2013年04月15日

百合だからコラム百本 第15回 究極の根拠はあるのか

 「作品の様式・流儀・ジャンルをよく知らない人にとっては、ある作者の作風がハンコ絵かどうかはわからない」。しかしその様式・流儀・ジャンルとは、「下手で手抜きとしか見えない絵を、注文主と社会の期待によく応える立派な絵へと変貌させる、巨大な力」でもあります。
 以上、前回のおさらいでした。以下、本題に入ります。
 私の見るところ、ハンコ絵・テンプレという批判は、根源的な批判としては通用していません。ハンコ絵・テンプレという批判は、あくまで様式・流儀・ジャンルを根拠とするものであり、その様式・流儀・ジャンルの正当性にはなんの根拠もない――このへんの機微を、はっきりと筋立ててではないにしろ、多くの人々が感じているからこそ、ハンコ絵・テンプレという批判は痛切なものになりえない、のではないかと思います。
 では、作品の理解に基づく批判はすべて、つまるところ根拠のないものである――とまで言ってしまってよいのでしょうか。
 この問いに対して、ある種の人々は「然り」と答えるでしょう。私は、それとは違う側の人間です。

 
 「純然たる無から生まれた作品」なるものは、思考実験のなかにしか存在しません。作者は日常生活を送り、紙やカンバスやPCに作品を刻みます。さらに、視覚芸術や文芸の作品はほとんどが具象であり、モチーフを取り込んでいます。
 作者の日常生活、紙やカンバスやPC、モチーフ。これらすべてが、一度目の創造へと寄与する日を待っています。
 見る側にとってわかりやすいのは、モチーフです。
 もし似顔絵が、モチーフの人物とはまるで無関係に見えるとしたら、似顔絵と見なしてもらうのは難しいでしょう。そこまで極端ではなくても、輪郭や目鼻が肖像写真と重なるだけでは、似顔絵として上等とは言えません。普段から目に入ってはいるものの気づいてはいない、けれどそれを取り除くと別人になってしまう――そんな要素を描いてこそ、やっと似顔絵らしくなります。たとえば、野田前首相のふさふさとしたまつ毛は、あらゆる似顔絵に必ず描かれていました。
 「普段から目に入ってはいるものの気づいてはいない」要素を描くことを、「モチーフを活かす」と言います。
 
 作者が活かすべきものは、モチーフだけではありません。作品が刻まれるときにそこにあるものすべてが、さまざまなやりかたで、作品に表れることができます。しかし、そのすべてを見境なく作品に取り込みたいのなら、似顔絵を描くのではなく肖像写真を撮るべきでしょう。すべてを活かそうとすれば、創造の生じる余地がない――これがもう一方の極端です。
 もし、多くを取り込むほど優れているのなら、肖像写真は似顔絵よりも優れており、短歌は俳句よりも優れている、という馬鹿げた話になります。問題は、取り込むものの量ではなく、質にあります。
 
 何度も繰り返していますが、作品の理解は、作品の様式・流儀・ジャンルに基づきます。この基礎なしには、作品がなにを取り込んで、なにを捨てたのか、ほとんど想像がつかないでしょう。
 作品を見る人が、作品に取り込まれたものと捨てられたものを把握し、二度目の創造を行う――そのとき、質がものを言うのです。
 その「質」とは、全体像を描写しうるものではありません。が、その一部であれば描写できる、と考えます。
 
 例によって次回に続きます。なお(略)

Posted by hajime at 2013年04月15日 01:45
Comments