前回の続きです。
創造的なものを、楽しめるかどうか、楽しんでいいのか、楽しむべきか、楽しんだことを率直に表明できるか。
これらの問題に対して、容易にYESと答えられるようにするのが、「作品」という仕掛けです。
作品という仕掛けのこうした機能は、創造的なものに限って発揮されるわけではありません。一山いくらの凡庸なアクション映画の数々を思い出してみてください。もし自分が当事者だとしたら、楽しむどころではない話ばかりです。
(余談ですが私は、アクション映画の正義の味方がやむなく公道を暴走するシーンを見るたびに、いたたまれない思いをします。私にとって作品という仕掛けは、人類滅亡については100%機能するのですが、公道での暴走行為についてはあまり機能しません)
さて今日の本題は、作品という仕掛けのこうした機能――ではなく、装飾的なものについてです。
創造的なものとは、節税≒脱税や、創造的会計≒粉飾決算と同じように、この世にありふれた現実です。
多くの人をあきれさせた創造的なものをひとつ思い出したので、例として挙げておきましょう。光市母子殺人事件の「ドラえもんが何とかしてくれると思った」――この言い分を、楽しめるかどうか、楽しんでいいのか、楽しむべきか、楽しんだことを率直に表明できるか。ちなみに私はゲタゲタ笑います。犯罪者は時として、人知を絶するほど創造的かつ巧みに「自分は悪くない」というストーリーを語ります。この言い分ごときは子猫のようにかわいらしいものです。
ありふれた現実としての創造的なものとは、よくて「ドラえもんが何とかしてくれると思った」のような代物であり、大抵はこれよりずっと厄介で身近な代物です。なにしろ、あなたの年金を一夜にして吹き飛ばすのですから。
目をしっかりと見開いてあたりを見渡せば、創造的なものばかり――この荒野を、ある種の器量でもってゲタゲタ笑い飛ばすのが私の理想ですが、残念ながらこれはどうやら、全人類が共有する理想ではなさそうです。
この荒野に対して目をつぶり、砂のなかに頭を埋めて、世界が退屈でかわいらしいところであるようなふりをする――これは行儀のいい振る舞いとされており、「コミュニケーション」の規範とされています。
前々回にもお見せしましたが、もう一度掲げます。
「世界が退屈でかわいらしいところであるようなふりをする」。それがこの2枚の絵のテーマである、と言ってもよさそうです。
こういう働きのことを、私は「装飾的」と呼びます。
次回に続きます。なお(略)