2013年03月10日

百合だからコラム百本 第10回 今風の恋愛

 フェティシズムと恋愛は食い合せが悪い――とは自明のようですが、さてこの自明感は、今風の恋愛を知らない人、たとえば2世紀前や2世紀後の人に通じるでしょうか。
 私の知るかぎり、恋愛は物語と同じくらい普遍的で、文字よりもずっとありふれたものです。が、今風のものとなると、印刷技術よりも珍しい、と言っていいでしょう。

 
 今風でない恋愛とは、どんなものか。
 近世日本における売買春では、サービスのグレードが高いほど、擬似恋愛の装いが強まることになっていました。たとえば遊郭のトップグレードでは、初見の客には性交を提供しないことになっていました。現実には、金を積めばどうにでもなったようですが、そんな無粋な真似をするために最高級の粋なサービスを買うのは矛盾している、と考えられていたようです。またトップからミドルグレードでは、たとえ馴染みの客でも、性交の提供を保証しませんでした。これは事実上は「お前のほかにも客はいる、もっと金を出せ」という催促なわけですが、客商売ですので、そんな本音は言いません。「性交ではなく擬似恋愛を提供している」というのが建前です。
 芸者も同じ枠組みで売買春を営んでいました。ろくすっぽ擬似恋愛を装わずに性交を提供する芸者は「不見転」とされ、グレードが低いとされていました。また芸者は、「我々は性交や擬似恋愛を提供するのではなく、本物の恋愛をする」と称していたようです。当時の芸者に向かって「それは建前でしょ?」と尋ねるのは、プロレスラーに「プロレスって八百長でしょ?」と尋ねるようなものだった、と言えばわかりやすいでしょうか。
 こういう具合に、擬似恋愛という要素は、サービスのグレードを演出するうえで不可欠でした。
 さて、あまりにも根本的な疑問ですが、ここで改めて確認しておきましょう。
 擬似であれ恋愛を店で買うとは、どういう心性なのだろう、と。
 店から金で買った擬似恋愛に、どういう価値があると感じていたのだろう、と。
 
 売買春つながりということで、水子供養について。
 水子が「祟る」ものになったのは戦後のことで、霊感商法だったようです。近世日本でも宗教者は新規市場開拓に余念がなかったので、近世日本の水子は祟らなかった、と断言できます。近世日本では、水子はひたすら無力なかわいそうな存在として見られていたようです。
 ちなみに、近世日本がセックスワーカーを見る目も、「ひたすら無力なかわいそうな存在」でした。
 
 明治から戦後にかけて、日本の人間観には、あるひとつの変化が生じました。その変化は、水子を「祟る」ものにすると同時に、恋愛を店で買うことを奇怪な行為にしました。
 その変化とは、「人間とは、なにをするかわからない不気味な存在である」という認識の広がりです。
 この認識を裏返せば、「人間には無限の可能性がある」となります。さらに裏返せば、「人間には内面がある」となります。
 身分社会では、人間の可能性はその身分に厳密に記されています。人間の内面を問題にするのは、現在のマスコミが犯罪者の「心の闇」を語るのと同じようなもので、芸能、見世物、娯楽にすぎなかったでしょう。
 戦後の開放感と経済成長のなかで、人間の可能性は無限と思えるようになった。その可能性の種として内面は、人間を人間たらしめる構成要素のひとつとして、確固たる地位を占めるようになった。そのため、内面を無視した恋愛は奇怪な行為になった。また、人間の無限の可能性を「祟る」ことに向ける水子が、人々の想像力のなかに現れた――これが私の考えです。
 今風の恋愛とは、内面を備えた、無限の可能性のある、なにをするかわからない不気味な存在としての恋人を抱きしめることです。
 
 さて、こういう今風の恋愛とフェティシズムがどんな関係にあるのか、という話ですが、次回に続きます。なお(略)

Posted by hajime at 2013年03月10日 23:45
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