中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

2002年6月

6月30日

 今日のソ連:
 論文集「モスクワのテレビはなぜ火を噴くのか」、1987年。
 ソ連社会の問題を論じた論文を集めた本である。「虚構の数字の上に立ったソ連経済」を読むと、社会主義経済の非現実性がよくわかる。90ページから引用する。

(意図的に価格をつりあげるという手口でなされる、工業生産額の水増しを論じて)
 責任者の摘発は、それほど簡単ではない。彼らには立派な言い訳が用意されている。つまり、新製品は古いものより優れており、当然高くなる、というわけだ。しかし、通常、価格上昇の方が性能向上と比べて急ピッチだ。たとえば、モスクワの工場《赤いプロレタリア》で製造された普通の旋盤が約五五〇〇ルーブルであるのに対し、その旋盤に数値制御を付けたものが四万ルーブル、そして、それにロボットを装着すると七万ルーブルにもなる。では技術のすばらしい成果を取り入れた機械は、普通のものより生産性がどの程度高いのか? 一.五倍だ。ということは、価格も最高一.五倍の上昇でよいはずだ。そうでないと、新しい機械は買い手にとって得にならない。

 この論の異常さがわからない人は、たぶん自分の命を半分しか生きていない。ただ、どういうものか人間の思想というのは、生を否定する方向に走りがちなので、さほど珍しい現象でもない。経済学の歴史は、ある意味で、学者が必死になって生を否定しようとしてきた歴史とも取れる。そのなれの果てが、上の論というわけだ。
 NC旋盤導入による生産性向上を一.五倍と算定することからして、非常に無理がある。作業員に求められる熟練度を下げることができる、という効果は無視できない。雇用問題のリスクを下げられれば、企業の行動に大きな柔軟性が生じる。
 仮に、一.五倍の生産性向上、という算定を受け入れるとしよう。競合他社が旧式旋盤のままで、自社だけがNC旋盤を導入した、という状況を仮定する。固定費用は同じで生産能力は一.五倍になる。生じた50%の余裕をなにに振り向けるかは、企業の選択に任される。しかも競合他社はまだこの選択権を手に入れていない。このような突出した柔軟性を得ることが重要であるような状況は例外ではない、どころか、そのほうが原則だ。
 もちろん、競合他社がNC旋盤を導入したとたんに、自社だけが突出しているという状況は終わるが、それでも柔軟性は残る。「価格も最高一.五倍の上昇でよい」ということには絶対にならない。
 だからといって、「価格は一.五倍以上であるべきだ」というわけでもない。新しい設備を導入するには、当然ながら資金を要する。資金は、企業に多くの選択権を与えるので、これも柔軟性のひとつといえる。NC旋盤の導入は、資金という柔軟性を生産能力という柔軟性に交換することでもある。この交換が、どんなときに損で、どんなときに得か? このような判断のことを、経営判断という。この経営判断に照らしたとき、「一.五倍では高すぎる」ということになる場合は十分に考えられる。
 さきほどから再三、「柔軟性」と言ってきた。柔軟性を得たからといって、ただちに利益を増大させられるわけではない。将棋にたとえれば、いくら持ち駒があってもヘボは悪い手を指す。しかしどんなヘボでも、持ち駒一枚のあるなしが死命を制する、という状況があることは知っている。逆に、柔軟性があってもなにもできないような状況もある。
 ――それで、結局? 結局、どういうことなのか?
 「すべては結果論」、ということである。
 新製品のNC旋盤の価格は幾らである「べき」か、を論じることはできない。市場が決める「べき」であると言うことさえできない。いったい、NC旋盤のような工作機械への投資を、価格統制のような行政的手段によって制御する「べき」でない、と言うことができるのか。
 特定の状況において、ある種の経営判断としてなら、「市場に決めさせる」「これこれの価格で価格統制を行う」と言うことができる。しかし経営判断である以上、結果論から逃れることはできない。この世界では、結果は常に無限に正しい。しかも、そのような判断自体が、別の人々にとっては、無限に正しい結果である。
 マルクス主義は唯一性を目指し、ボリシェヴィキはそれを現実生活に押し付けた、というアレクサンドル・ヤコブレフの指摘は完全に正しい。この世に唯一の、ある「べき」価格、などというものが想定できるという信念自体が根底から間違っている。それは結果論の拒否、つまり、生の否定である。結果論がありえないとすれば、人間は生まれたときから死んでいることになる。ケインズの言ったとおり、「人間は長期的にはみな死ぬ」のだ。

 とはいえ、1917年から今までのあいだに、人間がそれほど賢くなったとも思えない。
 「あるべき価格」という信念は滅んだ。しかし今、ある種の人々は、別の唯一性を見出している。「あるべき市場」という唯一性を。
 人間はすべて、結果論の世界に生きている。国際関係から日々の買い物まで、いかなるレベルにおいても、リスクをゼロにすることもできず、判断をやめることもできない。御用学者の言うことなど取るに足らない。人間は判断し、行動するだろう――その結果がたとえ十月革命であったとしても。

6月29日

 萌えキャラを10人以上作ろうとすると、キャラが重なってきつい、などという弱音を聞いた。弱い。12人くらい重ならずに作るのは簡単だということを証明してみせよう。名前を考えるのは厳しいのでアルファベットで。

 まずはプチ・ダーク系を5人。

・A
 精神的な理由で失語症にかかっており、しゃべることができない。会話はすべてスケッチブックに字を書く。受動的で感受性が強く、野良猫が友達(餌で釣っている)。短い三つ編みを左右に出している。胴長短足。身長150cm。

・B
 一を聞いて十を知るタイプで、無駄口に耐えられない。彼女と会話するには、鋭い推理と広範な知識と完璧な記憶力が必要。無駄口を叩かないものが好きなので、家にはたくさんのペットがいる。わきの下までの長さのストレートロング。やせぎすで首が長い。身長165cm。

・C
 霊感少女。自分には悪い守護霊がついているといい、身近な人の隠れた悪徳を守護霊から吹き込まれて人間不信に。実際に、人の悪徳をずばずばと言い当てる。詩が好きで、暗唱できる詩歌は万を越す。外ハネショート。猫背。身長160cm。

・D
 見栄っ張りのあまり、自分がなにかおかしなことを言うのを恐れて、ほとんど言葉をしゃべらない。東西のあらゆる行儀作法を知悉し、外見は完璧なお嬢様。肘までの長さのストレートロング。靴のサイズと頭が大きい。身長158cm。

・E
 民族紛争で狙撃兵として従軍し、民間人を多数射殺したが、負けて賊軍になったので日本へ落ち延びた。民間人狙撃作戦も含めて、自軍の正当性を主張してやまない。敗残兵のような疲れたまなざしが印象的。無造作風ショート。ギリシャ系。身長159cm。

 ついでライト系4人。

・F
 なめらかでパワフルなおしゃべりを誇る。芸能界に明るく、人の言ったことは決して忘れない。飼っているオウムに新しい言葉を覚えさせるのが趣味。恋する乙女になると言葉を失う。髪はアップスタイルのシニヨン。細い体ではないのに、ウェストと足首だけは細い。身長155cm。

・G
 高慢ちきぶるのが大好きな女王様体質。自分の命令が遂行されることに無常の喜びを感じる。独断的で根拠のない物言いに聞こえても、実は裏を取っている。ベルマークを集めるくらいまめな性格。ワンレングスのミディアム。巨乳かつ太り気味。身長163cm。

・H
 妹。兄の前でかわいい妹を演じたいと思っているが、面倒くさいのでよくサボる。お願いを言うまでもなくお願いを察してかなえてくれるような恋人が欲しいと思っているドリーマー。「うらみ日記」をつけている。ツインテール。背が低いが頭身も低い。身長146cm。

・I
 委員長で幼馴染。きちんとしていないことが大嫌いで、人の髪の寝癖を見ただけでも苛々する。ツッコミが厳しいので、しゃべるときは一瞬も気が抜けない。長い三つ編みを背中に一本垂らしている。胸がないことも含めてモデル風体型。身長161cm。

 そして不思議系3人。

・J
 ぬいぐるみと会話できる。ぬいぐるみとの会話にもとづく独自のぬいぐるみ哲学を持ち、布教に努めている。信じやすい性質で、人が大真面目で言ったことは、どんなことでも信じてしまう。ロングのソバージュでカントリー系、でも脱ぐと凄い。身長149cm。

・K
 江戸時代から続く占い師の7代目。占いをネタに人をからかうが、けっして人を占おうとはしない。実は占いを詐欺の一種とみなしている。シニカルで脱力系。ポニーテール。頭身が高いので、数字以上に大女に見える。身長173cm。

・L
 前世の仲間を探すために、まずは前世を思い出そうとしている。昼寝やうたた寝が効くと聞いて、あらゆるところでうたた寝している。罪のない嘘をつくのが好きで、自分の名前も最初は嘘を教える。内ハネショート。やせ型で、まるで胸がない。身長155cm。

 以上12人を、正味2時間強でひねり出した。ギャルゲーを作ろうというなら、これくらいは簡単にできてほしい。
 ちなみにこの12人だと、主力はB、Hだろう。G、Kで出塁数を稼ぎ、IとFで送りバント、Eを代打に使い、あとは補助戦力、という配分を推す。

6月28日

 今野緒雪の新刊、「マリア様がみてる パラソルをさして」を手に入れた。
 ところで佐藤聖という名前を見るたびに、故村山聖八段を連想してしかたないのは私だけではないはずだ。

 Sigma DesignsのISO MPEG4コーデックを試してみた。
 MPEG2のままHDDに置いておくのと比べて、ほとんどメリットがない。可逆圧縮でキャプチャしたものをエンコードするために使うものなのだろう。没。

6月27日

 積極的に見る気は起こらないのに、なぜかTVアニメの「ぴたテン」を毎週欠かさず見ている私だが、「藍より青し」のほうはまだ多少は見る気がある。理由はわからない。単にJ.C. STAFFの画面が好きなだけかもしれない。なお、原作は読んでいない。
 今週、ようやくこのアニメの見方がわかった。ダメ色男の薫に一喜一憂させられる葵に感情移入して見るものなのだ。
 こういうことは最初でちゃんと説明してほしい。アリスソフトの「デアボリカ」をやったときも、少女まんがだとわかるまでに時間がかかった。

6月26日

 よんどころない事情により、「電撃萌王」の連載「同人ソフトをつくろう!」をチェックし、夏コミのスペース番号を見て、私は権力というものを再び知った。
 東館の通路側島端。「勝ってから戦う」とはこのことか。
 とはいえ香織派にとっては、F&Cのような連中がいくら勝とうと痛くもかゆくもない。小野敏洋の「バーコードファイター」のような深刻な打撃にも耐えて百合は前進している。
 そう、F&C的なものは常に勝つだろう――ただし、2012年のF&Cは、女同士物のエロゲーあるいは百合のギャルゲーを作るのだ。

 「2ちゃんねる」管理人に400万円の支払い命じる
 人類史上初めて、なんの理念も示さず、ただ「闘争せよ」と万人に呼びかけたのは誰だろう。私の知る限り、それはホッブズだ。「万人の万人に対する闘争」なる語が、扇動でないとは信じられない。
 (ちなみにホッブスは、この扇動によって絶対君主を正当化しようとしたが、政治的動物である人間にとっては「万人の万人に対する闘争」のほうが絶対君主よりも楽しい、という事実は見逃したらしい。ヘーゲルはその点に気づいていたので、「戦争はなくならない」と書いた)
 もしかするとこの扇動は、私が理解する意味での「自由」の始まりだったのかもしれない。万人が常に、なんの理念もなく、ひたすら「闘争せよ」とだけ扇動されつづけている世界、それこそ私の知る自由な世界だ。
 どうやら、そういうことらしい。自由な世界に生きる以上、闘争は真面目にやらねばならない。片手間や素人仕事の闘争が通用するような世界は、遠からずボリシェヴィキに蹂躙され、自由の意味をみっちりと仕込まれることになるだろう。
 闘争強化の手始めとして、PGPで暗号化された電子メールとインスタントメッセンジャーの普及を図りたい。

6月25日

 先月12日の続き。
 「性の商品化」理論がなぜ壊滅したのか、その手がかりがつかめた。近藤和子編「性幻想を語る」(1998年)所収の、小倉利丸の論文にまとめてあるらしい。
 批判の概要はというと、近代の家族制度をそのままにして性の商品化を問題にすれば、性産業労働者のさらなる抑圧につながる。性の商品化を論の中心に据えることはできない、ということらしい。方法としては、「論理的に正しいが戦略的に誤り」というところだろう。
 というわけで、この方法は打倒フーコーには使えない。私とフーコーは目標が異なるからだ。

 上に書いた情報をどこから掴んだのかというと、斎藤美奈子編「男女という制度」からである。
 この本に所収の横川寿美子の論文「ポスト「少女小説」の現在 女の子は男の子に何を求めているか」が面白い。私の知るかぎり、JUNE史観でない観点からボーイズラブを扱った初めての論考である。
 ただしボーイズラブといっても、考察の対象がホワイトハートやパレットに偏っており、純ボーイズラブのレーベルが外されていることは見逃せない。なるほど、純ボーイズラブのレーベルを外せば、「強姦されてハッピーエンド」という結論にはならないだろう。

6月24日

 アフガン暫定政権が発足した。
 中国で国民党軍が中共軍にやられたように、ガタガタになりそうな気配を感じているのは私だけではないはずだ。軍事力が分散しすぎている。政権中央には、繊細な調整力ではなく、苛烈な決断力が要求される状況である。
 しかしカルザイはどう見ても、アフガンで独裁者になれるタイプではない。悲しいことに、ああいう国で独裁を敷くには、こういう資質が必要なのだ――

インタビュアー「あなたはいつまで人殺しを続けるつもりですか?」
スターリン「必要があるかぎり続ける」

6月23日

 ハピレス第12回を見た。
 第5回の悪夢(先月7日の日記を参照)がほぼ再現されている。チトセの顔は前回よりは多少まともだったが、多少まとも程度ではどうしようもないレベルにある。
 ラス前にこれを持ってくるとは、どういう思考回路をしているのか。どうでもいい話はほかにいくらでもあっただろうに。
 とはいえ、カンナがみなづきにキスしようとしたところはよかったので許す。

6月22日

 OAVの「こすぷれCOMPLEX」を見た。
 百合入りではある。が… 微妙に難しい。百合的センスのレベルからいえば、黒田洋介に一歩リード、くらいだ。
 とはいえ努力は大いに認めたい。世界は着実に前進している。

 Kanonなどのいわゆる泣きゲーについて、見月界夢氏が注目すべき説を提唱した。
 泣きゲーのヒロインは、たとえば「火垂るの墓」の妹のような悲惨な目にあうことはまずない。それはいかなる人間的な基準から見ても悲惨なので、プレイヤーが求める種類の「かわいそう」ではなく、したがって萌えられない。
 プレイヤーが求めるのは、より個人的な基準での悲惨、というより「かわいそう」である。たとえばトラウマ絡みの話が泣きゲーによくみられるが、トラウマはきわめて個人的なものなので、全人類的な基準では計れない。これが泣きゲーに必要な「かわいそう」である。
 なぜ泣きゲーの「かわいそう」は、個人的な基準にとどまらねばならないのか? それはプレイヤーが「かわいそうな自分」にあこがれている、いわば悲劇のヒロイン症候群だからである。
 かわいそうなヒロインに感情移入する→萌え、これが泣きゲーの基本原理である。とはいえプレイヤー自身は、全人類的な基準でみて悲惨とは到底言えない。全人類的な基準でみて悲惨なヒロインに感情移入しようとすると、そこに障壁が生じる。
 この障壁は、ギャル理論でいうところの自己同一化の第二層をもたらすものに似ている。ボーイズラブにおいては性別の違いが「強姦されてハッピーエンド」を可能にしたが、泣きゲーにおいては悲惨さのレベルの違いが萌えを妨げる。悲惨さのレベルをプレイヤー自身に合わせるために、泣きゲーの「かわいそう」は個人的な基準にとどまらねばならない。
 上の仮説が正しいとすると、泣きゲーは、
・全人類的な基準からみたときには、ヒロインの悲惨さは小さいほどよい
・個人的な基準からみたときには、ヒロインの「かわいそう」は大きいほどよい
・ヒロインの個人的な基準は、プレイヤーに対する説得力を持たねばならず、その説得力は大きいほどよい
 となり、経験的な事実によく一致する。

 (悲劇のヒロイン症候群:
 自分の子供を、死因がわからないように殺して葬式をあげていた母親が検挙されることがある。動機は、子供に先立たれた悲劇のヒロインになるのが気持ちよかったから)

6月21日

 アレクサンドル・ツィプコの「コミュニズムとの訣別」を再読した。
 著者のいう「愛国主義」や「土地主義」には、以前と同じく、胡散臭さしか感じられない。
 アレクサンドル・ヤコブレフは自分の故郷を忘れない人間だったが、自分の故郷をイデオロギー的な梃子にすることを拒んだ。自分の故郷を忘れないというのは、そういうことではないのか。ロシアの農村で育たなかった人間、あるいは自分の故郷を忘れた人間だけが、ツィプコのいう「土地主義」を唱えることができる。ツィプコは、ゴルバチョフやヤコブレフがロシア人よりもソビエト人であるというが、私に言わせれば、ツィプコのほうがはるかにソビエト人である。
 ヴォスレンスキーの「ノーメンクラツーラ」の最後のほうに、「デニス・イワーノヴィチの一日」なる章がある。ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」をもじって、ある党中央委課長の平和な一日を描いたものだ。ここに描かれている若きノーメンクラツーラの精神像は、驚くほどツィプコに似ている。左翼的な信念はなく、ボリシェヴィキに粉々にされたロシアの破片に――破片、そう破片である。ゴルバチョフもヤコブレフも、ロシア農村の破片ではなく全体を見た。ツィプコが見たのは、ロシアの破片なのだ――無邪気な愛着を抱き、体制の崩壊に対する精神的な準備ができている。
 読んでの感想がこれだけなら、以前とほとんど同じということになる。しかしもちろん、これだけではない。
 ツィプコの「愛国主義」や「土地主義」への傾きと、ヘーゲル的な感覚のあいだには、相関関係があるのではないか? というのが今回の知見である。
 ヘーゲル的な感覚は楽しい、それは確かだ。しかしそこにはなにか、物事の全体性に対する、ひどく軽々しい態度が潜んでいるような気がする。

6月20日

 人は唐突になにかを思い出すことがある。今日私は唐突に、ハドソンの古いADV、「デゼニランド」を思い出した。
 私は「デゼニランド」をやったことはない。ただ雑誌の記事で知っていて、妙に印象に残っているだけだ。ずいぶんたくさんの機種に移植された名作と聞いている。
 インターネットの素晴らしさで、全文検索をかけると、いくらでも情報が出てくる。攻略ページまであるのには驚いた。おかげで私は「デゼニランド」の概要をすっかり把握した。
 感想:やらなくて幸せだった。
 「デゼニランド」式のADVは、1つだけやったことがある。マイクロキャビンの「はーりぃふぉっくす」、と言ってわかる人が何人いるか疑わしいところだが、当時のADVとしては飛び抜けて絵がかわいかった。当時の私には、このゲームはかなり難しく、結局は解析して解いた。
 しかし今日、「デゼニランド」のことを調べたところ、当時の基準では、「はーりぃふぉっくす」など簡単すぎて死にそうなヌルゲーであることがわかった。どうやら昔のゲーマーというのは、世にも恐るべき人々であったらしい。
 個人的に気になるのが、「デゼニランド」における聖杯たるアイテム「三月磨臼(ミツキマウス)」と、新月お茶の会の見月界夢氏との関係である。氏はもしかして、ATTACH CROSSしたりPOLISH PILLARしたりして……いるわけがない――とは言い切れないのが氏の恐ろしいところだ。

6月19日

 芸能界にきわめて疎い私でも、「全日本国民的美少女コンテスト」なるものを知っているのだから、世間的な知名度は相当なものなのだろう。その第8回をやるという話を聞いた。
 宣伝ページの、「歴代受賞者の横顔」というページが素晴らしい。
 ご覧のとおり、右下に一人分のスペースが空いている。しかし、よく見ると、第3回グランプリの名前だけがない。ほかの回はすべてグランプリの名前を挙げているというのに。
 まるで粛清によって写真から消された指導者のようではないか。あるいは、真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り組んだ九軍神のようではないか。
 (九軍神:
 真珠湾攻撃は空母艦載機だけでなく、湾内に潜入させた特殊潜航艇によっても行われた。この計画は当初から無謀と考えられていたが、果たせるかな、出撃した5隻の特殊潜航艇はいずれも帰還しなかった。日本軍は負けが込んでからテンパったわけではなく、最初からテンパっていた、というわけだ。
 特殊潜航艇は2人乗りなのに、なぜ「九」軍神なのか? 乗組員の一人が捕虜になったためである。当時、この九軍神は大々的に戦意高揚宣伝に使われていたが、なぜ「九」なのか、という問題には苦しまなかったらしい。「あと一人は?」などとツッコミを入れる勇者はいないと確信していたのだろう)
 さて、名前を消されたグランプリとは、小原光代。私の調査によれば、芸能活動をしている形跡が6年前で途絶えている。現役でないものは載せない、という方針らしい。

6月18日

 非モテ研究ふたたび。
 どうやら、「モテ」からもっとも遠いものをみてゆくのは、非モテ研究としては効率が悪いらしいことがわかった。とりあえず、思弁的なアプローチに戻る。

 仮説その1:
 飢餓の恐怖から解放された人類を支配している価値体系「モテ」との闘争、それが「非モテ」である――などと言い出してみる。
 しかしその場合、「モテ」の2文字がなぜ「非モテ」の語のなかに入っているのかが疑問である。「モテ」の支配からはどうせ逃げ出せない、という諦念のあらわれか。
 私が歴史から学んだところによれば、この種の戦術は常に敗北する運命にある。敗北主義者でありたいならともかく、真剣に「モテ」を打倒することを目指すなら、まず名前から変える必要があるだろう。

 仮説その2:
 「モテ」「非モテ」のほかに「可モテ」なる語がある。これは「モテ」にすりより、モテようと努力する態度を意味する語であるらしい。正しい二項対立は「モテ―非モテ」ではなく「可モテ―非モテ」であり、「非モテ」とは本来は「反可モテ」なのではないか、と想定してみる。
 さて「非モテ」=「反可モテ」なのだとすると、それが「硬派」とどう違うのか、という疑問が生じる。「硬派」にとって重要な価値体系「カッコいい」からの自由を主張しているのだろうか。
 ではその場合、「非モテ」はなにをもって「可モテ」の対立者であるのか。「可モテ」を非難するにしろ恐れるにしろ、あるいは、「可モテ」から非難されるにしろ恐れられるにしろ、なんらかの点で「可モテ」と対立するものがなければならない。ソ連とリンゴ、共産主義とまんがの対立関係を想像するのは難しい。

 仮説その3:
 「モテ」に支配されたこの世界でも、支配から自由な人間を思い描くことはできる。また現にそのような人間が存在するであろうことも確かだ。仮にこのような状態のことを「モテ外」と呼ぶことにしよう。
 「モテ」と闘争する道を選ばず、かといってすりよるわけでもなく、「モテ外」へのあこがれを表明する言葉が「非モテ」なのではないか、と想定してみる。
 検討してみると、どうやら、これが一番的確と思える。というわけで、もし今後も非モテ研究を続けるなら、この説をとることにする。もし続けるなら、だが。

6月17日

 もはや非モテ研究というより「エイケン」研究だが、昨日の続き。
 「エイケン」においては、「頭から水をかぶった小娘を見たり、転んだ小娘の下敷きになったり、さっぱり可愛くない絵で乳揺れが表現されたりすることの、なにがどう面白いのか、どこにも示されていない」と昨日述べた。詳しくみれば、ここには二重の問題が隠されている。
 第一の問題は、「お色気」から「純ギャル」へのシフトという潮流に逆らっていることである。
 かつて「お色気」が鉄の独裁を敷いていた頃には、上に指摘したようなことは公理として認められていたのだろう。しかし今や若者は反乱に立ち上がり、「お色気ナンセーンス! スケベ帝国主義粉砕!」と叫びつつエロゲーをやっている。もはや無自覚に「お色気」であることはできない。
 第二の問題は、「お色気」でありながら、主人公が純ギャル主義的ということである。
 この問題は、「エイケン」の前番組ともいえる「オヤマ! 菊之介」と比較することで明瞭になる。これも現代にあってお色気を主張した、やや反動的な作品である。「菊之介」の主人公は、スケベを極めた父親を目指して、自ら積極的にスケベたらんと志している。このような設定を作った作者の感覚は鋭い。「菊之介」の連載が始まったときにはすでに、「男=スケベ」というドグマは否定されていた。
 対するに「エイケン」の主人公は、純ギャル主義の勃興とともに現れた無色無個性タイプの流れを汲んでいる。このような主人公は、その思想的背景からして、スケベではありえない。無色無個性タイプの主人公は、「男=スケベ」というドグマを否定することで現れたのだ。主人公がスケベでないとしたら、水をかぶった小娘や乳揺れは、作品内部においてどういう位置付けを持っているのか。なにもない。ただ読者の権威主義のみに、それも反動的な権威主義に期待するほかないのだ。「菊之介」の水も漏らさぬ手つきとは、比較するのもおこがましい。

6月16日

 「非モテ」という言葉を初めて耳にしたのは、いつのことだったか。
 つい最近まで、私の周辺だけで使われるローカルな言葉だとばかり思っていた。なにしろ私の周辺では、「反白色テロル大連帯」なるものが一般常識である。が、ふとGoogleで検索してみると、5700件のヒット。どうやら「非モテ」というのは、思ったより重要な概念であるらしい。というわけで私は非モテ研究に着手した。
 非モテ研究を始めるにあたって、まずどんな文献にあたるべきか。
 「非モテ」とは文字どおりには「モテ」にあらざるもの、である。すると、「モテ」からもっとも遠いものからみてゆくのがよいのではないか、と私は考えた。この方針に従って、約5分間にわたる綿密な調査と検討の結果、最初にあたるべき文献を決めた。
 松山せいじの「エイケン」(秋田書店)、5巻まで。
 ろくでもないボーイズラブまんがと同じくらい読むのが辛いが、なんとか3巻の半ばまで読んだ。現在までに思いついたことを以下にまとめておく。

・「非モテ」は権威主義的
 ポルノの面白味は、他愛ないゲームとしての完成度にある。最小の公理と最大の変化がそこにはある。
 しかし、「エイケン」にみられる公理系は不当に大きく、まったく受け入れがたい。定理としか思えない諸々が公理として扱われる。頭から水をかぶった小娘を見たり、転んだ小娘の下敷きになったり、さっぱり可愛くない絵で乳揺れが表現されたりすることの、なにがどう面白いのか、どこにも示されていない。
 「エイケン」をナチュラルに楽しめる読者(以下では「理想的読者」と呼ぶ)は、こうした不当な公理をあらかじめ受け入れていると考えられる。その公理は当然ながら「エイケン」の外部から来ている。不当な公理を押し付けることのできる外部、すなわち、権力である。
 つまり、「エイケン」の理想的読者は、権威主義者である。これはある意味で当然の結論といえる。子供というのは絶望的に権力を欠いているので、ほとんど例外なく権威主義的だ。
 おそらく「エイケン」の理想的読者は、「諸君!」「正論」の理想的読者であるオヤジと一直線につながっている。「エイケン」→「SAPIO」→「正論」――まさに非モテの精神史といえるだろう。

6月15日

 幸福回復作戦。
 座談会の論点として、現在までに2つの案が提出されている。

・電撃G'sマガジンの企画という枠のなかで、シスプリとハピレスの差異、各種ハピレス間の差異を論じる
 電撃G'sマガジンの企画という枠は、コンセプトワークについて論じるのに理想的な環境を提供している。こんなに都合のいい環境は、今後10年は現れないだろう。

・ハピレスの新しいメディアミックス戦略
 シスプリは、アニメの失敗により、クリエイターが前面に出た作品にとどまった。対してハピレスは、メディアミックスに「声優イベント」という新しいメディアを持ち込んだ。

 2つの論点を比較すると、後者は、座談会という形で論じる意義が薄いように思われる。
 第一に、声優イベントには、論じえない要素があまりにも多い(たとえば、田村ゆかりの愛想のよさをどう論じればいいのか)。
 第二に、声優イベントに関する意見は、議論をしても、興味ある共通点や相違点を見出せない可能性が高い。
 よって、後者の論点を特集に盛り込む場合は、「ハピレスイベント体験レポート」などの形が望ましいと思われる。

6月13日

 アレクサンドル・ツィプコの「コミュニズムとの訣別」を再読している。
 なんともいえないヘーゲル感が楽しい。彼らが社会主義体制を救おうとしたように、誰かがプチブル体制を救おうとする日も来るのだろうか。

6月12日

 再びサッカーについて。
 日本対ロシア戦の開始前、ロシアの選手はほとんど国歌を歌っていなかった。やはり、と私は納得した。
 現在のロシア国歌の作詞者は、セルゲイ・ミハルコフである。日本では、映画監督のニキータ・ミハルコフの父親、というほうが通りがいいかもしれない。邦訳された本もあるらしいが、私は見たことがない。
 しかし元ソ連人にとっては、セルゲイ・ミハルコフという名前は常識である。第一に、彼は最後のソ連国歌の作詞者である。第二に、ソ連の国語の教科書には、必ず彼の詩や童話が載っていた。
 彼について、亡命ソ連人の歴史学者ヴォスレンスキーが、次のように書いている。

 詩人セルゲイ・ミハルコーフは、指導部に対して特別に恭順であることで有名であるが、この目的のために寓話『重いパン』を書いた。普通のソヴィエト市民はここでは、「カラス麦を運び出し、堆肥を運び入れる」駄馬として描かれている。ノーメンクラツリストは「駿足の悍馬および純血種の馬」として、諂いの描写がなされている。これらの馬は、詩人が控え目に述べているように、「身分に応じて与えられるものを持っている」のである。分別のない駄馬は、これらの馬を嫉妬する。だが、やがて明らかになるように、それは不当なのだ。つまり駄馬は、これらの馬が競走をする時いかに苦しいかを理解していないというわけである。終わりに吟誦詩人は次のような道徳的な訓戒をたれている。

 「市民がこの駄馬と同じ判断をする場合も同様である。みんなと同じ生活をしている質素な市民が脚光をあびているだけだ」

 ソヴィエト市民はこれらの人々の履歴について、決して判断してはならないのだ。市民の仕事はノーメンクラツーラという小馬のためにカラス麦を運び入れ、その糞尿を運び出すことなのである。ノーメンクラツーラの竪琴の演奏は、党イデオローグ達の強力なコーラスに伴われている。

――ヴォスレンスキー「ノーメンクラツーラ」261ページ

 ほかの評者の言うことも異口同音で、セルゲイ・ミハルコフの作品には読む価値はまるでなく、ただ党のイデオロギーをべったり塗り付けて媚びへつらっているだけのシロモノである、という評価で一致している。彼は、党の威を借りて権勢を振るい、ソ連において非常に高い地位を与えられていた児童文学の世界を食い物にし、多額の印税と特権をほしいままにしていた、という。
 どんな分野でも超一流の人間は、人に強い印象を与える。彼の作品を教科書で読んだソ連人はみな、超一流の太鼓持ちの姿を脳裏に焼き付けたことだろう。
 もし彼が並みの太鼓持ちなら、ソ連が崩壊したときに引退していただろう。なにしろそのときでもすでに70歳を越していた。しかし彼は再び、自分が超一流であることを証明してみせた。
 ロシア政府は、ソ連時代の名残を一掃することに血道をあげた。ソ連時代に改名され、党や指導者にちなんだ名前をつけられた地名は、すべて元に戻された。そればかりか、「芸術座通り」のような党と無関係な地名さえも、帝政時代のものに戻された。党の太鼓持ちとして元ソ連人にあまねく知れ渡っている詩人など、当然お払い箱になるべきところだろう。
 それが、ロシア国歌の作詞者になるという、この奇跡。
 プーチン大統領の政策のうちで、少なくともこれだけは100%失敗だと断言できる。歌詞が聞こえてくるたびに激怒している人も多いにちがいない。

6月11日

 世の中がサッカーしているので、私も少しは見ている。
 世にスポーツは多々あれど、サッカーくらい審判が難しく、しかも誤審がそのまま勝敗につながるスポーツは珍しいような気がする。明らかにアウトと思えるファールを流してもいいし、体が触っていないプレーでファールを取ってもいい。しかもそれを一回やるだけで試合がひっくり返る。あまりにも精神衛生に悪い。
 しかし行動心理学によれば、こういう精神衛生に悪いゲームのほうが人間をひきつける。サッカーに無視を決め込んでいるアメリカが最強の国家であるのも納得できる。「精神衛生に悪い→やらない」という発想ができなければ、最強の座は保てないだろう。
 ちなみに私も最強が欲しいので、Jリーグなど見たことがない。やはり日本人は野球を見るべきなのだ。

6月10日

 幸福回復作戦。
 電撃大王の連載のおかげで、企画側 vs アニメ側の対立がいっそう鮮明になりつつある今日このごろ、いよいよ純ギャル主義の優越が証明されようとしている。
 そもそも私はなぜハピレス特集の企画を立てたか? それはOVAの宣伝素材イラストによるところが大きい。そこには連載のコンセプトとのズレが見てとれる。私はそのズレに、ハピレスを純ギャル主義へとシフトさせようとする意図を見出したのだ。
 OVAからTVアニメ開始までの期間、ハピレス企画は深刻な失敗に陥っていた。その原因はいくつか挙げられる。

・ささきむつみから原稿を取れなかった
 この失敗は小さくない。もし、ささきむつみから大量の原稿を取れていたとしたら、電撃G'sマガジンの表紙はささきむつみになっていた可能性がある。その場合、セラフィムコール程度にはものになっていただろうという推測が十分に成り立つ。
 しかし、セラフィムコールをどれほど超えられたかには、非常な疑問が残る。そこでアンケートの質問1は、

「もし、ささきむつみが表紙を担当していたら、ハピレスはシスプリに匹敵するヒットを飛ばせたと思いますか?」

・公野櫻子に匹敵するライターを見出せなかった
 シスプリのヒットは公野櫻子という天才抜きに語れない。これは特に、ゲームとアニメの比較によって明瞭になる。ゲームは公野櫻子が多くを作ったが、アニメにはノータッチだった。
 おそらくアニメのスタッフはわかっていなかったし、一生わかろうともしない人種だったのだ――「女の子がかわいい」という、ただそれだけのことが、世界平和にも匹敵する重大事だということが。
 ハピレスも、優れたライターを得ていれば、話が根底から変わっていた可能性がある。優秀な戦術家はときに驚くべき劣勢を覆す。そこでアンケートの質問2は、

「ハピレス小説版のコンセプト(=キャラ、視点、人称)に手をつけず、ただ文章表現を変えるだけでハピレスをシスプリなみに面白くできるライターが仮にいるとして、そのライターには何点くらいの点数がつけられますか? ただし公野櫻子を80点とします」

・コンセプトが悪かった
 コンセプトのよしあしを論じるときには、差異としてしか論じられない。しかも差異といっても、条件のひとつだけが異なる、などという実験室的な条件が揃うことはありえない。だからといってコンセプトのよしあしを論じることを放棄するのは、世界が不完全だからといって自殺する人間の論理である。
 そこで質問3は、

「電撃大王連載のまんが版は、アニメ版のコンセプトでやるべきだったと思いますか?」

 以上3つの質問からなるアンケートを、どこで集めるかが問題だ。うーむ。

 私の予想では、ハピレスは必ずもう一度ゲーム化される。コンセプトはおそらく企画側のものでゆくのではないか。その運命はすなわち――シスプリのアニメ版!
 というわけで、時間は私に味方している。9月に予言しておき、あとは勝利が転がり込んでくるのを待つだけだ。

6月9日

 電撃大王の連載「G-onらいだーす」は、いったいどこまで小野敏洋の演出が入っているのかわからないが、またもし小野敏洋の演出で面白いのだとしたらイデオロギー的に大変不愉快なことだが(なにしろ奴こそ大日本ちんこ大好き党の総裁だ)、「参りました」と百回言いたいくらい面白い。変態力(へんたいぢから)の極みがここにある。

 「スタフ王の野蛮な狩り」なるソ連映画を見た。大阪(あずまんが大王)風に紹介してみる。

 「20世紀初頭のロシアの田舎が舞台なんや」
 「内容は?」
 「ええと… セミヌードのお色気シーンがあって… ラストで民衆が蜂起する」
 「ソ連映画は全部そうじゃないのか?」

 ちなみに、キャシー・ヤングの「モスクワの少女カーチャ」によれば、ソ連版「白雪姫」の内容は以下のとおり。
 王子は民衆のリーダーで、邪悪な女王に対して反乱を起こし、捕らえられて秘密の土牢につながれている。女王が白雪姫を亡き者にせんと企んだのは、白雪姫の美しさに嫉妬しただけではなく、白雪姫が偶然、土牢につながれていた王子を見つけ、恋に落ちてしまったからだった。そのあとは原作どおりに話が進み、結末はまた少し原作とは違っていた。王子は牢を脱出すると、白雪姫にキスをして生き返らせ、二人は協力して革命を起こすのである。

6月8日

 ライズショット作戦のために、ソルジェニーツィンの「収容所群島」をめくっている。
 ゴルバチョフ、アレクサンドル・ヤコブレフ、アンナ・ラーリナ、エフトゥシェンコ。これらの人々はソルジェニーツィンと同世代か、それよりやや年下である。彼らの書いたものを、ソルジェニーツィンと比べるとき、やはり、こう言わざるをえない――ソルジェニーツィンはスターリン主義者である、と。
 その文体(スターリン当人とはまったく異なるが、その口調は明らかに、ボリシェヴィキの野蛮な伝統を引き継いだものだ)に。
 事実の軽視(ソルジェニーツィンがいかに多くの間違いを、おそらくは承知のうえで「収容所群島」に書き込んだか、いまでは明らかになっている)に。
 人間の努力への過大評価(これはスターリン主義の根幹をなしている。スタハーノフ運動はスターリンの肝煎りだった。ルイセンコ主義は、人間の努力がただちに人間性を変えるという主張ゆえにスターリンの心をとらえた)に。
 その不寛容(人間の努力への過大評価の、論理的帰結である)に。
 おそらく歴史は、ソルジェニーツィンにあまり寛容ではないだろう。アンナ・ラーリナによるブハーリン擁護ひとつとっても、逆らいがたい説得力がある。

6月7日

 ライズショット作戦。
 現在86枚。あと34枚。
 ロスタイム! ナカヤマイズム!

6月6日

 今日のソ連:

 エフトゥシェンコの「早すぎる自叙伝」(1963年)
 「言葉の最良の意味での」という表現がある。これを借りれば、エフトゥシェンコは、言葉の最良の意味でのスターリン主義者といえる。
 148ページ、

 パリである学生(彼はフランス革命の良き息子たちには属さない)は、ぼくにいった。
 「大体において、ぼくは社会主義に賛成だ。しかし社会主義をめざして戦うために、あなたがたがラファイエット百貨店(女物専門で有名なパリのデパート)のような店をいくつも持てるようになる日まで、待つほうをぼくは選ぶ」と。
 ぼくはこの老いた青年を恥ずかしく思った。彼は未来が銀の盆にのり、おいしそうに焼かれ、飾られて運びこまれるのを待っている、そして、そのときになって初めてうやうやしくフォークをとりあげようというのだ。
 われわれは、いっさいの欠乏にたえ、苦難し、誤りを犯しながら独力でわれわれの未来を作ってきた、ともかくも独力で、それを作ったのだ。

 ボリシェヴィキの言葉遣いには、愉快なものも不愉快なものもあるが、「闘争」という言葉が私は好きだ。敗北することもありうる、と、この言葉は暗に認めている。
 エフトゥシェンコは敗北した。老いた青年が勝利した。
 勝者は敗者を公正に処する義務がある。私がマーティン・メイリア的な歴史観を断罪するのは、それが勝利の濫用であり、公正とは程遠いからだ。

 キャシー・ヤングの「モスクワの少女カーチャ」(1989年)
 295ページ、

しかし、本物の民主化がソビエトに訪れるとするなら、今行われているような地道な改革から始めるしかないだろうと思う。私が十五歳の頃に憧れたような、ソビエト体制を一気に転覆させる革命などという発想は馬鹿げている。そんなことになれば、前代未聞の流血騒ぎになるだろう。複雑な問題と矛盾を抱えた社会で、革命が平和裏に遂行されたためしはない。

 プーチンを大統領にした選挙が十分に民主的でないと考えるなら、十分に民主的な選挙を行っている国は世界に10カ国かそこら、ということになるだろう。
 著者は優れた洞察力を示していながら、ボリシェヴィキの真髄を理解していない。ロシアでは、どんなことでも起こりうるのだ。

6月5日

 SPring-8に行ってきた。林真須美の有罪を裏付ける鑑定を出した、あの施設である。
 バブル中にハコを作りはじめたので、1kmのビームラインなどというバブリーなものまであるが、バブル後に中身を入れたので、中身は貧乏くさい。

 ライズショット作戦。
 現在60枚。あと60枚。

6月3日

 技術の進歩にともなって、人間の生産能力に対する要求水準は年々高まっている。その水準を割っている労働は、まともな生産を食いつぶすだけの、マイナスの生産といえる。これはソ連で典型的にみられ、現在でもソフトウェア産業において明瞭にみられる。
 とりあえず現在のところ、これらのマイナス生産は、種々の合理化によって解消されうるだろう。しかし人間の生産能力の向上は、その要求水準の上昇に比べて、より遅いのではないか。
 もし両者がこのままのペースを保つとすれば、将来においては、働かずにいるほうが生産的であるような人々の数が、無視できない割合に達するのではないか。そのような人々が、労働可能人口の半数を超えたとき、共産主義社会が到来するのかもしれない。働かないほうが働くよりも生産的であるとすれば、これはまさに資本主義社会の行き詰まりである。
 ソ連やソフトウェア産業に並んで学者の世界も、マイナス生産の一大拠点である。今日私は、途方もなく巨大なマイナス生産を目にした。
 朝日新聞夕刊(6月3日)1面
 カフカ的な不条理と低劣なセンセーショナリズムの結合に、言葉もない。こういう手合いには、かなりの高給を払ってもいいから、なにもしないでいてほしい。
 どうやら共産主義社会は、思ったよりも近くにあるらしい。

6月2日

 ライズショット作戦。
 オコジョ=白貂=ermine≠フェレット。「オコジョさん」アニメ化のおかげで白貂も一躍メジャーになったので、魔法少女のお供の小動物にもなれる、というわけだ。
 ところで、ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」の白貂は、ちょっと大きすぎるような気がする。顔のかわいくなさも激しい。
 クレムリン北西壁沿いの通りの名前(ソ連名)がわからない。旧名はネグリーンナヤ通りだが、ソ連名がこのままとは思えない。一本向こうならマルクス通りだとわかっているのだが。モスクワの地名を完全に調べ上げた地図が欲しい… うーむ。

6月1日

 幸福回復作戦。
・「お色気」と「純ギャル」
 80年代初頭までのジュヴナイルにみられるような「お色気」と、おそらくは高橋留美子に始まる「純ギャル」的方向性との相克を探る。
 特にハピレスは、ゲーム版・小説版において、お色気的なものを多く含んでいた。それをアニメ版で排除し、純ギャル的方向性へと転換したのはなぜか、そしてその是非は。

 どうして女同士物のエロゲーはいつもいつもツボを外すのだろう、などと思いながら、「エスカレーション」のリメイクの話を聞いた。「自慰倒錯」と共通するものを感じるので、女同士物というより女主人公が問題なのかもしれない。

 

今月の標語:

私は回顧録の中からそれらの年を消し去りたくない。私は悲しい思い出を抹消することを拒否するのではない。実は、その時代の私の思い出は少しも悲しいものではない。われわれは生活を楽しみ……愛と真の友情を見いだした。

――エヴゲーニー・グネージン『破局と再生』

 

[メニューに戻る]