦争の態度を平時に継続させることで、必然的に政治の野蛮化が促進された。人命に対する無関心が高じたのである。それは単に、ドイツのような確実に無慈悲さが蔓延した国民国家において、軍事的なものが目に付きやすく、高い地位に留まっていただけではない。政治の野蛮化とは、とりわけ戦争とその受容に由来する心性を意味する。戦間期に野蛮化の過程が進行した結果、人は活力を得て、政敵への対抗行動に駆られ、人間の残虐性や死に対する一般人の感覚は麻痺していった。
 イギリスやフランスのような戦勝国では戦争から平和へと比較的容易に移行したため、野蛮化の過程を統御することは不完全ながらも十分に可能であった。そうした幸運に恵まれなかったドイツのような国々では、新たな無慈悲さが政治を侵略していく様が見られた。この過程は、政治的急進派が動員できた力に大いに左右される。つまり、どの程度まで彼らが政治的討議と政治行動を決定したかに左右される。戦後、野蛮化の過程を完全に回避できた国は一つもない。ヨーロッパの多くで、犯罪と政治的な攻撃性は、終戦後たちまち増加した。ヨーロッパ諸国の大半において第一次大戦はいまだ終結せず、戦間期を通じて継続しているかのようであった。政治闘争の語彙、政敵を殲滅せんとする意思、これら敵対者を描写するやり方。そうした全てが、今度は内なる仇敵を主目標に定めて、第一次大戦を継続させるかに思われた。
 証明は容易ではないものの、大量死への無関心が進行したことは、こうした野蛮化の過程の前兆であった。例えば、一九〇三年のキエフで四九人のユダヤ人が殺害された時、事件は国際的な物議を醸した。ベルリン・パリ・ロンドンから公式の抗議が表明され、ほとんど全ての西洋諸国が追随した。しかし戦後、一九一九年に六万人のユダヤ人が殺害されたロシアの少数民族虐殺は、ユダヤ人社会を除けば、さしたる注目を集めなかった。確かに状況は異なっていた。一九一九年の時点では、ユダヤ人はボルシェヴィキと同一視され、当時ロシア侵略に乗り出していた連合軍は、密かに少数民族虐殺を支持していたと言われる。この場合、第一次大戦後の少数民族虐殺は、ボルシェヴィキ=ユダヤ人というステレオタイプに基づいた仮想敵に向け、新たな無慈悲さが発揮された代表例となる。後で述べるように、この無慈悲さが戦間期に、かつてなく苛烈さを増すのである。一九〇三年と一九一九年とで異なる態度こそが、確かな野蛮化の兆しと思われる。一〇〇万人近くが殺されたアルメニアの大虐殺は、まさに戦時中、内なる仇敵に向け、根絶ではなく追放を建て前として遂行された。この大虐殺もまた、アルメニア人以外には瞬く間に忘れ去られた。アドルフ・ヒトラーは、別の虐殺計画を練っていた一九三九年、いみじくも言い放ったと伝えられる。「で、誰がアルメニア人の絶滅なんぞ話題にしてるんだ?」。野蛮化がもたらす効果の典型として、政敵やいわゆる人種の敵の死に対する態度は注目に値する。大量死との対峙と個々人の命を軽視することの間には、明らかな関連が存在するのである。
 政治の野蛮化過程を最も端的に理解できるのは、ドイツである。終戦後のドイツは革命と反革命を繰り返し、やがて樹立されたヴァイマル共和国の下、政治的に不安定な時代にあった。ここで考察できるのは、野蛮化の過程に関して特に重要な事例の一部にすぎない。ドイツにおける政治生活の大半に、この過程が浸透していたからである。終戦後も維持された戦時的な態度は、内戦と革命から影響されたばかりではない。政治言説そのものが生産される雰囲気からも影響を受けた。ヴァイマル共和国時代、良識ある政治言説はまだ可能であった。実際のところ、他者に譲歩して理解しようとする自発的な意思は、議会政治を機能させる必要条件であった。しかしながら、議会政治は絶え間なく、政治的討議の地勢を決しがちな急進派からの異議申し立てにさらされた。ここでの関心は政治的右翼にある。彼らは、おそらくヴァイマル期に最も有力な過激派集団で、戦争体験の神話を一番多く蓄えた存在であった。右翼において、政治の野蛮化は放逸をきわめた。ドイツ国家人民党(DNVP)のように議会でまともな態度を装った国民政党でさえ、プロパガンダを通じて、政治的・人種的な敵と見なす者に対する野蛮を推進させた。それは、品位を欠いた急進的な超国家主義者の民族的右翼がしたことと、全く同じであった。政治的右翼は自らを、ドイツのみならぬ全ヨーロッパ規模での戦争体験の継承者と見なした。野蛮化の過程は、大衆の間に右翼の影響力が広がる度合いと密接に関連していた。この影響力が第一次大戦後のドイツ政治の中心を成したことが判る。というのは、ヴァイマル期を通じて、彼らの設定した議題が、他の政治集団の全てに斟酌を迫る最優先事項であり続けたからである。
 政治はいよいよ、敵の無条件降伏をもって終結すべき戦いと見なされた。確かに十九世紀にも幾分かの政治の野蛮化が、軍事的対立とは無関係に生じていたと指摘できよう。例えば、階級闘争の言葉遣いは、国民国家間の戦争と同じくらい人命を軽視していた。だが、第一次大戦を経験した後にこそ、ハンス・ディートリッヒ・ブラッハーの表現によれば、ドイツにおける争いの観念が暴力の観念へと広く変質してしまったのである。戦前から戦後にかけて生じた変化は、量的かつ質的な変化であった。過去の野蛮な側面の中でも最悪の部分が、幾つも増幅されて表れた。野蛮化の過程は、ヴァイマル共和国の最初と最後という不穏な段階に支配的となり、かつてない規模で、敵の見分け方と政治言説とを決定した。戦争はすでに多くの人にとって生活の一部と化していた。そしてそのことが確かに、戦後政治の趨勢に対して不利に作用したはずであった。
 戦争そのものが、大いに野蛮化を促進する要因であった。前線での戦闘経験ばかりではない。将校間や兵卒同士での、戦時下の人間関係も作用していた。将校の横柄な口調、兵卒の無抵抗、そして分隊内でのお座なりな生活は、一部の兵士に影響したに違いない。文明化の過程なるものの一部は、そうした圧力の下で解体された。戦争における滅私は崇高だ、戦争は最高の理想表現である、それらが人間の潜在能力を満たしてくれる云々、そう主張した張本人の多くが、戦争の野蛮さを自らのヴィジョンに統合したことは特徴的であった。例えば、エルンスト・ユンガーは、戦争が作った新しい人種について書いた。彼らは生命力に溢れた、鋼鉄の人間で、戦いへの準備は万端、戦士が体現する男らしさの理想を備える。そうした理想は、戦間期に建立された戦争記念碑の数々にも漲っていた。高次の理想を戦争の野蛮さへと統合する発想は、ドイツに限らない。フランスのアンリ・マティスはまさに戦時中、殺戮の神秘的解釈と純然たる喜びについて書いている。
 ドイツでは、戦時中の野蛮化が、当時の文明の限界を超える体験への憧れを伴った。つまり、原始的な本能だけが支配する領域への進出を意味すると見なされたのである。敵の塹壕への突撃をエロティックなまでの言葉で描写したエルンスト・ユンガーによれば、戦争はそうした願望を満たすと思われた。「憤怒が苦い涙を絞った……ただ原始の本能だけに身を委ねていた」。おそらく回顧的に書かれたこの文章は、戦争体験の神話がいかに男たちの夢を満足させたか、再び明らかにしている。たとえ現実は全く異なり、この場合もまず間違いなく恐怖と不吉な予感に満ちていたとしても。ドイツの人気作家ヘルマン・レンスは、五十歳近い年齢で志願して兵籍に入り、文化や文明は自然の躍動を覆う薄っぺらな化粧張りのようなもので、裂けて突破されるのを待っている、と書いた。人間の本性は、原始的で本能に支配される暴力的なものとなった。戦いという興奮状態におかれて原始性へと回帰することは、ドイツに限った現象ではない。イギリスのフレデリック・マニングも、塹壕を越えて攻撃に転ずる兵士たちが「人の発達段階の原始段階へと立ち戻る」様子を記した(ただし彼の文章は、「真正さ」として原始的なものに憧れたのではなく、何が起きていると思えたか描写したにすぎない)。戦前、ドイツ・ナショナリズムのある潮流では、原始的で本能的なものが唯一の真正な力として特に崇拝された。だが、戦時中から特に戦後にかけて、そうした理想は、自分の男らしさを試したがる多くの者の想像力を捉えた。「人工的」な文明を放棄したがるこの強い衝動は、敵との対決を熾烈なものにした。
 精神科医オットー・ビンスヴァンガーは戦争の最初の年、戦争の進行につれて愛国感情が歪曲されていった、と書いた。犠牲的行為の熱狂と自発的意思は、敵の根絶という残酷な憎しみと願望に道を譲ったのである。フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは、二〇年後の視点から戦争の帰結を評価して、従軍した義勇兵は犠牲の理想に身を委ねたが、命を軽んずる結果に終わった、と捉えた。戦時中に死と真っ向から対峙したことは、必然的に多くの兵士の死生観を変化させた。常にそこにある死にうまく対処するため、時として死は平凡化され、冗談にすらされた。さもなければ、死は戦争という虚構に組み込まれた。エリック・リードが最近『無人地帯』で分析したように、それは塹壕内にいる誰かの生の延長上に想像された。前線では、死を神聖化する余地はほとんどなかったのである。それは戦後まで待つか、銃後に残った者へと委ねるべきものであった。戦死者の祭祀は、塹壕で始まったのではない。ほとんどの兵士の間では、やがてある種の禁欲主義が蔓延して、死に対して無頓着になり、不可避なものも次第に受容されたらしい。むろん、そうした無頓着さが戦後世界にどう表れたのか、今となっては判らない。それがいかなる役割を果たして、戦後政治の野蛮な風潮を受け容れさせ、ひいてはナチ政権に黙従させたのかも判然としない。人が他者や自分自身の運命にさえ無頓着になるには、多くの理由がある。だが、戦時中に行われた無関心の訓練は、確かに一つの理由と見なすべきであった。
 戦中に見られた、友の死と仇敵の死への態度の違いは理解しやすく、同じような野蛮化効果をもたらした。そうした違いは、フランス革命という人民主権の理想に基づく時期、敵に対して大衆を動員する手段となった。斃した敵への憎悪は、その死を手荒に扱うことで増幅された。一方、自国のために命を捧げた者に死には崇敬の念が払われた。こうした態度の違いははっきりと読み取れる。フランス革命における死の祭祀や殉教者の葬儀には祝祭とともに執り行われる一方、敵の埋葬には最大限の嫌悪が表現された。ルイ十六世や恐怖政治の犠牲者はそこらの溝に投げ込まれ、通常は身元不明の貧民に使う生石灰を注がれた。十九世紀から二十世紀にかけての近代文学は、理想的なブルジョワの「逝去」とよそ者の汚らわしい頓死とを区別して、死にまつわる見方の違いを補強した。ゲーテのような良きブルジョワは(あるゲーテの伝記作家によれば)「生まれたのと同じ正午前に世を去った」が、グスタフ・フライタークが書いたユダヤ人のファイテル・イツィークは汚れた川で溺死した。しかしながら、友と仇敵の死の区別は、革命後の時代には散発的にしか継承されなかった。概ね、時の権力者が大衆の憎悪を動員しようとする場合に限られたのである。第一次大戦とその戦後期に至って、敵の死は全般的に人間の尊厳を奪われる傾向にあった。既に見たように、敵とは竜に殺される蛇であり、軍勢もろとも剥き出しの死の表象が待ちかまえる地獄へと堕ちゆく存在であった。戦争墓地や戦争モニュメントは戦友の死を超越し、たいていは敵の死を最終目標とした。
 ついに、敵の死と友の死を分離する傾向は、埋葬場所をめぐって精力的に推進された。一八七〇~七一年の普仏戦争の前後には、時としてドイツ軍とフランス軍の兵士は共同の墓地に葬られていた。だが、第一次大戦以降、もはやそうした事態は起こらなかった。ヴェルダンの戦場に散逸した遺骨を納めるためドゥオモンに建立された霊廟は、砦の上に三色旗だけが掲げられたため、ドイツからの糾弾を受けた。戦争の結果として死を扱う態度が変化したことは、ドイツで政治的右翼の術中に陥った。相当数の人々が、自分に累が及ばぬ限り、己が未来を防衛すべく、内外の敵に対する無慈悲な戦争を支持する覚悟であった。

 こうした一切に対して、いったい人間にはなにができただろうか。泣ける。

Posted by hajime at 2013年03月03日 15:11
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