本書はタイラー・ハミルトンの自伝である。ハミルトンは、ランス・アームストロングのアシストとして働き、のちにはアームストロングのライバルとしてツールドフランス(TdF)に挑んだ元トップ選手である。アームストロングの人物と、プロロード界のドーピング事情について詳しく記されている。
ずいぶん生ぬるい。また、ドーピングについて誤解していると思しき記述もある。
まず、生ぬるい点について。
アンディ・リースという人物がいる。スイスの億万長者、補聴器メーカー・フォナック(今はSonova)の2代目オーナー、かつて存在したプロロードチーム・フォナックのスポンサー、そして今はプロロードチーム・BMCのスポンサー。
ハミルトンがアームストロングのライバルとして戦ったとき、フォナックに所属した。また、ハミルトンとよく似た経歴の元トップ選手に、フロイド・ランディスがいる。彼もアームストロングのアシストをやめたあと、フォナックに所属した。
この二人は、宣誓供述(=嘘だったら刑務所行き)で、「アンディ・リースは自分がドーピングしていることを知っていた」と述べている。これに対してアンディ・リースは、「そんなことはない」とプレスリリースを出している。
恨みを買ったようには見えない相手二人から、宣誓供述でこんなことを言われている人物が、シロだとは到底信じられない。スポーツ界から公式に永久追放、とまではいかなくても、大きな顔をさせるわけにはいかない「黒い紳士」だ。
それが今でも、BMCのスポンサーとして、大きな顔をしている。BMCは、2011年にはTdFで総合優勝、2012年には世界選手権で優勝したビッグチームだ。プロロード界からドーピングをなくそうとするのなら、アンディ・リースの存在を問題にしないわけにはいかない。だからこそ、ああいう宣誓供述もなされている。
本書には、アンディ・リースのドーピング関与の記述が見当たらない。
それだけなら訴訟を避けるためとも思えるが、541~542ページの提言を見ると、政治的配慮の匂いを感じる。チームをスポンサー依存ではなくNFLやMLBのようにすべきと言い、スポンサー依存だと「投資に対してすぐに見返りが求められるために、勝利のためには手段を選ばないという風潮が生まれてしまう」と言うのだが、アンディ・リースの行動は投資ではなく、ロード狂いの旦那の放蕩に見える。
旦那の放蕩――本書を読むと、トム・ウィーゼルも100%の投資家ではなく、30%くらいは旦那の放蕩だったように見える。結果的に儲けはしたが。
放蕩はそもそもリターンを期待しないので、ドーピングのリスクは深刻なものではない。旦那はどう転んでも、アームストロングのように吹き飛んだりはしない。
フォナックチームはアンディ・リース以外を総入れ替えしてBMCチームになったが、フェスティナはいまだに事件当時と同じ名前でビッグレースのスポンサーをしている。「フェスティナ事件」として悪名を轟かせてなおプロロード界に金を出すのが、まともな宣伝戦略だろうか。私はフェスティナの背景を詳しく調べきれなかったが、アンディ・リース同様の放蕩だろうと推測している。コフィディスも怪しい。ラボバンクのように撤退するのがビジネスライクな判断だろう。
現在のプロロード界は、放蕩とビジネスのあいだの分かれ目を、放蕩へと向かって転がり落ちているように見える。ドーピング問題がビジネスを遠ざけるので放蕩への依存度が高まり、放蕩に依存するがゆえに放蕩ドーピング旦那を締め出せず、それゆえさらにビジネスが遠ざかる、という悪循環に陥っているように見える。
ハミルトンは、こうした現状をすべて認識した上で、「放蕩ドーピング旦那を締め出せ」と提言したいところで、「スポンサー依存をやめろ」と遠回しに述べたのではないか。「放蕩ドーピング旦那を締め出せ」では、プロロード界の大部分を敵に回すことになってしまうので、政治的にはとても言えない。
ドーピングについて。
本書には「血中ヘモグロビン濃度(Hb)が高い=酸素運搬能力が高い」という前提に立った記述が多数あるが、事実とは異なる。
酸素運搬能力は、
・体内の総ヘモグロビン量(tHb mass)が多いほうが高い
・Hbが低いほうが高い
・tHb massのほうがHbよりも大きく影響する
tHb massの上昇は、短期的(数週間以内)には、
・輸血(効果絶大)
・EPOの投与(効果絶大)
・低酸素への暴露(あまり効かない)
によって生じる。
Hbの低下は、
・体内の総血漿量(=分母)が増える
・tHb mass(=分子)が減る
によって生じる。
HbよりもtHb massのほうが効くので、Hbを減らすためにtHb massを減らしたら、酸素運搬能力は下がる。よってtHb massを減らすという選択肢はない。
体内の総血漿量の上昇は、短期的には、
・大量の有酸素運動
・輸血や補液
によって生じる。補液によってヘマトクリットを基準値内に収めるドーピング技術は本書にも頻出する。
さて、EPOを使えばtHb massはどんどん増やせるが、限界はある。体内の総血漿量がそれを決める。Hbが高すぎると、血栓ができて心筋梗塞や脳梗塞を起こす。このため、tHb massを増やすには、体内の総血漿量も増やす必要がある。補液は数時間しか効かないので、主に大量の有酸素運動に頼ることになる。
大量の有酸素運動とは、たとえばステージレースだ。本書に「ステージレース中にはヘマトクリットが下がる」との記述があるのは、この現象である。
そしてもうひとつ、ここ10年くらいのあいだ自転車雑誌でおなじみのトレーニング、LSD。これも大量の有酸素運動だ。プロロード界でLSDが脚光を浴びたのは1990年代初頭、イタリアのチームからだった。そしてEPOがプロロード界に導入されたのも、1990年代初頭のイタリアのチームからだった。
偶然の一致とは思えない。EPOとLSDは車の両輪だ。EPOで異常に強くなったのを「画期的な新トレーニング法のおかげ」とごまかすための隠れ蓑としてもLSDは喧伝された、と私は推測する。EPOを使わなかったグレッグ・レモンが選手生活の晩年に(相対的に)弱くなったのを、「LSDが足りなかったから」とする、(今から思えば)恥知らずな記事さえ見たことがある。
はたしてハミルトンは、こうした機序を理解せず、ひたすらヘマトクリットだけを見ていたのか。その可能性は大いにあると思う。本書には、「アームストロングはドーピング技術で自分の先を行っているように感じる」との記述がある。このあたりの能力の差が、アームストロングとハミルトンの差だったのかもしれない。
ちなみにtHb massは除脂肪体重(LBM)の1.0乗に比例する。比例定数は遺伝的に決まっている。この数字がW/kg(=登坂能力)の遺伝的上限を決める。この数字を測る方法は確立されており、研究機関で測ることができるが、一般には提供されていない。
恐ろしく皮肉な記述を本書499ページに見つけた。
「ひとつのチームがある年のツールを最初から最後まで圧倒的に支配するということもなくなった」――しかし2012年のSKYは、「ツールを最初から最後まで圧倒的に支配」した。
私の見るところ、SKYは2012年シーズンから、すべての選手の出力を5%ほど増やす何かを投入した。その「何か」がWADAの規則に抵触するかどうかはわからないし、その可能性は低いとも思う。が、その「何か」が明らかになれば、おそらくWADAはそれを禁止するだろうと思う。
軍拡競争は続いている。