ライズショット作戦。
月猫通りの締切の今日で、38枚。
しかたないので、これからの1週間で100枚書く。
わけあって、エロまんが同人誌の有名どころを100冊ばかり読んだ。
bolze.、ハースニール、柳ひろひこが最強だとわかった。
カシミール情勢がだいぶあきまへんな、「耐えることにも限界がある」なんてイケイケ野郎しか言わないセリフでんな、あと10年なにもなく過ぎたら奇跡でんな、とつぶやきながら、月猫の原稿を進めている。
フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」のなかで、コジェーブの事実認識の誤りを指摘している部分が、やけに印象に残っている。コジェーブはヘーゲル解説書のなかで、「(ヘーゲルによれば)歴史の終わりのあとには、戦争はなくなる」と言い切った。しかしヘーゲルは「精神現象学」のなかで、歴史の終わりのあとも戦争はなくならない、と明快に断言している。なぜコジェーブが事実認識を誤ったのか、それはわからない――とフクヤマは書いていた。
いまの私には、おぼろげながらに、その理由がわかるような気がする。同じ理由から、フクヤマはコジェーブに依拠して「歴史の終わり」を書き、そして9・11のあとに全面的に自説を撤回する羽目に陥ったのだと思う。
そう、いまとなってはコジェーブは恥ずかしい――この認識を広めてゆく必要がある。
「大百合論」(月猫通り2100号にて発表予定)ではコジェーブも叩きたいと思っていたが、9・11のあとでは、それがあまりにもたやすいことに気づいた。目標はフーコーのみに絞ろう。
MTV2000を使うと、いつのまにかアニメが録画されている。予約したことを意識させないのだ。「ぴたテンが録画してある、Why?」と毎週毎週飽きもせずに驚いているのは私だけではないはずだ。
かくして、それほど見たいとも思わないアニメのぴたテンを、「ボーイズラブの受が劇でいやいやながら女装するの禁止~ それ見て攻が惚れ直すの大禁止~」などと無言で野次を飛ばしながら見ている。
それにしても、テープ交換もなければ早送り・巻き戻しもない世界というのは、想像を絶するものがある。まさに21世紀だ。
先日、コンパクトフラッシュのパーティションテーブルをふっ飛ばした(今月11日の日記参照)が、今日やっとリカバリーさせた。gpartの作者に厚く御礼申し上げる。と日本語でここに書いても仕方ないが。
このコンパクトフラッシュに原稿が入っているので、実はこの2週間ばかり、なにも書いていなかった。うーむ。
「小説でコミケの壁際になるのは、エベレストに冬季無酸素単独登頂するよりも難しい」――そう思えた時代もあった。
私が強くなったわけではない。壁際の意味が変わってしまったのだ。西館の一番奥の、出口壁ではない壁に、どんなプラスの意味を見出せばいいのか、私にはわからない。
にもかかわらず私は力強く宣言する――「私は壁際にたどりついた」!
香織派は夏コミに当選した。スペースは(日)西れ-54aである。
さて504iはどれを買おうか、と思って資料を見ていたら、驚くべき事実を発見した――パケット通信の速度は2倍になっているのに、パケット料金は変わっていない。
王が玉座から転げ落ちるときの、これは典型的なパターンである。NTT
DoCoMoと任天堂、どちらが先に飛ぶか? 素晴らしい見物だ。
松永真理の「iモード事件」は、手元に確保しておくことをお勧めする。10年後に読めば、きわめて多くのことを学べるはずだ。特に、メールの仕様決定に関する記述を、IEEE1394やBluetoothの歴史と比較対照するといい。
今世紀においては、技術の論理は経営の論理に従わない。技術の論理に対抗しうるものはただひとつ、自由――すなわち経営の不在――だけだ。ISAバスがMCAバスを、DDR
SDRAMがDRDRAMを打ち負かしたように。かくして経営は自由と同盟を結ばざるをえない。この同盟は経営側にとって不利なものであり、資本家は技術の振るう一方的な暴力から逃れようとして、消費者からの収奪に耐える。
かつてマルクスは、ガラス瓶の製造工程の改良に関するトラストの話を、おそらくは人から伝え聞いただけで信じた(このトラストの話は「資本論」に書いてある)。当時はそれが信じられるような状況が存在したし、20世紀になってもかなり色濃く存在していた。しかしそんな牧歌的な時代は、PC-9801シリーズとともに終わったのだ。
今日のまとめ:FOMAはダメ、NTT DoCoMoは潰れる
誰かこのネタを書いてほしい。
視覚工学に関することを調べている。色というものがこれほど奥の深いものだとは、いまのいままで夢にも思わなかった。
まず、「光の三原色」というアレは、あまり正しくない。ある領域の波長の光は、他の波長の光を混ぜることでは絶対に出せない色を持つ。
そうした問題を含めて、色のすべてを表現すべく、色空間というものが考案された。物体の色を表すときにもっとも使われているのは、CIE
L*a*b*なる色空間である。あらゆる色がこの色空間で表現できる、はずだった。
その「はず」を覆したのが、蛍光色である。反射では作り出せないはずの光を放ち、完璧なはずの色空間の外に出たのだ。
エロゲーをやるかたならおわかりと思うが、色には恐るべき力がある。エロまんが(同人・商業ともに)のフルカラーに蛍光ピンクを使うのは、いまでは下火になってしまったが、巧みに使われたときのインパクトには筆舌に尽くしがたいものがあった。頭のなかのどこか、いままで触れたことのない部分を、ぎゅっと押されているような気持ちがしたものだ。
これからの数十年間で、表示デバイスの作り出せる色域はさらに広がるだろう。色に関わっている人がうらやましい。
デジカメを手に入れた。さっそくスクープを撮影したのでお目にかける。
JJの吊広告である。なんの変哲もない。しかしこの広告には、驚くべき暗号が隠されていた。
……たとえば、あの馬鹿でかい黄色のリボンなどを?
眠い。きゅう。
504iが発表された。Javaと縁が切れたと思ったら、たったの12日間だったとは。
代官山系を撲滅したければ、いったい何をすればいいのだろう。不自由が自由よりも優れているなどと信じるのは、官僚主義と経験主義が手を組んで、地上の楽園を建設しようとしている証拠だ。
昨日の続き。
生臭い印象を避けるといえば、萩尾望都が「トーマの心臓」について語ったことが連想される。
たしか中島梓先生の「美少年学入門」だっただろうか、萩尾望都が対談かなにかで、「トーマの心臓」制作の舞台裏を語って、「女バージョンと男バージョンの2バージョンを検討したところ、女バージョンは生臭い印象があったので採らなかった」という趣旨の発言をしている。
このとき萩尾望都を動かした必然性が、性別:受が男である必然性と同じだとしたら、JUNE→ボーイズラブという移行過程を通じて不変の、きわめて重要な要素が存在していることになる。
この要素は、感情移入システムの観点から分析できるだろう。また一歩野望に近づいた。
ハピレスにおいて、うづきの総受が最適か否か、むつき受のときに感じる生臭い印象はどの程度重要なものなのか、などといったことをつらつらと考えていたら、ひらめいた。
ボーイズラブの性別:受がもし女なら、むつき受のときに感じるような生臭い印象が出るのではないか?
そういう生臭い印象を出さないために、ボーイズラブの性別:受は男なのではないか?
ボーイズラブがあって、その上で性別:受があるのではなく、性別:受を可能にするためにボーイズラブがあるのではないか?
ボーイズラブに関する言説では、性別:受は暗黙のうちに周縁的なものとして扱われることが多い。しかし、そうしたJUNE主義的観点は、経済面からの批判に耐えないのではないか? 経済的には、性別:受はトラベル・ミステリーに相当するのではないか?
しかもトラベル・ミステリーの経済的重要性がTVドラマから来るのに対して、性別:受は純粋にイデオロギー的な力によって経済的重要性を獲得している。性別:受は周縁的どころか、実はボーイズラブの中心にあるのではないか? JUNE主義的観点は、発生過程をいたずらに重視し、現状を分析する能力に欠けているのではないか? それはスターリン主義のソ連を「労働者の国」としてしか見ない観点なのではないか?
もしかすると性別:受は、「強姦されてハッピーエンド」に並ぶ重要な概念かもしれない。今後の検討を要する課題である。
幸福回復作戦。
ハピレス関係のムック3冊(オフィシャルキャラクターズブック、OVAビジュアルブック、ゲームのビジュアル&完全攻略ブック)を手に入れた。
アニメ版ハピレスが、雑誌連載とゲーム版への反省にもとづいて作られている、との仮説がますます信憑性を帯びてきた。というより雑誌連載とゲーム版は、こう……悪いダメのような気が。
(この世には「よいダメ」と「悪いダメ」がある。「よいダメ」は、言い訳の必要がない。「悪いダメ」は、言い訳のしようがない)
森内俊之八段、名人位獲得!
というわけで、将棋の封印を解く(2001年6月22日参照)。
世のプログラミング言語の趨勢を調べてみると、多重継承はかなり分が悪いことがわかった。テンプレートの冷遇もひどい。
納得がいかない。本物のプログラマはどこへ行ってしまったのか? 図式がかえって理解を妨げるほどに自己解説的な完成されたコードを書くプログラマが、まさかJavaやC#のような代官山系の言語を受け入れているのか? 絵が絵としてしか存在できず、小説が小説としてしか存在できないように、ただコードとしてしか存在できないコード――その理想を忘れてしまったのか?
今日の誤植:
「パグ」と「バグ」
「郵便的不安たち」を読んだ。やはり「動物化するポモ」は真面目に書いていない
私が東浩紀の本を読んだのは、これが初めてではない。「動物化するポモ」という薄い本を、15分くらいで読み飛ばしたことがある。なにをどう考えても、真面目に書いていない本だった。あの本の内容を真に受けている奴は一人残らず馬鹿だと断言できる。
「動物化するポモ」は東浩紀にとっては深刻なトラウマらしく(当然だろう)、今年のSFセミナーでPTSDな発言をしてしまったらしい、すなわち――この本に書いてあることは嘘です、と。
どこか山奥の温泉で傷を癒してから、「動物化するポモ」を黒歴史化する作業に取り掛かることをお勧めしたい。人に歴史あり、思想家に黒歴史あり、だ。
私の所属する文芸サークル「新月お茶の会」で一時期、東浩紀ウォッチが流行したことがある。
そのときは、ポマーの言うことにつきあっている暇はないと思って無視していたが、今またウォッチが再燃しつつある。今回はどうもポマー叩きに進みそうな気配であるため、この波に乗り遅れてはなるまじと、「郵便的不安たち」を読みはじめた。
最初のほうにある講演録を読んだときには、特に、「かわりに僕は、コンスタティヴな詞だけが、辞の支えも象徴界の配達もなしに、ただヒュンヒュンと配送されていくようなテクストを夢見ているのです」のくだりを読んだときには、心底むかつくというか、人をなめるにも程があるというか、どういうつもりでしゃべっているのかと考え込んでしまった。
が、読み進めると、だんだん寛容な気持ちになってきた。そうか、君も体重が足りないタイプか、と。
いま「体重」といった。言論をやる人間には、格闘家にとっての体重に似た何かが備わっている。あらゆる理屈を超越して、無条件に言葉に説得力を与える能力、とでも言おうか。それは、言葉の正確さや美しさといった技術的な問題ではないし、イデオロギー的なものとも関係ない。思考の根本的な部分で、なにかがある。体重別階級制がない言論の世界において体重が軽いことは、きわめて重大なハンデである。
クンフーもなく体重も重いとはいえない私は、体重の足りないタイプを見ると、寛容な気持ちにさせられる。少なくとも彼は、自分のハンデと黙々と戦っているのだから、と。
ちなみに私が恩田陸を敵視するのは、奴が比較的体重に恵まれているタイプだからでもある。
(ポマー:ポモ野郎のこと。差別語。
ポモ野郎:現在の社会状況を、ポモでいうところの「ポストモダン的」と捉え、ポモ言語をばらまく輩のこと。対語は「キッチュ野郎」(私のこと))
ロバート・コンクエストの「スターリン」を読んだ。底本は1991年。
ごくありきたりな総合型の評伝である。今となってはあまり読む価値がない。
L作戦。
Tekram DC-390U3W(Ultra160 SCSIカード)・ACARD AEC7720UW(IDE-SCSI変換アダプタ)・IBM
DTLA-307030(HDD)の組み合わせを、生IDE接続(UltraATA100)と比較した。
・コマンドレイテンシは96→340μs
240μsのオーバーヘッドを大きいとみるか、小さいとみるか。ちなみにUltraATA33のHDDでは、生IDEでも340μs程度の値を出すことが多い。
・Cache data rateは96.5→37.1MB/s
UltraATA33では33MB/sまでしか出ないので、UltraATA66対応は嘘ではないらしい。
・シーケンシャルリードは30.2MB/sが上限
コマンドレイテンシのオーバーヘッドのみで説明できるかどうか、微妙なところである。コマンド変換がややこしいことになっている可能性がある。
打倒フーコー・その5:
完膚なきまでに壊滅した理論といえばなにがあったかと考え、そうだ「性の商品化」があった、と思い出した。さっそく、その壊滅過程を追うべくGoogleしてみたが、いくらやっても、そういう気配は見えてこない。まるで今でも健在であるかのようだ。
これがインターネットの怖いところだ。語られることの内容や、語られているという事実よりも、「なにが語られないか」のほうが重要である場合がきわめて多い。雄弁は銀、沈黙は金というが、これは聞く側にもあてはまる。なにについて沈黙が守られているか? 真に聞くべきはその点であることが多い。
コンパクトフラッシュのパーティションテーブルを吹っ飛ばした。眠いときに危ない真似をするものではない。
どこかのノートパソコンにLinuxをインストールして、gpartにかけなければ。きゅう…
6日の続き。
イーグルトンがポモに「FUCK YOU…!」とやっているのは、無駄なことか否か。
「俺最高!」に対しては「FUCK YOU」と言うしかない。ポモは無敵なのだ――この無敵というのは、今を去ること15年ほど前のことだろうか、あるゲーム雑誌に載ったギャグ技でいうような「無敵」である。その技は、ゲーム開始直後、画面に敵が出る前に自機を自爆させる。敵が出てこない→敵が無い→無敵、というわけだ。
私に言わせれば、この種の無敵モードを相手にしても、なにも起こらないような気がする。「俺最高!」主義を相手にするのは、ゴキブリを駆除するようなもので、日常的にやるべき作業にすぎない。たまには気分転換に叩いてみるのも面白いだろうが。
David Flagananの「JavaScript 第3版」を読んだ。
これが現代のインタプリタ言語… 代官山系のJavaとは似ても似つかぬ、アキバ系の言語ではないか。
とりあえずActionScriptの言語仕様はやっつけたので、Flash
MXをいじっている。
圧倒的なチュートリアルの威力に、21世紀を痛感する。もはやpie
eaterどころの騒ぎではない。本屋でFlashの解説書を探したら、ことごとくフルカラーの手順書だったのは、こういうわけか。
TVKが、放送終了前にカラーバーを放送しなくなっている。これではチューナー入力のキャリブレーションができない(他の地上波局ではゴーストが多すぎて基準にならない)。ううう。
Javaをいじっている。
21世紀にもなって多重継承とテンプレートがないのは、やはり無理だ。Managed
C++に比べて、ひとつでもメリットがあるとは思えない。
やはりFlash… もう少しだけActionScriptの開発環境が強力なら… と思ったら、Flash
MXではかなり強化されているらしい。くわっ! アニキ、俺はJavaをやめるぜ! とりあえず504iの発売までは。
ハピレス第5回を見た。没。
特にチトセの顔が大没だ。もし第1回のチトセがこんな顔だったら、最初の15分で脱落していただろう。
現代ギャル作品は、「ギャルをたくさん出したい、しかし主人公は男」という巨大な矛盾に直面している。この矛盾を認識しないままでいたい、解消しないままでいたいという、神経症的な暗黙の欲求に応えるため、莫大なエネルギーと才能が投じられた。
このような病的な行動は、いくつかの奇跡――費用対効果を度外視する能力において――をもたらしてきた。その実例のひとつが、現代ギャル作品の主人公である。それは爆縮レンズのように精密で、与えられた条件に対する唯一無二の解であり、手を加える余地がない。
現在放映されているギャルアニメは、どれをとっても、この奇跡なしにはまったく成立しない。シスプリにおいては、この主人公が重要なモチーフとなったほどだ。
ハピレス第5回のチトセの顔は、この奇跡を、まったく受け継いでいない。まるで20年前からタイムスリップしてきたかのようだ。いったいどんな失策があるとこんな事態が起きるのかさっぱりわからないが、とにかく関係者には猛省を促したい。
コミティアにて香織派のスペースにお越しくださった皆様、ありがとうございました。
打倒フーコー・その4:
テリー・イーグルトンの「イデオロギーとは何か」を読んでいる。
前半はあたりまえのイデオロギー論史、後半のあらすじは、
ショーペンハウアー「理性ウゼエ。キリスト教最高!」
↓
ニーチェ「キリスト教ウゼエ。権力最高!」
↓
ポモ「全部ウゼエ。俺最高!」
↓
イーグルトン「FUCK YOU…!」
もしポモ(ポストモダンのこと。差別語)が実際にイーグルトンのいうようなものなら、すべてを「ウゼエ」で片付けるナウいヤング(差別語)はポモを実践しているということになる。思想家の影響力はあなどれない。
スヴォーロフ作戦。
ただでさえ凶悪な400行だが、挿絵がつくと、もはやSSというより精神兵器だ。子供が読んだら夜うなされるかもしれない。
とはいえ、ノンフィクション(騙りを含む)に匹敵する破壊力は望むべくもない。フィクションという枠を外して、破壊力のみを追求すると、人間は時として恐るべきものを生み出す。
烈海王が叩き上げた黒曜石のような代物を、私は現に読んだことがある。その禍々しさのあまり、自分の手元に置いておけなかった、と言えばその破壊力がおわかりいただけるだろうか。
ライズショット作戦の勝利を確信したので、新たな中編を構想している。とりあえず目的・目標は決まったが、戦略・戦術がまだよく見えない。
それにしても私はなぜこんなにNatural(エロゲーの)が好きなのだろう。F&CはとっととWindows2000対応・音声リマスターのリメイク版を作れと言いたい。
コミティア用のペーパーを書かなければ… きゅう。
新着百合物件は以下のとおり。
藤田貴美「ご主人様に甘いりんごのお菓子」(幻冬社コミックス)
紺野キタ「ひみつの階段」1巻新装版
坂井久仁江「SO LONG…」
今野緒雪「マリア様がみてる レイニーブルー」
なかはら★ももた「ラブレボ!」
「僕と、僕らの夏」(light)
おかざき真理「セックスのあと男の子の汗はハチミツのにおいがする」
「ココロ図書館」TVアニメ版
中里一成「のばら級」
へっぽこくん「ムクナテンシタチ」
Microsoft Speech SDKのtutorialを読んだ。
なんとなくムカつく英語を書く奴だった。
要注意物件に、天野こずえの「ARIA」(月刊コミックブレイド連載)を追加した。学習指定物件の「AQUA」の続編である。
ライズショット作戦。
主人公の謎言語を考えるべく、ながいけんの「神聖モテモテ王国」を最初から読み直した。その結果、主人公は「くしししし」と笑うべきだと気づいた。
「またわけのわからんことを」
「わけのわかることを言ったもんの魂は、どこへ行くんかのう。…二軍キャンプ?」
(1936年モスクワ)
私は勝利を確信した。