三度のメシより、とはいわないまでも、少なくとも吉野家の牛丼よりは「転向」問題が好きな私としては、清水幾太郎という名前はずっと気になっていた。
ふと今日ぐぐってみると、こんなページが見つかった。清水のことが相当詳しく書いてある。
で、感想――おんたこがここにも一匹。特に清水の戦略的概念としての「庶民」は、吉本の「大衆」と同じ原型からできている。
しかしこれを見て安心した。清水→吉本→大塚と、「わしの一族を見ろ、みんな小さくバカになりつつある」(『もののけ姫』)状態だ。だから現在、「このままでは、わしらはただの肉として、人間(笙野頼子)に狩られるようになるだろう」ということになっているわけだ。
清水は『日本史広辞典』(山川出版社)に名を残していないという。吉本も同様の運命をたどるだろう。なのに、三人のなかで一番小さな大塚が、笙野頼子のおかげで長く名をとどめるのだから、つくづく大塚は女運がいい。
ナシーム・ニコラス・タレブ 『ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質』を読んだ。
本書にはいろいろなことが書いてあるが、とりわけカジノと現実の違いだけは全人類に知らせたいので、ここに書いておく。
カジノは客からショバ代を取るかわりに、イカサマなしでルールどおり遊ばせてくれる。カジノの外は、それとはまったく違う。イカサマの恐れが常にある。ルールは不透明だったり、運用が恣意的だったり、ある日突然変更されたりする。
「イカサマなし・ルールどおり」という仮定をカジノの外に持ち出しても、しばらくは何事もないだろう。しばらくは成功を収めるかもしれない。しかしある日、イカサマ師に遭遇して、有り金すべて巻き上げられる。たとえば、巨額の不正経理が発覚する。あるいは、ルールが変更される。たとえば、過払い金返還訴訟で借主に有利な最高裁判決が出て、サラ金各社の業績が真っ逆さまに墜落する。
「イカサマがなかったら」「ルールが変更されなければ」のタラレバを並べ立てるのは勝手だが、こういうタラレバ野郎に資産運用を任せるのは愚かだ。
(以上は損失についての話で、逆に利得についてもカジノと現実は違うが、これは損失のほうほどひどい害悪をもたらしていないので省略)
ここまではよくある話だ。問題なのは、愚かだからすぐ消えるわけではない、というところにある。
しばらくは成功を収める。そのあいだに流行る。流行り、蔓延した結果、いまや金融業界は「赤信号みんなで渡れば怖くない」状態になっている。みんなで仮定してみんなで損を出せば、国民が税金で穴埋めしてくれる。
イカサマ師と素人のあいだには、恐るべき力の差がある。イカサマの手口には、芸術的なものが星の数ほどあるのに、素人が知りうるのはそのほんの一部にすぎない。知っていても役に立たないこともある(振り込め詐欺を見よ)。イカサマ対策のプロであるカジノでさえ、しばしば単純な手口にしてやられている。素人が優秀なイカサマ師に狙われたら、運を天に任せるしかない。
イカサマ師に狙われる確率、そのイカサマ師が優秀である確率、運よく無傷で逃れられる確率――これらの確率に、信憑性のある数字を与えられるだろうか。そもそも、なにがイカサマでなにがそうでないかを明確に区別できる、という前提が非現実的だ。イカサマ師はしばしば隅っこを突いてくる。たとえば、現実性のない事業への出資をマルチまがいの手口で集め、得た金を山分けしてから会社を潰す、という手口がある。これは今のところ合法だし、イカサマとすべきかについても意見が分かれるところだろう。
こういう、数字を与えることのできない、「稀だが存在する」としかいえないものが、現実のリスクである。カジノほど現実のリスクから守られている場所はほかにない。
著者は言いたいことが山ほどある人らしく、ほかにも面白いことがたくさん書いてある。
私としては、「身近な人が運だけで金持ちになったのを見せられるのは公害に等しいから課税すべし」という意見(ただし著者のではないが)に深く賛成する。運のいい人は、尊敬したくなるが、金持ちであってほしくはない。今の経済がやっていることはその逆だ。