2013年04月08日

百合だからコラム百本 第14回 装飾的と創造的

 予定を変更して、今回のテーマは「装飾的と創造的」です。
 
 様式、流儀、ジャンル。
 作品は、ほぼ常に、なんらかの様式・流儀・ジャンルのもとで理解されます。先日、アン・ブーリンの肖像画をご紹介しましたが、様式・流儀・ジャンルの力とは、あのようなものです。下手で手抜きとしか見えない絵を、注文主と社会の期待によく応える立派な絵へと変貌させる、巨大な力。
 ごく稀には、様式・流儀・ジャンルを持たない、持つことのできない作品も存在します。以下の絵をご覧ください。

 人類最古級の絵画とされる「作品」です。文字のない時代の作品であり、現生人類の作品かどうかも定かではありません。
 この作品に、どんな様式・流儀・ジャンルを見出すのも、見る人の自由ではあります。が、その理解が説得力を備えるとは、少々考えにくいものがあります。いかなる理解をも拒む断絶を見つめる、というのがおそらく、説得力のある唯一の理解でしょう。
 このように作品を見る目を制約し、かつ作り出すのが、様式・流儀・ジャンルです。
 
 テンプレ、ハンコ絵。
 これらの現象は、様式・流儀・ジャンルとは似て非なるものとして認識されています。個々の作品について生じる現象ではないが、作品を見る目を制約する、という意味では似ています。似ている面はそれでいいとして、異なる面はどこにあるのか。

 
 逆から考えてみましょう。ハンコ絵でない作風とは、どんなものか。
 構成要素(CGならばピクセルの集合)が常に物理的に異なっており重ならない(=コピーはしてない)、というだけでは十分ではありませんし、コピーを多用する作風ならむしろハンコ絵とは認識されないでしょう。
 コピーはしていないので、構成要素は常にブレを含んでいるが、そのブレが理解へと繋がらないので、ノイズにしか見えない――これが、ハンコ絵という現象です。
 今、「理解」と書きました。様式・流儀・ジャンルという前提抜きには作品の理解はありえない、とさきほど書きました。アン・ブーリンの肖像画の例で見たとおり、様式・流儀・ジャンルは、作品に接するすべての人に周知徹底されているものではありません。
 とすると――作品の様式・流儀・ジャンルをよく知らない人にとっては、ある作者の作風がハンコ絵かどうかはわからない、という結論が導かれます。
 いかがでしょう。ここで具体例を挙げるのは差し控えますが、賢明なる読者諸氏の脳裏には、あれやこれやの例が思い浮かぶところではありませんか?
 
 話は横道にそれますし、まさかとは思いますが、作品の「理解」について入学試験的な思い込みを抱いておられるかたはおられませんか。
 日常生活のなかで人間は、他人の言うことややることを、どう理解しているか。たとえば首相が、「最低でも県外」だの「インフレ目標」だのと発言すれば、「正気かこいつ」と目を剥いて驚く人、「ついに新しい時代がやってきた」と両手を挙げて歓迎する人、「観測気球だろう」と深読みする人、などなどの反応があるわけですが、さて、入試で解答用紙に書いてマルがつく選択肢はどれでしょう。
 もちろん、そもそもこんな問題は出ません(ただし、現在の北朝鮮や戦前の日本では「両手を挙げて歓迎する」が正解です)。「唯一の正解のない問題は出題されない」という制約を利用して、問題文を読まずに選択肢だけを見て正解を絞り込む、という受験テクニックはよく知られています。
 日常生活のなかで他人の言うことややることを理解するときとまったく同じように、私たちは作品を理解しています。それは選択肢のなかから唯一の正解を当てる行為ではなく、理解する本人の思想や性格を色濃く映し出す行為です。古い通俗芸術論風に言えば「人間性をさらけ出す」という奴です。
 だから、作品は二度創造される、と言ってよいでしょう。一度目は、作品が紙やカンバスやPCに刻まれるとき。二度目は、作品がそれを見る人に理解されるとき。
 「コピーはしていないので、構成要素は常にブレを含んでいるが、そのブレが理解へと繋がらないので、ノイズにしか見えない」。ここで言う「理解へと繋がらない」とは、「二度目の創造に寄与しない」という意味です。
 
 長くなったので次回に続きます。なお(略)

Posted by hajime at 2013年04月08日 02:16
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