ロシア大統領プーチンは元KGB職員だという。KGB職員に生まれついた人はいないので、プーチンはKGBに志願して入った。
ソ連では、国家権力に関わる職はあまり人気がなかった。
ゴルバチョフが検事を目指すと決めたときには、家族から、「罪のない人をひどい目にあわせる仕事じゃないか」という意味のことを言われたという(ゴルバチョフ自伝による。ちなみに結局は任官しないまま党専従になった)。ゴルバチョフは、法によって権力の無法を抑えることを志したというが、ではプーチンは?
どの本の記述か忘れたが、本人の語ったところによれば、こうだ――中学・高校生のとき、KGB職員をヒーローとして描いたシリーズ物のTVドラマを見て、KGBへの悪印象を改めた、と。
フィクションはもしかすると、進路選択に多少の影響を与えているかもしれない。
最近、理系が不人気だという。どうやら、「学問は難しいことから順にやってみろ」というアドバイスをくれる大人が周りにいないらしい。もちろん私にもいなかった。しょうがないので私がしておく。学問は難しいことから順にやってみろ。一番難しいのは数学だ。もちろん私は挫折した。高校レベルで。
挫折した人間がアドバイスするだけでは、おそらく誰一人として数学を始めないので、別のアプローチもしておく。
というわけで、フィクションにおける数学者の演出について。
われわれの知能は本当に向上しているのか?より。
過去の物の見方は偉大な心理学者アレクサンドル・ルリヤと1920年代のロシアの田舎の住人――正式な教育をほとんど受けていない1910年の米国人のような一般人――の間の面談でも示されている。
ルリヤ:魚とカラスの共通点は?
回答:魚は海に住み、カラスは飛ぶ。
ルリヤ:両方を表す言葉を1つ挙げるとすれば?
回答:「動物」と言うのは正しくないだろう。魚は動物ではなく、カラスもそうではないからだ。人は魚を食べるがカラスは食べない。
「今日、われわれは世界を理解するための前提条件として世界を分類することが極めて自然だと感じている」。そのため今日のフィクションでは、「論理的」でない世界観を描くことのほうがずっと難しい。むやみやたらに「論理的」な科学者や数学者を描こうとする試みは今では絶滅危惧種だが、その背景はおそらくこれだ。
今日の先進国の人々はみな、数学者と概ね同じように「論理的」に考える。だとすると、一般人と数学者の違いは、一般人と重量挙げ選手の違いのようなもの、と言っていいのだろうか。巨大な筋肉、特殊な技術、奇怪な情熱、等々の要素だけが数学者を特徴づけるのだろうか。
そういうアスリート的な数学者もいるだろう。だが、数学史上で最高級の尊敬を受ける業績は、オリンピックの金メダルとは似ても似つかない。
2メートル四方の舞台上で行われる、5分間のパフォーマンス。
舞台上には、なにを持ち込んでもいい。ただし、名声と個性だけは持ち込めない。
舞台上では、なにをやってもいい。手品、ジャグリング、漫才、シャドーボクシング、等々。
唯一の尺度は、観客にウケるかどうかだ。ただしこの観客は、この世の始まりからずっと舞台の前にいて、過去のすべてのパフォーマンスを見てきている。そんなに長生きの人間はいないので、古代ギリシャの神としてイメージするほうが適切だろう。この神は、過去のパフォーマンス以下のものには0点をつける。もし重量挙げをやるのなら、世界新記録を出し損ねたら0点だ。
では、世界新記録を出したら満点か。これがもしオリンピックなら、大抵はそうなるだろう。だがこれはオリンピックではなく、せいぜい100点満点中の10点しかつかない。もし重量挙げをやって100点満点がつくとしたら、重量挙げ競技というものを初めてやってみせたときだけだ。「この重量挙げという奴は面白い!」と観客が叫んだときにだけ、満点の可能性が開かれる。
この舞台に上がって、ウケを取りたい、かなうことならば満点を得たい、という奇怪な情熱を抱くパフォーマンスアーティスト、それが数学者だ。
数学者の巨大な筋肉、特殊な技術、奇怪な情熱が向かう先は、名声と個性を持ち込めない舞台に上がって、神のような観客にウケることだ。数学者とは実は芸人なのである。
だから数学者は実は、「ウケる」ことを熱心に追求している。しかし芸能人のように、名声と個性でウケようとはしない。芸能や日常生活での「ウケる」のかなりの部分は名声と個性で成り立っているので、仕組みを知らない人間にとっては、数学者のツボは理解不能に見える。
登場人物の「個性」を描きたがる最近のフィクションにとって、このツボは厄介だ。数学者とは、芸能の仕組みからは不可視の存在である、と言ってもいい。
そこで私からの提案――不可視の存在なら、不可視の存在として描けばいい。
街を歩くモブキャラのように一瞬だけ現れては消える何者でもない存在、「個性」ある登場人物はいかなる形でも接触できない存在、伏線も脈絡もなくやってくる隕石のような存在。もちろん名前はなく、個人として識別することもできない。
もう少し具体的な形に造形してみよう。たとえば、顔も名前も性格もわからないし、業績もさっぱり理解できないし、なぜ重要人物なのかも誰にも理解できない「数学者」の行方を追うサスペンス。最後には姿を現すのだが、何者でもないモブキャラのような存在として、なんの「個性」も発揮することなく、ラストの一瞬だけ現れては消える。
近代のマスメディアは人々の価値観を変えた。たとえばアメリカでは、映画が普及したことにより、女性の容姿の価値が高まったという。明治までの日本でも、女性の美貌はもっぱら花街でのみ問われるものであり、それ以外の女性にとっては今日のような大問題ではなかったように見える。
名声と個性はどうか。これもマスメディアが価値を吊り上げたのではないか。黎明期のツール・ド・フランスで、主催の新聞社は、選手に「個性的」なあだ名をつけて読者の興味を惹くようにしたという。そしてもちろん、レースに勝つことで得られる「名声」も、主催の新聞社が商売のために作り出したものだ。
数学はツール・ド・フランスではない。おそらく、それさえわかっていれば、数学者の演出はそれほどひどいものにはならない。