2013年08月01日

ブラジル忠臣蔵

 19世紀末、ブラジルで「カヌードスの乱」なるものがあった。
 ブラジル北東部の乾燥地帯に暮らす貧しい人々が、コンセリェイロという名の宗教指導者に率いられて、辺鄙きわまる寒村(カヌードス)に人口3万人の巨大なコミューン(ベロ・モンテ)を建設し、政府の支配を拒んだ。政府は武力によってコミューンを排除しようとしたが、辺鄙きわまる地域での戦いはコミューン側に地の利があり、政府軍の遠征は3度にわたって失敗した。最初の遠征から1年後、4度目の遠征で、1個師団ほどの兵力を投じて、ついに政府軍はコミューンを排除した。最新の推計では、コミューン側の死者は1万5千人とされる。
 ……と、わかったようなまとめを書いてみたが、実は、これ以外の史実を私はほとんど知らない。
 ブラジル史上最悪の内戦であり、よく研究されているらしい。が、私に読めるのは英語版Wikipediaくらいだ。『世界終末戦争』の記述がどれくらい史実と食い違っているのか、私にはほとんど知るすべもない。
 もしかすると、驚くほど史実に沿っているのかもしれない。
 戦闘終結後、コンセリェイロの墓は政府軍に暴かれた(史実)。埋葬場所を教えたのは、苦行帯をつけた古株の側近ベアチーニョだった――これくらいなら可能性は高そうだ。ナトゥーバのレオンにはモデルがいて、まさに『世界終末戦争』の記述どおりに四足歩行していた――のだったら、いささか驚く。商人アントニオ・ヴィラノヴァのモデルは、「コンセリェイロの遺言でカヌードスを脱出した」と主張していた――これはありそうな話だが、もし主張の内容まで事実だったとしたら大いに驚く。
 だが、どれだけ史実に沿っていたとしても、やはりこの作品は『仮名手本忠臣蔵』だ。

 すべてが原色で描かれている。「男爵はその調子に覚えがあった。それは、布教団でやってくるカプチン会の宣教師たちや、モンテ・サントにまわってくるいわゆる聖者ら、それに、モレイラ・セザル、ガリレオ・ガルたちと同じ口調なのだ。絶対的な確信の調子、けっして疑うことのない者たちの口調だ、と思った」(207ページ)。「わからん。またなんにもわからなくなった。ベロ・モンテにいたころは何でもはっきりしておったわ、白は白、黒は黒とな。あの瞬間まで、罪のないあいつらとベアチーニョに向けて銃を撃ちはじめたあの瞬間まではそうじゃった。それがまた、すべて複雑になりおったわ」(672〜673ページ)。こういう絶対的な確信は、それを共有しないものにとっては、稀には崇高に、たいていはキッチュに見える。オウム真理教がどれだけ安っぽく俗悪で滑稽だったか。
 著者は原色の絵巻物を描いている。もしそれが、ヘンリー・ダーガーのような怪物的な代物だったら、と私は妄想する。安っぽい象徴が漫然と大殺戮を繰り返す、世にも稚拙な終末絵巻だったら、と。しかし実際に私が読んだのは、高度に洗練された宗教画に近いものだった。『世界終末戦争』に描かれるコンセリェイロは、宗教画のなかのキリスト同様に崇高であり、安っぽくも俗悪でも滑稽でもない。そのことが、この作品を『仮名手本忠臣蔵』にしている。美しく巧みで面白い。芝居小屋の外を完全に忘れて見るのなら、手に汗握る最高の出し物だ。ただ問題は、「芝居小屋の外を完全に忘れて見る」こと自体が美しくなく面白くなく芸もない、という点にある。
 いったん芝居小屋の外のことを思い出すと、とたんに目の前の出し物が色褪せる。この出し物は、芝居小屋の外の世界に新たな彩りを加えるものではない、と気づくからだ。
 さて、「ブラジル忠臣蔵」とはもちろん映画『ベルリン忠臣蔵』のもじりだ。最近ではキアヌ・リーブスが忠臣蔵を演じたと聞く。私はこの種の、どう考えても忠臣蔵ではない忠臣蔵のことを、好ましく思っている。武家社会の史実としての事件と、江戸の町人に鑑賞された出し物としての『仮名手本忠臣蔵』のあいだの関係は、『仮名手本忠臣蔵』と『ベルリン忠臣蔵』のあいだの関係に似ている。『ベルリン忠臣蔵』を見ることで、忠臣蔵がなんなのかを知ることができる。
 ほとんど史実を知らない私には、『世界終末戦争』がなんなのか、よくわからない。ただそれが、美しく巧みで面白く、それゆえに芝居小屋の外の光には耐えられない、ということはわかる。

Posted by hajime at 2013年08月01日 19:33
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