(脚本の)謎はすべて解けた!
……とはいっても、答え合わせ(=BDを見て弱点を探す)はしていないので、致命的な弱点が見つかる可能性は高い。なお当然ながら以下ネタバレとなる。
脚本の違和感その1:なぜ久子は、人間マーニーの生涯のさまざまな局面について、『幸せ』や『不幸』と乱暴にも断じたのか。人が、身近な人の生にそんな判定を下すとは、どういうことか。
その2:なぜ久子は、人間マーニーと娘の不仲について、「全寮制の学校にやったのだけが原因」という説明をしたのか。説得力に欠ける。「マーニーにもいろいろ問題があったのかもしれない」という含みを持たせるのが大人ではないか。
その3:それまで如才なく友情に厚いように見えたマーニーが、パーティーで杏奈を粗略に扱ったのはなぜか。
その4:『私を許してくれるって言って』と問い交わすときの「許し」には、マーニーが杏奈を育てられずに世を去ってしまったことが含まれているように聞こえる。しかし想像力の中とはいえ、12歳の人物が、初老にさしかかってからの出来事を、「許して」と求めるのは不自然ではないか。
その5:杏奈は数々の問題行動をやらかしているのに、周囲から悪い反応をほとんど受けずに済んでいるのはなぜか。作品の写実的な世界観から逸脱しているように見える。たとえば、
・有力者に向かってキレて『太っちょ豚』呼ばわりをしても、「ここはひとつ大物ぶってみせるチャンス」と反応される
・道で行き倒れたり、有力者から怒鳴りこまれたりしても、居候先の親戚から要注意人物扱いされない
特に行き倒れは、てんかんなどの病気の可能性がある。
これらはすべて重要なヒントであり、いくつかの解釈を指し示している。
まず、その5から。
解釈:杏奈の認知が自罰的に、「自分は出来損ないの厄介者」という方向に歪んでいることを表現している。「現実」には誰も気にしていない些細な問題行動(諍いというほどでもない摩擦や、帰りが少し遅くなった程度のこと)を、杏奈は針小棒大に捉えている。その精神状態を、一見客観的な映像として表現した結果が、異様なまでに度量の広い人々として表れている。
つまり、この作品には、「現実」の出来事を客観的に映したと信じるべきシーンはひとつもない。マーニーと過ごす時間だけが夢なのではなく、すべてのシーンが杏奈の色眼鏡を通っている。マーニーとの時間が、いかにも夢の中らしい映像にならない理由も、ここにある。
マーニーと過ごす時間は、杏奈が自罰的にならない時間でもある。その意味では、マーニーといるときのほうが、映像は「現実」を忠実に映している。このねじれた構造は、わかりにくくもあるが、作品の魅力を生み出してもいる。
マーニーといるときのほうが、ある意味では「現実」に近い――それは杏奈がマーニーのことを、認知の歪みなく認識し考察していることを意味する。想像力の中のほうが、「現実」に近づけることもある――これが、この作品の隠れたテーマではないか。
マーニーという被造物(被想像物?)の材料は、2種類しかない。ひとつは杏奈の幼い日の記憶、すなわち人間マーニー本人の語り。もうひとつは、洋館にあった日記だ。なぜ2種類もあるのか、という問題には後で立ち戻る。
さて、杏奈はどんな「現実」に近づいたのか。パーティーやサイロのシーンに答えがある。想像力の中で、杏奈は人間マーニーの語りを再構築し、いわば批判的に検討する。その結果、杏奈は2つの「現実」を見出す。ひとつはもちろん、和彦の存在だ。もうひとつは、マーニーがけっして理想の友達ではない、ということだ。
杏奈がボートを漕いでいるとき、被造物マーニーがボートの舳先に立つシーンがある。こんな真似は実際にはほとんど不可能に思えるので、被造物マーニーの妖精的な、この世のものならぬ美しさを印象づける。
このシーンは、マーニーという被造物が、極度に美化されていることを示している。いつ、どこで、誰に、なぜ美化されたのか。杏奈の想像力が「現実」に近づくものだとすれば、材料の段階で美化されていた、と見るほかない。初老になった人間マーニーの語りか、洋館にあった当時の日記か、いずれにせよ、美化したのは人間マーニー自身だ。
解釈:人間マーニーは相当なナルシストであり、極度に美化されたセルフイメージを語っていた。
人間マーニーは、美化されたセルフイメージにふさわしい材料だけを、杏奈に残した。その材料を表面的に用いるかぎり、被造物マーニーは理想の友達だ。だから、杏奈が被造物マーニーと出会ってからしばらくは、そうだった。
想像力の中で杏奈は「現実」へと近づき、そのため、被造物マーニーは理想の友達ではなくなった。友達に、ばあやのショールをかぶらせて花売りの真似をさせて放っておく、そんな人物であることが発見された。
解釈:人間マーニーは、友達思いではなく、平気で嫌な目にあわせて放っておくような人物だった。
サイロ訪問は、被造物マーニーがすでに理想の友達ではなくなっていたがゆえに、感動的だ。
小さい子供をサイロに連れていく、という罰は、距離を置いて眺めれば、必ずしも行き過ぎたものとも思えない。しかし杏奈は、「そんなこと絶対に許せない」と無条件に断言する。読者諸氏が再び『思い出のマーニー』をご覧になったときには、この無条件の断言を、どうかよく味わっていただきたい。「無条件」はこの作品の隠れたライトモチーフだ。たとえば、小さなテンプレのようだが、信子(太っちょ豚)の母は無条件に信子の言うことを信じて怒鳴りこんだ。
サイロで杏奈は、被造物マーニーの「現実」の人間関係に出会う。
被造物マーニーは最初のうちは、杏奈以外との人間関係をほとんど持たないように見える。人間マーニーがネグレクトされて育ち、孤独だったことは確からしいので、「現実」へと近づく想像力にふさわしい。とはいえ、完全に孤独だったわけではない。サイロのシーンで、被造物マーニーには、頼りになる幼馴染(和彦)が存在するようになる。
「まるで杏奈が和彦に追い出されたように見える。マーニーがヘテロに走ったように見える」、という解釈を聞いたことがある。確かに、その気配はないとはいえない。百合的にはがっかりだが、原作が出た時と場所(20世紀半ばのイギリス)には『ひらり、』も『百合姫』もなかったし、2014年のジブリにあれ以上のセメントは望めないだろう。
それはさておき、和彦は、いかなる意味でも杏奈と同等の存在ではない。和彦は、被造物マーニーの「現実」の人間関係の代表であり、杏奈はその「現実」の人間関係に加わることができない。
それゆえに、被造物マーニーは別れのシーンで、『あなたはあのとき、あそこにいなかった』と言う。たとえ『わたしたちのことは秘密よ、永久に』であろうと、「現実」へと近づく杏奈の想像力は、自分と被造物マーニーのあいだの人間関係を認めることができなくなる。
もはや理想の友達ではない被造物マーニーに、「そんなこと絶対に許せない」と無条件に断言した結果、別れを招くというアイロニー。しかも杏奈は、先を読んで回避しようとすればできたはずなのに、「現実」へと近づいていった。想像力の中のほうが、「現実」に近づけることもある――作品の隠れたテーマが強く打ち出されているシーケンスだ。
『私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった』という本がある。第二次大戦中に書かれた子供の日記をいくつか集めた本で、『アンネの日記』のアンソロジー版、という感じだ。そのなかに、中学生くらいの女性がエス的な感情を書き留めた日記がある。思いを寄せる先は学校の女性教師で、その筆致からは、子供らしい極端な理想化が窺われる。
この日記の作者は、『私たちが子どもだったころ〜』の出版当時、まだ存命だった。彼女は、半世紀以上も前の自分の日記を読んで、こんなコメントを残している――「信じられない。まったく思い出せない。こんな馬鹿げたことを書いていただなんて」。
さもありなん。中年を過ぎた人々の大多数にとって、自分自身の十代前半とは、そういうもののはずだ。だから、脚本の違和感その4が生じる。12歳の被造物マーニーに、初老にさしかかってからの出来事を、「許して」と言わせるのは不自然ではないか。
だが、もし人間マーニーが、「大多数」の反対側にいたとしたら。孫のいる年齢になっても、自分の12歳のときの世界観を、「馬鹿げたこと」などとは夢にも思わず、そっくりそのまま大真面目に生きつづけていたとしたら。12歳のときから精神的にまったく「成長」しないまま、初老に至って死んだのだとしたら。
解釈:人間マーニーは初老に至っても、精神的には、12歳のときからまったく「成長」していなかった。
この解釈の根拠は、脚本の違和感その4だけではない。1と2も、この解釈を支える。そして、これらすべての違和感をうまく解決できるような解釈が、ほかにありうるとは到底思えない。
脚本の違和感を解決する前に、被造物マーニーの材料の問題に戻る。杏奈の幼い日の記憶(=人間マーニー本人の語り)と、洋館にあった日記、なぜ2種類もあるのか? そもそも実は、杏奈は最初に洋館を訪れたときに、建物の中に侵入して後者を見つけ出して読んでいるのではないか? つまり材料は日記だけなのではないか?
読んでいない、というのが私の解釈だ。もし読んでいるのなら、杏奈の幼い日について描写するシーンはもっと違ったものになる、と考える。また、2種類の材料が、半世紀近い時間の隔たりにもかかわらず、ほとんど同じであることに意味がある。
杏奈は日記を読んでも、「想像していたのと違う」とは感じていない。これは、人間マーニーが「成長」しなかったことと符合する。
子供には、どうしてもできないことが、いくつかある。たとえば、「立派に死ぬ」こと。
どれほど賢く、経験豊かで、勇気があり、やるべきことをやりとげた人であっても、子供であるかぎりはけっして「立派に死ぬ」ことはできない。「まだ死ぬべきではなかった」「かわいそう」な子供であるしかない。死のような本物の試練は、子供にはふさわしくない。
逆に、相手が大人であれば、試練をすなわち「かわいそう」と言うべきではない。たとえば、夫が内田裕也だからといって樹木希林を「かわいそう」とは、少なくとも私には言えない。
脚本の違和感その1:なぜ久子は、人間マーニーの生涯のさまざまな局面について、『幸せ』や『不幸』と乱暴にも断じたのか。人が、身近な人の生にそんな判定を下すとは、どういうことか。
久子にとって人間マーニーは、最後までずっと、12歳の子供だったのだ。
脚本の違和感その2:なぜ久子は、人間マーニーと娘の不仲について、「全寮制の学校にやったのだけが原因」という説明をしたのか。説得力に欠ける。「マーニーにもいろいろ問題があったのかもしれない」という含みを持たせるのが大人ではないか。
人間マーニーは、永遠の精神年齢12歳の、思いやりに欠けるナルシストだった。こんな母親を持った娘はたまったものではない。不仲にならないほうがおかしい。人間マーニーを子供として語る久子には、そのことはよくわかっていたはずだ。
では久子はなぜそれを言わず、「マーニーにもいろいろ問題があったのかもしれない」という含みを持たせることもなく、「全寮制の学校にやったのだけが原因」という、およそ説得力のない説明をしたのか。
前提条件として第一に、久子がこの説明をしたときには、人間マーニーはすでに死んでいた。もしまだ生きていれば、聞き手が人間マーニーに関わって傷つく可能性に配慮しないわけにはいかないが、その必要はない。第二に、人間マーニーを憎む娘も、すでに世を去っている。娘の感情に配慮する必要もない。
誰に配慮する必要もないという前提条件のもとではあるが、久子は、人間マーニーの側に立ち、人間マーニーに罪はないと断言した。サイロ行きの罰を杏奈が、「そんなこと絶対に許せない」と断言したように。
つまり、久子は、人間マーニーを愛している。
永遠の精神年齢12歳の、思いやりに欠けるナルシスト――そんな人物だと知った上でマーニーを愛した人が、久子、杏奈、おそらくは和彦と、3人いる。魔性の女、というには根拠が少し弱いか。
なお、「クズでも魔性なら許せる愛せる」と学んだ杏奈は、全寮制の女子校に進学して、『少女セクト』の思信様になりましたとさ。めでたしめでたし。