2013年09月05日

なぜ金融危機は人々を結束させないのか

 ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング』(柏書房)を読んだ。
 本書を読みながら、私は考えた――災厄はしばしば人々を結束させる。天災しかり、戦争しかり。しかし金融危機だけは違う。互いに手を携えて難局に立ち向かうどころか、逆に「万人の万人に対する闘争」の度合いを増し、野蛮状態へと近づいてゆく。なぜなのか?
 

 本書は、20世紀アメリカにおける人々の結びつき(=社会関係資本、ソーシャル・キャピタル)とその経時変化を論じている。本書の主張をおおまかにまとまると、
 
1. 社会関係資本には、「結束型」のものと「橋渡し型」のものがある。「結束型」は、家族、階級、民族などの排他的な枠を持ち、結びつきが強い。結束型の枠を超えて人々を弱く結びつけるもの、たとえば草野球チーム、ロータリークラブ、ボーイスカウトなどが「橋渡し型」である
 
2. 社会関係資本は、人々が互いを強く信頼しあう「高信頼性社会」の基盤である。たとえば、地縁を同じくする移民同士が固まって暮らし、地縁で人を雇うのは、そうすることで強い信頼を得られるからだ
 
3. 社会関係資本には悪い面もある。結束型は構成員の同質性が高いため、差別や不寛容を温存しやすく、問題解決能力に乏しく、高信頼性社会を形成する範囲が狭い。橋渡し型はこれらの面で優れているが、作り出すのが難しい
 
4. 社会関係資本が少ないと、治安の悪さ、うつ病、公教育の劣悪さ、起業の困難、脱税、汚職に悩まされる。これは相関関係ではなく因果関係である
 
5. 1960〜70年をピークに、社会関係資本は縮小しつづけている。人々は互いの家を訪ねるのをやめ、コントラクトブリッジに通うのをやめ、労働組合に入らなくなり、公職に立候補しなくなり、家族同士で会話するのをやめた。そのかわりに、テレビを見るようになった
 
6. 縮小の主な原因は、世代変化とテレビである。第二次大戦の影響を受けた世代(1910〜40年生まれ)は社会関係資本に熱心にコミットするが、それ以降の世代はテレビを見るのに忙しい
 
7. 社会関係資本が減少の一途をたどる今、これを増やすことは重要な政治課題である。20世紀初頭のアメリカでは、急速な都市化によって従来の社会関係資本が大量に失われ、多くの人々が危機を感じて様々な対策を講じた。ロータリークラブ、ボーイスカウト、職能別労働組合など。現在のアメリカ人もなんらかの行動を起こすべきである。特に重要なのは、橋渡し型を増やすことである
 
 要約はこれくらいにして、面白いところをいくつか。
 291ページより。強調は私。

テレビは確かに習慣形成的であり、おだやかな中毒症状と言えるかもしれない。テレビをあきらめさせようという実験的研究において、一般に視聴者は引き替えとして多額の見返りを求めた。一貫して、テレビを見ることは他の余暇活動と比べて、仕事さえよりも満足度が低いと回答しているにもかかわらずである。一九七七年に『デトロイト・フリー・プレス』紙は、五〇〇ドルの見返りに対して一ヶ月間テレビを見ないということに進んで参加するものを、一二〇家族中五つしか見つけることができなかった。伝えるところでは、テレビをやめた人々は退屈、不安、苛立ち、そして抑うつを経験している。ある女性はこう述べた。「ひどいものでした。何もすることがなくて――主人と私は話をしたんです」。

 438ページより。「コミュニティ活動への関与は、男女平等や人種統合などへの不寛容を強めるのではないか?」という疑問に対して、

 社会的参加者や市民的活動家は社会的孤立者と比べて、立場を異にする、慣例に従わない行動に対して一般的に寛容であるというパターンは、一九五〇年代の抑圧的なマッカーシー時代に社会科学者によって最初に発見され、その後繰り返し確認されてきた。米国五都市での市民参加による住民発案(イニシアチブ)に関する包括的調査によれば、社会経済的地位とかかわりなく、これらの住民発案に対して積極的であった人々は非参加者と比べて、人気のない、議論の的となるような発言者の権利に対して非常に寛容度が高いことが見いだされた。宗教的関与、特に福音派教会に対する関与が不寛容さと関連しているというよく見られる例外を除けば、コミュニティ関与と不寛容性の間に想定されたような関連があることを見いだした実証研究はただの一つも発見できなかった。

 409ページより。大規模アンケートで測られる生活満足度について、

全般的にいうと、所得階層が上昇すると、生活への満足度も増加する。したがって金銭によって幸せが結局は買えるということになる。しかし、それも結婚がもたらすものほどではない。教育、年齢、性別、婚姻状態、収入、市民参加を統計的に統制すると、生活への満足に対して結婚のもたらす限界効果は、所得階層におけるおおよそ七〇パーセンタイル程度――いわば一五パーセンタイルから八五パーセンタイルへの上昇移動に相当する。数字を丸めると、結婚は年収を四倍にするのと「幸福相等」である。
 教育と満足度についてはどうだろうか。教育は、収益能力の増加を経由して、幸福感への間接的関連要因として重要だが、収入(や年齢、性別その他)を統制したとき、生活への満足度との教育の限界相関はどの程度だろう? 数字を丸めるとその答えは、四年間の教育年数追加――例えば、大学進学――は年収をおおよそ倍にすることと「幸福相等」となる。

 
 さて、冒頭の疑問に戻る。あらゆる災厄のなかでも金融危機だけは一体なぜ、人々を結束させるどころか、逆に野蛮状態へと陥れるのか?
 234ページより。

大恐慌のみが唯一、二〇世紀前半三分の二の期間の市民参加と社会的つながりの上げ潮を中断させる引き金となった。失業はその犠牲者を急進的にするという期待に反して、社会心理学者の知見では職を失うと社会的にも政治的にも受け身的で、引きこもりがちになる。経済環境が苦しくなれば、関心が自分の、また家族の生存へと狭まるのである。収入が少なく、金銭的に困っていると感じている者は、豊かな者と比べてあらゆる形態の社会的、コミュニティ生活への参加が少ない。例えば、収入と教育水準が同一レベルの者で比較したときすら、金銭的な悩みの強い人口上位三分の一のものは、下位三分の一のものよりもクラブ会合の出席が三分の二にすぎなくなってしまう。
 金銭的不安は単に映画に行く回数の減少だけでなく――これはおそらく、財布が薄くなったことによる自然な結果である――、友人と過ごす時間、トランプ遊び、家での歓待、教会出席、ボランティア、政治関心の減少とも関連している。金銭的コストがほとんどかからないか、全くかからない社会活動ですらも金銭的困窮によって抑制される。実は、金銭的不安と正に相関している唯一の余暇活動はテレビ視聴である。さらに、金銭的な不安、収入と教育水準を同時に投入して、さまざまな形態の市民参加や社会的つながりを予測してみたとき、収入だけが有意とはならなかった。すなわち低収入そのものではなく、それが生み出す金銭的な心配が、社会参加を阻害するのである。裕福な者であっても、金銭的な脆弱感があると、コミュニティ関与が弱まってしまう。

 言い換えると、人間の脳は、金銭的不安に対する反応がバグっている。徒党を組んで社会的・政治的に大攻勢に出るべきタイミング、あるいは橋渡し型の社会関係資本(職を見つけるのに役立つ)に投資すべきタイミングで、逆に引きこもりがちになり孤立して、問題を悪化させてしまう。まるで誘蛾灯に吸い寄せられる蛾だ。
 これが答えなのか? 違う。人間の脳にはたくさんのバグがある。薬物依存、プラシーボ効果、コンコルド錯誤、みなバグだ。これらのバグにはそれぞれ多少の対策がなされている。覚醒剤を乱用すれば刑務所行きだ。プラシーボ効果には二重盲検法が対策となる。今のMBAプログラムは必ずコンコルド錯誤を教えている(多分)。
 だが、金銭的不安のバグに対しては、ほとんどなんの対策もなされていない。
 このバグを、原始人の生活にたとえれば、こうだ――敵が武器を構え、雄叫びをあげて襲いかかってきたのに、応戦もせず逃げもせず、ただ憂鬱になって座り込む。そんなバグを抱えた種族は生き延びられないので、現生人類は誰もそんな反応はしない。だが、金銭的不安という敵に対しては、現生人類は「ただ憂鬱になって座り込む」。
 このバグは、襲われた本人のみならず、経済全体にも打撃を与える。社会関係資本が減ることで、治安の悪さ、うつ病、公教育の劣悪さ、起業の困難、脱税、汚職が増える。
 問題は、「これほど深刻なバグがなぜ未対策のまま放置されているのか?」だ。
 
 「人間自身の行為が人間にとって疎遠な、対抗的な威力となり、人間がそれを支配するのではなく、この威力の方が人間を圧服する」(『ドイツ・イデオロギー』)。
 社会は、自分がしていること(=貨幣経済)を支配せず、逆に圧服されている。言い換えれば社会は、貨幣経済のなかに文明を築こうとするかわりに、貨幣経済に合わせて人間を鋳直そうとしている。それゆえに社会は、この深刻なバグを未対策のまま放置している――これが私の結論だ。
 現在有力な説によれば1000万年前、アフリカ東部は熱帯雨林からサバンナへと変わった。サバンナという新たな環境に適応すべく、アフリカ東部の類人猿が進化して二足歩行を獲得した。これが現生人類の祖先である、という。
 貨幣経済とは、人類にとっての新たなサバンナである。だが遺伝子の変化を待っていては、先に文明の寿命が尽きる。人類は、鋳直されることによってではなく文明によって、進化によってではなく知恵によって、この新たな環境に適応しようとすべきだ。
 人間が新たな環境に適応しようとするとき、真っ先に必要なのは、衣類だ。しかしロビンソン・クルーソーには原始人レベルの衣類さえ作れない。祖先から受け継いだ物質的遺産もなく、同族の協力もないのでは、たとえ神のような知識があっても無力だろう。だから、ロビンソン・クルーソーのように「自己責任」で貨幣経済に立ち向かうのは、やめたほうがいい。そしてもちろんロビンソン・クルーソーには、長持ちする家屋も建てられないし、堤防を築くこともできない。
 貨幣経済という新しいサバンナのなかに、水道あり電気ありコンビニありの快適な暮らしを築く能力が人間にはある、と私は信じる。今足りないのは、それを築こうとする意志だけだ。

Posted by hajime at 2013年09月05日 22:56
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