2013年02月25日

百合だからコラム百本 第8回 融け合うような皮膚感覚

 どこの誰の言葉だったか、あいにく忘れてしまったのですが、百合作品における恋愛関係の魅力を、こう表現した文章を読んだことがあります――「融け合うような皮膚感覚」。ジェンダーという障壁のない世界でふたり融け合う、というイメージは、確かに百合の大きな魅力です。
 この魅力を強く打ち出している作品として、慎結『バラ色の人魚』(『ROSE MEETS ROSE』所収)を挙げたいと思います。文字どおり皮膚の上に模様として二人の恋愛感情が現れる、という作品です。水泳というモチーフとあわせて、まさに「融け合うような」イメージが表現されています。作者はこの作品に限らず、「融け合うような皮膚感覚」をしばしば描いています。

 
 少し話が飛びますが、『ROSE MEETS ROSE』の表紙をご覧ください。この二人は、収録作品の登場人物ではありません。前髪の長さ、瞳の色、制服、身長、おおよその髪型が同じです。まんがという表現形式においては、これは意図的なものです。
 この連載の第2回で、『海の闇、月の影』の双子が、かつての幼児的原初的一体感を楽園体験として回想する、という話をしました。二人が懐かしむ一体感は、「融け合うような皮膚感覚」と同一線上にあるものです。『ROSE MEETS ROSE』の表紙は、こうした一体感を託したものだと考えていいでしょう。
 
 さて、ここで少々考えてみてください。
 慎結の作品のように、「融け合うような皮膚感覚」を現在進行形の出来事として描く作品が、どれだけあるか。
 私には、ほとんど思いつけません。探し出すには蔵書をひっくり返す必要がある、と感じます。『バラ色の人魚』を読んで感じる「これぞ百合」な印象に比べると、驚くほど少ない、と感じます。
 
 なぜなのか。第4回で姉妹について述べた、「理想そのものであるがゆえに、そこからはなんの動きも生じない」という問題が、ここにもあるからです。『海の闇、月の影』のように、この理想を楽園体験として回想するのでなければ描きようがない、というわけです。
 ではなぜ慎結の作品ではそれができているのか。将棋の格言に、「手のないところに手を作るのが上手」というのがあります。どう見ても取っ掛かりのないものに取っ掛かりを見つけて引き寄せる、そんな技を使っているのです。
 たとえば、『ROSE MEETS ROSE』94ページをご覧ください。「席 ちがうよ?」「誰もいないから いいじゃない」と選ぶ席が、相手の斜め後ろ。この距離感が、技です。光に溶けるような教室の描き方も、やはり技です。そして中段のやりとり。横にリズムを刻むコマ割りにご注目ください。
 これらの技は無論、作者の発明ではないでしょう。どれも、別マ系の少女まんがを探せば、先行例がありそうです。が、技を見分けることと使うことのあいだの差は、観客と選手のあいだの差です。
 
 この連載では今のところ、モチーフの話が多くなっています。百合のモチーフが少なすぎる、という危機感を私が抱いているからです。しかし技も作品の命です。ことに、距離感を描く技は、百合にとって肝要この上もないものです。
 百合が描くべき距離感は、「融け合うような皮膚感覚」だけではありません。実作品の点数をみると、これがむしろ例外的なものであることは、すでに述べました。タカハシマコや袴田めらの作品に、それぞれ特異な距離感が見られることは、読者諸氏もご存知でしょう。
 これらの距離感についてはまた別の機会に論じるとして、次回のテーマは「フェティシズム」です。なお(略)

Posted by hajime at 2013年02月25日 00:45
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