中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

2002年1月

1月31日

 おかみき新装版の7巻を読んでいる。
 笙子の眼鏡(花井愛子がしていたようなタイプ)が、時代を感じさせる。なかなかわかっているではないか。
 とはいえ、小熊の髪型はモダンだ。当時のファッションをそのまま再現すると、本当に悲惨なことになるので、これはこれで仕方ない。

1月30日

 田中真紀子が順調にエリツィン・コースを歩んでいる。
 更迭された理由が、エリツィンほどくだらなくない――このくだらなさゆえにエリツィンは党幹部から軽く見られ、軽く見られたがゆえにあの大逆転劇が可能になった――のが気がかりだが、公開性の違いと考えれば計算は合う。
 2年後には田中真紀子が総理だろう。

1月29日

 Jガーデンの通知がこない。郵便事故か。面倒くさい… ううう。

1月28日

 水城せとなの「メゾン・ド・ビューティーズ」2巻を読んだ。
 普通の少女まんがだ… うーむ。

1月27日

 雪印もかなりのものだが、外務省の下りっぷりには目が離せない。
 外務省幹部の目先の見えなさは、お役人パワーでしか説明がつかない。以下に列挙するような状況は、中学生でもわかるはずだ。

1. 自民党の次期総裁(=首相)は田中真紀子しかいない
 ほかに総裁の務まる顔はいない。森クラスの顔(石原ジュニア等)をもう一度出そうものなら、自民党はバラバラになるだろう。

2. 小泉が満身創痍になって辞める頃には、日本の政治経済の緊張はさらに先鋭化している
 小泉改革がどんなものになるにせよ、緊張緩和や問題の先送りをするものにはならない。真の危機的局面はこれからだ。

3. 危機的局面には、ドラスティックな行動が可能になる
 高級官僚の大量粛清はここ50年ばかり行われなかったが、それは不可能を意味するのではない。
 ソ連の経験によれば、技術者の首を切るのは容易ではないが、高級官僚の首はいくら切っても大丈夫だ。

4. 日本では外交を手抜きしても問題ない
 外交問題をうやむやにしたいときには内政でごたごたしてやり過ごす、というのは日本のお家芸だ。覇権国家でない国の有難さである。

 以上、風向きを読んでみれば、田中真紀子が外務省ごときの言いなりになる理由はどこにもなく、逆に、外務省が田中真紀子の言いなりになる理由だけがある。
 くだらない嫌がらせをするなら、させておけばいい。あとで首を切るときの、いい口実になる。いずれにしろ高級官僚の大量粛清はやりたいイベントだから――なぜそれがわからないのか。

1月26日

 BLR作戦の、サークルカット用キャッチフレーズを決めた。「ベストセラーリスト分析:BL小説家人気番付」。12 + 9文字の2行で書ける。
 懸念材料は、今度の夏コミ3日目が女性向けジャンルを一切含まないことだ。day of menとでもいうべき状態となった3日目に、ボーイズラブを読むようなライトな女性客がどれだけ来るか。うーむ。

 ベストセラー・ボーイズラブ小説消化報告。

・月上ひなこ「学園祭はスキャンダル」「聖なる夜のスキャンダル」
 人気が出るのがよくわかる。文章も話も陽気でメリハリがあり、主人公の受がお姫様、しかも毎回女装する。
 しかし、すべてのボーイズラブがこのようなシロモノなら、百合の敵ではないだろう。

・南原兼「恋も魔法もレベル1」
 なにを言うにも、つまらない。主人公のお相手が、ビジュアルと魔法力以外の魅力を備えていないような気がする。藤本ひとみを学習してから出直せと言いたい。

1月25日

 ジョアナ・ラスの「テクスチュアル・ハラスメント」を読んだ。
 あちらではまだ、文学の正典なるものが重視されているらしい。メルヴィルの「白鯨」を途中まで読めば、「こいつら(文芸評論家)は糞馬鹿の集まりだ」と気付いて、もう二度と連中の言うことを真に受けなくなりそうなものだが、そうではないらしい。
 日本では、なにも小説を読むまでもなく、「こいつら(文芸評論家)は糞馬鹿の集まりだ」とわかるようになっているから有難い。ここ10年間の芥川賞・直木賞作家の肩書きを並べてみて、「ははあ、こういうご商売ですか」と思わないのは、よほどの抜け作だけだろう。

1月24日

 「おジャ魔女どれみ#」の第2話を見た。
 私のようなイデオロギー・マニアを狙い撃ちしているのかと思うほどイデオロギッシュだ。ソ連+魔法少女はやはりいける。

1月23日

 雪印のだめっぷりはまさに峠を最速で下っている。
 同日発売の「かってに改蔵」にネタを合わせてくるとは、あなどれない企業グループである。潰れるのが惜しいくらいだ。

1月22日

 「おジャ魔女どれみ#」の第1話を見つつ、ソ連+魔法少女の案を練った。
 ソルジェニーツィンを読んだあとに見ると、実に心がなごむ。

1月21日

 BLR作戦。
 次は実際の計算、と思ったら、新規参入プレイヤーのことを忘れていた。
・プレイヤーは最初から全員が列挙されている、とは考えない。ベストセラーリストに登場した時点で初めてプレイヤーとなり、持ち点が与えられる。
 計算の起点となる第一回には、全プレイヤーに等しく初期値が与えられる。
 第一回より後に現れたプレイヤーには、まず初期値が与えられ、次に補正が加えられる。補正の方法は次のとおり。
 新規プレイヤーをN、Nより順位が一つ上のプレイヤーをM、一つ下のプレイヤーをOとして、各プレイヤー間の点差をdMN、dNOと表記する。全プレイヤーから持ち点を差し引いてNの持ち点に加え、dMN = dNOとする。Oが存在しない場合にはdMN = 0、Mが存在しない場合にはdNO = 0、どちらも存在しない場合には補正は行われない。
・プレイヤーがベストセラーリスト外だった場合には、リスト内の全員と対戦して負けたとして処理される。
 ベストセラーリスト外のプレイヤー同士には対戦がなかったものとして処理される。
・一年以上連続してベストセラーリストに登場しなかったプレイヤーは登録を抹消される。
 持ち点と初期値の差は、全プレイヤーの持ち点から差し引かれて解消される。

 もうひとつ、持ち点の計算について。
 実数演算をやると丸め誤差が蓄積して、持ち点の総和が一定でなくなる。このため、処理前後の持ち点は整数で表現されるものとする。整数として扱うために、19日の日記で示された関数fを、40倍して用いる。
 しかし処理中は実数演算を行い、最後の四捨五入でつじつまを合わせる。切り上げ・切り捨てのラインを、ちょうど持ち点の総和が一定になるところに設定するわけだ。後日に続く。

1月20日

 友人と話していたら、TVの地上波デジタル放送から景気の話になり、いまこの不景気につけこんで火事場ドロ式に世直しするとしたらなにをすべきか、の話になった。
 氏はアメリカニズム風に、所得格差の増大による所得刺激の活性化を主張した。しかし所得刺激が効かなくなっているからといって所得格差を増大させては、富国強兵から玉音放送まで一直線、壁に激突するまで方向転換できない、100年前と変わらぬジャパニズムである。
 どうせ国民性が100年やそこらで変わるわけもないので、これが現実的な解というものだろうが、それでも人間少しは賢くなりたい。所得刺激にかわる別の刺激を探した。
 この世でもっとも強く求められているものは愛だが、経済原理にそぐわない。名誉で働くのはプログラマだけだ。健康は生来の素質が大きすぎて、これも経済原理にそぐわない。余暇――失業恐怖から自由な余暇。レーニンにとっての共産主義社会は、4時間労働の世界ではなかったか。
 生産性が高い人間ほど余暇が多く労働が少なく、ということは、無能な人間による労働が今よりも劇的に増え………駄目だね、ジョニー。
 というわけで、このまま壁に激突して共産主義革命でも起こってくれ、というのがそのときの結論になった。

 BLR作戦。
 一対一の場合の議論は終わったが、問題は多対多の場合である。ベストセラーリストには3人以上のプレイヤーが同時に登場することもあるのだ。
 あれこれと考えた末、次のような条件を出すに至った。
・対戦の組み合わせをひとつずつ処理してゆき、処理のたびに持ち点が変動する
 4人のプレイヤーがいれば、6つの対戦があると考えるわけだ。この6つの対戦に、なんらかの方法で優先順位をつけ、ひとつずつ処理してゆく。
 その「なんらかの方法」は、
・持ち点の変動がもっとも大なる対戦から処理してゆく
 番狂わせのとき、順位が上がりやすいほうが楽しい。
・持ち点が減るときは全員で、増えるときは一人で
 プレイヤーA、B、C、Dがおり、AとDの対戦を処理することを考える。Dが勝ったとして、Dは単純に持ち点を増やす。Aは、持ち点の減少をB、Cとわかちあい、互いの点差が変動しないようにする。
 以上、数学的な根拠はないが、非合理的な面は思いつくかぎり最小限にとどめた。もともとレーティングというのはそういうものなので問題ない。
 次は実際の計算である。後日に続く。

1月19日

 コミケの申込書のジャンルコード表を見ながら野望に燃えるのはいつものことだが、今回は、どのジャンルがどこに配置されるのかを検討している。
 今回、3日目に配置されるのは、

・創作少年
・同人ソフト
・ギャルゲー(葉鍵・コンシューマ・PC)
・男性向け
・マイナージャンル諸々

 となっている。前年の夏は

・創作少女
・JUNE
・創作少年
・ギャルゲー(葉鍵・コンシューマ・PC)
・男性向け
・マイナージャンル諸々

 だった。創作少女・JUNEを、同人ソフトとトレードしたわけだ。前年比でいえば、今年3日目のジャンルにとって得な取引(スペースが増える)である。
 JUNEはいいとして(本当はよくないが、男性向けとどちらを取るかといえば、明らかに後者だ)、創作少女と切り離されるのが痛い。香織派の顧客の少なからぬ部分が、男性向け創作少女とかぶっているはずだ。うーむ。

 BLR作戦。
 履歴の重みのごまかしかたをつらつらと考えるに、d > 0におけるd' - dに適当な関数をあてはめてしまうのが一番簡単、という結論に至った。
 単調減少の関数をあれこれ試してみたところ、d' - d = h / (d + 1)0.5という式が気に入ったので、これを採用する。
 というわけで結論は、

d ≧ 0のとき、f(d) = d + h / (d + 1)0.5
d < 0のとき、f(d) = (f(-d) ・ r(-d) + d) / r(d)

 である。d' - dとdのプロットは、

 となる。
 履歴の重みはといえば、3連敗のあとの2連勝、7連敗のあとの3連勝、13連敗のあとの4連勝、22連敗のあとの5連勝で、持ち点をタイに戻すことができるようになっている。後日に続く。

1月18日

 MTS(Microsoft Transaction Server)という文字を見るたびに、「機械・トラクター・ステーション」を連想するのは私だけではないはずだ。
 (機械・トラクター・ステーション(MTS):
 コルホーズにあって農業機械を管理していた。MTSの農業機械を使わずには収穫できないので、党によるコルホーズ支配の重要拠点となっていた。ちなみにゴルバチョフはMTSでの功績により労働赤旗勲章を受章している)

1月17日

 眠い。きゅう。

1月16日

 すどおかおるの「お願い鈴音ちゃん」(ワニマガジン社)を読んだ。
 なんだか、こう――頭が悪い。

 BLR作戦。
 履歴の重みが決まったので、ようやく関数fを定義できる。
 プレイヤーの持ち点が真の売れ度に等しいとき、対戦後の持ち点の期待値は、対戦前と同じでなければならない。よって次式が成り立つ。

f(d)・r(d) - f(-d)・r(-d) = d

 関数fは、この式にあてはまるように決める必要がある。
 一番簡単なのは、d < 0についての式をまず決め、d > 0の場合をf(d) = (f(-d)・r(-d) + d)/r(d)によって定義することだ。私もそのようにした。
 関数fの定義は次のようになる。

d < 0のとき、f(d) = r-1((n・r(d) + 1)/(n + 1))
d = 0のとき、f(d) = h
d > 0のとき、f(d) = (f(-d)・r(-d) + d)/r(d)
ただし関数r-1は関数rの逆関数

 これでよし……と思ったらダメじゃねえかアニキ! こんなんなっちまった!

 横軸はd、縦軸はd' - d。単調に減少しなければならないのに、途中で増大に転じてしまっている。
 履歴の重みのごまかしかたが悪かったのだ。後日やり直し!

1月15日

 「ココロ図書館」のTVアニメ版があまりにも問題のある出来なので、まんが版の格下げを検討している。
 今は連載中の強みで学指に残っているが、現在の調子だと、たとえTVアニメ版のような裏切りがなくても、連載完結後には参指に落とすだろう。TVアニメ版の屈辱を晴らすためにも、ぜひ一発ぶちかましてほしい。
 あと、「NOIR」のDVD・ビデオが出揃ったら、学指に格上げすることを検討する。

 ソルジェニーツィンの「収容所群島」から引用する。文庫版第2巻、108ページ。

 私たちは自分よりも弱い人びと、抗弁できぬ人びとに腹をたてるのを好むものである。これは人間性の中に潜んでいるものである。そして自分が正しいという論拠はひとりでに都合よくとび出してくるものなのである。

 BLR作戦。
 履歴の重みを制限する。それはいいとして、dが非常に大きい場合はどうなるのか。
 r(d')が0.01を切るには、少なくとも100回以上の対戦履歴を想定しなければならない。10回かそこらだと想定したら、r(d')が0.01を切れるわけがないからだ。関数rは履歴とは無関係なので、影響を受けるのは関数fである。関数fになにが起こるのかというと、dがきわめて大きい対戦があった場合、d'がdより小さくなる。つまり、強者が順当に勝っているのに、ただ対戦したというだけで、強者の持ち点が減ってしまうことになる。
 というわけで、つまらないトリックを巡らせる必要がある。dが大なるほど履歴の重みも大になり、常にd' > dが成り立つようにするトリックだ。
 どんなトリックでもいいのだが、私が考えたのは、「過去n回の対戦と、現在なされた1回の対戦を、d'を求める上での全標本と見なす」である。「過去n回の対戦」の部分に履歴を反映する、つまりn・r(d)勝n・r(-d)敗と勘定するわけだ。hとnの関係を式にすれば、n = (2 - 2f(h))/(2f(h) - 1)、f(h) = (n / 2 + 1)/(n + 1)となる。なおh < 1なので、n > 2である。
 nはどんな値がいいか。つまるところは、単なる好みでしか決められない。それでも一定の妥当な範囲というものがある。まず、6以上の値にするのは、いい考えとはいえない。
 過去の戦歴がまったく駄目で、強豪に対してr(d) < 0.001だったプレイヤーが、ある日を境にして、強豪に4タテを食らわせたとしよう。そのプレイヤーの現在の強さを、どう評価すべきか。4タテを食らわせた相手の強豪よりも強くなっている可能性が高い、と考えるべきだろう。しかしn = 6では、4タテを食らわせてもまだ持ち点が追いつかない。
 n = 10では履歴の重みが大きすぎる。n = 3では3タテで持ち点を追い抜いてしまうので、これは小さすぎる(私の好みにすぎないが)。n = 4だと3タテでほぼ肩を並べ、n = 5だと4タテで追い抜く。nは4から5のあいだに設定するのが妥当だ。hでは約0.563から0.464になる。この区間の値ならどれでもいいわけだが、すっきりした値ということでh = 0.5を選んだ。nにすると約4.59である。以下後日。

 (上の議論をみるかぎりでは、hよりもnのほうが本質的な値のように思えるかもしれない。なのになぜ履歴の重みをhで定義したのか?
 それは、「つまらないトリック」が本質的ではないからである。このトリックは、いずれレーティングシステムが改正されたとき、よりよいトリックで置き換えられるかもしれない。改正のとき各プレイヤーの持ち点は最初から計算しなおされるわけではなく、改正後に引き継がれる。そのとき、改正前と改正後で履歴の重みがあまりにも変わったように見えては、システムの信頼性が問われる。「つまらないトリック」に頼らないところで、履歴の重みを係数として定義しておかなければならない。
 それに、nは数式のなかにしか現れないが、hはd-d'のプロット中に現れる。d-d'のプロットは、この長たらしい議論よりもはるかにわかりやすく、しかも結論をすべて示している)

1月14日

 「鋼鉄天使くるみ」実写化。
 http://www.pc-moe.com/pure/index.html
 嫌なもの見たさをそそられるが、嫌なものを13回も見たくない。

 BLR作戦。
 コインを投げて裏表のどちらが出るか、その確率を調べれば、たいていのコインでは表も裏も同じ0.5だろう。しかしここに、どういう仕掛けか知らないが、一方に偏って出るコインがあるとする。このコインを一度だけ投げたら、表が出た。では、このコインをもう一度投げたとき、表を出す確率はどんなものか、このたった一つの結果から推定せよ。
 小学生でも「100パーセント」とは答えないだろう。少なくとも0.5以上であることは確かだ。しかしなにをいうにも、たった一度の試行で「推定せよ」とはナンセンスではないか?
 ところが統計学というのは実に謎めいた学問なので、こういう問いにもちゃんと答えられる。正解は2/3である。
 なんの履歴もないプレイヤー同士が対戦したとしよう。このときの勝者が次の対戦でも勝つ確率は、もちろん2/3と推定される。
 とすると、持ち点の等しいプレイヤー同士が対戦したら(つまりd = 0)、d'はr(d') = 2/3になるように決める(つまりd' = 1)べきなのか?
 しかし、もしその「持ち点が等しい」というのが、過去100回の互角の対戦のあとたまたま等しくなったのだとしたら、どうか。過去の実績から見れば、2/3という値が無茶なのは一目瞭然だ。2/3という値は、履歴がない(あるいは無視する)、という条件での話で、履歴をみるなら、r(d')は2/3よりも小さな値でなければならない。もちろん、0.5を切るわけがないので、0.5 < r(d') < 2/3(つまり0 < d' < 1)となる。d'が小さいほど履歴の重みが大きいことになる。
 さて、レーティングシステムの「持ち点」という概念のなかには、履歴の重みの大小が含まれていない。初めてゲームに参加するプレイヤーも、100回の戦歴を持つプレイヤーも、履歴に対して同じ重みを与えなければならないわけだ。ちょっと理不尽なようだが、いずれにしろ履歴の重みを制限しないと、真の売れ度の変化に追随できなくなる。
 履歴の重みを表現する値として、f(0)を考えることができる。以下では、f(0)の値を履歴係数と呼び、hと表記する。以下後日。

1月13日

 OVA版の「魔法少女プリティーサミー」全3巻を見た。
 黒田洋介の百合がなぜ駄目か、わかったような気がした。百合が、ただそれ自体で正義であり光であり喜びであることを、黒田はまったく理解していない。

 BLR作戦。
 関数fを決定するには、まず理想状態におけるdの意味を決めなければならない。
 この世に「真の売れ度」なる単一の値があると仮定する。このようなものは当然、現実には測定できない。レーベルの営業力も、比較対象の同業者の売れ度も、もちろん測定したい当人の売れ度も、日々刻々と変化してゆく。そして1回の測定で得られるデータには、真の売れ度のほかにも多くの情報が反映されており、切り分けることはできない。しかしここでは便宜上、真の売れ度なるものが存在すると仮定する。
 その真の売れ度にもとづいてdを決めることができる、と仮定する。このようなdを、以下ではDと表記する。
 D > 0のとき、その対戦は順当な結果が出たことになる。Dが大きければ大きいほど、結果の順当さは増す。逆にD < 0なら番狂わせで、Dが小さいほど大番狂わせだ。D = 0なら勝負は五分五分である。
 このような勝率を表すものとして、関数rを考える。r(D)が確率を表す。
 関数rは次のような性質を備える。

r(D) + r(-D) = 1
r(0) = 0.5
D' > D のとき r(D') > r(D)
D → ∞ のとき r(D) → 1

 さらに、r(1) = 2/3に正規化する(正規化の条件にすぎないので、この値には意味はない)。
 ここで、3人のプレイヤーx, y, zを考える。真の売れ度はx > y > zとする。(xの真の売れ度 - yの真の売れ度)をDxy、(yの真の売れ度 - zの真の売れ度)をDyzとする。そして、Dxy = Dyz = 1とする。当然、Dxz = 2となる。では、r(2)はどんな値になるか?
 それは統計的データによってのみ決定できる、が答である。
 チェスのように豊富な統計データがあれば、関数rは決定できる。しかしBLR作戦には、そのようなデータは望むべくもない。となると、できることはただひとつ、無茶でない範囲で勝手に決めてしまう、だ。
 関数rのような形は、逆正接関数をあてはめるのが一番てっとり早い。というわけで関数rは、r(x) = tan-1(x tan(30°)) / π + 0.5と決まった。
 このように関数rを定義すると、将棋でいえば勝率1/10が三段差(アマチュアの)になる。勝率1/10で三段差はない、せいぜい二段差のような気がするが、いま問題になっているゲームはベストセラーリストであって将棋ではない。
 関数rが定義されたことで、Dの意味が決まった。次は関数fである。以下後日。

1月12日

 ボーイズラブ作家レーティングを行い、「BL小説家番付」と銘打って香織派の人寄せパンダに仕立てることに決定した。本作戦をBLR作戦と命名する。
 まずはレーティングシステムを決定しなければならない。
 レーティングを知らない読者のために説明すると、これは、プレイヤーのそれぞれに持ち点を割り振るシステムである。対戦ごとにプレイヤー間で点が移動し、勝てば増え、負ければ減る。強ければ勝ちまくって点数を集め、弱ければ持ち点が減ってゆく、というわけだ。
 移動する点数には、プレイヤー間の点差に応じてハンデをつける。持ち点の少ないプレイヤーが持ち点の多いプレイヤーに勝てば、つまり番狂わせが起これば、大きな点数が動く。順当な結果が出れば、動く点数はわずかになる。
 システムを一瞥してわかるとおり、意味を持つのは点差だけである。したがってこのシステムは、次の式で記述できる。

d' = f(d)
 ただしdは対戦前の(勝者の持ち点 - 敗者の持ち点)、d'は対戦後の(勝者の持ち点 - 敗者の持ち点)

 関数fを決めるのが、なかなか難しい。
 チェスのようなゲームなら、関数fを統計データに基づいて決定できる。自分より強いプレイヤーとばかり当たっている人と、弱いプレイヤーとばかり当たっている人のあいだで不平等が起こらないように、d-d'のプロットを決定するだけだ。
 しかしBLR作戦では、チェスのようにはいかない。統計データがない、という問題がまず一つ。そして、勝負が一対一ではない、という問題がもう一つ。
 ゲームの結果は、プレイヤー数人に順位がつくという形で出る。上位の者全員に負け、下位の者全員に勝った、という形で処理することになる。その際、dを対戦前の値に固定したままで点数の移動が決められる。もし関数fを下手に決めると、極端な場合、鳴かず飛ばずだった作家が並み居る強豪をごぼう抜きにして1位になったとき、ただその一度だけで、強豪たちよりも持ち点が多くなるかもしれないのだ。
 というわけで、当面は関数fを検討してゆきたい。うーむ。

1月11日

 月猫原稿の印刷直前、緑作戦にタイトルをつけていないことに気付いた。臨機応変な対応を可能にするため、タイトルは必要になるまでつけないのだ。
 とりあえず5秒考えて、「猫の子仔猫」とした。あまりにも人をなめたタイトルなので、手遅れになる前になんとかしたい。

 今日の全文検索:
 リファラーのログを見たら、この日記がこんなキーワードでヒットしていた。
「女子小学生 体育」
「JUNE SM 鬼畜、ハッピーエンド "やおい"」
 ……リファラーって、本当に、いいものですね。

1月10日

 今日の類似:
 「一点接地」と「五体投地」は似ている。

 「月猫通り」の締切が近いので、緑作戦を進めている。現在65枚。目標枚数は300枚。
 60枚やそこらで連載を始めてしまうのは、どうも気が進まない。うーむ。

1月9日

 技術ネタは、全文検索で人をひっかけるときの効率が悪いので、日記に書かないことにした私である(先月11日の日記参照)。
 しかし技術ネタを日記に書いておかないと、メモが散乱して不便だとわかったので、別ページに書いておくことにした。こちらである。

1月8日

 機関銃は、内燃機関に匹敵する発明である。それは第一次大戦を可能にし、現代のゲリラ戦を可能にした。世界の軍事バランスは、機関銃が実用化されたとき大きく変化し、その後自動小銃が実用化されたときに再び大きく変化した。
 アフガニスタンには、武士が刀を尊ぶように銃を尊ぶ部族が多く、凝った細工の施された19世紀的な小銃が大切にされていた。しかし現在、元ムジャヒディンはみな、AK47こそ最高の銃だと認めている。
 機関銃は怪獣ではない。背後には近代的な生産・輸送システムがあり、それらに支えられる頂点として機関銃がある。どんな兵器も、なんらかの支援体制のヒモつきでなければ運用できないが、第一次大戦当時の機関銃はそのヒモがごく短く、しかも先進国のシステムを必要とした。しかし内燃機関と工業技術の進歩は、機関銃のヒモを格段に長く軽くし、大国に支援されないゲリラまでもが機関銃(自動小銃)を大規模に運用するようになった。
 ソ連のアフガン侵攻、そしてアメリカによるタリバン制圧の様相は、戦闘ヘリこそ21世紀における機関銃であることを示しているように思われる。
 ソ連のアフガン侵攻において、戦闘ヘリには抜群の効果があったことが知られている。レーガン政権によるスティンガー供与がなければ、ソ連はムジャヒディンを制圧できた可能性が高い。
 今度のタリバン制圧をみても、多くの戦場で、戦闘ヘリは決定的な一撃になっている。偵察や空爆の最後の一仕上げ、という見方もできる。しかし戦いの帰趨を決するのはしばしば「最後の大隊」、最後の一仕上げだ。
 戦闘ヘリは、第一次大戦当時の機関銃と同じく、先進国のシステムで支えなければ運用できない。これは戦闘ヘリではないが、革命後のイランでF-14が運用できなかったのは有名な話だ。
 だから、こう言ってもいいだろう――戦闘ヘリは、先進国とゲリラの軍事バランスを、先進国有利に動かした。
 戦闘ヘリが、もし私の思うほど決定的な存在だとするなら、スティンガーのような小型対空兵器もまた決定的な役割を果たしうる。戦闘ヘリと小型対空兵器に関する動向は、今後要注意だ。

1月7日

 ふと、「マリア様がみてる」で文庫の週間ベストセラーリストを検索してみたら、一度だけベストセラーリスト入り(2000年10月16日)していたことがわかった。金蓮花の下、真堂樹の上である。しかも6位だ。コバルトがここまで上位に食い込むのは、かなりの人気作品でなければ難しい。
 おお素晴らしいと思い、サブタイトルを見ると、「いばらの森」。シリーズ中もっとも正面きって百合のあれではないか。
 やはり世界は百合に味方している。同志諸君、我々の時代は近いぞ!

 ボーイズラブ作家レーティングについて検討してみた。
 もっとも注目が集まる点はおそらく、あさぎり夕と秋月こおのどちらが上か、だろう。ちなみに過去に直接対戦は2度ある。1999年11月15日には秋月の「恋のファイヤーボンバー !?」とあさぎりの「猫かぶりの君」2巻、1998年11月16日には「Barパラダイスへようこそ」とあさぎりの「アンタレスの記憶」5巻がぶつかり、いずれもあさぎりが勝っている。しかし少々データが古いし、2度の対戦ではたいしたことは言えない。
 もし売上数の情報が手に入ったとしても、それほど役には立たない。レーベルごとに営業力に差があるからだ。これはまさに統計的手法の出番である。
 単純にレーティングを適用すると、第二集団をどれだけ多く叩いているか、別枠にどれだけ叩かれずにすんでいるか(誰もミラージュには勝てない)が勝負の分かれ目になってしまう、これはまずい――と思ったら、いい手を思いついた。
 少女小説の非ボーイズラブ作家も含めてレーティングを行えばいい。特定の非ボーイズラブ作家を媒介にしてどちらが上かを検討することはできない。しかし、非ボーイズラブ作家全員を媒介にすれば、かなりの確かさで論じることができる。
 データを目でざっと洗ったかぎりでは、あさぎり夕と秋月こおのどちらが上か、ちょっとわからなかった(ややあさぎり夕が優位か? しかしミラージュに叩かれているという不利もある)。しかしレーティングを算出すれば、必ずなんらかの差が出てくるはずだ。

 西村マリの「アニパロとヤオイ」を読んだ。
 やおい小史はいいとしよう。引用されている同人誌の表紙を見て、「ほほう、これがあの…」という楽しみもある。問題はそのあとだ。
 227ページから引用する。

 いまアニパロほど時代の課題を効率的に抽出する装置があるだろうか。
 少子化した家族、未来の見えない競争。必要とされたのは定番ネタの受容の物語であり、アニパロの流れのなかに模索されたのは適応の戦略だった。

 くだらない言い訳はもうとっくに聞き飽きた。
 ボーイズラブの存続を可能にしている客観的諸条件の再確認。そんなものがいったい、誰のために、なぜ必要なのか。そのような客観的諸条件は、わざわざ確認するまでもなく、あるに決まっているではないか。現にボーイズラブは存在し、消滅する兆しもない。わかりきっている。
 いま必要とされているのは、ボーイズラブ自体に潜む独自の論理――1914年の列強陸軍が独自の論理を秘めていたように――の分析であり、論理の自己運動を暴き出すことだ。
 (「強姦されてハッピーエンド」という決まり文句はまた別だ。これは砲弾である。ボーイズラブの自己運動を破壊すべく打ち出される日を待っている砲弾である)
 たとえば、あさぎり夕(の作品と売れ方)は、ボーイズラブ独自の論理が自己運動した結果だ。そのことを著者も感じ取っている節がある。あさぎり夕を、客観的諸条件がもたらしたものとして説明することは、よくいってイデオロギッシュ、悪くいえばナンセンスだ。そして、もっともよく売れているボーイズラブ作家を説明しないボーイズラブ論などというものがありうるだろうか。
 近年の魔翁氏による「ギャルオロジィ」(新月ギャルの会発行)のアプローチに、不安を抱かないでもない私だったが、ごくささいな問題だったということを思い知った。この迷妄に満ちた世界にあって、「ギャルオロジィ」の基本的な方向は圧倒的に正しい。

1月6日

 ボーイズラブ小説のベストセラー作品そのものを分析するよりも、作家の売れ度を評価するほうが先ではないか、という気がしてきた。
 評価システムそのものは単純である。チェスなどで使われるレーティングの仕組みを、日販の週間ベストセラーリスト順位に対して適用する。もちろん、同日発売の同一レーベルでしか勝敗は論じられないが、複数レーベルに書いている作家が少なくないので、あまり問題にならない。
 この評価には、週間ベストセラーリストに一度も登場しない作家(当然ながら掃いて捨てるほどいる)がまったく現れないという欠点があるが、それは作品分析のレベルで論じればいい。レーティング下位の者が上位の者に勝つのはかなり難しいが、結果としてはあさぎり夕・秋月こおのレーティングが盛大にインフレするだけなので、それはそれで壮観だ。
 百合的にはあまり役に立たない代物だが、香織派にも営業上の都合というものがある。夏コミのサークルカットにはこれを書いておこう。

1月5日

 お知らせ:
 通販を再開しました。こちらをどうぞ。

 指名手配中のベストセラー・ボーイズラブ小説(全36冊)が、16冊まで揃った(先月14日の日記参照)。
 そろそろ予備調査を始めようと思い、まずは一番ダメそうなもの(政治的理由により名を秘す)から手をつけてみたら、7ページで挫折した。文章力や内容を云々する以前に、文の情報密度が低すぎる。
 伝達すべき事柄がないのなら、字を書かずに白いままにしておいてくれたほうが、よほど精神衛生にいい。かつてティーンズハートにぶつけられた陳腐な悪罵、「ページの下半分が真っ白」は、どうやら今に至るまでかなりの悪影響を及ぼしているらしい。
 しかしこれが世界の現実なのだ――この本の作者は、ベストセラー・ボーイズラブ作家のなかでも第二集団に属している。
 ちなみに第一集団はあさぎり夕、秋月こお。
 第二集団は月上ひなこ、若月京子、きたざわ尋子、バーバラ片桐、吉田珠姫、斑鳩サハラ、南原兼。
 その後ろに金沢有倖、伊郷ルウ、五百香ノエル、松岡裕太、大槻はぢめ、その他。
 大御所・別枠として、ごとうしのぶ、鹿住槙、桑原水菜、吉原理恵子など。
 ……こうして並べてみると、小Jの隔月刊化はさもありなん、だ。

 (「一番ダメそうなもの」の名を秘したのは、ダメなものの宣伝をしてはいけないからという配慮からでもあるが、リファラーのログをみていると「五百香ノエル」でかなりヒットしている(2000年11月20日の日記参照)からでもある。無意味に誤解はされたくない。
 私がボーイズラブを評して「どうでもいい」というのは、ボーイズラブ業界の基準でいえば、かなり褒めていることになる。ここは百合業界であってボーイズラブ業界ではないのだ。
 ちなみに、「中山可穂」でも少しはヒットしている(2000年11月28日の日記参照)が、これに関しては誤解の起こりようもないので問題ない)

 「ページの下半分が真っ白」で思い出した。
 本には、ページを繰る楽しさというものがある。これを極限までつきつめたのが、ビジュアルノベルである。
 どんなにつまらない本でも、ビジュアルノベル式にクリックさせれば、たちまち大娯楽作品に早替わりだ。嘘だと思ったら、エーコの「フーコーの振り子」をビジュアルノベルにしてみるといい。もし本だったら絶対に途中で投げ出すような、健全な感覚をした人間が、涙を流して有難がるだろう。
 「ページの下半分が真っ白」という悪罵の低能ぶりはまさに自明だが――原価を安く利益率を高くし、しかも消費者に歓迎される方法なのだから、画期的な大発明として賞賛すべきところだ――、こうして考えてみると、低能であるばかりか公害でさえある。
 しかしこれもまた世界の現実だ――「ページの下半分が真っ白」という悪罵は、陳腐になるほど流布した。
 「強姦されてハッピーエンド」も、このくらいまで流布しなければならない。「SPA!」の広告に、「ボーイズラブ:「強姦されてハッピーエンド」の世界」というアオリが載るくらい陳腐になる必要があるのだ。うーむ。

1月4日

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020104-00000005-yom-bus_all

 新年早々TRONの再発明とは、おめでたい連中がいたものだ。
 今度のモデルハウスはどこに建つのだろう。バブル文明をして「狂気のTRON住宅」と言わしめた、あの六本木のオーバーテクノロジーを、果たして現代日本が越えられるのだろうか。――たぶん無理だろう。

1月3日

 上野千鶴子の「スカートの下の劇場」を読んだ。
 いつものことながら、上野千鶴子の本を読むのは辛い。私が考える程度のことは、たいてい先に考えているからだ。
 たとえば私は最近、こんなことを考えていた――「シスプリの主人公を女と設定して、あの異様なモテぶりに説得力を感じさせるには、どんな設定を作ればいいか?」。私の解はこうだ――「姉妹たちは異母姉妹で、そのうち主人公だけが母を亡くしている。姉妹たちの母親たちは、同じ男に惚れた仲ということで一種の連帯感を抱いており、共同で主人公の面倒を見るという形で連帯感を発揮している。母親の行動を見て育った娘は、主人公に姉のような、しかし現実の姉にはなかなか持てないような種類の親密さを感じている」。
 この解のもっとも難しい点は、「同じ男に惚れた仲ということで」にある。惚れるまではともかく子供まで作ったら、奪った奪られたの修羅場を演じる不倶戴天の敵になる、というのが世間の相場ではないか? しかし私の直感は、この手は通ると告げていた。われは真実、かれはドグマである、と。
 上野はこの本のなかで、シスターフッド(吉屋信子の小説に出てくる姉妹のような親密な関係)について触れている。同じ男と性経験を持った女同士、つまり「穴兄弟」の逆を、シスターフッドの原型に擬し、女同士の関係で一番理想的なタイプの関係としている。そして111ページ、
 「シスターフッドがちゃんと確立したら、不倫の果ての愁嘆場などというのもなくなるかもしれません。不倫というのは、いまのところまだ独占型の性愛というのが幅をきかせているから成り立つ概念であって、たとえば妻持ちの男と私が関係を持ったら、その妻と私が、いちばん理解しあえるような気がします。原理的にはそうなのですが、実行はむずかしそうですけれど。」
 私の解こうとした問題を、10年以上も前に要約している。
 (どうでもいいことだが、この本には「穴兄弟」ではなく「マラ兄弟」と書いてある。私は寡聞にしてこのような表現は初めて見た。昔はこちらのほうが主流だったのだろうか)

 このあたりの考察は結局、シスターフッドがいわば「缶切り入り缶詰」のようなものである、という結論をもたらすような気がする。
 吉屋信子が、一切の言い訳なしに、シスターフッドを当然の前提とした――とにかく出てくる姉妹すべて、あきれるほど仲がいい――のは、理由のないことではないのだ。

1月2日

 先月の標語を(ウテナ風に)「………ねえ………新刊って……なん…ですか?」にしたのは、我ながら適切だった。積み上げられた段ボール箱を見つめるたびに、この標語をつぶやかずにはいられない。すでに新刊ではなく在庫なのだが。
 今後見込める販売数を冷静に計算するたびに絶望的な気分に陥るが、にもかかわらず希望を見出すのが人間の力、意志の働きである。まずは通販情報の整備から全力を挙げてゆこう。

 というわけで、抜粋のPDFを作っている。
 書かれたものは、それを書いた人間よりも偉い、なにも書かなかった人間などとは比較にもならないくらい偉いのだと、自分に言い聞かせながら作業している。この小説は徹頭徹尾間違っているかもしれないが、間違わなかった私よりもはるかに偉いのだと。
 が――過去の自分が書いたものを見て、あまりのひどさに泣きそうにならないとしたら、私は最初からなにも書いていないだろう。

1月1日

 新年あけましておめでとうございます。
 本年を、百合にとってよい年にするべく、香織派は全力を尽くす所存です。

 エロゲーのNatural2を再開した。
 とりあえず、Dark編と千紗都編の二人同時エンドを見た。Dark編はどうでもいいが、千紗都編のほうは一見の価値がある。
 ではここで、正月恒例の艶っぽい話をしたい。去年10月3日の日記で予告していた、千紗都編・千紗都ダークエンドの代案である。
 しかしその前に、Natural2をご存じでない読者諸氏のために、ざっとあらすじを紹介しよう。

 二卵性(と思われる)の双子の姉妹、千紗都と空は、祖父とともに古びた洋館で暮らしていた。この二人は、どういうわけでか知らないが、深い共依存関係にあり、特に千紗都の空への依存は著しい。しかしそれは、傍目にすぐわかるようなものではない。
 祖父が亡くなり、それと入れ替わるようにして、主人公がやってくる。主人公は、祖父を失った二人にとって、いまやたった一人の身内である。千紗都は主人公に再開するなり、どういうわけでか知らないが、見敵必殺の速攻で食べてしまう。
 並みの姉妹なら、とっとと空が洋館から出ていって終わりだが、千紗都と空は深い共依存関係にあるので、一揉め起こる。そして結局はやはり空は出ていってしまう。依存の対象を失った千紗都は精神不安定になり、重度のセックス依存症になる――というのが、千紗都編・千紗都ダークエンドである。
 かなり重要な位置にあるエンディングにもかかわらず、詰めが甘いと言わざるをえない。
 二卵性の双子の共依存関係は、まったく文句なしに美しい。共依存関係は、平凡だろうと醜かろうと、かならず人の心をつかむ。深い共依存関係とは、ほとんど幸福の定義でさえありうる。しかしセックス依存症には、そんな力はない。
 人を迷わせる不安定な状態から、人の心をつかむ安定な状態へと移行してこそ、話にオチがついたといえる。セックス依存症だったのが共依存関係になって終わるのなら立派なオチだが、ここでは逆になっている。
 空が出てゆき千紗都は精神不安定になるという展開から、どうやって美しいエンディングを見出すか。以下は、私なりの後知恵である。

家を出た双子の妹の存在は、千紗都自身が考えていたよりはるかにかけがえのないものだった……
空が去ったことにより、彼女自身の大切な半身を失ってしまったのだ。
それからの千紗都は心のバランスを崩してしまった。いつも不安げに振る舞い、なにかに怯えている。
(ここまで原作のとおり)
そんな日々のあと、千紗都は「お話」を書くようになった。
最初は断片的な走り書きだった。今は下書き用と清書用のノートを作っている。
清書用のノートが、もう20冊にもなる。どのノートも、整った文章と几帳面な字で埋まっている。
千紗都はその「お話」を、オレに話して聞かせる。
千紗都「ご主人様……今日も私の「お話」、聞いていただけます?」
主人公「ああ……」
千紗都「ありがとうございます……昨日は、空の鼻に流動食チューブを通したところまででございましたね?」
千紗都の書く「お話」、それはすべて、千紗都が空を監禁して責め、最後には殺してしまう、という話だ。
とてもよく書けていると思う。少なくとも……オレは聞いていて飽きない。
千紗都「ご主人様ったら……もうこんなに堅くなさって……」
主人公「楽しみなんだよ。早く始めてくれ」
以前、「このノートを空に見せてやろうか?」と、からかったことがある。
千紗都は寂しそうに笑って、言った。
千紗都「私はちっともかまいませんけれども……空は、私のことが心配になるでしょう」
千紗都「もしそれで空が、この家に戻ってきたら……ご主人様は、どうなさるんです?」
もし空がこの家に戻ってきたら、「お話」を本当にする……千紗都は言外に、そう言っていた。
(ここから原作のとおり)
これがオレの招いた結果……

 ……………なにか、ものすごく嫌なことを書いたような気がする。

 

今月の標語:

評論家の言うことは取るに足りません。偉いヤツがどうつまずいたとか、あれはこうやったほうがよかったなどと御託を並べる連中は、どうでもいい。われわれが注目すべきは、顔を土と汗と血で汚して実際に戦場に立つ男です。勇敢に戦う男です。どんな行為にも失意や失策はつきものですから、そういう人々も過ちを犯し、何度も失策を演じるでしょう。だが彼らはあくまで為さんと努力し、偉大な情熱と偉大な努力を知っています。大義のために全力を傾注し、勝てば成功の美酒を味わい、敗れても戦いながら倒れる人々です。そういう人たちは、勝利も敗北も知らぬ冷えた臆病な魂とは同日に論じることはできないのです。

――セオドア・ルーズベルト

 

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