アフガン情勢が一息ついたと思ったら、チェチェン情勢が緊迫している。
ロシア連邦軍のヘリ ミサイル攻撃で撃墜される
チェチェンゲリラに携行対空ミサイルを供与している張本人が知りたい。
「改訂版 標準XML完全解説」を読んでいる。ちなみに私はXMLというものを、「もう二度とパーサを書かずにすむこと」としか理解していなかった。
しかし――XSLT! こいつぁマジでスゲェぜアニキ! 今度覚える言語はこいつで決まりダ!
一昨日の続き。
TeXの文末スペーシング問題の結論が出た。Report: One
Versus Two Spaces After a Periodが私なりの最終結論である。
文末スペーシング問題をうだうだ話すのはTeX本の常識らしいが、「frenchspacing」と一言で切って捨てるような本が欲しい。
Tablet
PCの発売が11月7日と決まった。ピピンアットマークやX-Boxをコレクションしているかたがたにとっては、さぞや待ち遠しいことだろう。
私的にはモバイルPCは、「とっとと燃料電池を商品化しろ」の一言に尽きる。いまから20年後、「昔の携帯マシンは5時間使うごとに充電する必要がありました」という昔話が雑誌に載ったら、Osborne
1と五十歩百歩に思えるにちがいない。
一昨日の続き。
会議では、企画の内容とは無関係に、個人的な収穫もいくつかあった。「悪の陳腐さ」(アーレント)は常識だといままで思っていたが、どうやらそうでもないらしい、という認識がなかでも大きい。
思えば、マール王国シリーズも、悪については弱い。戦争の扱いかたは悲しかった。戦争を扱ったものを作ろうという人は、映画「戦場の小さな天使たち」、スタッズ・ターケルの「よい戦争」、アーレントの「イェルサレムのアイヒマン」、そして「はだしのゲン」、少なくともこの4つを押さえてほしい。
「悪の陳腐さ」への世の理解がさっぱりだとすると、これはかなり使えるネタになる。そういえば、アイヒマン的な主人公の話はちょっと思い出せない。
この世には、人の言うことに疑問を抱かず唯々諾々と従う、羊のような人が多いらしい。
TeXの文法には、「ふざけるな」としか言いようのない点がいくつかある。そのほとんどは、環境依存を回避したためか、読みやすさと入力しやすさを両立しようとしたためか、どちらかのせいだ。なかでも私が一番気になるのは、水平スペーシングの問題である。
まず、英語の組版のルールには、「単語間とセンテンス間とでスペーシングの大きさを変える」という一項がある。タイプライターではこれは、スペースバーを押す回数で表現される。スペースバー1回なら単語間、2回ならセンテンス間、と決まっている。
TeXは、(当たり前だが)単語と単語のあいだをスペースで区切る。このとき、スペースの個数と種類を無視する。「スペースバー1回なら単語間、2回ならセンテンス間」というタイプライターの決まりは、TeXでは通用しない。
私の想像ではこれは、勝手に空白を挿入・削除したり、タブ文字や改行文字を表示できなかったり、複数個の空白を勝手に1個にまとめたり、とにかく現代人の想像力を超えたありとあらゆる破壊行為をやらかす神代の時代のトンデモ環境に配慮したために、こんな仕様になったのではないか、と思う。
ではTeXは、単語間とセンテンス間をどうやって区別するのか。
空白の直前(カッコや引用符を挿んでいる場合もある)がピリオドのとき、ピリオドの直前の文字が大文字なら単語間、そうでなければセンテンス間とみなす
このルールから外れているケース(頻繁にある)では、\やら@やら~やらを駆使して、ウィザード的ななにかを文章に加える。もし加えるのを忘れても、なんのエラーも警告も吐かない。
幸いTeXには難解無比かつ強力無比なマクロがある。そして、私が思いつくようなことは、とっくの昔に誰かが思いついているのだ。スペース2つをセンテンス間の空白にしてくれるマクロあるいはオプションがあるにちがいない――
……と思ってGoogleしつづけて1時間、いまだに見つからないのはなぜか? 私なりの答が、本日の日記の冒頭である。
廃屋譚の同人エロゲー企画「CAROL」のプロット策定会議に参加した。
香織派は現在、「強姦されてハッピーエンド」の概念をオタク界全体に浸透させることにより、ボーイズラブのSF化を図っている(2001年11月27日の日記参照)。今回そのチャンスが巡ってきたため、私は会議の席上で、「強姦されてハッピーエンド」の採用を強く主張した。
チャンスとは、次のようなものである。
第一に、過去の特殊な体験によって聖痕をつけた主人公(男)。聖痕は、第二層の自己同一化に必要な、心理的な障壁となる。たとえばボーイズラブにおいては、主人公は《男》という聖痕をつけている。
第二に、米軍をアゴで使えるほどのスーパー権力者の小娘。もちろん腕力もすさまじい。
第三に、主人公は最初からこの小娘の支配下にある。主人公の生殺与奪の権は、この小娘が握っている。
これはまさに、「強姦されてハッピーエンド」をやるための理想的な状況ではないか。これだけ条件が揃っていれば、小娘×主人公が成功するのは疑いない。
というわけで私は、主人公がスーパー権力者の小娘に強姦されて、弱者の特権性を思う存分発揮する展開を主張した。
が、私の主張は容れられなかった。「そんなエロゲーは今までにない」「成功する気がしない」というのである。
人々の蒙を啓くのは、容易なことではない。
ゾンド作戦。
赤川学の「セクシュアリティの歴史社会学」を読んだ。
私が初めて赤川学の名前を知ったのは、青鞜派フェミニストによる「貞操の二重規範」排撃に関する話だった。当時の出版物に「貞操の二重規範」を支持する言説が見つからないことを理由に、「貞操の二重規範は存在しなかった」という結論を導いた話である。よくいってソーカル的、悪くいえば「従軍慰安婦はなかった」的な、なんとも異様な話だったので、印象に残っている。
しかし、あまり悪意にとってばかりいては世の中楽しくないので、ソーカル的だと解釈することにした。言説分析がいかに胡散臭いものかを示すためのサンプルだった、という解釈である。自分の方法論に疑いを持たないようでは、社会学者はつとまらないだろう。
「セクシュアリティの歴史社会学」も少々胡散臭い。「性欲のエコノミー仮説」は「セクシュアリティの言説分析」とトートロジーになっているのではないか、という疑いが拭えない。
気に入ったのは、389-390ページ、
つぎに性=人格論の中でも、「性(=オナニー)を通して自己のアイデンティティに到達せよ」という、フーコーなら間違いなく「セクシュアリゼーション sexualization」と呼ぶような側面も、かなり息苦しい。たとえば赤川[1996c]で詳述したが、現代社会においてポルノグラフィは、個人の性欲を喚起し、そのことによって性的アイデンティティの再認を迫るセクシュアリティの装置として機能している。ポルノグラフィの受け手は、それが与える性欲のマニュアル化によってアダルトビデオに服従し、勃起を通した自己再認(自己―知)によって「ヘテロの男性」というアイデンティティに縛り付けられる。しかもこの主体=服従化は、「おまえは何者か」というアイデンティティを強制的に押しつけるのではない。アイデンティティのラベルを複数の限られた選択肢のもとで、勃つこと/濡れることを媒介としながら、自己の責任において引き受けさせるのである。正直に言えば、こうした現象がいかにして生じてきたのかを歴史的に解き明かしたいというのが、本書執筆の最大の動機であった。
フーコーを宿敵とする私だが、フーコーの議論のなかで唯一、「主体=服従化」だけは肯定的に評価できる。
そして私が、「セクシュアリティの終わり」を招来しなければならない、と考えた理由も、同じパラグラフのなかに示されている。「勃つこと/濡れること」。この2つを並列に扱う傲慢さ、度し難い男根中心性こそ、セクシュアリティ概念の致命的な欠陥である。
いま性科学はジェンダー研究からの批判によって一敗地にまみれ、再起不能のダメージを受けたかに見える。しかし、「勃つこと」がいかに主体=服従化と深く結びついているかを私に教えてくれたのは、性科学だった。
性科学は発見した。「勃つこと」を自認せずにいるのは、「濡れること」を自認せずにいるよりも、はるかに難しい、と。この難しさこそ、男性だけが下着泥棒を働く理由である。この難しさこそ、セクシュアリティという領域が存在する理由である。セクシュアリティという領域がこのように作られているために、「女性のセクシュアリティ」はボーイズラブにたどりついた。
いまや、世界を前進させなければならない。
昨日の続き。
マール王国シリーズの最新作「天使のプレゼント」の、なにがそんなに素晴らしいのかについて。
……と書き出してみたものの、どうにも説明しようのないものが多い。
たとえば、「笑顔、笑顔」という印象的なセリフがある。このセリフの、ゲームシステム的な鋭さについて説明しようとすると、結局「天使のプレゼント」全体を説明することになってしまう。おそらく、作品内部に緊密に必然性の網が張り巡らされている、というところが最大の魅力なのだろう。
だから、こんなつまらない例しかあげることができない――
主人公の一人・シェリーは、さまざまな辛酸をなめたあと、満ち足りた日々を送るようになる。その幸せを表現するのは、シェリーが教会を掃除するシーンだ。穏やかな歌をBGMにして、シェリーが教会をただ掃除してゆくのである。
「幸せな日々」を表現しようとして、「教会の掃除」を持ってくる、このセンスがまず素晴らしい。そして、最後のオチがまたいい。
掃除が終わり、すっかりきれいになった教会を見回して、シェリーは満足にひたる。そしてシェリーが後ろを向いたそのとき、猫が入ってきて、掃除したばかりの床に足跡をつけてゆくのだ。
PS2を手に入れた。お目当てのソフトは、マール王国シリーズの最新作「天使のプレゼント」である。
さっそくクリアした――と簡単に書いたが、実は火曜日からずっとかかりっきりだった。
素晴らしかった。我がPS2に悔いなし(意味不明)。
ただし百合は、「リトル・プリンセス」よりさらに減っている。ニャンコの話とニャンシーの話、どちらか削って、エトワールとクレアの話を入れるべきだった、と強く主張する。
最近、全文検索のリファラーを見ていると、あるキーワードがやたらとヒットしてくることに気づいた。
そのキーワードとは、「小原光代」。全日本国民的美少女コンテストで名前を消された第3回グランプリである。6月11日の日記でツッコミを入れているのがひっかかった。第3回グランプリ完全黙殺に気づいた人が、さっそく検索をかけたのだろう。
VBAの力でLaTeXソースを吐くWord用テンプレートがないかと思って探してみたが、見当たらない。
どうも、数式エディタのオブジェクトを変換するのが辛いような気配がある。うーむ。
昨日の続き。
いったい、人は天使に萌えることができるのか? この問題は、私の「含み→萌え」理論にもかかわってくる。
ギャルゲーの小娘が、いかに非常識な、ときには物理的に不可能な存在であろうと、人間であるという前提は失われない。フィクションにおいては、たとえ物理的にありえない物体だろうと、それが「存在する」と書いてあれば存在することになる。
もちろん、 「トイレに行かない」という設定がなされてもかまわない。設定をエロゲー全体に拡大して、「エロゲーの娘はトイレに行かない」ということにしてもいい。
問題は、つい昨日まで私はそれを知らなかった、という点にある。
私の確信するところでは、大半のエロゲーは、「エロゲーの娘はトイレに行かない」などという設定を要求しない。私の読みが例外的である可能性も、もちろんある。が、私の実感としては、到底そのような説は受け入れられない。
「受け入れがたい」だけでは話が終わってしまうので、一歩譲ってみよう。テクストの外部からやってくるなんらかの必然性によって、「エロゲーの娘はトイレに行かない」という説をとっている人々が、少なからず存在していると想定する。彼らは、トイレにも行かず歯垢もつかず腋毛も生えない、いわば天使に萌えている、ということになる。
このような存在は、いったいどの程度まで人間といえるのか? 人間性に由来する「含み」は、どこまで共通していおり、どの程度異なっているのか?
あまりにも大きく違っている、というのが私の感覚である。「含み」の持つ揺らぎは、私が想定していたよりはるかに大きいらしい。
逆に、この揺らぎを適切に制御することが重要なのかもしれない。エロゲーが少女まんが回路を要求する場合には、そのことを素早くメッセージする必要があるように(1998年11月11日の日記を参照)。
先日、友人と、エロゲーの「好き好き大好き!」が話題になった。
ちなみに「好き好き大好き!」というのは、次のような愉快な話である。「内気なラバーフェチの主人公が、街で見初めた赤の他人を誘拐して監禁しはじめた。すると主人公は、なんの脈絡も因果関係もなく、突然スーパーMMK(もてて・もてて・困る)になってしまってさあ大変」。
私はこう主張した。「攫ってきた娘を、きれいな状態で長期間監禁しようとする際の、たくさんの苦労――体を洗う、歯を磨く、腋毛を始末する、等々――が、まったく存在しない。納得がいかない」。
それに対して友人は、「エロゲーの娘はトイレに行かないってことになってるからOK」と主張した。
いったい、糞袋でないような存在を、監禁などして萌えるものだろうか。糞袋でないかのように振舞うための一切のシステムをひきずっているからこそ、キッチュな小娘に萌えるのだと、今の今まで思い込んでいた。
幸福回復作戦。
小説版ハピレスという人類の汚点をぬぐうべく、私自らが出ることを検討している。もちろん主人公は娘で。
幸福回復作戦。
座談会を開催した。
結論:パソコンに賭けろ
ランポートの「LaTeX 2ε」を読んだ。
……クヌース先生……これじゃWordに勝てません……
・環境決め打ちをひたすら回避しまくっている
・読みやすさと入力しやすさを両立しようとしている
苦しい。
エディタによる補完その他の機能と、GUI環境決め打ちを前提にしないことには、どうやっても苦しいものしかできないだろう。TeX勢力の今後の巻き返しに期待したい。
「AIR」の神尾観鈴という名前を見るたびに、なにかを連想するような気がしてひっかかっていた。が、なにを連想するのか思い出せなかった。
今日、やっと思い出した。神尾主膳だ。(読み筋:「大菩薩峠」)
ところで、観鈴を「かんれい」と読んでいるのは私だけではないはずだ。
今日はV-J Dayだった。
ビルマ戦線のイギリス軍を忘れないためにも、「太平洋戦争」ではなく「アジア太平洋戦争」と呼ぼう、と呼びかけてみようかと一瞬思ったが、「阪神淡路大震災」と「阪神大震災」では後者のほうがどう考えても強いので、やめた。
サイトをあちこち更新した。BL作家人気番付も一部を公表している。メニューからご覧いただきたい。
BLR作戦の副産物に、非BLの少女小説家のレーティングがある。発表のあても使い道もないので、上位10位までをここで発表しておく。
作家名 | レーティング |
野梨原花南 | 1458 |
樹川さとみ | 1257 |
前田珠子 | 1257 |
若木未生 | 1176 |
榎木洋子 | 1119 |
片山奈保子 | 1089 |
響野夏菜 | 1065 |
橘香いくの | 1025 |
高遠砂夜 | 1021 |
椹野道流 | 1015 |
(集計期間:1998年4月~2002年7月末)
ゾンド作戦。
溝口彰子の論文「ホモフォビックなホモ、愛ゆえのレイプ、そしてクィアなレズビアン」を読んだ。
ボーイズラブをかなり鋭く把握しているが、いくつか甘い点もある。
・JUNE主義的な偏りが著しい
これは特に感情移入システムの考察にみられる。シミュレーション説(先月23日の日記参照)から離れられず、「攻への感情移入」「受への感情移入」「神の視点」の「三つのモード」があるとし、「マルチな感情移入の理論が不可欠」と述べるにとどまっている。
また、例として挙げられている作品は、必ずしも代表的とは言いがたい。マガジン・マガジンの作品に偏り、人気上位の作家を選んでいる節もない。といっても、ハードコア系の例として「コミックピアス」が出てくるのは仕方ないが。
・セクシュアリティ概念への批判が足りない
論文中に引用されているジョアナ・ラスのコメント、
問題は、自分たちの体があまり好きになれない(女性たち)です。彼女たちは、自分が毎週一回宇宙を救うとか、従属や犠牲の立場ではなく自分のセクシュアリティを表現することは想像できないのです。だから、カークとスポックが代理で実現してくれるのです。
の、「自分たちの体があまり好きになれない女性たち」という表現を「今ひとつピンとこない」で片付けている。なぜここで、「自分たちの体があまり好きになれない」のは世の中が悪いからだと考えないのか。つまり、「セクシュアリティ概念が悪い」という発想に向かわないのか。
とはいえ、ボーイズラブの保守性を容赦なく突くあたりは、ボーイズラブ内部の人間にはまず期待できないものである。総合的には優れた論文といえる。
幸福回復作戦。
脚本がTVアニメ版ハピレスと同じということで、エロアニメの「Natural2」を見た。
主人公の顔が原作のエロゲー版より200倍くらい格好いい。そのまま少コミCheese!に出せる。たったそれだけの変更で、あの無茶な話に一応以上の説得力が生じるのだから、美形は便利だ。
私的には、もうちょっとツッコミどころのありそうな、微妙な誘い受テイストが漂うほうが合っていると思う。あんな純粋二枚目では、元バイオリニスト志望に見えない(フジミの読みすぎ)。
しかし、絡みでケタケタ笑えてしまうのは、いいのか悪いのか。
スティーブン・ヒースの「セクシュアリティ 性のテロリズム」を読んだ。
私が言いたいことの7割くらいは書いてあるが、残り3割の欠如はどうしようもない。「反テロリズム」にとどまっているためだ。反テロを唱えることと、対テロ戦を遂行することがどれほど違うかは、現在のイスラエルを見ればわかるとおりである。
夏コミでスペースにお越しくださった皆様、あるいは他スペースで委託本をお買い上げくださった皆様、ありがとうございました。
パソコンのキーボードが壊れた。
スイッチではなく石がいかれたので、なにかと共食いすれば直せる可能性はあるが、なにしろ物が古いので(1992年製らしい)、あまり期待できない。ちなみにこのキーボードは、ロスト・テクノロジーの産物で、ヤフオクで売れば3万円の代物だった。ううう。
Q. なぜデスマーチは起こるのですか?
A. そこに締切があるからさ。
BLR作戦。
印刷終了。
この1週間ばかりよく働いていると思ったら、お盆だということに気づいた。
そうか――これがあの「怠け者の節句働き」か。
BLR作戦。
原稿完成。
南原兼や水上ルイ――なんと、2人ともベスト20に入っている――のファンが読んだら大激怒は必至だが、そんな連中は何万人いようと喧嘩上等だ。
BLR作戦。
昨日の結果はちょっと間違っていた。第1回BL女王は、ぶっちぎりであの人である。
ハピレスの声優顔出しDVDについて考えた。特に、古山きみこと笹島かほるが和気藹々と働いているものについて。
Y氏×兄チャマは、萌えようと思えば萌えられるような気がする。が、古山きみこと笹島かほるでは、どうしても萌えられないような気がする。というより、あのDVDを見たせいで、うづき×さつきまで阻害されるようになってしまった。
これはなぜかとしばらく考えてみたところ、「ホモソーシャル―ホモセクシュアル」という二極構造の有無が問題ではないか、という結論に至った。
やおいでは、ホモソーシャルをホモセクシュアルに読み替えるという作業によって、ナマモノでも一種のフィルターが働き、余分なリアリティを削ぎ落としてくれる。それに対して、女同士の人間関係には「ホモソーシャル―ホモセクシュアル」という二極構造が比較的希薄なので、フィルターがあまり働かず、余分なリアリティがいろいろくっついてくるのではないか。
BLR作戦。
解析終了。日曜日をお楽しみに。
BLR作戦。
大難航中。
SQLなんて別に大したもんでもないし、などと思っていた馬鹿な私を殺したい。
BLR作戦。
入力終了。これより解析に移る。
ゾンド作戦。
見月界夢氏およびいのうえゆりこ氏と討論を行った。
・「犠牲者」と「弱者」の違い
人は、自分が被害を受けたと感じた(犠牲者)なら、まず生き残りを計り、次いで逆襲に移り、最後に公正の実現を目指す。対して、自分が弱者として特権化されていると感じたなら、その特権性に安住しようとする。
二十四年組の少年愛まんがは、犠牲者が生き残ろうとする物語であった。対して、ボーイズラブの「強姦されてハッピーエンド」は、受が弱者として特権化される物語である。
中島梓先生が「タナトスの子供たち」で、「ヤオイは階級闘争であるべし」とアジったのは、このためだったかと、今にして理解する。
幸福回復作戦。
・TVアニメ版ハピレスは、「one and only」ではなく「one
of them」のギャル物がスケベ帝国主義粉砕を唱えた、という点が重要。
上野千鶴子の「構造主義の冒険」を読んだ。143ページから引用する。
社会の選択肢が、革命家の夢想するほど大きくはないということを知っている、正気の、醒めた理想主義を、私は新保守主義と呼ぶ。それには、革命というカタストロフへの幼児的な待望の、断念が含まれている。
冷戦を知る最後の世代として、私は断言する。「かくめいは あるよ ここに あるよ」と。
というわけでゾンド作戦の原稿に着手した。まずはやおい論から。
中島梓先生を唯一の例外として、重要なやおい論がいまだに現れていない理由は、たった一言で説明できる。「メシアニズムの不足」だ。
被抑圧者としてのアイデンティティを持てず、そのため「革命は有罪だが、歴史もまた有罪である」(トロツキー)と信じることのできないやおい女は、言い訳に終始して福音を説くことができない。「コミュニケーション不全症候群」から10年、世界は新たな福音を必要としている。
BLR作戦。
ベストセラーリストの入力を進めている。これほど狭い範囲の語彙で、よくこれだけ多様なタイトルが作れるものだと感心する。
それにしても… 高坂結城「To heart」(心交社ショコラノベルス、2000年4月)は…
TVアニメ版「藍より青し」を見て思う。お嬢様の礼儀作法としゃべりかたを、もっと研究しろと。たとえば、「おいしいです」ではなく「おいしゅうございます」と表現するだけで、ぐっとお嬢様らしくなる。