2015年01月27日

ラッキースケベの世界観は2種類ある

まとめ:「ラッキースケベとは物語中にパンチラやセミヌードの絵を出すことである」とする世界観(西島克彦的)と、「ラッキースケベとは登場人物の感性・感情・関係とその動きである」とする世界観(高橋留美子的)がある。多くの人々はこの2つの世界観を同時に生きている。

 
 事の起こりは、某百合まんが誌で最近始まった某連載である。ラッキースケベと思しき展開がふんだんに盛り込まれている。「百合でラッキースケベ」という組み合わせの意図や成否はさておき、この組み合わせから生じる異化効果には目を見張るものがある。
 最初は、この異化効果について考えていた。すると私の頭のなかで、「ラッキースケベとは何か」が溶けてゆき、2つに分離して固まった。
 この2つは、支持層の違いではない。多くの場合、同じひとりの人間が2つを同時に持っている。たとえ小説がラッキースケベを描き切ったとしても、おそらくそこには物足りなさが残るだろう、と感じるのは私だけではあるまい。それは、音楽を小説で描こうとするような異様な試みではないが、歴史を小説で描こうとするのと同じくらいには無神経にならざるを得ない行為だ。「ラッキースケベとは何か」を支える2つのもののうち、片方を捨てるのだから。
 また、この2つは「要素」ではない。要素なら、同じ空間のなかに同時に存在できそうなものだ。それはありえない。『To LOVEる』的ラブコメであると同時に『ナニワ金融道』的社会派であるような作品がありえないように、この2つは同じ空間のなかには存在できない。この2つは、要素ではなく、世界観だ。少年まんがのラブコメでラッキースケベを読むとき、多くの読者はおそらく、2つの世界を同時に生きている。
 
 世界観。あるいは、世界。
 たとえば、物語は一種の世界観だ。支配的な世界観でもある。たいていの歴史は物語に似ている。絵画はしばしば物語をモチーフにしている。
 音楽は物語ではない。音楽を物語として理解することはできない。科学も物語ではない。ほとんどの人の日々の仕事も、物語ではない。人間が現実にしていることのほとんどは、物語として理解できるものではない。だが人は、なにかを言おうとするか、あるいは聞こうとするとき、物語を期待する。なぜかは知らない。おそらく、人間の脳がそういう風にできているからだ。
 人に、「××ってどんなまんが?」と聞かれたら、物語を答えてしまいやすい。だが、よく考えてみていただきたい。『らんま1/2』は、どんなまんがなのか。博打王キングの面白さは、物語で表現されるものなのか。『ジョジョの奇妙な冒険』のことを「ジョースター家という一族がいて〜」と説明しようとしたら、その瞬間、あまりよくない説明だと感じるのではないか。『ジョジョの奇妙な冒険』には、これぞ物語というくらいに物語があるにもかかわらず。
 人間の脳には、物語の重力が仕組まれているらしい。だから、物語を見たら、とりあえず疑ってかかったほうがいい。音楽を物語として理解しようとするような、奇妙で不可能な真似をしているのではないか、と。
 
 ラッキースケベは、少年まんがのラブコメや、それに類した作品中に現れる展開である――ここまではまだ、2つに分離しない。
 男の登場人物(たいていは主人公)が、事故や不可抗力により、女の登場人物(たいていは主要な人物)のパンチラやセミヌードを目撃する、あるいは胸などに触れる。男は性的興奮と羞恥を覚え、また同時に、思わぬ困難に出くわしたことを悟って身構える。女は男の行動を知り、性的羞恥を覚える。女は当初、男の行動が事故や不可抗力によるものとは知らず、男を痴漢と見なし、たいていは暴力を振るう――この説明は、「ラッキースケベとは何か」を十分に表しているように見えるかもしれない。しかしこれが十分に見えるとしたら、物語の重力に捕らわれているからだ。
 ラッキースケベの場合、物語の重力は強力だ。この説明には欠けたところがある、と感じるのは、「ジョースター家という一族がいて〜」という説明がよくないと感じるのよりもずっと難しい。ラッキースケベは多くの作品で、物語の部品として大きな機能を果たしている。作品のスラップスティックな世界観を示し、登場人物間の関係に性的なニュアンスを加え、和解すべき緊張を与える。
 それでもやはり、「ラッキースケベとは登場人物の感性・感情・関係とその動きである」という見方は、十分ではない。
 
 絵画はしばしば物語をモチーフにしている。では、あれやこれやの名画は、物語の「絵解き」なのか。
 おそらく、そのような意図で描かれた名画も、数多くあるだろう。特にヨーロッパの中世は、注釈の時代だった。「原著者の真意を明らかにする」ことが尊ばれ、新しいものは歓迎されなかった。だが現実には、物語以外のものをまったく含まない、純粋に物語のみの絵画などありえない。
 「絵解き」にとっては不純物であるような含有物は、絵についたゴミと同じようなものだろうか。もしかすると中世ヨーロッパの人々は、ある意味では、そう考えていたかもしれない。現代日本では、そのようには考えない。不純物と物語のあいだに、なんらかの関係が結ばれているのを見る。たとえそれが作者の意図や、作品が描かれた当時のコンテキストとはかけ離れていたとしても、関係を見ようとしてしまい、見てしまう。現代日本では、キリストの顔は「キリスト」という記号ではないし、キリストの物語から切り離された男の顔でもない。
 キリストの顔を見るとき、人は(少なくとも現代日本の人々は)、キリストの物語それ自体ではないが、キリストの物語と深い関係のある何かを見る。その「何か」は、音楽と同様、物語として理解することはできない。
 まんがを読む、という行為の核心は、物語を理解することではなく、この「何か」を享受することだ。
 『らんま1/2』の博打王キングは、この「何か」を端的に表している。もし博打王キングの顔がトランプのキングでなかったら、博打王キングの物語はほとんど意味をなさない。物語抜きに博打王キングの顔だけ見ても、やはり意味をなさない。
 
 博打王キングの物語とは違って、ラッキースケベという物語(の部品)は、単独でそれなりに意味をなす。だからそれで十分、と思い込みやすい。だが、ラッキースケベにも「何か」があり、それはラッキースケベのもうひとつの心臓だ。
 「ラッキースケベとは物語中にパンチラやセミヌードの絵を出すことである」。もっと詳しく述べれば、パンチラやセミヌードの絵を出して、それと物語とのあいだになんらかの関係を結ばせるものである。パンチラやセミヌードの絵は、記号であってはならないし、記号として読まれることも(おそらくは、めったに)ない。現代日本の人々は、キリストの物語と同時に、キリストの顔、そして両者のあいだに結ばれる関係を見ている。
 
 まんがに比べると、アニメにおけるラッキースケベは、「何か」を重視していることが多いように感じる。アニメの絵にかかる労力が桁違いなのを思えば当然だろう。
 そこで、「何か」の世界のことを「西島克彦的」と呼ぶことにする。西島克彦は、「物語がパンチラをもたらすのではない、パンチラが物語をもたらすのだ」とでも言いたげな前衛的な作品でよく知られている(『ナジカ電撃作戦』『AIKa』)。物語の部品としてのラッキースケベは用いないので、あまり適切な命名ではないが、容赦されたい。
 対して、物語の世界のことは、「高橋留美子的」と呼ぶことにする。高橋留美子がラッキースケベにおける西島的世界観に格別鈍感なわけではないが(少なくとも、西島の前衛性に匹敵するような鈍感さではない)、博打王キングの顔のように、あるいは西島作品のように印象的なパンチラやセミヌードの絵を、高橋作品中に見たことがない。余談になるが、ラブコメの歴史を考えるうえで、西島がアニメ『うる星やつら』の重要な作画スタッフを務めたことは意義深い。
 
 読者諸賢はおそらくすでに、「西島克彦」という名前から、百合を連想しておられることだろう。周知のとおり、西島は『プロジェクトA子』(1986年)以来の筋金入りの当道者である。
 思えば、西島的世界観に傾く当道者は枚挙に暇がない。だが私は不覚にも、西島的世界観に傾いた作品を見てもただ困惑するばかりだった。百合にとって西島的世界観はどうやら重要なものらしい、と今頃になってようやく気づいた。
 これまたようやく話は冒頭に戻る。「百合でラッキースケベ」だ。
 SF的な設定でもないかぎり、物語の部品としては、百合でラッキースケベはほとんど機能しない。件の作品は、その機能しなさでも異化効果を発揮している。西島的世界観に振り切ったものと見るほかない。では、ラッキースケベのもたらす絵が、物語とどんな関係を結んでいるのか――私にはそれが見えない。結びつけることができない。おそらくは私が、西島的世界観をろくに生きていないからだろう。
 だが私の勘は、自分の不明を棚に上げて、違うことを囁く。
 百合における西島的世界観には、なにか重大な空白があるのではないか? 西島がラッキースケベを用いないのは、その空白に真正面からぶち当たるからではないか? その空白は、物語の部品として機能しないことと対応しているのではないか?
 西島的世界観と高橋的世界観が切り結ぶ場所にこそ、まんがの、さらにはフィクションの面白さがある。西島的世界観に疎い私をもうなずかせるような作品を、当道者に求めたい。

Posted by hajime at 2015年01月27日 21:28