斎藤環の「博士の奇妙な思春期」を読んだ。
「女性的欲望の記述不可能性」(39ページ)などと言ってしまうあたりに、精神分析の限界がある。ファルスだの象徴界だのと言っていたのでは記述できないのは当たり前だ。もしかすると東浩紀は、こうした種類の記述不可能性を指して「動物的」「データベース」と言っているのかもしれない(動ポモはろくに読んでいないので当てずっぽう)。
女性的欲望は記述できる――その「女性的」を、カッコに入れてしまうことさえできるなら。
私の「BL作家人気番付」は、その試みの第一歩だ。経済分析によって、ボーイズラブ読者の行動パターンを決定することができる。私の分析によれば、バーバラ片桐よりごとうしのぶのほうが、鹿住槙より斑鳩サハラのほうが、はるかに人気がある(こんなことはボーイズラブ業界内部の人間にとっては常識だが、公開情報だけをもとにこの種の「常識」を証明するのは、案外難しい)。これで、ボーイズラブ読者の欲望についての確定記述が得られた。
しかしこれはまだ差異にすぎない。この差異から出発して「欲望」へと至るには、どうすればいいか。第一歩はごく簡単だ、人気ボーイズラブ作品を読めばいい。「その作品世界に女性がほとんど登場しない」(29ページ)というのは、ボーイズラブについて言えば、完全な間違いだ。恋愛関係に絡まないことを「女性がほとんど登場しない」と読む種類の短絡を排し、統計的事実から眺めること、これが第二歩である。
経済、統計――しかしそれで「欲望」に迫れるのか? 迫れる。
「異性の手で肉的の誘惑を受けない以上、処女はある年齢までその欲求を知らずに過ごしてゐるものなのです」という田村俊子のテーゼ、これを「欲望」と読む技術を身につければいい。これがなぜ欲望か? 第一に、 きわめて多くの少女まんがが、田村テーゼに沿って生み出されている。第二に、田村テーゼはこの90年間というものずっと、経験的事実によって反証されつづけているが、勢力が衰える気配もない。これが欲望でないのなら、なにが欲望なのか。
田村テーゼの主語は「私」ではなく、「世界」だ。田村テーゼを、わかりやすい欲望形で言い直せば――
異性の手で肉的の誘惑を受けない以上、処女はある年齢までその欲求を知らずに過ごしてゐるものであることを、世界は欲しています。
となる。精神分析屋なら、想像界がどうのこうのと言い出しそうなテーゼだが、それは暇人に任せておこう。
同じように「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーを、わかりやすい欲望形で言い直せば――
受が攻に強姦されてハッピーエンドになることを、世界は欲しています。
となる。
(聞くところでは「セカイ系」なるものが最近の流行らしいが、田村テーゼ流の欲望となにか関係があるのだろうか)
欲するのが「私」ではなく「世界」なら、ボーイズラブの記述のすべてが欲望として読み替えられる。ボーイズラブのなかに「欲望」が演じられるのを、そして欲望が欲望である以上不可欠な「断念」が演じられるのを読むのではない。すべてを欲望それ自体として読むのだ。
もちろん、ボーイズラブ作品がすべてあまりにも個性的で共通点がなければ、そうした読みにどれほどの意味があるのか、ということになるだろう。大丈夫――人気ボーイズラブ作品はむしろ、あまりにも類型的で似通っている。たとえば、「強姦されてハッピーエンド」のように。そして、このためにこそ経済分析が必要とされる。あまり人気のないボーイズラブ作品には、個性的なものも多い。
もう一度繰り返しておく。ボーイズラブは、主体の欲望とその断念が演じられるドラマ空間ではない。その全空間が、欲望そのものだ。
もうひとつ食い下がってみよう。田村テーゼや「強姦されてハッピーエンド」が欲望そのものであるのは認めるとしても、その欲望はどこから生じるのか?
私の現在の回答は、ゲーム理論から説明できる、だ。
ゲーム理論でいうところのゲームに必ず勝つ方法は、ひとつしかない。相手の手を見てから自分の手を決める、つまり後出しをする、ではない。それなら将棋は後手必勝だ。必ず勝つ方法は、たったひとつ――相手と自分の手が出されたあとで、ゲームの利得表に数字を書き込むのだ。
田村テーゼをゲーム理論で言い換えると、こうなる。
処女は、異性から肉的の誘惑を受けたあとになってから、〈肉欲〉というゲームの利得表を書き込むほうが得
「強姦されてハッピーエンド」をゲーム理論で言い換えると、
受は、攻に強姦されたあとになってから、「男に強姦される」という出来事の利得表を書き込むほうが得
となる。
利得表をゲーム後に書き込む、というこの論理を理解しないので、「女性的欲望の記述不可能性」などということになってしまう。
しかし、「利得表をゲーム後に書き込む」ことの悪は、歴史が示している。歴史から誠実に学ぶなら、ゲーム前に利得表を決めなければならない。それはゲームの倫理だ。(だからこそ「強姦されてハッピーエンド」は「男による男の強姦」、つまり予想できず、始まったことがわかったときにはすでに終わっている、ゲームともいえない出来事であるほうが都合がいい)
要するに私がなにを言いたいのかというと、
だということだ。
週刊少年マガジンの「ネギま!」を読んだ。要するに、成瀬川を筆頭とする30人のヤバい奴等がショタな魔法少年をいじくりまわす話である。
赤松健がショタを採用した――ということは、大日本ちんこ大好き党がどれほど頑張ろうと、ショタ没落の趨勢はもはや覆せないのだ。
百合の時代は目の前に迫っている。
すぎ恵美子「げっちゅー」13巻を入手したついでに、中原みぎわ「未熟果実」も読んでみた。
田村俊子は1913年に、「異性の手で肉的の誘惑を受けない以上、処女はある年齢までその欲求を知らずに過ごしてゐるものなのです」と主張した。「青鞜」グループの多数意見もこれと同じだった。「女の性的な主体性」に対する女性の敵意と反発は、90年前からすでに始まっていたのだ。「女に性欲はない」という神話を作り上げたのは、主に女だ。
「未熟果実」が田村俊子説を繰り返しているのをみると、すぎ恵美子の素晴らしさがよくわかる。50年後、すぎ恵美子は、一条ゆかりよりも高く評価されるかもしれない――とはさすがの私にも言えないが、少なくとも私は、すぎ恵美子を支持する。
あさぎり夕の「泉君シリーズ」を3巻まで読んだ。相変わらず行間に「マッチョが好き……っ!」と書いてある。
「泉君というのはギリシャ神話の登場人物ですか?」と言いたいくらい、泉君とやらがモテまくりやりまくりである。すでに戴冠式を済ませているので(泉&由鷹シリーズ)、共学の私立大学のくせに、まったく女が出てこない。
ところで、エロゲー等には「絡みの最中に電話」というシチュエーションがよく出てくるが(「はじめてのおるすばん」など)、私はこれがよくわからない。うーむ。
戦線を整理した。
あと一ヶ月… ううう。
今を去ること11年前、私は、保守本流少女まんがの本質を、「にもかかわらず」の論理だと考えた。
「にもかかわらず」愛する――地位や財産を捨てることになるにもかかわらず彼を愛する。報われない恋であるにもかかわらず彼を愛する。すでに女のいる男であるにもかかわらず彼を愛する。本質は「にもかかわらず」にある。矛盾していること自体のなかに快楽がある。ハッピーエンドは半ば蛇足だ。だから第三の要素――「家庭の幸福」や「周囲の人々の反省」――によってハッピーエンドが訪れる。第三の要素は蛇足なので、デウス・エクス・マキーナでしかない。
この論理は、弁証法的な論理とはまったく異なる。「地位も財産もなくしてしまうぞ?」「実は男はただの口実で、そっちが本望。全部捨てたい」――「あの男は振り向いちゃくれないのに」「実はそこが萌え」――「あれには女がいるそうだが」「実は私はひねくれたレズで、本当に好きなのはその女のほう」。そして、少女まんがで弁証法をやると、けっして一条ゆかりにはなれない。矛盾、イデオロギー、デウス・エクス・マキーナの三位一体こそ、「にもかかわらず」の論理だ。
11年前と同じ結論にたどりついたことを、喜ぶべきか、悲しむべきか。
「強姦されてハッピーエンド」イデオロギー自体から、受が男である理由を引き出すことはできない、との結論に至った。受が男であるほうが都合がいい(だから刑部真芯の登場はやおいより20年遅れた)のは確かだが、根本的な理由ではない。
やおい・ボーイズラブの受が男である理由、それは、「崇高な身体」に関心があるからだ。
ジジェクの「為すところを知らざればなり」から引用する。427ページ:
我々は王を我々に等しいものとして扱うだけでは王からそのカリスマ性を奪うことはできないのである。王はどん底に落ち込んだまさにその瞬間にこそ、絶対的な同情と魅惑とを引き起こすのだ――「市民ルイ・カペー」の裁判がその証拠である。
王からその「崇高な身体」を奪うことはできない。奪おうとするその運動こそがまさに「崇高な身体」をますます強化する。「王の首をはねることは根本的に余計であり、かつまた王の肉体の破壊というそのことによってかえって王のカリスマ性を肯定する恐るべき冒瀆でもあるという、逆説的で矛盾した印象を避けがたい」(429ページ)。
やおい・ボーイズラブにおいて「崇高な身体」を持つのは、王ではなく、男である。
とりあえずナマモノは脇に置くとして、フィクションのやおい(アニパロ)・ボーイズラブだけを考えるとしよう。フィクションの、想像上の、つまり血肉のある身体を持たない男に、どうやって「崇高な身体」を与えるのか?
やおいにとっては問題は、ボーイズラブよりかなり易しい。メジャーな少年向け作品のキャラなら、それはすでに「崇高な身体」を備えている。やおいの原作がスポーツ物やバトル物で占められているのは、そのほうが「崇高な身体」をより濃く備えているからだ――女なしに成立する男という「崇高な身体」を。
男の「崇高な身体」を薄めるのは、逆説的だが、女である。王が玉座にいて臣下に囲まれているとき、王の「崇高な身体」は薄くなる。王の存在と臣下の存在が、安定した秩序として自然化され、目に見えなくなってしまうのだ。同じ論理で、女がまわりにいるとき、男の「崇高な身体」は薄くなる。
しかし、王がその全歴史を通じて臣下を持たないとしたら、その王とは神聖モテモテ王国国王ファーザーのことだろう。やおいはいい、そのキャラが「崇高な身体」を備えた男であることは、原作によって保証されているのだから。では、ボーイズラブは?
やおいと違ってボーイズラブは、王がファーザーになる恐れを構造的に抱えている。やおいの受がすでに確固として男であるのに対して、ボーイズラブの受はどこかで戴冠式を行わねばならない。戴冠式だけは臣下(=女)が出席する必要がある。そこで、やおいとボーイズラブの顕著な違いのひとつが説明される。すなわち――やおい(アニパロ)に少しでも女が登場することは稀だが、ボーイズラブにまったく女が登場しないことも稀なのだ。
(ちなみにフジミの成功理由のひとつは、悠季が最初できっちり戴冠式を行っている(女に惚れている)点だろう)
たとえ戴冠式を首尾よく済ませても、ボーイズラブの受は、やおいの受より脆弱である。蓄積が違うのだから仕方ない。そのためボーイズラブの受は、やおいほど無茶な扱われ方をしない。すなわち――やおいの受がしばしば結婚はおろか妊娠出産までするのに対して、ボーイズラブの受は滅多にそんなことにはならない。
ここまでくれば、あとは付け足しだ。
ほとんど女のいない環境で、女のような姿かたちをして、男に犯され、のちには男を愛し、女の社会的・生物的役割を引き受けるとき、受は――それでもなお男であることによって、男の「崇高な身体」をいっそう輝かせるのだ。
やおい・ボーイズラブのキャラが「俺はゲイじゃない」と主張するセリフは、この観点から読まなければならない。もしカップルが、ゲイとしての存在様式を受け入れれば、受が男であることは安定した秩序として自然化され、目に見えなくなってしまう。
やおい・ボーイズラブのキャラがしばしば吐く女性嫌悪的なセリフも、この観点から読まなければならない。王が臣下に向かって「自分を王として扱え」と命じるとき、王の「崇高な身体」は致命的に薄れてしまう。「彼を王として扱う人間など一人もいないのに、どういうわけだかおかしなことに、市民ルイ・カペーは……」――これが王の「崇高な身体」だ。同様に、男が女に向かって「自分を男として扱ってほしい」と頼むとき、男の「崇高な身体」は致命的に薄れてしまう。
この「崇高な身体」の伝統こそ、少年愛まんがから、やおい、ボーイズラブへと受け継がれたものだ。ジルベールには、男の「崇高な身体」が備わっている。
補足:
「やおい・ボーイズラブは男が好きなのではなく女が嫌い」というテーゼは180度逆であり、むしろ半端に間違った認識よりも正しい。男の「崇高な身体」を引きずり出して楽しむという快楽は、自らそれと認めるのが難しいほど、猥褻だ。
おそらく、ギャル作品を愛する人々の女好きよりも、やおい・ボーイズラブを愛する人々の男好きのほうが、はるかに強い。
今度の説は、理論的には「強姦されてハッピーエンド」よりもずっと強力な武器ではないかと思うが、プロパガンダにはまったく不向きなので、実用にはならないだろう。うーむ。
とはいえ一応磨いて、ゾンド作戦に載せておこう。なにかの役に立つかもしれない。
我ながらなにを思ったのか、アニメの「まほろまてぃっく ~もっと美しいもの~」を第5話まで見た。
みなわとまほろの関係になかなか百合テイストが出てこない理由が知りたい。
第三章を20ページで終わらせた。進捗率46%。次は少女まんがである。
第三章は現在16ページ、進捗率42%。あと少しで戦前戦後期も終わりだ。
BibTeXで文献参照をつけたりスタイルファイルを改造したりしたとはいえ、この10日間で10.8ポイントしか進んでいない。ペースを上げなければ。
第三章は現在12.2ページ、進捗率38.2%。
大塚英志が1991年と1987年に書いた、有害コミック問題・美少女系エロまんが関連の記事を読んだ。
一言で言えば、美少女系エロまんが賛歌である。論旨を要約すると、「美少女系エロまんがは表現なんてもんじゃない、ゴミで最悪でクソッタレで人権侵害で無反省で無感動で無価値で旧態依然で寄生虫で、商品としても見切りをつけられた歴史の屑。人間の屑同士が寄り集まって屑を交換しあっている糞蛸壺の糞世界のなかでだけ存在する、存在ならぬ存在、非存在の不可触なシロモノ。私が言いたいことはたった一つ、私はもうこの世界とは縁を切ったのだ」となる。これを読んだあなたはすでに、「美少女系エロまんが」なるものが読みたくて読みたくて、矢も楯もたまらなくなっているにちがいない。
だが、大塚英志は次の点を見逃していたとしか思えない――オタク文化は、こうした呼びかけをやりすごす能力のもとに成立しているので、大塚英志の感動的な賛歌は、はじめから無効なのだ。
呼びかけをやりすごすこと、これが、オタク文化の出発点である。
これに関して私は、ある感動的な逸話を聞いたことがある。98時代のエロゲー会社でのことだ。キャラがひどい目に遭いっぱなしの話を作ると、ユーザからは「××ちゃんがかわいそうです」という反応がたくさん返ってきた。そのとき以来、キャラがひどい目に遭っても、最後には幸せになれるようにしている、と。
エロ本の編集者なら誰もが知っていることだが、読者からの反応をそのまま雑誌に反映させていると、その雑誌は潰れる。エロ本とは、サイレント・マジョリティ(大文字の他者、と言ってもいい)からの呼びかけに応えて作るものである。生身の読者の声とは、サイレント・マジョリティを抽出するための素材にすぎない。そして、「もっと生々しい陵辱を! もっと後味の悪い終わり方を! もっとひどい苦痛を!」などとハガキに書いて投函する「生身の読者」など、めったにいるわけがない。だが、これこそが、サイレント・マジョリティの呼びかけていることだ。
大塚英志は、触手と男性消去のなかに、「生身の読者」をみなければならなかった。陵辱と苦痛を「ハガキに書いて投函する」ことを引き受けている人々をみなければならなかった。オタク文化とは、「ハガキに書いて投函する」人々の声だけを聞く、英雄的な(サイレント・マジョリティにとっては滑稽な)人々のものだ。
この20世紀のドン・キホーテが、今日の繁栄を迎えているという事実のなかに、私は革命の可能性をみる。
ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」を読んだ。
エロまんが・エロ小説を書くうえで、はかりしれない効用のある一冊である。その方面のかたには自信をもってお勧めする。「どうもエロいものが書けない」という悩みから、永遠に解放されるはずだ。
私はといえば、「強姦されてハッピーエンド」を、遡及的な再構成として眺めはじめている。
このイデオロギーのもとでは、強姦は愛の行為として、遡及的に再構成される。しかし本当に遡及するのは受だけだ。読者は、あとで遡及的に再構成されるということを、強姦シーンを読むときにすでに知っている。「最後の審判の視点」、「勝者の視点」、「進化論的」――スターリン主義だ。そして哀れな受は今日も、モスクワの労働組合会館の十月革命ホールで強姦されている。受の怒りと苦しみは、「客観的には」、愛の行為だというわけだ。
(ついでに言えば、「強姦シーンを読むときにすでに知っている」というところに、少年愛まんがとやおい・ボーイズラブの決定的な違いがある。たとえばジルベールとオーギュの関係は、遡及的に再構成されないまま終わったし、読者もそんなことを期待していなかった)
受が男でなければならない理由を、安全保障上の問題だけに求めるのは間違っているだろう。遡及的な再構成にとって、男根はうってつけの装置である。だとすると、受の男根への関心が、やおい・ボーイズラブ論を量るうえでの重要なポイントになるだろう。
BibTeXと再び格闘している。
目星をつけておいた戦前・戦後の少女小説をいくつか通読した。クリティカルヒットはない。この調子だとどうも、吉屋信子「冬をめづる子」が戦前戦後期では最強かもしれない。
第三章は現在11.3ページ、進捗率37.3%。
「リボンの騎士」の少女倶楽部版と「なかよし」版を読み比べた。ヘケートが可愛くなっていること以外、すべてにおいて少女倶楽部版のほうが上だ。
百合はといえば、「なかよし」版は正編に、少女倶楽部版は続編の「双子の騎士」に、それぞれ一応あったが、どちらも男と思って惚れた話である。
第三章は現在10.2ページ、進捗率36.2%。
昨日の続き。
映画「ボギー! 俺も男だ」の読解を、ボーイズラブに重ねてみる。まずはその映画について。
「ボギー! 俺も男だ」の主人公・アランは、ハンフリー・ボガート(ボギー)にあこがれ、ボギーのように振舞いたいと思いながら実現できずにいる(想像的同一化)。しかし最後にアランは、映画「カサブランカ」におけるボギーの役回りを演じることで、ボギーに象徴的に同一化する。この象徴的同一化によってアランは、ボギーへの想像的同一化のありかたを変容させる。
さて本題である。ボーイズラブにおいて受が男であるのはなぜか?
「自己同一化の第一層・第二層」の理論によれば、性別の違いによって、「もし主人公が私なら」という問いが不問に付される(第二層の自己同一化)。ボーイズラブの受がしばしば、自分を強姦した相手を愛するようになるのは、このためだ。ただしこの理論は、現象を記述したものにすぎず、問いが不問に付されるメカニズムについてはなにも言っていない。
「自我理想と理想自我」の話を使えば、このメカニズムを記述できるかもしれない。
ボーイズラブの読者は、性別の違いによって、受との象徴的同一化がありえないことを保証されている――これが重要な点だ。受が女であってはならないのは、アランのように象徴的同一化の機会が訪れてしまうかもしれない、つまり強姦されるかもしれないからだ。もし女版の受に想像的に同一化していたら、自分を強姦した相手を愛することになる。安全保障上、こんなことは到底認められない。(……と思っていたが、安全保障説では刑部真芯の人気を説明するのが難しい。もしかして現在の女子中学生の多くにとっては、強姦のリスクは隕石と同程度だと感じられているのだろうか)
象徴的同一化がありえないことを保証された上での想像的同一化こそ、第二層の自己同一化である――と言ってみたところで、ほとんど進歩していないような気がする。うーむ。
ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」を読んでいる。
もし邦訳のタイトルを、「ラカンがこんなにわかっていいのかしら」にしたら、10万部は売れたにちがいない(嘘)。
「自我理想と理想自我」の話はそのまま自己同一化の第一層・第二層に対応するかもしれない。たとえば、ボーイズラブに登場する女性キャラのイメージは、妙に断片的で、ひとりの人間としての全体像たりえていないことが多い。これは、なにかの結果ではなく、まさにこれこそが目指されている。断片化され全体像を持たない女性キャラ(=自己)のイメージをもたらしてくれる視線への象徴的同一化こそ、ボーイズラブを成り立たせ動かしている――
と一瞬思ったが、やはり無理だ。うーむ。
第三章は現在7.3ページ、進捗率33.3%。
STLportをそのままVC6で使うとメモリリークするらしいぞ。対策は各自Googleで。
第三章は現在5.3ページ、進捗率31.3%。
「不純血説」の本家本元をつきとめた。Waldstein, E. and Ekler, R.Wiener klinische Wochenschrift n.42, pp.1689-1692 (1913)である。この号は1913年10月16日に発行された。タイトルは'Der Nachweis resorbierten Spermas im weiblichen Orgasmus'。
ところで私はドイツ語ができない。ううう。
第三章はいよいよ「エス」である。現在1.5ページ、進捗率27.5%。
世の中には、忙しくなるとなぜか部屋を掃除しはじめる人がいるらしい。私の場合は、メモリリークを追及しはじめる。
とりあえず今日は、VC6とstd::vector(STLport、バージョン不明)とCStringとテンプレートの食い合わせが悪いらしいところまでわかった。こうやって並べてみると確かに、腹を壊しそうな組み合わせだ。
第二章を13ページで終えた。進捗率26%。
西在家香織派はマリみてオンリー即売会「姉妹宣言」(4月13日大田区産業プラザにて開催)に、廃屋譚さんと合体でサークル参加を申し込む予定です。
長谷敏司の「天になき星々の群れ」(角川スニーカー文庫)が百合との情報を受け、入手した。が、まだ読んでいない。
第二章は現在11ページ、進捗率24%。
都内某所にて、とある大日本ちんこ大好き党員と会談した。
ふたなりがエロに封じ込められており、萌えに進出できないことを氏は認めた。が、百合と萌えの関係について、氏は興味深い警告を残していった。すなわち――萌えは、勃起-射精する身体にいつでも逃げ込めるという前提のもとでのみ成立する卑怯な感情移入形式であり、百合はその卑怯さを欠いている点で萌えとの親和性に疑問がある、と。
氏の言わんとしたことが、いまだにうっすらとしか理解できない。うーむ。
国家指導者は、馬鹿なのも困るし、気が短いのも困るし、嘘つきなのも困るしで、もし消去法で落としていくと適格者がほとんどいないようなポストだが、なんといっても最悪なのは、運が悪いことだ。運が悪いことには、原因がない。だから対処のしようもない。
この観点からいうと、ブッシュ大統領はおそらく、過去70年間で最悪の大統領だといえる(つまりフーバー以来)。9・11を食らうわ、オサマ・ビン・ラディンの消息はつかめないわ、経済は危険水域に突入するわ、スペースシャトルは落ちるわ、である。
これらの問題のどれひとつ取っても、ブッシュの決断から出てきたものではない。9・11はレーガンが蒔いた種だし(私はレーガンを許さない)、オサマ・ビン・ラディンの追跡はほかにやりようがなかったし、経済はむしろ難しい状況をうまくなだめすかしているとも取れるし、スペースシャトルは一朝一夕に生じた問題ではない。
そんな彼が目下夢中になっているのは、もちろんこれだ。
世論工作担当者に訊いてみたい。いったい、これだけ情報をつかんでいるのに、イラク上空を自由に飛行する能力があるのに、もし査察官が行く手を阻まれれば強力な状況証拠として提出できるのに、なぜ完璧な証拠をつかむことができないのか?
イラク占領後、これといった証拠を探し出せなかったらどうするつもりなのか? 証拠を捏造するとしても、情報機関は信頼できるのか? アメリカがなにをしても孤立することはありえないと、本気で信じているのか?
大統領の椅子の上でじっとしたまま、運の悪さだけを全世界に見せつけて沈んでゆくのでは、ブッシュも耐えられないだろう。が――それを耐えるのが指導者だ。
第二章は現在6ページ、進捗率19%。
「少女の友」を1953年までチェックした。
1945年7・8月合併号が泣かせる。そのへんの敗戦文学などとは同日には論じられない。
1950年は百合的に見どころが多い。三木澄子は、生徒たちが新任女教師を「
1951年には、西條八十が「アリゾナの緋薔薇」なる少女西部劇を連載している。カウボーイの格好をして父の仇を追う少女と、彼女に憧れる主人公の少女という趣向である。
1952年からは、はっきりとパワーダウンを感じる。同時期の少女倶楽部がビジュアル化を進め、ますますパワーアップしているのとは対照的だ。
1953年には少女倶楽部で「リボンの騎士」の連載が始まった。おそらく、これで勝負がついた。「少女の友」は1955年、廃刊した。
ところで読者諸氏はGAOをご記憶だろうか。
橋本治の「江戸にフランス革命を!」を読んだ。
どうやら私は栗本薫先生の小説をよくわかっていなかったらしい、ということがわかった。近世の、それも化政期以降の江戸文化なのだ。
私は江戸どころか日本がいまだによくわかっていない。田舎も都市もよく知らない、マチダ系の人間である。次の週末もまたきっと、予備校の看板を眺めながら小田急の踏切を渡って、三つの古本屋を巡るだろう。
戦略ミスで一回休みである。日本経済史はすべて飛ばすことにした。進捗率16.7%。
スペースシャトルがまた落ちた。
国別のロケット打ち上げ回数でいえば、アメリカはロシアの半分以下だ。さらに、現役の有人宇宙ロケット(ソユーズとスペースシャトル)の打ち上げ回数では、その差は十倍以上になる。100回や200回しか飛ばしていないものが、2回や3回落ちるのは当たり前、とも言える。
が、根本的なところで、アメリカ人にはロケットの才能がないような気がする。有人宇宙開発のような途方もない金の無駄遣いをやらかす才能が、アメリカ人にはないのだ。
いま、有人宇宙開発を投資としてみれば、核融合炉よりも分が悪い。核融合炉はエネルギー価格の高騰で浮上しうるが、宇宙空間での人間活動が浮上するとしたら、およそ想像を絶するなにかが起きたときしかない。有人宇宙開発は、経済でもなく科学でもなく、象徴の世界の産物である。自分こそ世界のナンバー1だと心の底から確信している人間が、自発的に象徴を求めるものだろうか。
前世紀には、面白いように博打に負けつづけていたソ連だが、今世紀も負けてばかりとは思えない。ロシアが連勝すれば、世界は変わるだろう。
今のお前の行動には
魔女っ子として
してはならんことが
7つも
含まれている!
(高坂りと「プラネット・ガーディアン」1巻より)