前回のおさらいです。
日本では戦後、「人間には無限の可能性がある」と信じられるようになった。それと同時に、人間はなにをするかわからない不気味な存在になった――このことは、私がどうこう言うよりも、手塚治虫の作品をご覧になるほうが早いかもしれません。無限の可能性と不気味さが、一枚のコインの裏表のように描かれている作品が多数あります。『どろろ』しかり、『火の鳥』しかり。
近世からおおよそ戦前まで、遊女や芸者は、彼女たちを買う側にとっては、エロゲーの攻略対象キャラのようなものでした。エロゲーのキャラが作品に縫いとめられているように、遊女や芸者は、その身分に縫いとめられていました。彼女たちには無限の可能性などなく、不気味さもない、と感じられていました。
不気味な存在としての人間を愛する、という行為は、とりあえず、可能だとしましょう。
不気味なものを愛する、というのは珍しい行為ではありません。たとえば、未来です。人間、生きていれば明日なにが起こるかわかりません。明日とは、馴染むことも飼いならすこともできない、なにが起こるかわからない不気味な存在です。それでも、ほとんどの人は、生きてその明日を迎えたいものだと思っています。
また、好奇心というのも、不気味なものを愛することに含まれるでしょう。天文学が進むにつれて、星々の世界はますます想像を絶する不気味なところになってきましたが、だからといって、星々の世界を愛する人がいなくなったようには見えません。それどころか、ブラックホールや超新星爆発やビッグバンの話は大いに喜ばれているように見えます。
不気味なものを愛することはできます。が、思い入れること、愛着を抱くことは、はたして、可能でしょうか。
現実の人間行動としては、順序は逆かもしれない、とも思います。
現実の人間は先にまず、なにかに愛着を抱く。すると、その対象の不気味さを認識できなくなる――これが実際に起こることの順序であって、不気味だからといって愛着を抱けないわけではないのかもしれません。
たとえば戦前の日本社会は、現在の目で見ると、相当に不気味な代物です。よく言われるとおり、現在の北朝鮮に近いものです。ところが、戦前の日本社会に愛着を抱き、しかも現在の北朝鮮には親しみを覚えるどころか不気味な怪物とみなす、という現象はよく見かけるところです。不気味さが愛着を阻むのではなく、愛着ゆえに不気味さが認識できなくなるのだとすると、うまく説明がつきます。
とはいえ話は、現実の人間行動ではなくフィクションの人間観のことなので、不気味さが愛着を阻むのだと、とりあえずは、しておきます。
人間を愛することはできても、思い入れること、愛着を抱くことはできない――そんな世界では、フェティシズムは必然的に発生するでしょう。もし愛着を抱かずに生きることがたやすいのなら、「煩悩」という言葉もなく、「断捨離」ブームもないはずです。
手塚が描いたフェティシズムは、こうした文脈のなかで理解すべきです。
そもそもの問題に戻りましょう。
正面切った「恋愛」とフェティシズムの相性が悪いのはなぜか。
「シリアスな恋愛物は、一種の聖杯探索物語」と第4回に書きました。聖杯はすべての問題を解決しなければなりません。推理小説の謎解きのようなものです。もし謎の一部が謎のまま終わったら、前衛的な作品として理解されるでしょう。不気味な存在としての恋人を抱きしめたとき、そこから取り残される問題は、あってはならないのです。フェティシズムはまさに、あってはならない問題です。
もちろん、推理小説が現実の事件とは異なるように、フィクションの登場人物は現実の人間とは異なります。だから問題は、それが美しいかどうか、です。
個々の作品は、美しくあることができるでしょう。しかしそれが、個々の作品を超えて、ジャンル全体の規範となったとき、「わかる」の世界が始まります。
第9回に掲げた、アン・ブーリンの肖像画をもう一度ご覧ください。これが「わかる」の世界です。なにが「わかる」べきなのかが共有されていれば、この絵が下手でも手抜きでもなんでもない、立派な絵に見えるのです。
現在の百合が直面すべき難題、それは、「わかる」の世界です。
……と書いてはみたものの、私の思うところがうまく伝わっているとは思いません。よくわからない、というかたが大半ではないでしょうか。
この問題にはこれからも、何度も立ち戻ることになるでしょう。このコラムは伊達に百回も続くわけではありません。
次回はいったんこの問題を離れて、テーマは「好き」です。なお(略)