中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

2002年12月31日

 TVアニメ版ハピレスのビデオ・DVDに収録の番外編を見た。

 カンナがチトセに気を取られて、世界征服を疎かにしている。没。……と言いたいところだが、私には見えたのだ――この番外編のスタッフがもし百合を手がければ、必ずや素晴らしい作品ができるにちがいない、と。


 代表=表象の問題、いわゆるサバルタン問題について。

 西洋の植民地支配における西洋の自己イメージを、「肥え太ったサディストの資本家がニタニタと笑いながらプロレタリアの生き血を絞っている」というようなアジビラ式に考えるのは完全に間違っている。「慈愛と知恵にあふれた気高い騎士が、塗炭の苦しみに喘いでいた貧しい人々を導き、繁栄へと向かっている」――これも少々カリカチュアライズされているが、前者よりははるかに事実に近い。

 そこで、お人よしの西洋人に、「あなたがたの自己イメージはずいぶんひとりよがりですね」と指摘したとしよう。お人よしの西洋人は、「まったくその通りでしたな、対話というものが欠けていましたな」と反省し、「それでは彼らに、我々のことを語ってもらいましょう」と一人の植民地住民を連れてきて、「どうですか、我々はどんな人間ですか?」と質問する。インタビューが終わると、お人よしの西洋人は満足げにのたまうのだ、「今日はたった一人にしか話を聞けませんでしたが、千里の道も一歩から、といいます」――このふざけたお人よしを、ぶん殴ってやりたいと思わないような人は、なにもわかっていない。

 この事態は、「一人の植民地住人」にとっては不愉快だし困難だが、問題としては比較的易しい。どうしても西洋人に我慢がならないと思えば、連中に身の程を教えてやればいい。お人よしに事態を理解させたいと思えば、知的な訓練を受けられるよう手を尽くせばいい。いずれにせよ、ほとんどの場合、努力は実らないだろう。しかし問題としては易しい。

 難しいのは、「気高い騎士」「お人よしの西洋人」になってしまうのを避けることだ。

 もし私の勘が正しければ、ニクソンはこの問題にかなり敏感だった。おそらくはキッシンジャーよりも。独立したばかりの発展途上国の指導者はしばしば、国民を貧困から救うことよりも、自分の演説を聞かせるほうに熱心である。著書の「指導者とは」でニクソンは、そうした指導者に対して、驚くほど共感のこもった態度を示している。人間にとって、自分自身の正統な代表者を得ることは、命がけの欲求なのだから、と。ブッシュJrとは正反対の、苦心惨憺の――しかも最後には自分自身によって手ひどく裏切られた――人生が、彼にそれを教えたのかもしれない。

12月30日

 冬コミの収益で、サイード「オリエンタリズム」上下、ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」、セジウィック「クローゼットの認識論」を手に入れた。

 香織派の活動による収益は、百合の発展のために有効に利用されています。


 通信販売のご案内を更新した。

12月29日

 冬コミにて香織派のスペースにお越しくださった皆様、まことにありがとうございました。今後とも西在家香織派をよろしくお引き立てください。


 「白人男性の鷹揚な身振り」というものについて考えさせられた。

 アメリカにおける民族間憎悪は、主に有色人種のあいだで激しい。日本では白人至上主義団体のKKK(クー・クルックス・クラン)がやけに有名だが、連中は、日本の極右団体のように白人社会から浮いている。アメリカで貧乏白人がヒスパニック地区にポグロム(集団打ち壊し)をかける光景など、およそ想像もつかない。それに対して、有色人種の民族間憎悪は、暴徒によるポグロムが起きるほどの広がりを持っている。たとえば1992年のロス暴動では、ヒスパニック系の暴徒が韓国人地区を襲った。

 白人は民族間憎悪から比較的縁遠い。自分自身も他民族をあまり憎悪せず、他民族もあまり白人を憎悪しない。その結果、白人は、自分が民族間憎悪の調停者であるかのような、普遍的な正義の体現者であるかのような、父親的な自己イメージを得る。だが、全体の構図を眺めればわかるとおり、白人こそ民族間憎悪の最大の受益者なのだ。

 「鷹揚な身振り」をとる側にも言い分はある。「だからって私になにをしろと? 私が民族間憎悪の輪に飛び込めば、なにかよくなるというのか?」。これをリベラルの逃げ口上と批判するのはたやすいが、批判したからといって、別の魅力的なビジョンを提示できるわけでもない。すでに民族間憎悪が事実として広まっている状況下では、「だからって私になにをしろと?」というのは、筋の通った、少なくとも誠実な態度ではある。

 では――いましも目の前で新しい民族間憎悪がわきおころうとしているとき、「白人男性の鷹揚な身振り」をとることは、誠実だろうか? 倫理的だろうか?

 実をいえば、この問いは、私にとってはもはや意味がない。私はすでに「白人男性の鷹揚な身振り」をとってしまった。しかも、これから一生、私は同じ身振りを続けるだろう。どうやら私はそういう風にできているらしいと、今日わかった。私はプチブルなのだ。

 思えば私は、ニーチェが「ルサンチマン」という概念を必要とした理由を、どうしても理解できなかった。ニーチェが精神の薄暮にさしかかったときの、印象的なエピソード――老いた馬が鞭で叩かれているのを見たニーチェは、泣きながらその馬にしがみつき、ぶたないでくれと懇願したという。そんな彼だからこそ、「ルサンチマン」という概念を必要としたのだと――今日わかった。泣きながら馬にしがみついた瞬間のニーチェなら、民族間憎悪がわきおころうとしているのを見れば、迷わずその場に飛び込んだにちがいない。

 自分の良心を安らかにするというのは、簡単な事業ではない。人類が数千年ものあいだ夢中になるだけのことはある。


 自分の良心を安らかにする事業の一環として、ここでささやかなアドバイスを送りたい。当人たちに届くかどうか――たとえ届いても理解できるかどうか、はなはだ疑問とはいえ。

 「私は抵抗する」と言ってはいけない。それは本物の抵抗ではなく、抵抗の身振りにすぎないからだ。本物の抵抗とは、たとえば捕虜収容所の捕虜にとっては、管理側との交渉によって余分の物資やサービスを得ながら脱走用のトンネルを掘ることである。たとえばオリエント式の一夫多妻制のもとに生きる若い女性にとっては、夫の財産を金縛りにかけて自分の主張を通しながら離婚という選択肢を維持することである。ウテナを思い出してほしい。アンシーは一度として、「私は抵抗する」などとは言わず、最後にただ鳳学園を去っていった。

 権力がまず先にあり、それへの抵抗があとからくる――これが道理である。しかし、抵抗の身振りは必ずしも、権力を必要としない。身振りにすぎないからだ。たとえば私はこう主張することもできる、「我々テキメキ星人は日本政府による弾圧に抵抗する」。

 そして、抵抗の身振りは、本物の権力を呼び起こす。権力は、それを行使する側だけでなく、行使される側のものでもあるからだ。ごく単純なたとえ話がある――銃というものを知らない人々がいるとしよう。そんな彼らを暴力で支配しようとする悪人が銃で武装して、彼らのところにやってきたとする。なにが起こるだろうか?  悪人が銃というものを理解させるまでは、悪人はただ馬鹿にされるだろう。そして、きわめてファンタスティックな仮定だが、彼らが最後の最後まで、銃というものを理解しなかったとしたら……?  銃を持った悪人が、ごく簡単に人を殺せるということを、最後の最後まで理解しなかったとしたら……?

 「私は憎まれている」と言ってはいけない。それが事実か否かには関わりなく、言ってはいけない。言えば、あなたは憎むべき存在になるだろう。ほかでもない、あなた自身がそう認めるのだから。

 人はみな、憎むべき存在だけが憎まれてほしいと願っている。罰するべき存在だけが罰されてほしいと願っている。この願いが顛倒するとき、あの有名な「被害者憎悪」が起こる。レイプされたのは「ふしだらな女」だからだ――詐欺にあったのは「欲をかいた」からだ――そして、もしあなたが、「私は憎まれている」と言えば、あなたには適当な罪悪がそのへんから見繕われ、被せられるだろう。

 読者諸氏の多くにとっては、こんなことはあまりにも常識的で、なぜわざわざこんなにも長々と書くのか、理解できないかもしれない。

 しかし、ある種の空間と集団では、人間の知性は途方もなく衰える。民族間憎悪の場で、どれほどたくさんの邪悪なメッセージ――「我々は抵抗する」「我々は憎まれている」が飛び交っていることか。


 Yuriconへのリンクに関する記述で、香織派の事実認識に誤りがあるとの指摘を受けた。そのかたによれば、Yuriconは女性のみ参加できるイベントである(よって「やおい的」とはいえない?) というのだが、私の英文読解力に問題があるのか、What is Yuri?にも、Registration案内にもRegistration FAQにもそのような記述は見受けられない。また、Yuricon 2003には、

Yuricon is open to all women and men over 18 years of age, regardless of sexual orientation, gender assignment, proclivities, race, creed, religion, favorite anime lesbian couple, hair color, or taste in clothes. Visit our Mission Statement for more information about Yuricon's creation and principles.

 とあるが、ここでいう「open」とは、弁護士流に奇怪にねじまげられた意味を持っているのだろうか。

 ところで、What is Yuri?をよく読んでみたら、"yuri is pretty much sold in the shounen (boys) and seinen (mens) part of the con."なる語句を発見した。私のコミケカタログ調査によれば、「百合」という語はここ数年、創作少女で主に使われており、少年向け・青年向けには稀にしか使われていない。さっそくこの正月にでも、コミケカタログを精査したうえで主催者に事実を指摘しておきたい。

12月28日

 『百合目録』が完成した。収録件数は結局、492件になった。

 西在家香織派は明日29日、西と02bにて、皆様のお越しを心よりお待ち申しています。

12月27日

 冬コミ新刊の百合関連文献リストを出力すべく、BibTeXと格闘している。

 FORTH風のなにかを前にして、XSLTの独裁を切に待ち望んでいるのは私だけではないはずだ。


 瀬口たかひろの「えん×むす」(少年チャンピオン連載)の今週号を読んだら、少年チャンピオンの底力が発揮されていた。

 まず、「えん×むす」をご存じでない読者諸氏のためにあらすじを解説しておこう。

 ドラグーンという阿呆な組織がある。この組織は、金と権力をムダに使って妙なメイドを多数養成し、後継者候補(複数いる)につけている。後継者候補たちは互いに、殺し合いをも辞さない激しさで争っている。この争いにはメイドも重要な役割を果たしている。有力候補のひとり・リョウコについているメイドはメリーベル、短髪のクールビューティである。当然ながら私は百合の可能性を求めて、注意深く連載を見守ってきた。

 さて本題である。メリーベルがどれだけ優秀なメイドであるかを自慢して、リョウコはいろいろ説明的なセリフを吐くのだが、そのなかに、(身体の)「不要な器官を除去」とある。

 先週号は、主人公づきのメイドが両脚をぶった切られたと思ったら鳳凰幻魔拳だった、というファンタスティックな展開で、これもこれで驚いたが――「不要な器官を除去」には腰を抜かした。恐るべし少年チャンピオン。

12月26日

ゾンド作戦

 参考文献情報のうち、書籍・雑誌(商業誌のみ)の分を完成させた。

 百合物件・百合関連物件を、冊数でカウントして、402冊。タイトル数でカウントすればこの半分以下になるだろう。

バカがっ……!
足らんわっ……まるで……!!
わしは………もっともっと……欲しいんじゃっ…………!
まんがを…! アニメを……! ゲームを……!
邁進せよっ………!

掻き集めるんじゃっ……!

日本中の百合物件をっ……!

オタク文化の未来はつまるところ百合につきるっ………!

それを牛耳るわれらこそ…………王っ……!

築くんだっ………! 王国をっ……!

 問題は、掻き集める本人が私だということだ。

12月25日

 「電撃大王」の今月号を読んだ。

 読者諸氏よ、いまこそ宣言しよう――百合は「電撃大王」に橋頭堡を確保した。以下に制圧地域(見るべきページ)を列挙する。29-30、109、117、229、466、542。思想的には多くの問題を抱えているが、橋頭堡なしには思想的進歩も期待できない。

 次はコバルト文庫に橋頭堡を築くだろう。西在家香織派は目標に向かって驀進中である。

12月24日

 「マリア様がみてる 子羊たちの休暇」を手に入れた。

 マリみてブームが過熱している今回は、週間ベストセラーリストの発表が楽しみだ。ミラージュの1位は鉄板、野梨原花南(レーティング1458)はどうがんばっても抜けない。が、前田珠子(レーティング1257)なら、あるいは!  ここで前田珠子を抜けば、一発でコバルト作家のベスト8入りである。(あとが続くかどうかはともかく)

ゾンド作戦

バルザック『金色の眼の娘』

 典型的な同性愛オチである。しかも、「加害者が男だと女性虐待社会の告発になるので女にした」という、一番嫌なタイプだ。

 悪徳の都パリを自由に闊歩する主人公の青年は、エキゾチックで魅力的な娘、通称「金色の眼の娘」に出会う。彼女は大貴族の囲われ者で、常に身辺を異常に厳しく監視されていたが、娘本人をうまく唆せたことも幸いし、逢引の機会を持つ。身辺の異常な監視からも推測できるとおり、娘の主人は恐るべき独占欲の持ち主で、娘はそれまで若い男と口をきいたこともなかった。娘は逢引がばれることをひどく恐れるが、主人公の青年は根拠もなく「大丈夫、大丈夫」とぬかす。結局、逢引がばれて、娘は殺されてしまう。娘の主人というのは、大貴族の当主ではなく、その妻だった。

 これほど嫌な話は久しぶりに読んだような気がする。

ゴーティエ『モーパン嬢』

 男も惚れる美貌の騎士は、実は男装の女だった、という話である。従者も実は男装の少女で、しかも主が女だとは知らない。よくある趣向だが、なかなか出来がいい。

 主人公は理想の恋を求めるロマンチストの騎士。最近はロゼット夫人の恋人をしているが、真剣な愛情を抱けないでいる。そこへ美貌の騎士テオドールがやってきて、ロゼットの客になる。テオドールはロゼットの初恋の人で、そのときはロゼットは求愛を拒まれてしまった。今度こそとロゼットはテオドールに言い寄る。同時に、主人公もテオドールにすっかり魅せられてしまい、男に恋をしてしまったと悩む。二人を置いてテオドールは去り、ロゼットと主人公に「二人で仲良く」と書き送る。

 テオドールが男装して騎士になったのは、騎士の暮らしが面白そうだと思ったからである。この手のキャラにふさわしく、剣の腕前は師範なみ。従者の男装少女は、旅の途中で仲間にした。

 というわけで、いまリメイクしても通用しそうなネタである。

12月23日

ゾンド作戦

 参考文献情報のBibTeXへの入力作業に着手した。

 とりあえず、コピーしか持っていない文献だけ入力してみたが、わずか56件の入力に2時間。百合物件の入力作業にはバーコードリーダーが必須、という私の予想は正しかった(9月9日・9月13日の日記参照)。

 なお、冬コミの新刊には、ゾンド作戦用の参考文献一覧を予定している。

12月22日

 佐藤亜紀の「天使」を読んだ。

 素晴らしく小説的な、と言おうか。しかし第一次大戦で終わる話だからというわけでもないが、陣地戦に終始した印象は否めない。

 機動戦から陣地戦へ、陣地戦から機動戦へと転換する瞬間は、小説らしい瞬間とはいえないが、やはり小説の華だと信じる。第一次大戦にしても、最大の見せ場を五つ挙げろと言われたら、マルヌ会戦は必ず入るはずだ。

12月21日

ゾンド作戦

 「少女倶楽部」の創刊からしばらくを読んだ。

 「少女倶楽部」は1922年末の創刊(1923年1月号が創刊号)から、あっという間に少女雑誌界のトップに踊り出た雑誌である。当時の大衆少女読者の心をもっともつかんだ、その雑誌の創刊号の巻頭に、吉屋信子の掌編物語「冬をめづる子」が掲載されている。1922年末、吉屋信子は間違いなく、少女小説界の第一人者だったのだ。

 「冬をめづる子」の主人公・静代は、冬にあまりよい思い出がない少女である。それを見つけた冬の神様が、ではこの子によい思い出をあげましょう、と一肌脱ぐ。静代はどんな少女かといえば、

 静代さんは、ストーブの前へ進んで、ふとわれもあらでためらひました。――それははづかしいひとが居たゆゑに――大江さん――その方でした。ことしの春あたりから、いつとはなしに静代がすきになつてしまつた方です。

 もちろん「大江さん」は同級生の少女である。掌編とはいえ、なんのためらいも前置きもなく当然のごとく「すきになつてしまつた」とくる。

 大江は、外は風が冷たくて手がかじかんでしまったと言い、

『このくらゐ――つめたかつたの――』

 大江さんは、かういつて、そつと、しかもかなりすばしつこく、静代さんの片手を自分のやはらかい指先に握りました。

 「そつと、しかもかなりすばしつこく」「やはらかい指先」――百合の真髄がここにある。

 もちろん静代は大感激で、

静代さんの胸はふたたびくわつとあつくなりました。もうストーブ以上のほてりです。

 かくのごとく、現代でも十分通用するほどの百合力のこもった掌編である。

 しかし、吉屋信子は少女小説の第一人者でありながら、その作風は同時代からひどく孤立していた。

 「少女倶楽部」創刊当時は吉屋信子は「少女画報」にまさに「花物語」を連載しており、「少女倶楽部」にはあまり書いていなかった。では吉屋信子のエピゴーネンが載っていたのかというと、作者本人の気持ちとしては真似たつもりかもしれない、という程度のものしかみられない。雑誌のページ数全体に占める割合も小さく、ナショナリスティックな作品や、軍事関連の作品のほうがはるかに大きな比重を占めている。ナショナリズムにミリタリー、どちらも現在では、少女雑誌とはまず相容れないと思われているテーマだが、「少女倶楽部」はかなりのページを割いている。

12月20日

 ふと気になって、Googleのヒット件数を比較してみた。

偽妹 442件
偽兄 308件
偽弟 136件
偽姉 55件

 偽妹がトップなのは当然として、偽兄が思ったより強い。

 それにしても、偽姉――偽弟にさえ負けるとは。

12月19日

 TVアニメ「灰羽連盟」の最終回を見た。

 素晴らしく百合だった。学習指定物件入りを検討している。


 香織派の百合の定義は「レズビアン・ナショナリズム」と共犯関係にあるのではないか、とのご指摘をいただいた。

 ブラック・ナショナリズムはかつてマルコムXで有名になったので、ご存じのかたも多いと思う。また、この世には、「デフ(聾者)・ナショナリズム」なるものがあるらしい。文学にみる障害者像というページや、読冊日記2002年4月12日にその記述がある(ただ不思議なことに、デフ・ナショナリズムを英語で全文検索してみても、それらしきページは出てこない。デフ・ナショナリズムなるものは日本固有のネット伝説ではないかと疑っている私である)。

 かくのごとく、国・地域・民族以外にも、ナショナルなものに匹敵するほど大きなアイデンティティ発生装置は存在する。「レズビアン・ナショナリズム」という言葉も、それになぞらえたものだろう。

 今日、ナショナリズムに否定的側面があることは誰も否定できないが、生産的な面は確実にある。なによりナショナリズムは、人々の実存に根ざしている。黒人差別の歴史を忘れてブラック・ナショナリズムの否定的側面だけをみるのは、黒人差別の再生産にほかならない。

 しかし今回ご指摘を寄せてくださったかたは、「レズビアン・ナショナリズム」を主に、排除と均質化――具体的には、「主婦レズ」「なんちゃってレズ」の排除――のメカニズムとして捉え、排除によって形成されるアイデンティティをクィア理論風に嘆かれていた。

 賢明な読者諸氏には、すでにおわかりだろう。香織派の百合の定義、「非レズビアンの立場」の一節は、「レズビアン・ナショナリズム」式のアイデンティティ形成を前提として認めているのだ。レズビアンの立場をとりつつ「レズビアン・ナショナリズム」に抵抗し、豊かに錯綜してジェンダーをも超える概念としての「レズビアン」を作り出そう、というクィア理論的なありかたが排除されている。ここまでが百合の支配地、ここから先が「レズビアン・ナショナリズム」の支配地、という分割支配である。

 香織派は「レズビアン・ナショナリズム」を無条件に支持するか? もちろん、しない。よって「非レズビアンの立場」の一節は、香織派にとって自己矛盾を含む。

 話がこれで終わりなら、百合の定義をより適切に書き換えればいいだけだ。たとえば、「レズビアン・ナショナリズムから自由な」とでも。が、問題はさらに続く。

 第一に、「主婦レズ」「なんちゃってレズ」の排除を中心とする動きに対して、「ナショナリズム」という言葉を使うことには疑問がある。民族解放闘争が疑いの目で見られる現在、「ナショナリズム」という言葉には、否定的な価値判断も含まれる。また「レズビアン」を、ナショナルなものに匹敵するほど大きなアイデンティティ発生装置とみなすことにも疑問がありうる。こうした事情を考えると、当事者でない人間が「レズビアン・ナショナリズム」なるものの存在を宣言するにあたっては、慎重でなければならない。

 第二に、最悪の状態にあるナショナリズムは、ナショナリズムの存在を否定する。国家と国民があるだけで、ナショナリズムなるものは存在しない、と宣言するのだ。そしてナショナリズムが規範と定める振舞いをしない人々は、「非国民」とされる。もし、レズビアン・コミュニティの中心的な部分がこのような状態にあるとすれば、「レズビアン・ナショナリズム」の存在を宣言するのになんのためらいもない。が、この場合には、香織派の百合の定義を変える必要はないどころか、「非レズビアンの立場」はすぐれて積極的な意味を持つ。

 第三に、「レズビアン・ナショナリズムから自由な」という定義は単純さを欠き理解しづらく、また「レズビアン・ナショナリズム」の理解をめぐって問題を招きやすい。現実問題としては、これが最大の壁である。この世の99.9%の人は、クィア理論やナショナリズム論についてなにも知らないのだ。

 これはかなりの難問である。願わくば読者諸氏のお知恵を乞いたい。

12月18日

ゾンド作戦

 吉屋信子が「屋根裏の二処女」で、「自我」を称揚するという背理を犯したのはなぜか。「花物語」の一編「日陰の花」で、変態性欲コードを最悪のやりかたで――正当化と内面化を強力に推し進める形で――演じてみせたのはなぜか。

 「花物語」に登場する少女の消極性、受動性はしばしば指摘されるところだ。女性同士の親密な関係はただ嘆きを共有するだけのもので、積極的な解決をもたらすことはなく、その契機にさえならない。強靭な生活者である吉屋が、このような関係性を支持していたとは考えにくく、また事実、自伝的要素の強い「屋根裏の二処女」では積極的な解決へと向かう。

 吉屋は、自分の作品が商品であることを強く意識していた。「地の果てまで」の選評を読んで、こう日記に書きつけている――「こっちは家庭小説として苦しみを忍んで書いたものなのだ。」(田辺聖子「ゆめはるか吉屋信子  上」文庫版459ページ)。「家庭小説として」。それは、作品の出来への言い訳なのか、何事かの断念を示しているのか。吉屋の強靭さを知る私は、後者だと信じる。

 現代からはほとんど想像もつかないことだが、当時の少女読者が求めていたのは、事態の進行の前に手も足も出ずただ嘆くばかりの主人公だった。吉屋は「花物語」で、忠実にその求めに応じた。「日陰の花」で変態性欲コードを演じたのも、読者の求めるものを吉屋の嗅覚が捉えたからではないか。

 もちろん、読者の求めにすべてを帰することはできない。今日、「花物語」以外の全作品が事実上忘れ去られた吉屋だが、多くの作品が、「家庭小説として」の断念と、読者の求めを捉える嗅覚にもとづいていた。そのなかで「花物語」だけが今日まで可能性を残しているのは、吉屋信子その人に帰されるべきものがそこにあるからだ。

 吉屋の人生は、事態の進行の前に手も足も出ずただ嘆くばかりの主人公に対する、これ以上ないほどのアンチテーゼである。「日陰の花」で演じられた変態性欲コードもまた、吉屋にとってはアンチテーゼではなかったか。自分自身へのアンチテーゼを、断念によって書いたとき、吉屋は実は沈黙を書いたのだとは言えないか。

 吉屋が生涯にたた一度だけ沈黙しなかったとき、「屋根裏の二処女」が書かれた。吉屋は、自分の正当性、真実を言い表す言葉を求めて、当時流行の「自我」に行き着かざるをえなかった。それは女性を再生産の領域に押し込めるブルジョア社会を正当化するシステムの一環をなしていたにもかかわらず――だが、ブルジョア社会への移行がまさに進歩とみなされていた当時、ほかにどんな言葉があっただろう。

 「屋根裏の二処女」のあと、吉屋はもう二度と自伝的作品を書かなかった。この世界には自分のための言葉は用意されていない、と悟ったからではないか。それでもなお語ろうとしなかったことに吉屋の限界がある、とは言える。だがもし語ろうとしても、けっして「花物語」を超えることはなかっただろう。

 「花物語」への返答として、百合の歴史は始まった。問題はいまや、非レズビアンに手渡されたのだ。

12月17日

 バトラー、ラクラウ、ジジェクの「偶発性 ヘゲモニー 普遍性」を読んでいる。

 たしか、ミケランジェロが「ピエタ」を注文主に引き渡したときの逸話だったと思う。ミケランジェロは若手のわりに高額の報酬を要求しており、注文主は値切ろうとした。ミケランジェロは答えて曰く、「得をするのはあなたです」。

 狭い意味の政治の領野では、今日の左翼のほとんどは、右翼の基本的前提(「福祉国家の、際限ない支出の時代はもう終わった」云々)を受け入れろというイデオロギー的脅迫に屈している――結局、現代の社会民主主義の「第三の道」として賞賛されているのはこれである、こうした状況では、真正な行為とは、「ラディカルな」方法を否定する右翼的扇動(「それは不可能を求めることだ、そんなことをすれば待っているのは破局か、さらなる国家介入だ……」)に反論することだろう。相手に向かって、いやそんなつもりはない、われわれは旧式の社会主義者ではない、この提案は国家予算を増やさない、むしろ国家支出をより「効果的」にして投資に火をつけるはずだ……などというのではなく、「そうだ、それをまさに求めてるんだ!」と怒鳴ることこそが行為である。

 ユリウス・カエサルについて私が知っていることといえば、塩野七生の本に書いてあったことだけだ。そんな私の理解しているカエサルとは、「そうだ、それをまさに求めてるんだ!」と怒鳴った男だった――ただし、あくまでカエサル流に怒鳴ったのだ。


 ゾンド作戦のためにジェンダー・セクシュアリティ系の歴史文献を調べていたら、あまりにも多くの概念が、当事者でない人間によって作られていることに愕然とさせられた。

 現在の「同性愛」なる概念は、少なくとも非同性愛者に理解できる「同性愛」は、恐ろしいばかりに、非同性愛者による創造物である。服装倒錯症の提唱者ヒルシュフェルドは、同性愛を自称してはいたが、服装倒錯者ではなかった。「変態」という言葉はいまでは、同性愛に対して使えば差別語とも言われ、アルファベットでhentaiと書けば世界中のotakuが優しく微笑む謎のキーワードになっているが、これはもとはと言えば性科学者が同性愛をキリスト教的な罪のレベルから切り離して考えるための対抗言説であり、(少なくとも当人の意識の上では)進歩的で解放的な言葉のはずだった。そして本当に恐ろしいのは――当の「同性愛」者たちが、かつての性科学の変態性欲コードを内面化していることだ(古川誠「セクシュアリティの変容:近代日本の同性愛をめぐる3つのコード」日米女性ジャーナル, n.17 (1994) 29-55)。

 吉屋信子が「屋根裏の二処女」で、「自我」を称揚するという背理を犯したのはなぜか。「花物語」の一編「日陰の花」で、変態性欲コードを最悪のやりかたで――正当化と内面化を強力に推し進める形で――演じてみせたのはなぜか。この問いはおそらく、やおいを弁護する人々がしばしば、あまりにも卑屈な口ぶりで語ることと関係があるだろう。

 いまこそ世界は前進するときである。「得をするのはあなたです」――「そうだ、それをまさに求めてるんだ!」――もちろん口調はカエサル流で。

12月16日

ゾンド作戦

 西鶴の「好色一代女」巻四「栄耀願ひ男」を読んだ。

 好色で腹黒い主人公がネコ、頑丈そうな体格をした老婆(70歳)がタチ、という悪夢のような話だった。「隠居の爺を丸め込んで遺言を書き換えさせて云々」と企んで勤めてみたら、爺でなく婆のタチだった、というオチの物語である。同性愛オチが、西鶴の時代にすでにあったとは。

 とはいえ、これでも一応は女性同性愛の文献ではある。

12月15日

 映画「乙女の祈り」のDVDが発売されていたので手に入れた。

 ついでに言えば、TVアニメ「おにいさまへ…」も最近DVDが出たらしいので、入手したい。

マリみて註釈第30回

 『ウァレンティーヌスの贈り物(前編)』(初版第1刷)から。

168ページ:

 グループのリーダーであろうか、気が強そうな眉が印象的な生徒が一歩歩前に出て答えた。彼女とは確か、小学部の時クラスで一緒になったことがあった。名前はすぐに思い出せないけれど。

 珍しくも祐巳がリリアン育ちの経験を発揮するが、「名前はすぐに思い出せないけれど」という体たらくである。

 前編は今回までで終わり、次回からは後編である。

12月14日

ゾンド作戦

 「中央公論」1935年3月号「同性愛の歴史観」はなかなか興味深い。

 書いたのは社会主義者の文筆家・安田徳太郎で、ヒルシュフェルドの服装倒錯説を紹介している(ヒルシュフェルド:同性愛を伴わない異性装はそれまで周縁的なものと見られていたが、これに注目し、服装倒錯症と名づけた)。1935年の日本の性科学は、ヒルシュフェルドまでフォローしていたのだ。

 『同性愛と同性心中の研究』をみると、女性の同性心中には同情によるものが多いこと、また姉妹の心中が多いことが強調されている。吉屋信子の小説によく出てくる、やたらと仲のいい姉妹は、それなりに根拠のあることだったらしい。

 また99ページで、イワンダロッホの説として、女性同性愛は男性同性愛よりパートナーを頻繁に変える傾向がある、と述べている。現在の通説とはまったく逆の説が通用していたわけだ。

 また1911年事件で死んだ女性2人は、長期にわたって習慣的に性行為を繰り返していた痕跡があると述べているが、根拠となる文献等は示していない。

 根拠が示されていないといえば、多くの文献で共通して、尼寺や江戸城大奥では女性同性愛があったと書いているが、その根拠となる文献等を一切示していないことでも共通している。これでは、長篠の鉄砲三段撃ち以下の信憑性しかないとされても仕方ない。

 「新公論」1911年9月号「戦慄すべき女性間の顛倒性欲」には、ゴーティエの「モーパン嬢」をはじめとして、女性同性愛を題材にした19世紀フランス文学がいくつか挙げられている。時代的にいって、吉屋信子に影響を与えている可能性はきわめて高い。また「西鶴の『一代女』にある『栄耀願男』というのが矢張り夫れだ」とあるので、確認を要する。

12月13日

 大島永遠の「女子高生」を2巻まで読んだ。女子高生徒の日常ギャグまんがである。

 日常系の作品で、常識人かつ成績が学年トップクラス、という主人公を初めて見た。だからというわけではないが、電車の中では読めないくらい面白い。

 なお、この作品を百合的に読むには、かなりの修行を要すると思われる。逆にいえば、「見える……百合が」(読み筋:神聖モテモテ王国)状態になれば、その人はかなりのレベルに達していると考えていい。


ゾンド作戦

 戦前の女学生の心中事件に関する資料を手に入れた。

 伏字は人名である。「いばらの森」ではないが、当事者が現在も存命中の可能性があるため伏せた。旧字は出すのが面倒なので新字で代えた。

 ちなみに「月経初潮期にある 娘をもつお母様へ」を書いているのは、1935年当時ほんの一握りしかいなかった女性医学博士だ(吉原りゅう子)。だからといって独創的なことを書いているわけでもないが。

 日付をご覧いただけばわかるように、報道資料が扱っている事件は2つ、1911年と1935年のものである。

 1911年事件のあらましは次のとおり。7月26日未明、高等女学校卒の若い女性2人(いずれも20歳未満)が入水自殺し、それが「同性の愛」のためだとしてマスコミが騒いだ――とまとめてしまうと実も蓋もないが、実際そういう話である。

 このときのマスコミは、「深刻な友情としての同性の愛」対「肉体的・先天的に男性化した女性」という図式を立て、この事件は前者であるとしている。前者への同情を引き出すためにか、後者への非難は激しい。

 1935年事件のあらましは少々ややこしく、また、どこまで真相が伝えられているか疑わしい。まず、富豪の令嬢Fが、あまり有名でもない女優Eに入れ込んだところから話が始まる。令嬢Fは男装を好んでいた(とはいえ当時は、男の化粧や女の男装がある種の流行になっていて、そう突飛なことではなかった)。最初はなんということもない女優と後援者の関係だったが、あるとき令嬢Fは家の金を盗み、その金で女優Eを日本各地に連れ回して放蕩した。二人は旅の途中で取り押さえられ、それぞれ自宅に軟禁された。が、令嬢Fはそれを破って女優Eのもとを訪れ、精神の不安定を思わせる躁病的な声明をマスコミに発表した。その直後、令嬢Fは睡眠薬を飲んで自殺を図るが失敗――1911年事件とは対照的に、「藪の中」がいくらでも書けそうな事件である。

 このときのマスコミは、「深刻な友情」対「男性化」という図式を立て、令嬢Fは後者にあてはまるとした。一見1911年事件のものに似ているが、「深刻な友情」を問題にする意識がきわめて希薄な点、「男性化」を必ずしも肉体的・先天的なものと同一視していない点で、大きく異なっている。

 「深刻な友情」への問題意識が希薄になったのは、大正時代に女学生が増加し、また少女小説でエスが長年喧伝されつづけたわりに、ほとんど問題らしい問題を起こさなかったためと考えられる。「男性化」への態度が軟化した背景には、当時の男装の流行があったものと考えられる。

12月11日

 「風と木の詩」を読んでいる。

 いま読むと、1969~1984年という時代(10月5日の日記参照)の特徴をすべて備えていることがわかる。この連載が終わったとき、一つの時代が終わったのだ。つまり――

 「諸君の愛してくれなかったジルベール・コクトーは死んだ! なぜか!?」

 「坊やだからさ」

ゾンド作戦

 ジェニファー・ロバートソンの「踊る帝国主義」を読んでいる。宝塚歌劇団は実は帝国華撃団だった――という話のわけはなく、ジェンダー云々の話である。

 恥ずかしながら寡聞にして、「クラス・エス」という言葉をこの本で初めて知った。例の「エス」は「クラス・エス」の省略形だったらしい。うーむ。

12月10日

 TVアニメの「キングゲイナー」の第13話を見た。

 シベ鉄の使ったロケット兵器がMLRSでなかったことについて猛省を促したい。

12月9日

 タカハシマコの「女の子は特別教」を読んだ。

 嫌がらせ系の流行について思うところを捏造しようとしたが、なにも思いつかなかったので、なにも思うところはなかったらしい。

マリみて註釈第29回

 『ウァレンティーヌスの贈り物(前編)』(初版第1刷)から。

113ページ:

 白薔薇さまロサ・ギガンテイアを見つけた志摩子さんは、天使のようにほほえんだ。もともとが儚げな美人だけど、笑い顔はまた格別だ。同じ歳の女の子だっていうのに、どうしてこんなにも違うのだろう。祐巳はいつもそう思う。

 マリみてにおける容貌表現の頻度や量は、令と志摩子が特に多い。令は「美少年」、志摩子は砂糖菓子と、抽象的・定型的な描写が繰り返される。引用部はきわめて典型的にその特徴を備えているので、ここに挙げた。

117ページ:

 「わかったわ。白薔薇さまロサ・ギガンテイアがいらしていると、あなたは楽しいわけね」

 祥子のもうひとつの問題が、ここではじめて明瞭に示される。祥子の胸中では、志摩子を争ったときの聖との確執はまだ解消されていなかったのだ。

 マリみてにおいては祥子は、祐巳の目を通してのみ表現される。この制約のため、この問題は、祥子と聖の直接対決では解決されない。パロディを書こうとするなら、この問題による祥子と聖の直接対決を取り上げるのは、もっとも素直な選択のひとつである。

 が、おそらく百合の未来は、こういう種類の「素直」のなかにはない。

12月8日

 売れるエロゲーの法則を、一言でまとめてみた――「弱く生きる」。

マリみて註釈第28回

 今日から『ウァレンティーヌスの贈り物(前編)』(初版第1刷)である。

76ページ:

 由乃さんはミトンの拳を振り上げた。相変わらず、前向きで強気で自信家だ。

 マリみてでは、身体の描写が欠けているためか、服装の描写も少ない。服装描写からなにか有効な結論を引き出すのは難しいが、少なくとも、由乃の冬服を描くときには役に立つ情報なので、ここに挙げた。

105ページ:

 「中等部は厳しかったから、バレンタインデーといえども、お菓子の持込禁止だったじゃない? きっと、その反動もあるのよね」

 高等部になった途端「生徒の自主性を尊重」なんて、突然校則ゆるめられちゃって、まあ、未来にそれが待っているから義務教育中はおとなしく辛抱していられるんだけど。~

 第5回で述べたように、リリアン女学園では中等部と高等部で体育館などの施設を共用していると考えられる。三薔薇ファミリーへの憧れも、高等部に進んではじめて醸成されるものではなく、中等部からすでに始まっていると考えるのが妥当だろう。中等部と高等部のあいだでは、相互に影響を及ぼしあっていると考えるのが妥当である。

 しかし作中には、中等部の存在感がきわめて希薄である。引用部は、中等部の存在がクローズアップされる数少ない部分なので、ここに挙げた。

12月7日

 先月15日と25日の続き。

 ボーイズラブにみられるゲイ・アイデンティティへの嫌悪は、ゲイ・アイデンティティの成立に深くかかわってきたゲイ・バッシングとは違う種類のものではないか、と思えてきた。

 ゲイ・バッシングのメカニズムはわかりやすい。最初に、なにかしら排除すべきものが社会に潜んでいる、との確信がある。対象はなんでもいいので、目についた攻撃しやすいものを攻撃することになる。

 ただ攻撃したいという衝動があるにすぎず、具体的な利益には結びつきにくいので、社会を変革するプログラムを作成・推進する能力に欠けることが多い。権力による衝動的・散発的なテロリズムと、通奏低音のような持続的な(しかしプログラムを推進するような性質を持たない)圧力の二種類が、バッシングの主な形態となる。(もちろん、ナチスによる系統的な殺戮も忘れるわけにはいかない)

 とにかく攻撃したいから攻撃する、それはしかし、「明日は我が身」という恐怖を伴う。「自分と近親者は安全だ」と社会の支配的な部分が確信できるようなシステムによって、攻撃対象を限定しなければならない。そのために、なんらかの差異が選び出され、一方に「これを叩くべし」という目印――有徴性――をつける。排除すべきものを攻撃したいという衝動を反映して、有徴性が作り出される。いったん有徴性が発生すれば、それへの不当な攻撃を無理に正当化すべく、あらゆる負のイメージがそこに過剰に投げ込まれる。これがホモフォビアの正体である。

 ゲイ・バッシングが現実の個人に向けられるとき、その個人はどのように選び出されるのか。もちろん神明裁判や尋問や告白によってではなく、行動によって選び出される。男性への性的感情の表出、ゲイの溜まり場への出入り、そしてその頂点としての男性同性愛行為である。攻撃対象の個人を選び出すプロセスには、攻撃対象のアイデンティティを云々するような部分はない。

 では、ボーイズラブにみられるゲイ・アイデンティティへの嫌悪はどうなっているのか。登場人物たちは当然ながら男性への性的感情を表明し、男性同性愛行為をなし、ときにはゲイの溜まり場に出入りする。ゲイ・バッシングに対して、「俺は違うから」などと言い訳するのは不可能な状態にある。その当人たちが、ゲイ・アイデンティティを忌避するばかりか嫌悪し、「俺はゲイじゃない」などと主張するのだ。

 そのようなボーイズラブにおけるゲイ・アイデンティティとは何か。

 近代以降のゲイは、有徴性との戦いを強いられ、そのなかでゲイ・アイデンティティを変質あるいは成立させてきた。もちろんゲイ・アイデンティティを、有徴性との戦いの結果としてのみ見るのは、バランスの取れた見方ではない。しかしボーイズラブにみられる男性同性愛の特徴――異性愛のパロディになりえない部分をしばしば削ぎ落としている――からして、ボーイズラブにおけるゲイ・アイデンティティ理解を検討する上では、有徴性との戦いの側面に注目するのは妥当と考えられる。

 私の仮説はこうだ――ボーイズラブにおいては、有徴性に対する抵抗を内面化することが嫌悪されているのではないか?

 すべての実在するものと同様、ゲイ・アイデンティティを汚れのないものと考えることはできない。有徴性との戦いは、悲しいことに、選民意識的なものと容易に結びつき、差別を助長する。数多くのゲイの著名人による女性嫌悪的な発言の数々を、ゲイ・アイデンティティとは無縁なものと切り捨てることはできないだろう。すべてのゲイが、鋭い批判精神と自省によって選民意識と差別意識から逃れられるとは期待できない。ゲイのなかでももっとも知的な人々でさえ、しばしば女性嫌悪的な言葉を吐いている。

 だからといってゲイ・アイデンティティを嫌悪するのは、生き延びるうえでのやむをえない反応として現世の不完全さをわかちもつ現実の存在としてのゲイを貶めることだ、という主張もありうるだろう。

 では、だとしたら、理想とはなんなのか。現世の不完全さを持ち出すことで理想を退けられるとしたら、そもそもなぜ理想なるものは存在しうるのか。妄想や夢物語ではなく、なぜ理想でありうるのか。

 おそらく、人間の抱きうる理想そのものが、現世の不完全さから自由ではない。現実のゲイが女性嫌悪的な言葉を吐くのはやむをえないのと同じ程度に、現実のボーイズラブがゲイ・アイデンティティを嫌悪するのはやむをえない。そして私は後者の肩を持つ。前者が現状肯定の論理でしかないのに対し、後者は、どんなに不完全であれ、少なくとも理想らしきものへの第一歩だ。

12月6日

 眠い。きゅう。

12月5日

ゾンド作戦

 香織派は、ポルノを考察する上での中心に、「ゾーニング」の概念を置いている。

 たとえ「成年コミック」マークのようなものがなくても、慣行その他の理由から店頭などでゾーニングが配慮され、未成年者が容易にアクセスできない状況があるなら、それはポルノである。逆に、内容がほとんど同じでも、慣行その他をうまく利用してゾーニングを逃れ、事実上まったく自由に未成年者がアクセスできる状況があれば、それはポルノではない。

 なぜゾーニングを中心に据えるのかといえば、ポルノ産業が成立する上での必要不可欠な経済的基盤はただひとつ、ゾーニングだけだからだ。ポルノ思想が先にあり、そのおかげでポルノ産業が成立する、などという議論は完全に逆立ちしている。

 が、どういうものか、ゾーニングを中心に据えたポルノ論の先行研究が見つからない。私が考えるようなことは、必ず誰かがすでに考えているはずなのだが。

12月4日

 TVアニメの「灰羽連盟」を見ている。どうやら百合らしくなってきた。

マリみて註釈第27回

 『ロサ・カニーナ』(初版第1刷)から。明日からは『ウァレンティーヌスの贈り物(前編)』である。

224ページ:

 「大体、君は何様のつもりなんだ。男が女に向かって、その口の利き方。お嬢様学校のリリアンでは、近頃そういう教育しているのかい。可愛くないな」

 柏木は悪役としての存在感に欠ける。そのことが明快に示されているのが、この引用部である。

 柏木はその存在がクローズアップされたかと思うと、すぐさまこうやって引き落とされる。その意味するところはなんなのか。

251ページ:

 正しくは「ロサ・ギガンティア」と発音します。「さま」は抜きです。~

 私の長年の疑問――「紅薔薇のつぼみロサ・キネンシス・アン・ブウトンプテイ・スール」は本当に「ロサ・キネンシス・アン・ブゥトンのプティ・スール」と発音しているのだろうか。セリフ中に「紅薔薇のつぼみの妹」と綴られることは滅多にないので、そうなのかもしれない。

12月3日

マリみて註釈第26回

 『ロサ・カニーナ』(初版第1刷)から。

206ページ:

 やきもち妬くのは筋違いなんだろうな、って。それくらいのことは、納得できる。だけど、私が親しくなる以前の祥子さまの話を聞かされると、やっぱりうらやましいと思ってしまうから。心の中って複雑なんだ。

220ページ:

 祥子さまと柏木さんの寿司の容器をもう一度見て、私は思いっきり敗北感を味わった。柏木さんのその行為は、長年積み重ねてきた親密な関係のなせる業としか説明しようがない。私は、祥子さまの好き嫌いを把握している柏木さんに嫉妬し、それを自然に受け入れる祥子さまに憤慨した。

 (祥子さまは男嫌いだったんじゃなかったの? 柏木さんを嫌っていたんじゃなかったの? それなのに、柏木さんのお箸でつままれたお寿司を、どうして口に入れられるわけ?)

 前回述べた「進歩」のありかたについての手がかりを挙げた。

 上の引用部からは、リリアン女学園で一般に行われる友達づきあい――たとえば祐巳と志摩子のあいだのような――への志向性がみてとれる。下の引用部からは、共同体的なつきあい――家族などの共同体を基盤にしたもの――への志向性がみてとれる。

 明らかに祐巳は、後者に対してより強い反応を示している。しかも祥子の「男嫌い」を持ち出して、自分の(柏木、ひいては男一般に対する)優位を思い描いている。

 共同体的なつきあいは、リリアン的な友達づきあいに比べて、より多くを制度に頼っている。また、引用部のコンテクストでは、祥子の「男嫌い」は、ウニやイクラが嫌いなのと同列には扱えない。それは「異性愛強制社会」とも呼ばれる制度のなかの不協和音であり、異性愛強制社会なしには成立しないような意味を与えられている。

 姉妹スール関係の「進歩」は、マリみてにおける「制度」の理解と、じかにつながっている。

12月2日

マリみて註釈第25回

 『ロサ・カニーナ』(初版第1刷)から。

190ページ:

 「君たち、ってさ。全然似てないのに、押しが足りないところだけは似てるよね。あのさ、どっちも『待ち』だと、百年経ってもそのまんまだよ」

 ちょっと持ち上げられたと思ったら、一気に地上に墜落。しかし。百年経ってもそのまんま――。随分厳しいご指摘ですこと。

 百合の魅力はあまたある。なかでも理解しやすいのは、「なにをもってハッピーエンドとするかが決まっていない」という点だ。

 男女物なら結婚や婚約、あるいはその代わりとしてのセックスなどが、ハッピーエンドの条件として定められている。しかし百合では、結婚や婚約は男女物のパロディにしかならない。結婚の代わりとしてのセックスも、やはりパロディになる。「個人→家族→民族→国家」あるいは「個性→人間性→自然」――そうした悪しき回帰をけっして許さない峻烈さを、百合は持っている。

 このシーンの聖と祐巳は、暗黙のうちに、祥子と祐巳のあいだの関係には「進歩」がありうる、という前提を共有している。しかもそれは明らかに、他の友達づきあい――たとえば祐巳と志摩子のあいだのような――と違って、特に重要な課題であると考えられている。

 仮に、「理想の姉妹スール関係」とでも呼ぶべき目標があり、これを聖と祐巳(おそらくは祥子も)が共有しているとしよう。しかし『黄薔薇革命』と『いばらの森』は、このような仮説が成り立たないことを示している。

 姉妹関係には目標はないが、進歩はある――引用部は、マリみて全編中でも優れて百合的なくだりである。

12月1日

ゾンド作戦

 『我身にたどる姫君』巻六を読んだ。

 シスプリの亞里亞がやかましくなったような女(前斎宮)が、わがままとだらしなさで周囲を閉口させながらも不思議と愛され、姉の女帝からタナボタで財産をもらって幸せになる、という話である。

 前斎宮は色情にまるでためらいがなく、相手の性別にも見境ない。中将、小宰相、新大夫と、側仕えの女に片っ端から手をつける。小娘の小宰相には嫌われたが、年増の中将と新大夫にはずいぶん愛されたところをみると、年増受けするタイプらしい。新大夫からは、毛並みのいい男まで寄越してもらう果報者である。

 前斎宮の比較対象であるところの姉の女帝は、もとが天女なので、最初から欲というものがない。四人の優秀な側近(全員女)を従えて善政をなす。女帝の死後、四人の側近は尼になって女帝を追善供養し、死後は女帝と同じ兜率内院に転生する。ラストシーンでは、女帝と四人が集まり、「俗世はカス、禁欲万歳」という趣旨の歌をみんなして詠む。

 そうやって俗世を腐しまくって盛り上がったところで、巻末の一行――「こんなにも曇りのない世の中で、前斎宮や新大夫殿の臨終の様子や後生の有様が伝わらないのは気がかりなことである」。

 以前に巻一を読みかけたときには、「作者は比較的若いのでは」と疑ったが、少なくとも巻六を書いた時点では、かなりの歳だったにちがいない。

マリみて註釈第24回

 『ロサ・カニーナ』(初版第1刷)から。

180ページ:

~しかしバス通りに出る手前の信号で止まった時、早くもエンスト。~

 AT限定免許やAT車には頼らない聖である。ちなみに車は「黄色い軽自動車」(179ページ)である。

 軽自動車といってもビートやカプチーノやAZ-1ならバブリーでお嬢さま風かと一瞬思ったが、「後部座席にイカやトウモロコシの入っているビニール袋を置いて~」(179ページ)とあるので、実用的な4シーターである。それでいてわざわざMTをつける(自家用4シーターの軽自動車では普通、ATがノーマル仕様でMTはオプション)のだから、この車の持ち主は車好き、それもかなり渋い趣味だと思われる。

 その持ち主は、「聞けば、車はお母さんの所有物だということだし」(188ページ)。聖の親父ぶりは母親からの遺伝かもしれない。

 

今月の標語:

かばかり曇りなき世に、斎宮・新大夫殿の臨終・
後の世の聞えぬこそおぼつかなけれ。

(『我身にたどる姫君』巻六の末尾より)

 

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