ゾンド作戦。
「強姦されてハッピーエンド」における受を、犠牲者としてのアイデンティティまで剥奪された存在とみなす説が、いよいよ素晴らしく思えてきた。
この認識を広めることで、「強姦されてハッピーエンド」を愛するボーイズラブ読者に、犠牲者としての自覚を押し付けるのだ。うまくいけば、「強姦されてハッピーエンド」は粉砕される。
またこの説が、見月界夢氏による泣きゲー理解(先月22日の日記参照)と対照的であることは見逃せない。泣きゲーマーが傍目には針小棒大に「かわいそう」と泣くのに対し、「強姦されてハッピーエンド」を愛するボーイズラブ読者は強姦を些事のごとく扱ってハッピーエンドに喜ぶ。
(もちろん、こんな風に強姦を些事のごとく扱えるのは、日本の若年女性の安全保障が良好な状態にあるためだ。強姦の脅威が身近に感じられる環境では、それを些事とみなすのは不可能だ)
よし、だんだん調子が出てきた。
幸福回復作戦。
国会図書館で電撃G'sマガジンをコピーしてきた。
ついでに、西村有未の「まじかるEducation」が欲しかったのでキャンディータイム海賊版も検索したが、所蔵していなかった。まったくもってエロまんがは一期一会の世界である。
BLR作戦。
トーハンのペストセラーリストは「情報春秋」に載っていた。都立中央図書館でコピー。入力のことを考えると頭が痛い。
ウルトラジャンプの「ぷちモン」がようやく百合になっていた。
BLR作戦。
BOOK CHASEが閉鎖していた……! あそこに98年4月からのベストセラーリストがあったのに! 文庫版のリストしか持ってねえ! ヤバい、ヤバいぜアニキ!
仕方ないので、「新文化」の縮刷版から入力して補う。……間に合わなさげ?
幸福回復作戦。
ゲーム版ハピレスを少しやった。
確かな筋からの情報によると、閻魔大王の裁きでは、まんがや小説などの表現も評価されるという。不道徳だのは問題にされず、表現のよしあしが重要な問題になる。発表されたメディアの影響力が大きいほど、些細な誤りも重く評価される。地獄が怖い人は、自分の原稿をしまっておくほうがいい。
誤りのなかでも、特に致命的にまずいのは、主人公が楽しんでいることを表現しようとして主人公に「楽しい」と言わせることだという。読者が一万人以上いるメディアでこれをやると、一発で地獄行き決定だそうだ。
というわけで、ゲーム版ハピレスの責任者各位は、地獄行きがすでに確定している。かわいそうに。
昨日、(家父長制的セクシュアリティは)「被害者に抗議の意思を表明させて喜ぶような、犠牲者としてのアイデンティティを認めるような、そんな生易しい代物ではない」と書いた。
それからしばらくして気づいた。
ボーイズラブの「強姦されてハッピーエンド」における受とは、まさに犠牲者としてのアイデンティティさえ剥奪された存在ではないか、と。
そう思って、さまざまなボーイズラブ作品ややおい論を検討しなおすと、恐ろしいくらい筋が通る。私自身のやおい論さえ筋が通る。どのテクストも実はこのことをはっきり書いていたのではないか、それを読み取れなかった私が実はまったくテクストの読めない大馬鹿だったのではないか、とまで思えてきた。
………人生は厳しい。
私は流行に疎い。
Y氏とその友人の二〇代の男性の身になにが起こっているか、今日の今日まで知らなかった。彼らは、私の所属する文芸サークル・新月お茶の会の後輩である。
突然だが、私は男の名前を覚えるのが苦手だ。学校では、男の同級生の名前はせいぜい5人くらいしか覚えられなかったし、たいていは思い出すのに10秒くらいかかった。何年も付き合っている友人の名前が思い出せなくて、四苦八苦することも珍しくない。なお女性の名前は常に一瞬で思い出せる。
こんな私が、だいたい50%くらいの確率で10秒以内に彼らの名前を思い出せるのだから、彼らのことはその程度には知っている。
というわけで、当事者3人を採点してみる。
Y氏:80点
兄チャマへの愛がひしひしと伝わってきます。次は商業誌にデビューしましょう。
その友人の二〇代の男性:60点
兄チャマへの愛があまり感じられません。次こそ主役になりましょう。
兄チャマ:20点
Y氏への愛がさっぱり感じられません。愛してもいない相手のことを書くのはやめましょう。
結論:
Y氏×兄チャマ 誘い受・シリアス A5・表紙2C・32P 200部
小谷真理の「女性状無意識」には、例によって、コニー・ウィリスの短編「わが愛しき娘たちよ」の話が出てくる。
最初にこの短編の紹介文を読んだのは、何年前のことだったか。そのときには、さっぱり意味がわからなかった。テッセルが泣き叫ぶ、それはまた使いにくそうな、さてそれで? 読んだエロまんがの数は100冊を下らず、他のポルノ全般にも人並み以上に知識のある私が、わからなかった。
今回ようやく意味がわかり――「家父長制的セクシュアリティをなめるな」と思った。
いや、まったく、よくわかった。なぜサドの阿呆らしいヨタを喜ぶ女性がいるのか。彼女たちは、家父長制的セクシュアリティの闇の深さを知らないのだ。
それは、被害者に抗議の意思を表明させて喜ぶような、犠牲者としてのアイデンティティを認めるような、そんな生易しい代物ではない。犠牲者の存在を認めるようなイデオロギーなど、およそありえないではないか。
ゾンド作戦。
無茶で面白く有効なやおい論を、どうしても思いつけない。というわけで、小谷真理の「女性状無意識」所収の、スラッシュフィクション・やおい論を読んだ。
書かれたのが1991年とあっては、古さはどうしようもない。もし著者がいま、現在のボーイズラブを評したら、このように言葉を飾ることができるだろうか。
1990年代は、やおいにおける「女性のセクシュアリティ」への幻滅の10年だった、といえるかもしれない。ポルノのクリシェをそのまま使い、「強姦されてハッピーエンド」を繰り返すだけで生きてゆけることが証明された10年だった。
この幻滅を自覚させることが、まさにゾンド作戦の目標の一つである。明日を信じる気高い人々に、死んだ子の歳を数えるのはやめろと呼びかけるのだ。
「我身にたどる姫君」の解説を読んでいたら、こんなくだりに出くわした。
私は最近、ジャン・ピエール・ジャックというひとの『サッポーの不幸』(グラッセ、一九八一年)という本をおもしろく読んだが、これは精神分析や心理学の本ではなく、サフィスムという視点から眺めた十九世紀フランス文学の研究といった種類のものだった。(中略)
たしかに、この本の著者のいうとおり、十九世紀半ばから今世紀初めにかけてのフランス文学には、バルザック『金色の眼の娘』、、ミュッセ『ガミアニ』、ゴーティエ『モーパン嬢』、ボードレール『悪の華』の「禁断詩篇」、ゾラ『ナナ』、ルイス『ビリティスの歌』、プルースト『失われた時』をはじめとして、群小作家のものまでふくめると、サフィスムを扱った文学作品がきわめて多い。(中略)
なるほど、そういわれてみれば十九世紀の画家、たとえばアングル、ドラクロワ、ルノワール、クールベ、ロートレックなども、しばしば女同士が裸体で抱き合っている絵を描いたもので、どうやらサフィスムの幻想は文学ばかりでなく、造形美術の面にもおよんでいたらしいということが分かる。
(澁澤龍彦)
ちなみに問題の本とは、Jean-Pierre Jacques
"Les malheurs de Sapho" Grasset (1981)。
当時の日本では、文化といえば猫も杓子もフランスなので(イギリスやベネルクスも面白そうなものなのに、なぜかフランスと決まっていた)、「エス」に影響を与えている可能性がある。
このへんを突っ込むと――と一瞬思ったが、「ゆめはるか吉屋信子」を読むかぎりでは、当時の少女がフランス文学から強い影響を受けたとは考えにくい。うーむ。
すっかり忘れていた――9・11以降の変動は、ミロシェビッチにも影響するはずだということを。いまとなっては、反ゲリラの闘士ミロシェビッチをむげに扱うことはできない。
アメリカはベトナム戦争の経験から、敵に聖域を許してはならない(逆にいえば、聖域を持つ敵とは戦ってはならない)ことを知っている。「民族浄化」という概念は、アメリカの支配下になければならないし、あまり聖域化することも避けねばならない。
9月末まで閉廷 ミロシェビッチ氏の心臓病懸念
健康上の問題というのは、ホーネッカー(元東ドイツ社会主義統一党書記長)のときと同じパターンだ。なお、ホーネッカー裁判は再開されないまま、被告は1994年にチリで死んだ。
ゾンド作戦。
文献追加。
「クィア・ジャパン」2号
これで、主要なボーイズラブ関連文献は網羅できたと思う。
幸福回復作戦。
ゲーム版ハピレスを入手した。座談会までに主要メンバーに回覧せねば。
ゾンド作戦。
「エス」の退潮と少年愛まんがの勃興は、若年女性の性を管理する体制が変化したために生じた、という退屈な説にますます傾きつつある。「少女」からロマンチック・ラブ・イデオロギーへ、という例のあれだ。若年女性がロマンチック・ラブ・イデオロギーを受容するときに、セクシュアリティという難問を背負わされ、その回答が少年愛まんがとやおいである、となる。
女性嫌悪についての、少年愛まんがとやおいの間にある態度の違いは、ジャンル経済学で説明する。女性嫌悪によって強く動機付けられた人々が最初にジャンルを切り開いたおかげで、そこまでの動機を持たない人々が大量に流れ込み、やおいを形成した、とみる。
以上の2本立てで、「エス」からボーイズラブまで一直線につながる。当然、この直線の先には百合がある。筋書きは完璧だ。
しかし、どうにも退屈なのは困った。また、この程度のこと、谷川論文から現在までのあいだに誰かが言っていそうな気もする。あったらあったで、「その先は百合」という要点がさらに補強されるので問題ないが。
百合の必然は、ギャル物からも説明されねばならない。まずは、スケベ帝国主義の粉砕を謳った文献を――
ないような気がする。うーむ。
なければないで仕方ないので、自分で作る。というわけで、幸福回復作戦のテーマは、「スケベ帝国主義粉砕」と決まった。
ゾンド作戦。
「エス」の退潮と少年愛まんがの興隆は、一つの現象の二つの現れ、すなわち若年女性のセクシスト化によるものではないか、との説に傾きつつある。「母子もの」と「エス」の退潮が同時期に生じていることを考えても、谷川たまゑ説がいくつかの面で事態をうまく捉えていることは否定できない。
谷川説を略述しておくと、フェミニズム心理学でいう前エディプス期の母への欲望が挫折することで女性嫌悪・自己否定が生じ、父性・男性性への同一化へと走った、その結果がやおいである、となる。
たしかに、二十四年組や栗本薫先生については、十分妥当な説に見える(精神分析の説明を受け入れるなら、という前提つきだが)。「グイン・サーガ」のナリスの母ラーナや、「終わりのないラブソング」の二葉の母は、谷川説が描き出すとおりのものだ。
しかし、この説の射程はほとんど「母」に限られている。そして現在のやおい状況をみれば自明のとおり、やおいにとって「母」はアンタッチャブルなものではない。やおいにおける妊娠出産を、例外的な現象と片付けることはできないし、主人公の同性愛に理解を示す母親も例外的とはいえない。谷川説を採用すると、少年愛まんがとやおいとの間に、不当に深い溝を設けねばならなくなるのだ。
たしかに、谷川説が立脚したような事態も説明されねばならない。しかし、少年愛まんが―JUNE―やおいの全体と連続性は、包括的に説明されねばならない。
文献確保。
石子順造「戦後マンガ史ノート」
本田和子「子どもの領野から」
「耽美小説・ゲイ文学ブックガイド」
文献追加。
米沢嘉博「やおい私論」(雑誌掲載の論文とのこと。掲載誌等不明)
小谷真理「女性状無意識」
ゾンド作戦。
やおい論文献調査として、谷川たまゑの、「女性学年報」掲載の論文を読んでいる。
論文を読むまで、まったく知らなかった――これほど重要な論考が埋もれているとは、なんたることか。やおい論の後進性を五臓六腑で思い知った。
谷川たまゑは、1989年の段階ですでに反JUNE主義を掲げていた慧眼の士である。JUNE主義の「資本論」たる中島梓先生の「コミュニケーション不全症候群」にも、ただちに鋭い批判を加えている。
しかしなんといっても圧巻なのは、「女性の少年愛嗜好について II」(「女性学年報」14,
66-79 (1993))である。
著者はまず、JUNE主義の柱の一本、「シミュレーション説」を論駁する。「シミュレーション説」とは、少年愛嗜好を、性への恐れを抱く少女たちが安全地帯からセクシュアリティを楽しむために作られた、のぞきからくり仕掛けとみなす説である。この言説が、性差別の内面化に由来するものであることを著者は明らかにする。
次に、「成熟拒否・両性具有願望・ナルシズム説」を、煽情的なだけで根拠がなく、説得力がないと退ける。(これらの説が的外れであることは、現在の状況を見れば自明だが、1993年当時にはまだ通用する可能性があった)
そして論は佳境に入る。私のいう「強姦されてハッピーエンド」の、「強姦」部分についての理論の提示である。
やおいは、伝統的なポルノにみられるステロタイプなセクシュアリティをそのまま持ち込んでいる。フェミニズム的な解放とはほど遠い、このような行動の原因はなにか。奴が出てくる――ミシェル・フーコー、それも権力論! 合戦準備、砲戦備え!
著者の慧眼は、フーコーの罠を見破るところまでは達しなかったのだ。フェミニズム心理学を援用しての理論は、つかみどころなく提示され、鋭い切れ味を感じさせない。この論文の致命的弱点であり、フーコーの罠にかかっている。
谷川たまゑよ、ありがとう、私はあなたの屍を越えてゆく。
ゾンド作戦。
「我身にたどる姫君」を読みはじめた。もちろん現代語訳つきで。
しかし…
やたらに思わせぶりで意味不明な文章とか…
いかにも設定ノートを作りました的な複雑な家系図とか…
戦前の少女小説風に自分の出生を悩む主人公(13~14歳)とか…
どこを読んでも、こう… メタというものを知ってナチュラルにはしゃいでいる頃の中学生を思わせる。
解題には、作者は中年女性だろうと書いてあるが、少なくとも最初のほうは、もっと若いような気がする。古典というと普通、その時代の最高の知性が書いたものにしか触れないが、最高でない人々もちゃんと作品を残しているらしい。
なんだか今日はいつもよりkaoriha.orgの転送量が多めだと思ったら、謎のコンボが入っていた。
私は普段、人のリアクションには黙っている。面倒くさいからだ。今日は特別である。
http://head.as.wakwak.ne.jp/games/
イリガライやクリステヴァに対する本質主義批判、およびそれに対する再批判をご参照ください。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nnaro/brainstorm.html
はい、おもしろいです。
http://www6.ocn.ne.jp/~katoyuu/
あります。
http://www13.xdsl.ne.jp/~techle/
知識です。
http://shinpsan.tripod.co.jp/
正しい以上に面白くありたいものです。
ついでに、ほかのところにも打ち返す。なお、こちらからリンクしているものは省略する。
http://a.hatena.ne.jp/mjq/
ページ更新チェック。
http://www.c-5.ne.jp/~itsuki/yuri/index.htm
夏コミサークルチェック。
http://www2.ocn.ne.jp/~schizo/rmf.html
天然屋さん。
http://f1.aaacafe.ne.jp/~jinnai/BM_1.html
リンク。
http://isweb12.infoseek.co.jp/diary/imaki/r0206.shtml
「全人類的」なる語はゴルバチョフとアレクサンドル・ヤコブレフから来ています。
http://kaolu4seasons.hoops.ne.jp/LINK.htm
SF屋さん。
http://www.h3.dion.ne.jp/%7Esaiga/link/link.html
お手紙ありがとうございました。
http://earth.endless.ne.jp/users/syd_/WalWiki/wiki.cgi
?
http://www.linkclub.or.jp/~owji/
こういうことになりました。
http://members.jcom.home.ne.jp/rashvel/yuritomo/yuritomoframes.html
頑張ります。
http://www.maijar.org/word/tukibetu/200201.htm
はい、それなりには。
http://bbs6.cgiboy.com/fukami/
あなたは間違っています。
http://www6.plala.or.jp/yu_ichi/mys/link.html
いまは内部団体ではなく友好団体です。
http://members18.cool.ne.jp/~sanno_sg/sg/index1.htm
ともあれ、こういうものです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6376/
リンク。
http://silver.fureai.or.jp/diary/diary.200201.html
気が動転して心臓発作を起こしそうになりながら相手を口説いている娘にも萌えます。
ゾンド作戦。
打倒フーコー:
戦いとは常に、組織のことである。利用可能な資源を、いかに目標に沿って組織するか。
打倒フーコーへの手がかりを秘めながら、正しく組織されていない例が、たとえばこんなところにある。
さらに言えば、「社会的・文化的性としてのジェンダー(性の構築性)」の次元の議論についても、近年は、ジェンダーをセックスから切り離す二元論に内在する本質主義の傾向や、ジェンダーの構築性を一面的に受け止める結果としての文化主義決定論への疑問が登場している。つまりジェンダーの構築性があまりに一面的に受け止められると、性差や性役割の全面否定論、性差無化論の絶対化に陥り、現実の性的差異の多様性にも抑圧的な立場になりかねないということからである。例えばトランス・ジェンダーの実践として女装をする人に対して、「女らしさ」への過剰適応はフェミニズムに敵対するものとみるような、あるいはホモセクシュアリティもジェンダーの構築主義からは、社会的・文化的条件付けの結果として「修正・矯正」可能だとされかねないという形で、マジョリティのジェンダー規範から外れる人に働く抑圧的な力がある。
前半の力が、後半によって失われている。
『「女らしさ」への過剰適応はフェミニズムに敵対する』――そうではないと著者は主張したいようだが、私の考えとは異なる。「トランス・ジェンダーの実践として女装をする人」は、フェミニズムに敵対するものである。行為の理由づけや、本人の主観的な動機がどうであるかに関わらず、そうなのだ。
なぜなら、女装者を見る側は、それらの理由づけや動機を無視する。いや、無視さえしない。彼らは単に、理解できない。「女らしさ」の規範の是認、強化、活用としてしか受け取ることができず、結果的に、フェミニズムに敵対する結果をしかもたらさない。私が「戦い」と言うのも、この理由による。戦いは相手のあることであり、「相手が馬鹿だから悪い」というのはなんの言い訳にもならない。
事はここから、さらに複雑になる。『「女らしさ」への過剰適応はフェミニズムに敵対する』という事実を、強調するか無視するか、という戦術上の問題が立てられるからだ。沈黙は常にありうる選択肢である。もちろんフェミニズムとしては、無視するのが正しい。
同様に、『「修正・矯正」可能だとされ』る問題をどう評価するかは、なにを目標とし、どんな戦略を採用するかの問題になる。
実際、「修正・矯正」は可能である。かつて煙草は、禁止されることでかえって流行した。しかし現代の科学・経済・世論の圧力は、効果的に喫煙者を締め上げ、その数を減らすことに成功している。喫煙者を締め上げるように同性愛者を締め上げれば、必ずや目に見える効果を発揮するだろう。
「修正・矯正」が可能であるという理解が広まれば、ある種の人々にとっては否定的な結果が生じる。本質主義的なアプローチで体制にすりよるタイプの同性愛者集団にとっては、特にそうである。しかし、別のある種の人々にとっては、肯定的な結果が得られる。
予想される結果のなかに否定的な部分があるからといって行動しないのでは、誰もなにもできない。目標と戦略に照らさなければ、その是非は評価できない。
このようなわけで、この段落全体が、十分に正しくもなければ効果的でもないものに陥っている。目標に沿って組織することに失敗している。
後半部は失敗している、にもかかわらず、前半部は正しい。
『ジェンダーをセックスから切り離す二元論』は、馬鹿を攻略するための戦術にすぎない。「だって肉体的な差異が……」と反論する馬鹿に、「区別は差別」と切り返しても、馬鹿は理解できない。文化主義にしても、戦術にすぎない。戦術がドグマに転化する過ちは、(自称)現実主義政治をはじめとして、歴史上にしばしば見られる。この過ちに陥らないよう、警戒を怠ってはならない。
戦術にすぎない――しかし目的や結果は、すべての手段を正当化できるわけではない。
文化主義には、致命的な陥穽がある。この陥穽を断罪することが、ゾンド作戦の重要な部分になるだろう。
雑誌「コバルト」の最新号の新連載、宮城とおこの「白桜の園」が、百合的に注意を要する。
宮城とおこは、大出力とはいえないものの、かなりの百合電波を出している。今回に限らず、注意を怠れない作家である。
ゾンド作戦。
打倒フーコー:
だんだん攻撃目標がはっきりしてきた。少なくとも以下の地点を攻略しなければならない。
・文化主義
ここがフーコーのもっとも憎むべき点だということが、次第にはっきりしてきた。ポモの堅城でもあるので、攻略は容易ではないが、手をつけずには済まされない。
・無際限に拡張された権力概念
文化主義が堂々たる要塞としたら、こちらは随所に潜む伏兵である。唯物論的弁証法と同じくらい便利な代物なので、いたるところに潜んでいる。一兵たりとも残さず掃討しなければ。
文献確保。
本田和子「女学生の系譜」
大塚英志編「少女雑誌論」
唐沢俊一「美少女の逆襲」
大森郁之助「考証少女伝説」
「吉本隆明全対談集7」(萩尾望都との対談を所収)
文献追加。
石子順造「戦後マンガ史ノート」
本田和子「子どもの領野から」
出版科学研究所の年報(1970~現在まで、少女まんが・ボーイズラブ関連部分)
ソ連のノーメンクラツーラの、戯画的なまでにブルジョア的な暮らしぶりを見ていたら、ブルジョア叩きこそがブルジョアをブルジョア的にしていた、という説を思いついた。
とすると、オタク叩きこそがオタクをオタク的にする――あまりにも当たり前すぎてナンセンスだ。
新創刊のエロゲー雑誌「CoCo」が発売されていた。
私はこの雑誌に、ほんの数百字だが、記事を書いている。私が書いた場所を一発で当てたかたには粗品を進呈します。
ゾンド作戦。
争点になりそうな点をいくつか挙げてみる。
・「エス」の退潮はなぜ生じたのか
最大の争点といえる。
女学校解体説:
男女共学が性差別を再生産する、という話はご存じだろうか。人間性の悲しい現実である。セクシストの男性にとっては「エス」はまだなにがしかの意味があるが、セクシストの女性にとってはまったくの無意味だ。女学校解体と男女共学化に限らず、戦後は、若年女性をセクシスト化した時期だった可能性がある。
若年女性のセクシスト化から少年愛まんがの登場へとつながり、セクシュアリティ概念の解体から百合の勃興へとつながる。
戦後における若年女性のセクシスト化を論じた先行研究があれば一発だが、ないと辛い。
社会参加説:
「エス」は戦前の女学校という、社会参加の機会がきわめて限られた空間(およびそこへの憧れ)でしか成立しなかった、とみる。戦後、どの階層の若年女性にも社会参加の機会が開け、「エス」が成立する客観的諸条件が失われた。
排除すべき愚論である。第一に、少年愛まんがが生じた理由を説明できない。第二に、「少年愛」→「やおい」のような変質によって生き残る可能性がなかったことを論証できない。
・80年代半ばにおける少年愛まんがの退潮について
まず、これが生じたかどうかの事実認識からして曖昧なので、そこから始めなければならない。
・大手少女まんが、雑誌「JUNE」、同人誌の勢力分布
やおいの拠点が同人誌、JUNEの拠点が雑誌「JUNE」、少年愛まんがの拠点が大手少女まんが、の天下三分の計によって80年代は進んでいった。
この三者の関係について詳細に論じた文献を、まだ見たことがない。JUNEがオリジュネとして同人誌に橋頭堡を築いていた以上、JUNEからやおいへの流れは確実に存在しているはずだし、量的に優るやおいがJUNEに影響を与えないとは考えられない。
唐沢俊一「美少女の逆襲」を読んだ。
努力は認めるものの、再教育施設に送り込みたくなった。エスを解さない低脳の小娘を「健康的」とは何事か。デカダンの反対は健康ではなく「無葛藤理論」「多幸症」というのだ。
ゾンド作戦。
文献をぱらぱらと見ている。
百合というアプローチを、作品の集成なしに理解させることの難しさがわかってきた。「セクシュアリティを中心とした内在批判」などといって、ただちに西村有未や大塚ぽてとやへっぽこくんを、ウテナや「AQUA」や「エンジェル/ダスト」を思い浮かべられるものかどうか。
ハッタリをかますために、「我身をたどる姫君」の前斎宮がらみの部分を「ざ・ちぇんじ!」風に翻案してみてはどうかと検討している。なにしろ原典を知っている人など世界に2桁しかいないので、やりたい放題である。
「月猫通り」2100号の準備作業を、「ゾンド作戦」と命名した。
ゾンド作戦。
神田の古本屋を捜索した。が、成果は、駒尺喜美「吉屋信子:隠れフェミニスト」1冊のみに終わった。
結論:神田は行くだけ無駄
文献追加。
本田和子「女学生の系譜」
大塚英志編「少女雑誌論」
文献確保。
田辺聖子「ゆめはるか吉屋信子」
「美少年学入門 増補新版」
もちろん打倒フーコーの準備も進めている。J・G・メルキオールの「フーコー 全体像と批判」を読んだ。
私がフーコーを憎む理由を、かなりいい線までとらえている。173ページから引用する。
現にフーコーは、自由な市民社会と不自由な市民社会とのギャップを重んじなかったので、一九七六年にソ連の刑罰制度についてインタビューを受けたとき、K・S・カロルに、図々しくも、ソ連で用いられている監視方法は、十九世紀に西欧ブルジョアジーによって初めて確立された規律・訓練の技術のまさに拡大版であると答えていた。「ソビエトは、テーラー・システムやその他西洋で実証されたさまざまな管理運営方法を用いたのと同様に、わたしたち〔西洋人〕の規律・訓練の技術を採用し、わたしたちがすでに設けていた武器庫に、或る新しい武器を、つまり党の規律・訓練を追加したのです。」
党は、ロシア人に監獄的な「規律・訓練」を施すべく、大規模で真剣な努力を70年間続け、そして、飲んだくれと兵営的社会主義だけを生み出した。フーコーのいう「(監獄的な)規律・訓練」なる概念は、ただブルジョア社会に「監獄社会」という煽情的なレッテルを貼る以外には、なにひとつ説明することができず、なんの役にも立たない。
しかし私がフーコーを憎む理由は、もっとうまく説明できるような気がする。うーむ。
「月猫通り」2100号のために、文献集めを始めた。
・「我身にたどる姫君」関連
原典
金光桂子のD論
・大正・昭和初期の少女小説関連
当時の少女雑誌各種
田辺聖子「ゆめはるか吉屋信子」
唐沢俊一「美少女の逆襲」
大森郁之助「考証少女伝説」
駒尺喜美「吉屋信子:隠れフェミニスト」
・ボーイズラブ関連
「総評 野火ノビタ批評全仕事」
「耽美小説・ゲイ文学ブックガイド」
「吉本隆明全対談集7」(萩尾望都との対談を所収)
「美少年学入門 増補新版」
私は評論には疎いうえ、図書館への依存も大きいので、ご覧のとおり、取りこぼしが多い。
大物だけでもすでにこれだけ挙がっている。この上さらにセラムン関連の本も挙げなければならない。うーむ。
とりあえず今日は様子見ということで、少女雑誌の老舗「少女界」の1910年前後を閲覧してきた。
まずは、その痛み具合に圧倒された。今の雑誌「コバルト」も、100年もすればこの程度には痛むだろうから、驚くほどのことはないともいえる、が――少女雑誌というもののはかなさが胸に迫る。
そして裏表紙に、おそらく購読者のだろう、女性の名前が書いてあった。雑誌に自分の名前を書く、そういう時代だったのだ。
内容については、エス的なものは見当たらなかったし、美文調も感じられなかった。投稿欄にも、内輪の関係をめぐるものはみられない。
1902年の創刊から8年が過ぎているので、そろそろ少女雑誌独自の論理が展開されはじめているかと思ったが、あてが外れた。おそらく、投稿欄の充実という戦術が登場したときがターニングポイントになっているのだろう。
TVKがカラーバーを放送していたので、MTV2000の調整を出そうとした。が、どうやっても合わない。WinTV
PVR for PCIではかなり合わせられるというのに。
……MTV2000のチューナー……ダメなのでは?
日下藤吾の「共産主義の二つの顔」を読んだ。1962年6月発行。
そのへんの阿呆な反共本より、かなり高級である。特に、唯物論的弁証法を扱った反共本は初めて読んだ。また講談調の文体がいい。とはいえ、マルクス主義の生命力の根源を見誤っているのは、時代の限界だろうか。
アレクサンドル・ヤコブレフによるマルクス主義批判、「選択の自由がない、だから善悪もない」がどれほどの卓見か、よくわかった。
「円盤皇女ワるきゅーレ」の第1回を見た。
エロアニメの真似をしているので、やけに間が抜けて見える。普通のアニメは、エロアニメに真似させるべきであり、エロアニメを真似してはいけない。
昨日の宿題の答は、「自分で調べる」である。
最近、わけもわからず「データベース」と言って、なにかがわかっているような気になっている無知蒙昧の輩が増えているので、啓蒙したくなった。
暗闇にいる人々よ、あなたがたは、データベースにおける「スキーマ」という概念を知らない。
作家が作品の影であるように、データベースとはスキーマの影である。スキーマ抜きのデータベースは、死人の口のようなものだ。もし役に立つとしたら、せいぜい腹話術でしゃべらせるくらいのものだろう(その腹話術にまんまと騙される馬鹿も多いので、まるっきり役に立たないわけではない)。
データベースにおけるスキーマとは何か。
この世にありうる概念の全体、一切合財を、まず想定してみる。そのへんの自動販売機に入っている缶飲料の缶、その一個一個それぞれを区別する。もちろん、中身の違う缶と、中身が同じでシリアルナンバーが違う缶とでは、区別の種類を区別する。電車の切符もしかり、硬貨もしかり。もちろんギャルゲーのキャラも概念である。ゲーム版ハピレスのむつきとアニメ版ハピレスのむつきは区別して扱うし、さらにセルの一枚一枚についても区別する。ヘーゲルの弁証法とマルクスの弁証法はいうまでもなく区別され、それどころかマルクスとエンゲルスでも違うし、さらには――
このように、ありうる概念の一切合財を想定すると、とてつもない数にのぼる。
そのすべてを記録した帳面を、もし、現実に作ることができたとしたら。この途方もない帳面のことを、こう呼んでもいいだろう――「究極のデータベース」と。
「究極のデータベース」を引けば、そのへんの自動販売機に入っている缶飲料の種類と残数がわかる(もう売り切れには悩まされない!)。誰の財布にいま何円入っているかがわかり、しかもその硬貨や紙幣のシリアルナンバー、発行年度、形状までわかる。弁証法の歴史を知りたければ、この「究極のデータベース」に優るものはない。
いうまでもなく、「究極のデータベース」を現実に作ることは、(少なくとも現在の科学技術では)不可能である。
とはいえ、自動販売機の管理会社は、自動販売機の状態を把握したいだろう。セルの一枚一枚を区別できなければ、アニメの制作は不可能だ。弁証法の本を書く学者には、ヘーゲルとマルクスの違いについて明晰な理解が求められる。
そこで人は、自分の必要に応じて、「究極のデータベース」のかけらを作る。
自分の作るかけらには、なにを含めるか(自動販売機の管理会社は、弁証法についての知識を必要としない)。
どんな物理的形状を与えるのか(コンピュータの記憶装置の上に、あるいは一冊の本に、あるいは頭の中に)。
いつ、どうやって更新するのか(百科事典は印刷されたときからもう新しくならないが、新版が出ることもある)。
どのような厳密さを求め、どのようないい加減さを許すのか(誤植は常に避けがたい)。
「究極のデータベース」のかけらを作るために必要な方針、それが「スキーマ」である。
いまや、おわかりだろう。あなたがたが現に触れることのできるデータベースとは、スキーマの影なのだ。
さて、暗闇にいた人々よ、宿題である。
そのへんの自動販売機に入っている缶飲料の、種類と残数を知る方法がある。
誰の財布にいま何円入っているか、知る方法がある。
アニメのセルを一枚一枚区別する方法がある。
ヘーゲルとマルクスの弁証法の違いを知る方法がある。
ただし、その方法が常に簡単だとは限らないし、常に成功するとも限らないし、間違った結果を得る可能性もある。
その方法とは何か?
私が買った初めてのパソコンは、MZ-2500だった。若かった。当時すでにPC-9801が勝ち馬であることはわかっていたのに、MZ-2500を買ってしまった。勝ち馬にあえて乗らないのが格好いいことのように思えたのだ。
間違いだった。
15年後の今でも、この決定を悔やみつづけている。私はあまりにも大きなものを失った。
かくして私は、勝ち馬に乗ることの正しさを知った。この教訓は、私の人生でも一二を争うほど重要なものなので、大書しておこう。
勝ち馬に乗ることは正しい。
X68000を哀れみのまなざしで眺めた。FM-TOWNSを鼻で笑った。DOS/Vマシンには真っ先に飛びついた。PowerMacになど一瞥たりともくれてやらなかった。
Windowsを3.1から使った。OS/2を敬して遠ざけた。Linuxは真っ先にインストールしたが、実用にはしなかった。BeOSは無視した。
かくも勝ち馬に乗りつづけてきた私が推しているのだから、百合の勝利はすでに約束されている。
さて本題である。ヴィリエ・ド・リラダンの「残酷物語」。
ご存じでないかたのために解説すると、零落した大貴族の末裔ヴィリエ・ド・リラダンが、19世紀の勝ち馬ブルジョアジーへの尽きることのない憎しみをぶちまけた短編集である。「ブルジョアジー憎し」というモチーフは珍しいものではなく、当時の流行だった。ちなみに、この流行が終息しないまま十月革命が起こり、そこでは「ブルジョアジーから収奪せよ」という指令が実行されることになる。
リラダンは勝ち馬に乗らなかったが馬鹿ではない。自分が、結局のところ、いかなる意味でも勝利できないことを知っていたにちがいない。「残酷物語」とはよく名づけたものだ。実際、その残酷さのあまり、目を覆わしめるものがある――ただし残酷なのは物語ではなく、作者自身の運命である。とはいえ、パーヴェル・モロゾフの時代まで生きていなかった作者は、それだけで幸いかもしれない。
(パーヴェル・モロゾフ:内戦時代、父親をボリシェヴィキに密告し、そのために殺された少年。党によって英雄として祭られ、全国にたくさんの銅像が建てられた)
もしリラダンが、古臭い惨めな流行り歌の作者にすぎなかったら、私が読むこともなかっただろう。リラダンもときにはブルジョアジーへの憎しみを忘れることがあり、そのときには、他愛なくも美しいもの、つまり、よいものを書いている。
特に、「サンチマンタリスム」。主人公に向かって、「お前は馬鹿か」と言うのはたやすく、あまりにもたやすいので、美しい。
もしリラダンが、「ブルジョアジー憎し」というモチーフを捨てていたら、どうなっていたか。少なくとも、もっと多くを他に費やしていたら。
その場合もやはり、私が読むことはなかっただろう。なにしろこの世は、リラダンが憎んだ種類の人々が支配する場所である。彼らを無視すれば、彼らに無視されて終わっただろう。
「ブルジョアジー憎し」の支払いに、100年後の一読者。帳尻が合っているようでいて、これまた残酷な話である。
現代日本で、リラダンと同じように勝ち馬を憎むとしたら、ブルジョアジーのかわりになにを憎むか。
「オタク」というのが手っ取り早い回答だ。
21世紀日本にはもう一人のリラダンが現れるだろう。オタクのコミュニケーション能力の低さを嘲笑うだろう。オタクが集団主義者の言語でしゃべらないことを詰るだろう。オタクが集団主義的に自立しないことに怒るだろう。オタクが集団主義的な目標に邁進しないことを憎むだろう。
彼がなにを叫んでも、哀れみの心を忘れないでいたい。彼はただ、支払いを済ませているだけなのだから。
眠い。きゅう。
田中真紀子の封じ込めキャンペーンが一段落したらしい。
クビになった経緯がエリツィンほどくだらなくないためか、封じ込めキャンペーンはエリツィンよりもだいぶ厳しかったが、エリツィンコースから外れていない。本人があまりネタを提供しない人なので、エリツィンよりも叩きづらいのが得になっている。
思えば、エリツィンは世界クラスのネタメーカーだった。エリツィンはなにも大統領に就任してからネタ作りに励んだわけではなく、それどころか昔のほうがネタをよく出していた。ちょうど今の田中真紀子と同じような境遇にあったころに、アメリカの大学で講演したとき、泥酔して演壇に上がったのはエリツィンだった。
徒手空拳のうえ弱点だらけのエリツィンが、権力を握り弱点の少ないゴルバチョフを追い落とし、唯一のまともな政治組織だった党を崩壊させた。同じ原動力が、田中真紀子にも備わっている。
時速100kmでフェンスに激突して、命は助かるかどうか。
まず、時速100kmは28m/sである。重力加速度を10m/s2として、2.8秒間自由落下すると28m/sに達し、39.2m落下する。ということは、12階建てのビルの屋上から飛び降りるのと同じである。
以上の考察にもとづき、私は次の結論を得た――彼は実は小林輪だったのだ。(読み筋:日渡早紀「ぼくの地球を守って」)
「サハロフ回想録」を読んだ。
ソ連にも、真面目に仕事をしていた組織がいくつかある。KGBもそのひとつ、というより、筆頭にあがるだろう。「サハロフ回想録」の下巻は、さながら「はたらくKGB」といった様相を呈している。政治の世界では、働くことよりも、働く人の足をどうやって引っ張るかのほうが重要であることがよくわかる。
上巻には政治活動の話はなく、科学者としての活動が書かれている。
爆縮レンズを使ってパルス強磁場や大電流を作る話が面白い。ちなみに数字を挙げれば、化学爆発だけで2500テスラとなっている。ちなみに非破壊の装置では80テスラが世界最高らしい。もちろん水爆の父サハロフなので、目指すは核爆発による爆縮だったが、結局これは実現されなかったとのことである。
核融合炉の話もまた面白い。私の見るところ、核融合炉くらい本質的に困難な技術は、ほかには人工知能くらいのものだ。いま核融合炉に関してわかっていることの多くが、1950年にわかっていたら、誰も核融合炉になど手をつけようとしなかっただろう。高尾山に登るつもりで取り組んでみたら、どこまで登ってもさらに上があり、最近になってようやくエベレスト程度だと判明したのが核融合炉である。経済性という課題は、おそらく21世紀中には克服できないだろう。
このことをサハロフは、217ページで次のように書いている。
「無学者がいちばんすぐれているのは、困難のあることはよく承知しているが、その困難に動じない直感を持っている点である(自分の正しさを理路整然と根拠づけることができない場合にでさえ)。ある点では当時のわれわれがまさにそうだった。」
ちなみに私は、その巨費、不経済、困難にもかかわらず、核融合炉は研究すべきテーマであると確信している。この世に善行が必要であるように、愚行もまた必要なのだ。
幸福回復作戦。
TV録画をビデオテープにダビングするために、Hollywood
Plus(のOEM版)を手に入れた。
NTSC-Jが出ていないような気がする。調整して、なんとか辻褄をあわせたが、合っていないかもしれない。
21世紀にもなって、ノンリニア・フルデジタルに完全移行できないとは。テープが撲滅される日が待ち遠しい。
ハピレスOVAの「特別版DVD LOVE LOVE COLLECTION」を見ている。
声優の顔にはもう慣れた……OK。
緑作戦は現在132枚。
ちゃんと寄せを読まないといけないところなのに、面倒くさい。ううう。
藤本ひとみの「暗殺者ロレンザッチョ」を読んだ。
阿呆らしい話だった。
後先考えないお調子者の太鼓持ちが二進も三進もいかなくなって、お大尽をぶっ殺したらなんとかなるんじゃないの、と思って自分の主君を殺してみたものの、なにしろ後先考えていないので結局どうにもならずにトンズラし、逃げた先でマルキ・ド・サド気取りでヨタを吹いた、そのヨタを真に受けた話である。
ヨタを無視して事実を拾ってゆくと、そうとしか読めないのだ。しかも作者はお調子者のヨタを大真面目で書いているからたまらない。テーマを決めたあとに資料を調べてみて、これは箸にも棒にもかからないとわかったときにはもう手遅れ、だったのではないかと推測する。
ルネサンスの思想的解放を過大評価している(「プラハの春」の理念が社会主義だったように、ルネサンスの理念もキリスト教である)のは通俗書の通弊なので仕方ないとか、どうして一部の女はマルキ・ド・サドの退屈なヨタが好きなのだろうとか、いろいろ思うところはあるものの、阿呆らしい話が好きな人にはお勧めできる。
WOWOWで始まったTVアニメの「G-onらいだーす」を見た。正確には諸事情あって2倍速・音声なしで眺めた。
どこをどうひねっても百合ではない。没。
ハピレスTVアニメの最終回を見た。
声優顔出し。
とはいえ、これから見なければならないイベントDVDのことを思えば、なにほどでもない。