ふとサビピクセルレンダリングのことを思い出して、日本語のサンプルを作ってみた。レンダリングに使ったソフトはこちらにある。なお、このサンプルは、液晶画面で見ないとなんの意味もない。
単なるアンチエイリアシング | |
サブピクセルレンダリング(RGB) | |
サブピクセルレンダリング(BGR) |
たいていの液晶はサブピクセルはRGB順に並んでいるので、真ん中のサンプルがもっともよく表示され、次いで一番上のはずである。私のところでは実際、そのようになっている。
が… 単なるアンチエイリアシングは4色、サブピクセルレンダリングは80色以上。それで、この程度しか違わないというのは、携帯端末用には少々厳しいものがある。
ゾンド作戦。
文献確保:
・本田和子『異文化としての子供』
「女工哀史」を読んだ。
「哀史」などと言いながら、のどかなものだ。世界大恐慌などまだ遠い先の、日本の輸出産業が絶好調だった時代に書かれているのだから。
とりあえず、少女雑誌を読む女工は、たとえいたとしてもごく少数らしいことがわかった。やはり「少女倶楽部」の40万部という数字はまったく驚異的だ。コアターゲット層では4人に一人が購読していないと達成できない値である。
ゾンド作戦。
吉屋信子の「屋根裏の二処女」を再読した。
局所的なものを越えた因果関係や必然性がなきに等しいのは、作者初の長編ということで、大目に見るべきだろう。機動、戦力集中、輸送――つまり速度への理解をまるで欠いているのは、作者の欠点なので仕方ない。
問題にしたいのは、話をまとめるために終盤にいきなり持ち出される伴男爵夫人きぬと「自我」である。
きぬはかつてヒロイン・環の思い人だったが、伴男爵と不本意な結婚をして、人生これまでと思い自殺する。それはそれで深窓の令嬢らしい早まりかたなのでかまわないし、当時の読者はこういう悲劇に涙することを好んだ。が、主人公・章子がその自殺を「自我」の発現として称揚するのは、現代の目からは奇異に思える。
参考指定物件「りんご畑の樹の下で」は、現代百合に求められる水準に達していない作品だが、「屋根裏の二処女」と比較すると、この70年間にどれほど大きなものが達成されたか、よくわかる。
「りんご畑の樹の下で」には、人生これまでと思って自殺するようなお姫様体質は一人もいないし、また、出てきようもない。不本意な結婚を強いられたヒロイン・操は、あらゆるしがらみを振り捨てて大陸浪人となる。
この違いはどこから来るのか。
大陸浪人になるということは、ブルジョア的な生活や価値観との訣別を意味する。おそらく1925年の人々は、1995年の人々よりも、その難しさをはるかによく知っていただろう。1925年の人々に「りんご畑の樹の下で」を読ませたら、「なんて非常識な」「あきれて物もいえない」という反応が返ってくるかもしれない――「華族様のご令嬢が女だてらに大陸浪人、ああ、なんて素敵なお話でしょう」などとはけっして思わずに。
きぬの自殺を、「自我」の発現として称揚するところまでゆくと、現代人にはもうついてゆけない。章子がキリスト教倫理から自由になったことの表れとして自殺を称揚するというならまだ理解できるが、そのような心理は作中にはまったく出てこない。
これは仮説というより当てずっぽうだが――1925年当時にあって「自我」と自由を選び取ることは、現在とは比較にならないほど巨大なもの――共同体への帰属――を失うことを意味した。その喪失の大きさに対抗するには、死を対置するほかなかったのではないか。
もちろん、死それ自体は、共同体に対置することはできない。まったく共同体的なやりかたと感じかたで、人は死ぬ。それは平安時代の往生物をみればわかる。死の床のそばには、クライアントの極楽往生を依頼された僧が祈祷の声をあげ、本人は極楽往生のありさまを体験しながら死ぬのだ。
きぬの死は、なんらかの共同体的なやりかたの死でなければならない。その共同体とは、そう、「少女」である。
かつて「少女」という想像的な共同体は、死にかたを打ち出すことによって、経済的な共同体に対抗した。きぬは「少女」として死に、そして「少女」である章子はそれを正しく受け止めて称揚したのだ。
作者が「自我」という言葉で隠したのは、「少女」だった。現在の少女像とはまったくかけ離れた、死のほかにはなんの力もない想像的な共同体としての「少女」である。章子が選び取ったのは、このような不可能な道だった。
ゾンド作戦の目標のひとつは、吉屋信子の墓碑銘を建てることである。現代百合にとっては桎梏と化した自己目的的なセンチメンタリズムや古い少女像を埋葬し、女性の理想化と女性への憧れを救い出す。
かつては相原実貴の「親にはナイショ」のラストを見て、首を傾げた私である。(ラストのなにに首を傾げたのかは、作品のオチそのものなので、ここには書けない)
しかし今日、猫山宮緒の「今日もみんな元気です」が同じモチーフを扱っていると聞き、驚愕とともに考えた。もしかしてこれは、世界に現れてきた新しいなにかを暗示しているのではないか? 一人っ子が増えたという説明で十分なのか?
ともあれこれで、点と点がつながって線になってしまった。今後の展開から目が離せない。
雑誌コバルトに連載中の、宮城とおこの「白桜の園」が百合テイストである。
山中恒・山中典子の「間違いだらけの少年H」を読んで、印象に残ったのが、「時局認識不足」という語だった。
戦争に非協力的な人を指す言葉として、「非国民」という語があったことはよく知られている。が、「時局認識不足」のほうはそれほどでもない。考えてみれば、「非国民」という語は中世ヨーロッパにおける「無神論者」に似ている。どちらも、具体的な個人に向けられたときには、その個人はすでに社会から排除されていなければならない。もっと穏やかに言いくるめるような表現が必要だったはずだ。そのひとつが「時局認識不足」だったのだろう。
「認識不足」だから責任能力を欠いており、その言動につっかかるのは大人気ない。一人前に扱われたければ、「時局」を「認識」してこい――これが「時局認識不足」の論理だ。こうして、消極的な抵抗の持つ意味を封殺し、国民を総動員する。
総力戦は、経済の総動員ばかりでなく、精神の総動員をも必ず伴う。精神の総動員が不可能な社会では、そもそも総力戦は戦えない(それをやろうとしてムッソリーニは無残に負け戦を重ねた)。「宣伝戦」という言葉はけっしてレトリックではない。ラジオや新聞は、銃砲や飛行機と同じくらい現実的な兵器であり、その運用の巧拙は歴史を左右する。「時局認識不足」という語も、宣伝戦の戦術として見なければならない。
もしラジオや新聞を持たなければ、宣伝戦に対してはゲリラ戦を挑むしかない――ツッコミを入れるのだ。たとえば、「特殊潜航艇5隻に九軍神、あと一人は?」などと。ちなみに「間違いだらけの少年H」によれば、「転進」には当時からすでにツッコミが入りまくっていたらしい。
「時局認識不足」にもツッコミが入れられる。「時局」とは何か?
「政府の意思決定システムがガタガタになり、声の大きい馬鹿や、頭の悪い働き者にひきずられて、負け戦へと向かっている状態」――現在の目で見ればかなり的確な認識だが、到底「時局認識」ではない。「米英が中国への介入をやめないため、日本の生命線が脅かされている状態」――これが「時局」である。
なぜ前者は「時局」でなく、後者は「時局」なのか?
この世には、まるで兵士が上官の命令を聞くように、素早く的確に「時局」を「認識」する人々がいる。それとまったく逆に、まるでそこだけ知能がすっぽりと抜け落ちたように、「時局」を「認識」できない人々もいる。
北朝鮮による日本人拉致問題の経過が重すぎるためか、最近、「時局認識不足」という声が聞こえるようになってきた。
私は断然、「時局認識不足」な人々の肩を持つ。「時局」を「認識」するのは、あまりにも簡単だ。「時局」がなんであるかを決める人々は、マスコミを動員しているのだから。「時局認識不足」な人々の声は、耳をすまさなければ、けっして聞こえてこない。
どうやら私はまたしても一年間も生き残ったらしい。
これだけ連続して生き残ると、なんだか永久に死なないような気がしてくる――わけがない。
ゾンド作戦。
米沢嘉博の「戦後少女マンガ史」を読んだ。
・まんがの隆盛によって、絵的に退屈なおとなしい少女が廃れ、絵的に面白い活発な少女が興った?(21ページ)
・敗戦直後の少女小説は母子物・友情物がほとんどで、大人の思い描く理想の少女が主人公(25ページ)
・1953~1955年に少女雑誌はビジュアル化へと動き、判型をA5からB5に変えた(34ページ)。1957年にはすでに少女小説は衰退していた(53ページ)
・1955年以降しばらく、「リボンの騎士」に代表される流れは異端へと追いやられた。旧態依然とした「運命に翻弄されてハッピーエンド」が主流(37、38ページ)
・1957年の今村洋子「クラスおてんば日記」のあたりから、少女は、運命の波にもまれる人形でなく、人格や生活を持つキャラクターへと変わりはじめる(58ページ)
・1959年後半から「マーガレット」の表紙は白人の少女から男性スターへと変わり、肉親の情や友情が消えて「ラブ」が興る(107ページ)
・「りぼんコミック」(1969年創刊。「りぼん」本誌とは別)で一条ゆかりは、それまでは単純明快でハッピーだったラブコメに葛藤を持ち込んだ作品を次々に発表(131ページ)。山岸涼子「白い部屋のふたり」もこの流れのなかに(134ページ)
・1971年の「空がすき」と1973年の「トーマの心臓」について、「マンガの中の「少女」はあこがれの対象にはならないが「少年」はなり得ることを見つけ出したのは、萩尾と竹宮であった。」(149ページ)
・1972年以降、一条ゆかり「デザイナー」、山岸涼子「ミッシェル・デュトワ」シリーズを筆頭にして、少女まんがはデカダンスを扱いはじめる(164ページ)
・「福原ヒロ子の作品では、レズの過去を持つ少女が男との愛によって女となりSEXに至るモチーフがよく描かれる」(197ページ)。そういえば、男とくっつかない作品はすべて悲劇で終わっていたような気がする。
・「ジルベールとセルジュのふれあいは、力と力のぶつかりあいなのだ」「抽象化された「エロス」は支配・被支配の意へと至る。「愛」の結晶なぞ始めからありはしない」(201ページ)
文献追加:
・牧美也子「少女三人」
・竹宮恵子「雪と星と天使」
・一条ゆかり「摩耶の葬列」
ほかはともかく「少女三人」はかなり辛いような気がする。うーむ。
ゾンド作戦。
文献確保:
・渋沢青花「大正の「日本少年」と「少女の友」」
・本田和子「オフィーリアの系譜」
文献追加:
・松本衆子『明治・大正・昭和時代の少女雑誌について』
・本田和子『異文化としての子供』
空想社会科学小説を書くのは難しい。売るのはおそらく、不可能に近い。
山中恒・山中典子の「間違いだらけの少年H」を読んだ。この本は、妹尾河童の「少年H」に書かれている史実の間違いを指摘している、だけではない。
「戦前戦中の日本人は馬鹿揃いだった」「戦中当時の自分は今の自分と同じくらい賢かった」。まことに心安らぐ前提である。ぜひともこんな前提に立って生きたいものだ。というより、多くの人々が現にそうしているので、「少年H」はミリオンセラーになった――この仕掛けを暴き出している。
違う世界に行けば、そこには違う現実があり、ということは、違う自分がいる。
誰でも、頭ではわかっているはずだ。南京が陥落したときには喜び勇んで提灯行列に参加したはずだし、もしかすると祭りのお先棒を担いだかもしれない。天皇の臣民として日本に生まれたことを誇りに思ったはずだし、祝日には力みかえって行事をやったかもしれない。
しかし、そんな主人公の話を、誰が読みたがるのだろう。
人間には、学ぶことのできない領域がある。
ビジュアルノベル史なるものを考えるとしたら、「Eve
Burst Error」までの時代は、神代の時代といえるかもしれない。伝説によれば、剣乃ゆきひろは「Eve
Burst Error」のシナリオをすべて一人で書いたという。
「痕」から「To Heart」に至って歴史時代が始まる。この時代、シナリオに共同作業が取り入れられ定着した。このときビジュアルノベルは、創造の神秘を脱するための最初の一歩を踏み出した。もちろん、「とらいあんぐるハート2」「~3」という挑戦も見逃すべきではないが。
そしておそらく今、古代と中世を分けるメルクマールが求められ築かれようとしている。すなわち、シナリオ作業の分業に関するパラダイムの確立である。
「分業」という概念は、「貨幣」「労働」と同じくらい当たり前のものになっている。が、ひとつの作業をどのように分割するか、という問題は自明ではない。たとえばプログラミングの分野では、この問題に取り組みはじめてから50年が過ぎようとしているが、いまだに決定的な結論が出ない。
「XS:エクストリーム・シナリオライティング」などというヨタを飛ばす前に、作業分割の2つの軸を検討してみる。
第一に、依存性の大小による分割が考えられる。
現在のビジュアルノベルの多くで、キャラ間の依存性が小さいのは、キャラ単位で作業分割を行ってきたという伝統の原因でもあれば結果でもある。一方、TVアニメの脚本では、話単位で作業が分割される。その結果、時間軸に沿った依存性は小さくなる。
第二に、工程の上流と下流での分割が考えられる。
作品全体の構想を抱く人間と、シナリオに文字を書き込む人間とを分け、両者のあいだにインターフェイスを設ける。インターフェイスとは仲介役を務める第三者かもしれないし、特定のプロトコルで書かれた文章かもしれない。また、作業の各段階で出てきたものを評価して、そのまま次の作業に使うかどうかを決定する作業も必要だ。使えない場合、どの段階まで突っ返すかを検討する作業もある。
ビジュアルノベルでは現在のところ、依存性による分割ばかりが目立っている。しかし、上下流での分割が見直される日はきっと来る。できるかぎり上流でエラーを検出することで、どれだけ莫大な無駄が省けるか、わからないはずがないからだ。
ひょんなことから、Windowsでユーザモードから非ページメモリを取得する方法があるのかどうか気になったので、調べてみた。
結論:Address
Window Extensions
秋山正美の「少女たちの昭和史」225ページより。
……銀ぶら族の女学生について、
……帰りの電車賃七銭だけ持って、ここに現れる女学生もいる。カレッジ・ボーイから『キミ、お茶、のまないッ』とモーションをかけられると、『ボク……モチ、オーケー』とばかり……たらふく食べて、翌朝、学校で『七銭で豪遊しちゃった』と友だちに威張ってしゃべる。
(九年四月十九日付 東京日日)
来月の標語は「ボク……モチ、オーケー」に決まった。
ちなみに、「女学生がキミ・ボクで呼び合う風がなげかわしい、といった内容だが、大正のモボ・モガ時代から昭和十年代まで、この種のカタカナはモダンとされていたようである」(同書225ページ)。
ボク女の棲息域について、またひとつ知識が広がった。
eclipseなるものを試した。IBMの作ったフリーのJava
IDEである。
すさまじく完成度が高く、高速で、ヘルプまで日本語化されている。さすがは21世紀、と唸らされること請け合いだ。
ゾンド作戦。
児童文学研究の論文が現在のライトノベルに触れているのを見ると、代表性の問題を考えさせられる。どう考えても代表的な作家とは思えない名前が次々に挙げられているのを見ると、大衆文学史すべての信憑性が疑わしく思えてくる。売上データがないかぎり、西崎めぐみや水野麻里が、小沢淳や高瀬美恵よりも代表的な作家とは信じられない。
こうしてみるとやはり、BL作家人気番付は大いに必要だった。代表性の問題は、売上データによらなければ解決できない。
「代表的」で思い出したが、昔、「デ・ジ・キャラットは代表的な萌えキャラ」と主張した人がいた。企業マスコットという特殊なポジションにあるものを「代表的」と言い張る根性に、私は驚きあきれた。
誠実な人々には、ギャルゲー各キャラ間の比較研究のような地道なものをお勧めしたい。たとえばKanonでは、移植版の宣伝が始まるとあゆの人気が上昇し、宣伝が終わると名雪があゆを追い抜く、というパターンが繰り返し観察されている。
ゾンド作戦。
吉屋信子の文章は、見れば見るほど、究極の悪文だ。
美文調といえば「花物語」――こういう認識が美文調を滅ぼしたのではないか、とさえ思えてくる。音韻レベルはさておき(これも相当ひどいが)、意味レベルでは逆モーションの雨あられだ。逆モーションというのは、走っている人の足をひっかけるようなもので、転んで勢いあまって宙返りして両足で着地して10.0、という効果を狙うものである。しかし吉屋信子は、とにかく転ばせればいいんでしょ、とばかりに、あらゆる場所でただひたすら転ばせる。やらずもがな、とはこのことだ。
ヘヴォンな少女小説が売れるのは、100年前から変わらないらしい。とはいっても現代のボーイズラブ小説のヘヴォンとはレベルが違う――と思いたいが、「ゆめはるか吉屋信子」を読むと、恐ろしい頻度で旧かなづかいを間違えているのがわかる。もしかすると、当時の読者にも、「マンセー厨を煽るしか能のないヘヴォン作家」と思われていたのかもしれない。
野蛮の記録でないような文明の記録はひとつもない、という。人の目に触れる歴史はみな、勝者の歴史なのだ。
ゾンド作戦。
秋山正美の「少女たちの昭和史」を読んでいる。
・「少女倶楽部」は「少女の友」の数倍売れていた
「少女倶楽部」の連載小説…思いつかない。うーむ。
・高等女学校への進学率は10%弱、学生数33万人(1926年)
同じ頃に「少女倶楽部」は40万部を売り上げているので、高等女学校へ通うような富裕層以外にもかなり広く読まれていたと考えられる。
・少女小説は最後にお姫様になって終わり
最初からお姫様になっているセラムンと対比すると面白い。
「サクラ大戦3」について再び。
「真っ赤なシスター服」なるものを思いついた人間は天才かもしれない。メインヒロインをあそこまでヤバくした決断力は、高く評価したい。部分部分をとれば、優れているものが非常に多い。が――全部まとめたときには、どうか。
もはや「あの展開はどうか」というのは言わない約束になっているのかもしれない。しかし私は言う。美しくないからだ。美しくないお約束など、一刻も早く破棄しなければならない。
「パリシィの恨み」のようなネタに、21世紀にもなってお目にかかろうとは、夢にも思わなかった。それも、初版1万部・増刷なし・返本率60%で消えてゆくライトノベルではなく、十億円単位で金のかかっているゲームで。大人なら大人気を発揮して、「あかほりだもんな、よしよし」と騙されてくれるかもしれないが、子供は騙せない。「やってられるかボケ」と怒り出すだろう。大人ならゲーム代よりプレイ時間のほうがはるかに重いが、子供にとってはゲーム代は血の出るような大金だ。彼らがどれほど真剣か、忘れてはならない。
とはいえ、「あの展開はどうか」なところを全部直し(たとえばロベリアひとりが戦意を失わないだけでもはるかに良くなる)、それで見違えるような素晴らしい作品になるかといえば――私は疑問だ。
これを言うとあまりにも根本的な問題になってしまうが、「守る」という目的そのものが、退屈なのだ。世のゲームを眺めていても、「守る」という目的を持つものは少ない。どこかへと赴いたり、なにかを獲得したり育てたり、あるいは、育てるというような方向性はなくても変化を起こしたり、というものがほとんどである。もし「ガンパレード・マーチ」の世界で、人類が瀬戸際に立たされていなかったら、あれほどのヒットになりえただろうか。「奪還する」と「守る」では、目的意識としてまったく異なる。「宇宙戦艦ヤマト」でも、人類は極限状態にあった。
退屈な「守る」をあえてやる、というのが「サクラ大戦」のコンセプトなのだろう。そういうコンセプトもあっていい。が、そういうゲームは、かなり渋いものであるべきだ。派手に演出されたストーリーは似合わない。
…と、以上のようなことを考えさせる程度には、完成度が高い作品である。箸にも棒にもかからないような作品では、最初になにを言えばいいのかわからない。
「サクラ大戦3」をクリアした。
浴びせるように金をかけている。しかし、おそらくはその20分の1の費用で作られた「リトル・プリンセス」(日本一ソフトウェア)の半分くらいの価値しかない。
これが萌えの恐ろしいところだ。萌えは、札束で買えるクォリティとは別次元のテクノロジーだ。
というより、そのようなものとして「萌え」は規定されているのかもしれない。「萌え」という語がもっとも存在意義を発揮するのは、「いたる絵に萌える」というような使われ方をするときだ。
お知らせ:
西在家香織派はJガーデン13(10月20日サンシャインDホール)にサークル参加します。スペースはG09bにて、みなさまのお越しをお待ちしております。
ゾンド作戦。
吉屋信子読解について。
「美文調」「少女の紅涙を絞る」、よくて「女性賛美」、従来の吉屋信子読解のキーワードは、こんなところだろう。しかし私は「平明な理性」を挙げたい。
形態を備えた表現――つまり空想上のものでもなければ散逸したものでもない、実際に触れることのできる表現――は、過剰なものを含む。ある登場人物を、作意(作為ではない)に沿って構想し、登場させたとする。その人物は、重要な狂言回しだったり、退屈で目立たない脇役だったりするだろう。
彼らは作意によって初めてこの世に存在することができた。しかし、表現に小説という形態を与え、登場人物を人間として具体化した瞬間に、作意とは無関係な過剰なものが生まれる。名前ひとつとっても、それは必然的に過剰だ。たとえば、1999年2月21日のこの日記から引用する。
(ちなみにミシェルというのは「丘の家のミッキー」の主人公のかつての愛称。主人公のお姉様はレミという名前で、これも男名前ではなかったかと思う(たしか「家なき子」の主人公がレミだった)。このへんの百合的な意味深さが「丘の家のミッキー」の読みどころ)
丘ミキの「ミシェール」「レミ」という名前のこのような読みが、作意にあったかどうかを論じることはできない。このような読みができる、しかもその読みには少なからぬ意義がある、という点が重要である。
またオーウェルの評論(たしか「よい悪書」だったか)に、ディケンズの過剰さについて論じたものがある。たしか「荒涼館」だったか、悪者が子供を脅しつけるシーンで、ディケンズはリアリズムを踏み越えて、合理的に考えれば不可能なはずのオーバーアクションをやらかす。シーン自体の持つ独自の論理にディケンズは感応し、リアリズムという大前提を踏み越えてしまった。
このように、形態を備えた表現には、作意とは無関係の過剰な、独自の論理が備わる。
そのような過剰さに対して、吉屋信子は驚くほど鈍感だ。
登場人物の造形が図式的なのは通俗小説の通弊だが、大衆小説における吉屋信子も例外ではない。「女の友情」は、その冒頭で小林秀雄を激昂させたことで名高い。ここでの豊造が図式的に野卑な男として描かれていることは一目瞭然であり、指摘する声も多い。しかし、この部分での綾乃も豊造に負けず劣らず図式的であることは、あまり指摘されない。主体性を発揮して人生を切り回してゆく才覚は影もなく、ひたすら豊造の野卑さにおびえるだけの、受身の消極的な性格になっている。豊造が図式的に振舞うためには、綾乃も図式的でなければならない理屈である。真摯に造形された登場人物に備わる独自の論理が、作意に逆らって作品を破壊する、などという現象は起こりようがない。
(吉屋信子の登場人物は、ほとんど女同士のときにだけ、図式や類型を超えた精彩を放つ。おそらく小林秀雄が激昂したのは、豊造が図式的に野卑に描かれていたためでもなければ、女性の主体性が主張されていたためでもない。女だけが図式的な世界と精彩のある世界を行き来し、男は図式的な世界に取り残されるという、逆差別的な構造を感知したためだ)
過剰さへの鈍感さは、文章にも表れる。「屋根裏の二處女」から引用する。
堪えがたい沈黙――
なんという不用意であったか、それは、冑も楯も持たずに、こうしてミス・Lの前に立った章子よ。
しかし、章子には持つべき冑も楯もありはしなかった。
臆病な裸身で、胸に鉛のかたまりを感じて首をうなだれて燈の蔭に立たねばならない。
「冑」「楯」という語(しかも続けざまに繰り返して文中に現れる)の喚起する金属の硬さ冷たさ、不衛生な悪臭漂う戦場で味わう空腹、埃っぽさ、ホームシック――しかしすべてが水に流され、ただ「裸身」の対に帰せられる。初期吉屋信子の美文調は、このような鈍感さに支えられている。
吉屋信子の平明な理性には、作意とは無関係の過剰なものは捉えられなかった。この鈍感さ、平明な理性が、通俗小説家としての成功を大いに助けたのだろう。中心的なものと周縁的なものが逆転する可能性――アイヒマンにとってユダヤ人はまったく周縁的なものだったが、彼は最後には、世界中の注目を浴びながらユダヤ人に囲まれてエルサレムで死刑になった――など、多くの人々にとっては想像の外である。
私が吉屋信子の「平明な理性」を言挙げするのは、なにも吉屋信子の限界を指摘するためではない。同時代の多くの通俗小説家と違って、現在に至るまで吉屋信子が関心を集め続けている理由、すなわち、吉屋信子にとっての百合を理解するためである。
平明な理性を前提にすることで、吉屋信子の百合観を探る上での大きな手がかりを設置することができる。以下後日あるいは作戦内で。
ゾンド作戦。
書誌情報バーコードシステムがおおよそ完成した。が、反応時間が長すぎる(2秒強)。ブラウザで見ているときは2秒もかかっていないような気がするのに、うーむ。
ゾンド作戦。
文献追加。
・木々高太郎「わが女学生時代の罪」関連
・「幻想文学」第24号(昭和63年10月号)
・横田文子「落日の饗宴」(昭和11年)
・三島由紀夫「春子」(新潮文庫「真夏の死」)
・三島由紀夫「豊穣の海」第3部
・川端康成「美しさと哀しみと」
・「女工哀史」
・渋沢青花「大正の「日本少年」と「少女の友」」
・本田和子「オフィーリアの系譜」
「サクラ大戦3」をやっている。
今から振り返ると、80年代がまるで高度成長期と同じくらい遠いことのように思える。
「ネタ」と「マジ」の二項対立を前提にすることができた、「ポストモダン」などと真顔で言うことのできた、暗黒の時代だった。「ネタ」と「マジ」、それはまさに犯罪的な二項対立だった。語るに値することはすべてネタであり、語られたという事実はすべてマジである――そんな当たり前のことが通用しない、野蛮な時代だった。
メカと美少女と、あといろいろくっつけてみました、という方法論は、「ネタ」と「マジ」の二項対立を前提としている。「ネタ」と「マジ」が生きていた時代には、「エクレールの存在理由は?」と真顔で尋ねる人々がいた。しかし今はもうそんな人々はいない。「エクレールって存在理由ないなあ… ダメじゃん」と無言で思うか、あるいは、言い訳がましくへらへらと笑って「エクレールの存在理由ってなんなんだろう?」と尋ねるか、どちらかだ。問い詰めてくれる人はもういない。言い訳の有無を気にかける人はもういない。
「メカと美少女」という売れ線が変化したわけではない。ただ、それをきちんとやってみせるのが、昔よりもはるかに難しくなった。作品の中のことは作品の中になければならない、という当たり前のことが、再び通用するようになった。
もちろんこれは、ピュアでナチュラルな中学生が夢中になるような設定マニアぶりのことではない。たとえば、「リトル・プリンセス」(日本一ソフトウェア)のクレアはなぜマシンガンを持っているのか? 設定マニアは、古代遺跡から掘り出されて云々、といった話を考えるだろう。必要なのは、そんな注釈ではない。クレアというキャラからマシンガンを除いたらそれはもはやクレアではなく、そんな偽クレアでは「リトル・プリンセス」の世界全体が成り立たない、と確信させる力こそ必要だ。
ポマーがなんと言おうと、この世はゴミと偶然の集積場などではない。もう一度確認しておこう。語るに値することはすべてネタなのだ。
いまごろ「サクラ大戦3」を始めた。
小桜エツ子(コクリコ)が魎皇鬼に聞こえて仕方ないのは私だけではないはずだ。せめてアレーレに聞こえたい。
ゾンド作戦。
神田龍身の「物語文学、その解体」を読んだ。ポモだった。
それにしても、鎌倉期の文学には解説書が少ない。うーむ。
3.1 小杉天外『魔風恋風』
・1903年、『金色夜叉』の後釜
・貴族の娘が正義
・本田和子『女学生の系譜』
・大森郁之助『考証少女伝説』
3.2 産業資本主義
・1886年 雨宮製糸スト
・要調査
・1891年~ 足尾鉱毒事件
8.2 レズ物と百合と
・亜麻木硅
・松原香織
・完顔阿骨打
・西村有未
・織倉まこと
・佐野タカシ
・RaTe
・大塚ぽてと
・へっぽこくん
・以下思い出したら追加
ゾンド作戦。
私は、書籍だけに限っても、1立方メートル程度(冊数は不明)の百合物件および百合周辺物件を所蔵している。
本作戦では全物件の目録を作成する。しかし、少なくとも数百、下手をすると一千冊を越える書誌情報をすべて手で入力していては、作戦の存続そのものが危ぶまれる。そこで入力作業の合理化を図るために、バーコードリーダの導入を決定した。
書籍の裏表紙のバーコードには、ISBNが含まれている。これを読み取り、国会図書館のWeb-OPACを叩けば、問答無用の速度で入力できる。
叩くといっても相手はリファラーを見ているので、cURLを使って偽のリファラーを食わせる。
Web-OPACの書誌情報はHTMLで出てくるので、これを正規化しなければならない。まず、HTML TidyをかけてXHTMLにする。XHTMLをDOMに食わせて文字列で検索して、正規化された書誌情報を引き出す。
計画だけは完璧だ。たぶん。
ゾンド作戦。
暫定的な目次をまとめてみた。
題 百合史・百合論
はじめに
・百合万歳宣言
・扱う範囲
・藤田和子『小麦パニック!』から4コママンガを引用
1 百合という立場
1.1 <百合>の起源と変遷、その定義まで
・起源について諸説を紹介
・コミケカタログに拠りつつ変遷を描く
・西在家香織派の定義
1.2 やおいと<百合>、レズビアンと<百合>
・やおい界の一部で用いられる、受同士を表す語としての<百合>
・レズビアン・コミュニティの一部で用いられる語としての<百合>
1.3 百合的なるもの
・コミュニケーションの位相に表れるもの
・図像に表れるもの
第1部 百合史
2 『我身にたどる姫君』巻六
2.1 偽古物語の世界と『我身にたどる姫君』
・『我身にたどる姫君』の置かれたコンテクストと、作品の性格を略述
2.2 女帝と前斎宮
・巻六を略述
・作者の女帝マンセーぶりを加藤母にたとえたい今日このごろ
・性愛観と女性観
コラム バルザック、ミュッセ、ゴーティエ、ボードレール、ゾラ、ルイス、プルースト
・ジャン・ピエール・ジャック『サッポーの不幸』を紹介
3 少女の誕生
3.1 小杉天外『魔風恋風』
3.2 産業資本主義
3.3 少女雑誌――投稿欄から吉屋信子へ
4 吉屋信子
4.1 デビューから『屋根裏の二処女』まで
・作品群の性格を略述
4.2 <エス>の外で
・女性への憧れ
・非常に仲のいい姉妹
・体制に回収されることへの拒否
4.3 エピゴーネン
・川端康成『乙女の港』
・要調査!
4.4 『良人の貞操』から『徳川の夫人たち』まで
5 手塚治虫は百合を描かなかった
5.1 少女まんがの誕生
5.2 「真紅の薔薇と砂糖菓子」
・福原ヒロ子
・要調査!5.3 二十四年組
・一条ゆかり
・山岸涼子6 少年愛まんが
6.1 萩尾望都『トーマの心臓』の分かれ道
・吉本隆明との対談で語られた男同士版・女同士版の問題6.2 ミソジニー
・少年愛まんがにしばしば見られるミソジニーを略述6.3 竹宮恵子『風と木の詩』
・セクシュアリティ6.4 <やおい>の発生
・<やおい>の起源の諸説を紹介7 同人――ゼロックス・パンク
7.1 情報技術
・ゼロックス・コピーによる出版7.2 まんが同人誌即売会
・初期はアニパロ絶対優勢7.3 やおい
・「強姦されてハッピーエンド」の発明7.4 ロリコン
8 美少女系エロまんが
8.1 森山塔から宮崎勤事件まで
8.2 レズ物に魅せられた作家たち
8.3 十年史
・ベテランのエロまんが家数人にインタビューを申し込むことを検討中
・現在の人選案: 完顔阿骨打、松原香織、佐野タカシ、RaTe、西村有未、大塚ぽてとコラム 少女小説ふたたび
・西在家香織派の名称の由来について9 セラムン以前、あるいは、「真紅の薔薇と砂糖菓子」以後
・『アプローズ』
・『降っても晴れても』
・要検討!10 『美少女戦士セーラームーン』
10.1 数字
・営業成績
・コミケのサークル数10.2 うさぎはどう読まれたか
10.3 はるか・みちるはどう読まれたか
第2部 百合論
11 やおい・ボーイズラブ
11.1 市場像
・市場規模と読者層
・BL作家人気番付に拠って中心的な作品群を取り上げる11.2 やおい精神
・先行研究を批判的に紹介11.3 「強姦されてハッピーエンド」
・セクシュアリティ12 ウテナという不可能な道
12.1 『少女革命ウテナ』
・作品の性格を略述12.2 ウテナのエピゴーネン
・『学園お嬢様奇譚』
・『サフィズムの舷窓』12.3 逆照射される百合
13 中心と周辺
・要検討!14 世界の外
・要検討!おわりに
これを、B5・100ページに収める。…うーむ。
昨日の続き。
「人間関係の頂点には性交があり、性交のルールこそ人間関係の至上のルールである」――このドグマが、やおい・ボーイズラブの基盤に含まれていることは疑いえない(JUNEについてはさらに複雑なので、ここでは論じない)。
もしスケベ帝国主義のドグマを受け入れないなら、「強姦されてハッピーエンド」はナンセンスだ。性交に至上の価値を認めないのなら、強姦は単なる暴力でしかない。人間関係において暴力が肯定的な契機になりうると信じるような特殊な価値観が、これほど広く支持されるわけがない。
しかし「強姦されてハッピーエンド」は同時に、スケベ帝国主義の恣意性を暴露する。
「強姦されてハッピーエンド」が途方もない不条理であることは、誰の目にも明白だ。これは一方では、途方もない不条理なしには不可能な表現――愛や妄執の強さ、運命など――を可能にする。「これほどの不条理が真実になる、それほどの愛(あるいは妄執、運命など)」という理屈である。
そしてもう一方では、スケベ帝国主義がこのような不条理へとつながる道であることを示す。帝国主義は普遍性を装うために、まるで己が公正や穏健さの基盤であるかのような顔をしたがる。数年前に反動的メディアが好んで取り上げたテーマ「セックスレス夫婦」は、まさにそのような振舞いだった。それとまったく対照的に「強姦されてハッピーエンド」は、スケベ帝国主義が暴力、強制、不条理の基盤であると主張する。
なんなら、「強姦されてハッピーエンド」はスケベ帝国主義を脱構築した、と言ってもいい。問題は、このような方法が、スケベ帝国主義を粉砕するうえで有効かどうか、だ。もし有効だとすれば、発祥から20年を経た「強姦されてハッピーエンド」はなぜいまだに栄えているのか。「強姦されてハッピーエンド」には、自己の存在基盤を掘り崩す能力はない。
いまや世界は前進すべきときを迎えている。
ゾンド作戦。
1990年代のオタク界の状況は、スケベ帝国主義から普遍性が剥ぎ取られていった過程ではないか?
たとえば「妹」概念の変容に、スケベ帝国主義の普遍性の凋落が見てとれる。かつて「妹」概念は「禁忌」とかたく結びついていた。これは、現在の観点から見れば、スケベ帝国主義の支配の証である。人間関係の頂点には性交があり、性交のルールこそ人間関係の至上のルールである、というわけだ。
オタク界においてスケベ帝国主義は普遍性を剥ぎ取られ、防御に適した橋頭堡に立てこもることを余儀なくされた。橋頭堡、すなわち美少女系エロまんがである。
1990年代、エロまんが界では女同士物の退潮がみられた。スケベ帝国主義の中枢たる男根のない作品を許容するだけの余裕を、もはやスケベ帝国主義は失っていたのだ。
エロゲーとスケベ帝国主義の関係は複雑である。少なくとも、エロまんがほど防御に適していないことは確かだ。近年のコンシューマ移植を意識した作品群の登場は、攻防のバランスをスケベ帝国主義不利へと傾けたと考えられる。
そしてもうひとつ、スケベ帝国主義と複雑な関係を結んだのが、JUNE・やおい・ボーイズラブである。後日に続く。
リンクを更新した。
Yuriconがかなり勢力を拡大しているらしいのが気になる。なんとか偵察に行きたいところだが――うーむ。
DC用のゲーム「SWEET BITTER FOOLS」が1780円だったので手に入れた。
絵はいいし、コンセプトも及第点だが、シナリオの技術力がへこんでいる。うーむ。
眠い。きゅう。
XSLTはすごいですな、大したもんですな、などとうなずきながらApache
Cocoonのことを調べている。
もしかして、これは、スタイルシートを自分で書かなければならないのだろうか。SVGをレンダリングしてイメージにしてくれるあたりがポイントなのだろうか。Cocoonを使った見栄えのするシステムを外注すると、主要ブラウザ対応の一式(XML
Schema×1・XSLT×7・CSS×4・コンテンツオーサリング環境)で1000万円くらい取られそうなのは、たぶん気のせいではない。
XSLTは文句なくすごいとしても、Cocoonはどこまですごいのか、まだよくわからない。うーむ。