2014年12月11日

八紘一宇はなぜ悪いのか

 関東軍の印章には「八紘一宇」と刻まれていた。戦前・戦時中の戦意高揚アジには、「八紘一宇の大理想」というスローガンが常に繰り返されていた。
 日本書紀の一節から作られた言葉だが、歴史は浅く、大正時代の作である。作者・田中智学は新興宗教の教祖で、信者のなかに石原莞爾がいた。この巡り合わせがもしなかったら、八紘一宇という言葉が軍部に注目されることもなく、違う言葉がスローガンに選ばれていただろう。
 八紘一宇を国家的スローガンに押し上げたのは石原莞爾とそのエピゴーネンであり、この連中が「日本のためによかれと思って」やらかした数々の独善が戦前日本を滅ぼした。その経緯を思えば、わざわざ内容を検討するまでもなく、屑として歴史のくずかごに叩き込まれるのも当然だろう。
 だが、内容の検討がされなかったせいか、「八紘一宇の大理想そのものは正しい」と言いたがる人々がいる。「考えている」や「思っている」のではなく、「信じている」のでもなく、「言いたがる」人々。そういう人々にはせめて、信じている状態にはなってほしい。陰謀論者がありとあらゆる陰謀を信じているように。

 
 戦意高揚アジにおける八紘一宇とは、「全世界をひとつの家のようにすること」である。具体的な状況を抜きにして考えれば、密接な交流や仲の良さを思わせる。もちろん政府の意図は「密接な交流=日満支経済ブロック」であり「仲の良さ=傀儡政権」だが、そういう私利私欲がないものとすれば、密接な交流も仲の良さも、よいことのように思える。
 確かに、密接な交流や仲の良さは、よいことだ。悪いのは、「家」という比喩だ。
 
 「世界平和のために私たちにできることはなんでしょう?」
 「家に帰って、家族を愛しなさい」
 マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞したときの、記者との対話である。ここには八紘一宇の対極がある。
 
 もし、「全人類を初恋の相手のように思ってみよう」と言われたら、あなたはどんな気持ちがするだろうか。
 あなたの脳裏には、知っている人々はもちろん、まだ知らない人々、後にも先にも知ることのない何十億もの人々が思い浮かぶ。知ることのない人々を、「初恋の相手のように思う」とは、いったいどういうことなのか? 想像がつくものなら教えてほしい。
 「全世界をひとつの家のようにすること」も、同じくらい想像がつかないものであるはずだ。
 
 あなたの家族は、あなたを個人にする。あなたの初恋の相手が個人であるように、あなたにとってあなたの家族はみなそれぞれ個人であり、あなたの家族にとってあなたは個人である。
 八紘一宇というスローガンは、「人を個人にする」という家族の意味を、どうでもいいもの、見えないものと前提することで成り立つ。八紘一宇を呼号することは、家族から「人を個人にする」という意味を排除することに等しい。
 これは偶然の副作用だろうか。戦前、軍部とそのお先棒担ぎは、日本国民のことを天皇の「赤子」とするアナロジーを愛用した。これも偶然なのか。
 人を個人にするものを排除し、乗っ取り、貶めることを「全体主義」という。八紘一宇は全体主義だ。八紘一宇が悪いのは、世界征服だからでもなければ、軍事侵略の正当化だからでもない。家に帰って家族を愛することと両立しないからだ。

Posted by hajime at 2014年12月11日 20:10