中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

2003年1月31日

 またアフガンで米軍のヘリが落ちましたな、治安もいっこうに回復しませんな、アルカイダより先に麻薬を根絶しないとどうにもなりませんな、麻薬根絶には軍閥根絶ですな、軍閥根絶には……  などとつぶやく今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。

 先日、カブール時代の友人から手紙が届いた。このまま収まったら奇跡だという雰囲気が、行間から滲み出ている文面だった。さて。


ゾンド作戦

 第二章は現在3.6ページ、進捗率16.6%。

 これは文字だけの数字なので、図版を入れると進捗率17%になるはずだと気休めを言ってみる。

1月30日

ゾンド作戦

 第二章は現在1.7ページ、進捗率14.7%。

 順調に遅れはじめている。ううう。

1月29日

ゾンド作戦

 第一章を書き終えた。全8ページ強、進捗率13%。

 第二章からは、いよいよ近代日本である。

1月28日

ゾンド作戦

 引き続き第一章を書いている。現在までに6ページ、進捗率11%。

 Xイデオロギーの試案がついにまとまった(というより時間切れになった)が、ここで説明する余裕などあるはずもない。説明のかわりに、暗号化しておこう――「〈その場かぎりのセクシュアリティ〉の支配の崩壊後に訪れる〈親密性〉イデオロギーの支配に対して、抵抗する身振りを通じた服従」。ヒント:ギデンズ、ジジェク。

1月27日

ゾンド作戦

 引き続き第一章を書いている。現在までに4ページ、進捗率9%。

 第一章だけで8ページになりそうな気がしてきた。うーむ。

1月26日

ゾンド作戦

 序説(5ページ)を書き終え、第一章「色情狂と張形」を2ページ書いた。進捗率7%である。

 残り50日弱で100ページ書くのだから、1日2ページ書かないと間に合わない計算だ。うーむ。

1月25日

ゾンド作戦

 永久保陽子の「〈やおい小説〉論 序論」(専修国文65号)を読もうとしたら、西村マリの「アニパロとヤオイ」以下な気配を感じたので、読みつづけるのをためらっている。やおい・ボーイズラブ論にもっとも大切なもの――メシアニズムが欠けていることが、冒頭の数行ですでにわかる。

 やおい・ボーイズラブを弁護すべきではなく、やおい・ボーイズラブによって世界を救済すべきなのだと、いつになったら理解するのだろう。「やおい・ボーイズラブのない世界は不完全であり病んでいる」と確信するのでなければ、やおい・ボーイズラブ論など書かないほうがいい。

1月24日

 スーザン・J・ネイピアの「現代日本のアニメ」を読んだ。

 おおむね外れていない。何を書いても嘘にはならないようなことしか書いていない――つまり、ウテナやナデシコやプリティサミーを完全無視するたぐいの議論――ので、むしろ外れてくれたほうが面白いのだが。

 そんななかで大外れしているのが、エロアニメを論じているくだりである。アメリカのotakuが、「うろつき童子」でエロアニメを論じるような哀れな植民地人であることはよく知られている。その上さらにエロゲーのアニメ化が大流行の現在、この本に書いてあることはすべて間違っていると言っても過言ではない。はたして彼らがピンクパイナップル全般を論じる日は来るのだろうか。


 小谷野敦の「片思いの発見」を読んでいる。

 以前にも感じたことだが、著者は、男性異性愛を考えるうえでの男性同性愛文化の影響を軽視している。男性異性愛は男性同性愛のパロディではないか? 似非カント的な性=人格論は男色のパロディではないか?  女は、若衆・陰間のパロディではないか? と疑ったことがないのだろうか。

 エロまんがのふたなりに幾度となく苦渋をなめさせられてきた私は、大日本ちんこ大好き党(総裁・上連雀三平)の恐るべき党勢をよく知っているし、男性異性愛にも深い疑惑を抱いている。とはいえ、男性異性愛も男性同性愛も私の守備範囲ではないので、疑惑を抱くだけで終わりなのだが。

1月23日

ゾンド作戦

 新聞記事データベース(朝日、毎日、日経)でセラムンブームを調べた。

 セラムンブームが、女児向けアニメという狭い枠のなかでのものだったことを、改めて思い知った。アニメの視聴率は最大で16.3%だったが、「クレヨンしんちゃん」は40%を超えている。

 とはいえ、さすがにエヴァごときは一蹴である。エヴァの最高視聴率は10%、「経済効果」という怪しい数字でさえ500億円にも達しないが、セラムンの関連商品の売上累計は3500億円である。

 セラムンブームがピークに達したのは1995年の初頭、Sの終わりの頃である。どうやら、ちびうさは支持されなかったらしい。やはり子供たちはちびうさよりも、はるかとみちるを好んでいたのだ。当時小学生だった彼女たちもそろそろ同人盛りに突入し、百合の未来はますます明るい。

 今回、三紙をまとめて検索したが、やはり朝日の記事が質・量ともに飛び抜けて優れている。日経は、5回シリーズで武内直子にインタビューしているのが見逃せない(1995年10月2日から)。

1月22日

ゾンド作戦

 1919~28年の「少女の友」をチェックした。

 最初のうちは同人誌もどきのシロモノだったのが、「少女倶楽部」の登場(1922年末)の後、内容が充実してゆく。少倶(少女倶楽部)との比較でいえば、パワーの少倶、スタイルの少友(少女の友)といったところか。

 充実したあとの誌面は、少倶よりはるかに洗練されている。まず挿絵が垢抜けており、都市文化の香りを漂わせる。次に、当時の講談社お得意の自慢がない。当時の講談社が自慢することといったら、「面白くて為になる」どころではない。「先生に褒められる」、「少倶さえ読んでいれば女学生にひけをとらない」――これはたとえ話ではなく、実際にこう書いている。

 そして、なにより、百合が多い。たとえば、1927年2月号の井上康文の「かくれんぼ」。美佐緒という年下の娘を愛している主人公(ゆき子)が、

美佐緒が可愛らしい声で「ようーし」と云つたとき、ゆき子は思はず美佐緒をぐつと抱きしめた。熱い息が二人の顔を包んだ。

 などとやっている。その後、主人公は失明して、

「(中略)美佐緒ちやん、もつと傍へ来て頂戴、……美佐緒ちやんはあたしを嫌ひ?」

 ――あら、あたしお姉さまを一番好きよ。」

 ――さうありがとう。」

 ゆき子は美佐緒を抱きながら、さびしく笑つた。

 という会話を交わす。また、実の妹(きく子)と美佐緒が仲良くしているのを見れば、

それを見ると急に美佐緒が憎くなつて来た。なんだかうんと虐めてやりたいやうな気がした。

 という具合で、本当なら全文掲載したいような、すさまじい萌え小説である。

 美佐緒という萌え名前が当時すでに発見されていたのも驚きなら、失明(当時、視力障害物が大流行しており、後に川端康成も「美しい旅」を書いている。ヘレン・ケラーの影響か?)でTHSというネタを当時すでにやっているのも驚きだ。

 以前から薄々感じてはいたが、やはり百合はロストテクノロジーなのだ。

1月20日

 ここ数年、iモードが面白いように次々とボロを出している。

 ドコモの「iショット」、画像の閲覧回数を制限


 私が「超昂天使エスカレイヤー」に納得できない理由を発見した。

 地球だろうが宇宙だろうが、「守る」という動機自体が後ろ向きなので、気に食わない。そんな動機を言い訳に使われては論外だ。

 言い訳は派手なほどいい。せめて、「使徒パウロを説き伏せてキリスト教の教義を変えてやる」とか、「猫に猫語を教えて猫革命を起こしてやる」くらいのことは言えないのか。

1月19日

 エロゲーの「超昂天使エスカレイヤー」をクリアした。

 普通に面白い。が、その面白さに納得できない私がいる。なぜこのままではいけないのか、おそらくはそれを証明するために、革命が必要なのだ。


 雑誌コバルトの今月号を読んだ。

 「蔦子=マリみて世界最後のオリエンタリスト」説がますます信憑性を帯びてきた。(オリエント=リリアン女学園)

 マリみては、最初はオリエンタリズムそのものだったのが、巻を重ねることでまさにオリエンタリズム的な問題に直面し、その結果として現在のような姿になっている。サイードが、オリエンタリズムを打破する上で文学の役割を強調したのは実に的を射ていた。

 さらに言えば、実物との一致を検査する装置を持たないイメージがどれほど強靭なものかを示す例証でもある。リリアン女学園というオリエントは存在しないので、オリエンタリストはその権威を保てず、オリエンタリズムは「萌え」によって打ち負かされる。

 この観点からすると、「乃梨子、オリエントと出会う」という話だった「銀杏の中の桜」をどう消化するか、という問題が目下の焦点である。

 (ちなみに、現在の学習指定物件リストのマリみての紹介は、マリみてがオリエンタリズムそのものだった時代を強く反映している)

1月18日

 あまりの不見識、あまりに幼稚な自意識過剰、あまりに浅薄なスノビズムに出くわすと、人は、ただ我が身を省みる。相手を非難しても愚かであり、反面教師として役立てるほかないからだ。こういう体験を容易に、頻繁に、ごく短時間のうちに起こしてくれるものがある――同人作家のペンネームだ。

 (ペンネームがひどいからといって作品も同じかというと、ただ幼稚なだけで反面教師にもならないことが多いのは面白い。マッハで突き刺さるような作品は、たいてい作者のペンネームは比較的おとなしい(例:尾○南))

 特に、ジャンプ系やJUNE系には、そのようなペンネームが多い。事の性質上、ここで実例を挙げるのは憚られるが、読者諸氏にも心当たりがあることと思う。

 問題:そのようなペンネームのなかでも、極めつけにひどいものを考案せよ。

 私の解答:「天皇陛下」。

1月17日

ゾンド作戦

 「少女倶楽部」のチェックを終えた。

 手塚治虫の「リボンの騎士」が、1950年代の少女雑誌に載っていると、どれほど輝いて見えるか――筆舌に尽くしがたい。そのページだけが、生命を備えているのだ。

 他のまんが家がみな、少女の脚をまるで棒のように描いているのに、手塚ひとりだけが、柔らかそうなふくらはぎを描く。体の動きが、キャラの主観ではなく客観で描かれる。そしてもちろん、パーソナリティとジェンダーをめぐるパニック――鳥肌が立つほどエロい。

 川端康成の小説もひときわ輝いていたが、手塚治虫はそれを上回っている。

1月16日

 今月13日の続き。

 まず、これまで全世界で作られた映画のすべてについて、その制作に携わった人と資本を調べ上げる。次に、作品同士のあいだでの人と資本の関連を洗い出す。すると、映画制作に携わる人と資本の関連が、いくつかのセンターに集中していることがわかるだろう。

 たとえば、ジョージ・ルーカスを中心としたセンターや、宮崎駿を中心としたセンターが見出されるだろう。もう少し巨視的なレベルで見れば、コロムビア映画や東宝が見出されるだろう。もっとも巨視的なレベルで見たとき、もっとも巨大なセンターは、ハリウッドのはずだ。

 この集中を根拠として私は、「ハリウッド的生産様式」なるものがある、と主張することができる。また、人と資本の関連の連続性が文化の連続性を作り出し、文化を再生産するものだから、という理由で、「ハリウッド流のコメディの文脈」なるものがある、と主張することができる。また、人と資本の緊密な関連を根拠として、映画「ホーム・アローン」の制作がハリウッド的生産様式にもとづいていたと主張することができるし、「ハリウッド流のコメディの文脈」を再生産したと主張することができる。

 この理屈は、一見すると申し分なく客観的に見えるが、実はそれほどでもない。

 たとえば、なぜ私は、映画制作において人と資本を重視するのか?

 おそらく、数秘術の信奉者は、私の見方を鼻で笑うだろう。数秘術の信奉者は知っているのだ――映画制作において第一義的な意味を持つのは、人や資本ではなく、フィルムのコマ数なのだと。

 また、カバリストに言わせれば私の見方は、存在の真理に迫っていない浅薄なものだろう。カバリストは知っているのだ――映画のタイトルやセリフの語句をカバラ的に操作しなければ、その作品の真の意味は見えてこず、存在の表面をうろつくだけに終わるのだと。

 さらに、陰謀論者は言うだろう――表に出てきた人と資本の関連に目をくらまされてはならない、映画のあちこちに隠されたサインを読み取って、世界経済の真の原動力に迫らなければならない、と。

 彼らを論駁することは不可能だ。私の資本主義的な見地は、数秘術やカバラや陰謀論よりも人気がある、というだけにすぎない。

 こうした数秘術やカバラや陰謀論よりも、今月13日の日記で述べた「証明」のほうが、いっそうおぞましく受け入れがたい。なぜか?

1月15日

 文庫ベストセラーリストにコバルト文庫が入っていない。言われてみれば、2000年にも2001年にも、12月末発売分のコバルト文庫はランク入りしていない。

 というわけで、マリみてブームの経済規模の算定は、もうしばらく先のことになる。ちなみに私は、現段階ではレーティング1200はいかないと踏んでいる。当然、野梨原花南やミラージュにはまったくかなわないし、前田珠子や「楽園の魔女たち」にも負けるだろう。


ゾンド作戦

 「少女倶楽部」チェックはついに戦中戦後に突入した。

 噂どおり、1937年の日中戦争勃発が断層になっている。1942年は1937年の続きでしかない。

 対米戦争の記事は、よく読むと、日本がどうやっても勝てないことがわかる仕掛けになっている。当時のマスコミも、実情を伝えるべく精一杯努力していたらしい。たとえば1944年1月号の記事では、アメリカの状況として、排水量6万トンの戦艦(モンタナ級)5隻の建造がキャンセルされたことや、全58隻50万トンにのぼる空母建造計画について触れている。

 いま私は、歴史として物事を見る人間の気安さで、なんの不思議もなく「排水量6万トンの戦艦5隻」「全58隻50万トンにのぼる空母建造計画」と書いた。しかしこれは、当時の読者にとっては、「全国民がプールとガレージとピアノつきの家に住む」だとか、「アラビア半島を緑化して穀倉地帯にする」だとか、それくらい現実味の乏しい誇大妄想に思えたに違いない。

 開戦時に現役だった日本の戦艦は10隻、しかも戦争直前の基準で戦艦といえば4万トン程度が相場だった(たとえば1940年竣工のビスマルクが4万トン少々)のが、6万トンである。これだけでもSFの趣が漂うところを、5隻まとめて、とくる。空母はさらにすさまじい。開戦時に現役だった日本の空母は、9隻19万トンだった。

 記憶力のいい軍国少年なら、この数字を比較して、「一騎当千」を実行しなければ勝てないことに気づいただろう。しかし、「一騎当千」も「排水量6万トンの戦艦5隻」も「全58隻50万トンにのぼる空母建造計画」も、同じくらい妄想的だったので、さほど深刻に悩まなかったかもしれない――問題は、アメリカの計画が妄想ではなく実行されたことだった。

 (さらに問題を付け加えると、物量で圧倒されたことよりも、海上交通路の寸断や科学技術力の格差で圧倒されたことのほうが致命的だった)

 表紙イラストの少女の顔が、敗戦を境に、急にバタくさくなるのが面白い。このため、戦後よりも戦前の絵のほうが、現在の萌え絵に近いものがある。

1月14日

 新年に入って2回目の火曜日だというのに、文庫ベストセラーリストが更新されない。マリみて新刊の順位が知りたいところだというのに、ううう。


 Yahoo!ニュースで「自衛官 わいせつビデオ出演」という見出しを見た瞬間、すわ自家製ゲイAV摘発かと思い込んだ今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。

1月13日

 今月10日の続き。

 コロンバス監督がソフトポルノの文脈と関わりを持ったと考える根拠は、どの程度存在するのか?――私は多数決を取ろうというのではない。

 映画「ホーム・アローン」を見た人にアンケートを取って多数決を取れば、ソフトポルノ説は圧倒的多数で棄却されるだろう。だが、今までに2つの前提をみてきた。第一に、幼児性愛者にとっては映画「ホーム・アローン」はまさしくソフトポルノであり、これを否定することはできない。第二に、作品の影響力を作者の責任に帰することはできない。多数決では幼児性愛者の見方を否定できないし、観客の意見からではコロンバス監督の活動を計ることはできない。

 コロンバス監督がソフトポルノの文脈と関わりを持ったと考える根拠は、どの程度存在するのか? その根拠は、フィルムのなかではなく、コロンバス監督の活動のなかに見出す必要がある。

 「関わりを持つ」ことの内容を、もう少しつぶさに検討しよう。

 ハリウッド的生産様式は、文化的な力や利害を通じて、コロンバス監督を動かした。ここには三者が登場している。すなわち、関わりを持つ相手、関わりのありかた、関わった結果、である。同じことを、ソフトポルノの文脈について言えるだろうか。

 関わりを持つ相手は、ソフトポルノの文脈を再生産するシステムである。これを仮にソフトポルノ的生産様式と呼ぼう。では、関わりのありかたは?

 現代アメリカ社会に生きる人間として、コロンバス監督がソフトポルノ的生産様式からまったく文化的な影響を受けなかったことはありえない。それでは、利害は?

 もしかすると、映画「ホーム・アローン」の封切り前日に、製作スタッフのあいだで、こんな会話が交わされたかもしれない。

ジョニー「なあマイケル、僕は心配で眠れないんだ。もし明日、映画館に一人もお客が入らなかったら? って、そればかり心配でさ」

マイケル「一人も入らない? たとえ太陽が西から昇っても、それだけはありえねえさ。あまりたくさんはいないが、必ず来てくれる奴らがいる」

ジョニー「必ず来てくれる奴らって、君のハイスクールの同級生かい?」

マイケル「HAHAHA、ま、安心しろ、ジョニー。たとえ核ミサイルが降ったって、奴らは来る――小児性愛者がな!」

ジョニー「HAHAHAHAHA!(アメリカ笑い)」

 もし現実にこんな会話が交わされていたら、これを根拠にして、映画「ホーム・アローン」はソフトポルノ的生産様式からの利益にもとづいて製作された、と証明することができる。

 関わった結果? 少年が映っているフィルムが作られ、世界中に配給された、それで十分ではないか。

 ――以上の「証明」は、おぞましいほど病的だ。なぜか?

1月11日

ゾンド作戦

 引き続き「少女倶楽部」をチェックしている。

 川端康成は「乙女の港」一発ではなく、それ以前にも百合を書いていたことがわかった。1933年7月号の「夏の宿題」は特に百合テイストが強い。二人姉妹がリゾート地で夏休みを過ごしながら、二人の慕っている学校教師に手紙を出すという趣向の書簡体小説である。

 1933年9~12月号の「学校の花」は、全体が百合というわけではないが、導入部がすごい。

千花子がおしやべりする時は、赤ん坊みたいに、唇から涎が流れさうに可愛いのです。

千花子のこんな口許を見てゐると、上級生は無論のこと、同じ一年生でも、千花子のお母さんかお姉さんになりたいやうな気持にされてしまひます。

 「天然」という言葉の意味を知ったような気がする。

1月10日

 昨日の続き。

 映画「ホーム・アローン」の監督を務めることで、クリス・コロンバスはなにをしたのか?

 この問いに答えるために、私は彼にインタビューを試みるべきだろうか。彼がなにをしたかは、彼の主張なしにはわからないのだろうか。

 だとすれば私は、シェイクスピアがなにをしたか、言うことができない。シェイクスピアがユダヤ人差別の再生産に責任がある、と言うこともできなくなる。昨日述べたように、作品の影響力は、シェイクスピアの責任ではないのだから。

 コロンバス監督がなにをしたかを考えるには、彼が自分の周囲とどのように関わったのかを検討すればいい。たとえばシェイクスピアはユダヤ人差別と関わりを持ち、「ベニスの商人」にその影響を残した。

 コロンバス監督の最大の関わりはもちろん、ハリウッドと結ばれている。

 ハリウッド的生産様式とハリウッド流コメディの文脈は、密接に結びついている。なぜ「ハリウッド流コメディの文脈」なるものが存在するのかといえば、ハリウッド的生産様式がそれを再生産しているからだ。そして、ハリウッド的生産様式で作られた映画「ホーム・アローン」が、ハリウッド流コメディの文脈から縁遠いと主張するのは難しい。そんな作品を作り出そうとすれば、特殊な意志と人物が必要とされる。支配的な生産様式に逆らうには、莫大なエネルギーが必要だからだ。また作品にもその痕跡をとどめるだろう(でなければハリウッド流コメディの文脈から外れようとした意味がない)。ハリウッド的コメディの文脈に慣れている非常に多くの人々が、火を見るように明らかにそれをスクリーンに認めるだろう。

 映画「ホーム・アローン」の監督としてコロンバスが、ハリウッド流コメディの文脈と関わりを持ちそれを再生産したと考える根拠は、これほど膨大である。

 対して、コロンバス監督がソフトポルノの文脈と関わりを持ったと考える根拠は、どの程度存在するのか?

1月9日

 読者諸氏に朗報、というより私が情報に疎かっただけかもしれないが、とにかくいい知らせである。

 2002年12月に、吉屋信子の「暁の聖歌」が、ゆまに書房から出版されていた。「吉屋信子少女小説選 1」とあるので、続刊の予定があるらしい。


 昨日の続き。

 シェイクスピアにまったくなんの責任もないと考えるのは、あまりにも難しい。シャイロックの人物像とユダヤ人差別のあいだの因果関係は明らかだし、シャイロックの人物像がユダヤ人差別を無批判に反映していることも明らかだ。また彼は、「ベニスの商人」のかわりに、ユダヤ人の出てこない作品を書くこともできた。

 しかし責任の有無だけを問題にするなら、当時のロンドンに生きた非ユダヤ人のほとんどが有責ということになる。民族差別問題などほとんど意識されない当時、一生のあいだユダヤ人について一度も軽口を叩かないような人はごく少数だったはずだ。このような世界で有責などという概念が、どれほどの意味を持ちうるだろう。責任の大小こそ問われなければならない。

 シェイクスピアは、その与えた影響の巨大さゆえに、いっそう大きな責任を負うだろうか?

 ユダヤ人への憎悪をむきだしにした作品ばかりを書き、あっという間に忘れ去られた劇作家が百人も束になったよりも、シェイクスピアひとりのほうがずっと責任が重い、といえるだろうか?

 歴史のいたずらで、シェイクスピアがちょっとした演劇人として終わり、「ベニスの商人」もロンドンで短期間上演されただけの芝居にすぎなかったと仮定してみよう。彼の行動にも字句にも、なにひとつ違うところがないのに、ただ歴史のいたずらで別の運命をたどったと仮定してみよう。それで彼の責任に違いが生じると考えるべきだろうか?  到底受け入れがたい話だ。

 彼は存命中には、文学の巨人などではなく、成功した演劇人にすぎなかった。では、巨人としての影響力を、「成功した演劇人」レベルにスケールダウンして考えればいいのか?

 とすると、スケールダウンして縮んだぶんは、どこに消えるのか。シェイクスピアの偉大さに感じ入ったすべての人々に分散されるのか。これは「一億総懺悔」式のごまかしであるばかりではない。人間の偉大さを、その手の白さで測ることでもある。

 確認しておこう――作品の影響力は無関係だ。シェイクスピアの責任は、彼が実際に行ったことのなかにのみ求められる。同僚やスポンサーとの対話、劇団の人事、広告の手配、つまり、舞台づくりのなかに。彼は、偉大な文学作品としてではなく、舞台づくりに必要な役者への指示として脚本を書いた。

 そのような脚本を書くことは当然、ロンドンの市民ひとりが軽口を叩くことよりは重い意味を持つだろう。が、市民一万人の軽口と比べたときには、どうか。一万人で足りなければ、十万人では。 百万人では。

 以上の意味において、映画「ホーム・アローン」の監督クリス・コロンバスは、なにをしたのか?

1月8日

 昨日の続き。

 私の目には、映画「ホーム・アローン」はハリウッド流コメディと映る。同じものが、小児性愛者の目にはソフトポルノと映る。二人は同じ映画を見ていながら、違う作品を見ているのに等しい。

 映画「ホーム・アローン」の監督はクリス・コロンバスである。私にとってはコロンバスは、コメディ映画の監督である。もし小児性愛者の見方を尊重するなら、小児性愛者にとってはコロンバスは、ソフトポルノ映画の監督だといえるだろう。

 なにかがおかしい。

 もちろん、ある人間のある行為が、見方によって善行にもなれば悪行にもなるのは当然である(行為事実の詳細について常に意見の一致がみられるとは限らないが、少なくとも私と小児性愛者のあいだでは、「映画『ホーム・アローン』はクリス・コロンバスが監督した」という一点については合意できるだろう)。だがここには、それ以上の問題がある。

 クリス・コロンバスは映画「ホーム・アローン」の監督を務めた――ということは、彼は実際にはなにをしたのか?

 彼の仕事の詳細を思い描いてみよう。プロデューサーと火花を飛ばし、脚本家と粘り強く意見交換し、撮影計画をやりくりし、撮影スタッフに指導力を発揮し――そうすることで、彼はなにに関与し、どんな影響を与えたのか?

 私が問題にしているのは、彼が自分の仕事をどう考えているか、ではない。この場合、「あれがソフトポルノ? まあ、そんな見方をする連中もいるかもしれんね。そんな連中にビビって撮りたい映画も撮れないようじゃ、ハリウッドどころかハイスクールのコンテストにも出られないぜHAHAHAHA!(アメリカ笑い)」というようなコメントから得られるものはなにもない。

 彼はなにに関与し、どんな影響を与えたのか? この問題について、ごくわかりやすい例を挙げよう。シェイクスピアの「ベニスの商人」だ。

 読者諸氏はご記憶だろうか、高利貸しのシャイロックが、ユダヤ人だということを。シャイロックの人物像が、当時のユダヤ人差別をそのまま反映していることをご存じだろうか。

 シャイロックの人物像のせいで、「ベニスの商人」はユダヤ人にとって不快な作品になっている。実際、イスラエルでは建国以来、「ベニスの商人」は一度も上演されたことがないという。作品が不快であるばかりではない――シャイロックの人物像のせいで、ユダヤ人差別は再生産された。

 とするとシェイクスピアは、ユダヤ人迫害のいくばくかに対して、責任があるのか?

1月7日

お知らせ:

 西在家香織派はマリみてオンリー即売会・薔薇と十字架(3月9日池袋にて開催)に、廃屋譚さんと合体でサークル参加を申し込む予定です。


 昨日の続き。

 「メイド」萌えのギャル作品をメイド実在世界に持ってゆき、人々に見せたとき、なにが起こるか?

 突拍子もない仮定ではある。だが、現実に起こる事態はさらに突拍子もない。

 10歳前後の少年に性的魅力を感じる小児性愛者が、映画「ホーム・アローン」を見たとき、なにが起こるか?――ハリウッドのコメディ映画が、ソフトポルノになるのだ。繰り返すが、これは仮定の話ではない。小児性愛者自身の証言が、ケン・プラマーの著書「セクシュアル・ストーリーの時代」に出ている。

 私にとって、またおそらく読者諸氏の大半にとっても、映画「ホーム・アローン」の主人公は、ハリウッド的な「子供」の代表=表象である。小児性愛者の目にもそれはやはり、「子供」の代表=表象と映るだろう――ただし、ハリウッド的ではなく、ポルノ的な。

 この転換が起こる仕組みは、文脈によって説明できる。

 現代日本の多くの人々は、ハリウッドの映画産業が作り出した文脈に沿ってハリウッド映画を見る。小児性愛者にとっては、少年の性的魅力が、ハリウッド的文脈を凌駕する。少年の性的魅力を中心とする文脈をみずから生み出し、それによって作品全体を作り変える。そのような小児性愛者が、映画「ホーム・アローン」のポルノ的な素晴らしさを力説するのを見てみたい。おそらく私にとっては、彼の見方は、独創的だがあまりにも恣意的でナンセンスと思えるだろう。だが、彼の見方を、彼の興奮と感動を、「ありえない」と主張できる人間はいない。

 小児性愛者が見るとき、映画「ホーム・アローン」がソフトポルノであることは、誰にも否定できない。

 仮定の話に戻ろう。「メイド」萌えのギャル作品をメイド実在世界に持ってゆき、人々に見せたとき、なにが起こるか? このとき、ギャル作品に登場する「メイド」は、現実に存在する人間(メイド)を代表=表象していることにならないか?

 答はおわかりだろう。ギャル作品を見る文脈を、オタク文化からメイド実在世界へと切り替えた以上、なにが起こってもおかしくない。文脈が切り替えられたとき、作品全体が作り変えられたのだ。もしメイド実在世界の人々が、「ギャル作品に出てくるメイドは、現実の人間(メイド)を代表=表象している」と感じたとしたら、それは誰にも否定できない。

 映画「ホーム・アローン」をハリウッド流コメディとする見方と、ソフトポルノとする見方。ギャル作品に登場する「メイド」は現実の人間を代表=表象しないという見方と、代表=表象するという見方。いずれも、一方の存在によって他方を否定できるものではない。

 だとしたら、両者は等価であり、いかなる場合にも優先順位やヒエラルキーはなく、中立的な立場からはまったく区別がつかない――といえるのか?


ゾンド作戦

 春画(エロ浮世絵)について調べた。

 江戸時代は、美術表現や経済は花開いたが、思想や文学については「暗黒の近世」と呼びたくなるような代物である。なにより恐ろしいのは、批判精神というものがまるで欠けていることだ。今回、春画を調べてみて、そのことを改めて痛感した。

 想像してみてほしい――女同士で絡んでいる絵は、かならず張形を使っており、ひとつの例外もない――そんな世界を。

 想像してみてほしい――ただの男女が絡んでいる絵と同じくらい頻繁に、女と若衆(歌舞伎の女形で歳が若いもの。当時の価値観では、女性美に匹敵する美しさがあるとされた)が絡んでいる絵がある――そんな世界を。

 「エロまんがの女同士物はいまでも道具を使うものばかりだし、若衆は今ではふたなりに相当すると思えば、現在と大差ない」と思えただろうか。たしかに、基本的には大差ない。だが私は、たとえ少しの差であろうと、江戸時代に生まれてこなかったことを心底幸せに思う。

 今年は徳川幕府開闢(1603年)から400年である。そろそろ人類は、少しの差に満足することをやめて、決定的に前進すべきだ。

1月6日

 昨日の続き。

 オタク文化におけるメイド像が拡散しないでいるのはなぜか? 答はひとつ――「萌える」「萌えない」という基準によって、不適切なメイド像を切り捨て、優れたメイド像を残しているからだ。

 私はここに、「萌え」という概念の存在理由をみる。

 人間の好悪は受動的である。愛さえも受動的である。ジョルダーノ・ブルーノの魔術論を思い出そう(2000年11月29日の日記参照)。

愛するものの愛は受動的である。それは「絆」である。能動的な愛とは、これとは別のものである。それは事物に潜む能動的な力であり、絆を生じさせるのはこれである。[est ille qui vincit]

(ジョルダーノ・ブルーノ『魔術論』 第三書、六四九頁)

 人間が何かを好悪するとき、あるいは愛するとき、それは結局のところ、既存の何かに対する受動的な反応である。それをとらえてブルーノは、「愛するものの愛は受動的である」と喝破した。

 対するに「萌え」とは何か。「萌え」は受動的な反応であると同時に、能動的な力を発揮する――「萌える」「萌えない」と発話することを通じて。また、コレクターグッズや同人誌を買い漁ることを通じて。こうした「萌え行動」によって、不適切なメイド像は切り捨てられ、優れたメイド像が奨励される。「萌え行動」を通じたフィードバック機構の存在によって、「萌え」は好悪や愛から一線を画する。

 いまや、この問いに答えることができる――

 「花右京メイド隊」、「鋼鉄天使くるみ」、「HAND MAID メイ」、そしてアニメ化されない幾多のまんが、これらのテクストに登場する「メイド」は、いったい誰を代表=表象しているのか?

 答: 誰も。ギャル作品に登場する「メイド」は、現実に存在する人間を代表=表象しない。

 ギャル作品の存立基盤をみれば、このことは明らかだ。もし「メイド」が、現実に存在する人間を代表=表象するのだとしたら、「女が描けていない」式の権威によって、「萌え行動」を通じたフィードバック機構は阻害されてしまう。生身のアイドルでは「萌え」が十分に実現されず、オタク文化の隆盛を待つ必要があった理由がこれだ。

 さて、ここで、ちょっとおかしな仮定を立ててみよう。

 現代のどこかに、メイドがそのへんで当たり前に働いている世界があるとする。「メイド服にこそメイドの本質がある」という説に敬意を表して、この世界のメイドはみなメイド服を着て働いているものとする。この世界のことを仮に、「メイド実在世界」と呼ぶ。

 メイド実在世界に、「花右京メイド隊」、「鋼鉄天使くるみ」、「HAND MAID メイ」その他を持ってゆき、人々に見せたとしよう。このとき、ギャル作品に登場する「メイド」は、現実に存在する人間(メイド)を代表=表象していることにならないか?

1月5日

 昨日の続き。

 「フィクションだから、実在する人間を代表=表象しているわけがない」とは直ちにはいえない。個人を代表=表象することはなくても、ある集団を代表=表象することはありうるからだ。

 ノックスの十戒に、「中国人を出してはならない」という一項がある。これは、当時の西洋人がまさに認識の暴力によって中国人を把握していた、という事情による。西洋人には理解しにくい――と言い条、実はいかにもそれらしい――「東洋的な」価値観と合理性を持ち、予期せぬ動機や計画によって行動する中国人が、当時のフィクションには多かった。ノックスは、理不尽な動機や計画が「中国人」という魔法で合理化されてしまうことを嫌ったのだ。

 そうした作品のひとつひとつに登場する中国人は、みな架空の人物である。だが、それらが全体として「中国人」のイメージを再生産していたことは間違いない。また、その「中国人」のイメージが先入観となって現実の中国人に投影されていたことも間違いない。ノックスの十戒が想定していたような「中国人」は、現実の中国人を代表=表象していた。

 イメージの再生産は、そのイメージ自体の魅力によってなされる。しかし、イメージの再生産を支えているのは、人を行動へと駆り立てるような力だけではない。抑圧的な力もまた、そこには働いている。

 かつて日本の文壇には、「女が描けていない」という決り文句があった。文学作品をけなすときに使われた。この文句からは、「文学作品に登場する女性は現実の女性を代表=表象するものだ」という意識が読み取れる。また、ノックスが十戒を書いた時代に、いかにもそれらしい「東洋的な」中国人を描くことに失敗した小説があれば、「中国人が描けていない」という評価が下されただろう。

 「××が描けていない」という評価は、先入観を再生産するうえで重要な役割を果たす。もし、あらゆる中国人像や女性像が当たり前に大手を振って通るなら、中国人像や女性像は次第に拡散し、最後にはまったくぼやけた像になって、先入観として機能しなくなる。先入観を外れたものや、先入観の魅力に疑いを投げかけるようなものに対しては、庭木を剪定するように否定的な評価を下して切り捨てなければならない。

 では――ギャル作品に登場する、ありとあらゆるファンタスティックな「メイド」に対して、「メイドが描けていない」という評価が下されうるだろうか? 「メイド」の本質は「メイド服」にあるとする説をとっても、ありとあらゆる種類のファンタスティックな「メイド服」に対して、「メイド服が描けていない」という評価が下されうるだろうか?

 ありえない。「メイドが描けていない」「メイド服が描けていない」という評価を支えてくれる権威や素材や検査装置は存在しない。

 「女が描けていない」という決り文句を口にするとき、その人は、「自分は女についての権威である」と暗に主張している。また、「検査装置を持ってこい、そうしたら、この作品の女性像が不適切だという結果が出るはずだ」と暗に主張している。同じことを、ギャル作品に登場する「メイド」について主張しうるだろうか。ありえない。

 にもかかわらず、オタク文化には、「メイド」についての一定の共通理解がある。幾多のファンタスティックな「メイド」を生み出しながら、なおかつ拡散しないなにかを「メイド」に見出している。オタク文化は、権威も素材も検査装置もなしに、はみ出した「メイド」像を判別して切り捨てているのだ。どうやって?

1月4日

 先月31日の続き。

 「お人よしの西洋人」がまったく気づいていない問題は、「認識の暴力」と呼ばれる。

 植民地住民の言葉を聞き取り、記録し、編纂する過程で、「お人よしの西洋人」の先入観が作用する。たとえ「お人よしの西洋人」が強い問題意識をもって取り組み、それまでの先入観を打破する方向で事にあたったとしても、それは結局のところ、古い先入観にかわって新しい先入観を西洋に打ち立てるか、あるいはそれに失敗するか、という問題に行き着いてしまう。先入観を絶えず更新しつづける作業こそ、植民地における見聞と先入観が乖離することを回避しつづけ、先入観を維持・補強している。

 このシステムのもとにあっては、「お人よしの西洋人」のインタビューの対象である「植民地住民」は、もはや他者ではない。それは、西洋の先入観が機能不全に陥っていないかどうかをチェックする検査装置である。あるいは、新たな先入観を打ち立てるための根拠となる素材である。

 「聞き取り、記録し、編纂する」――先入観はテクスト上に展開される。テクスト上に展開された先入観は、さまざまな種類の権威を身につけ、各種のテクスト間で相互に引用しあい、社会の一部となる。このような先入観を、色眼鏡にたとえることはできない。それは「王様は裸だ」などという指摘で覆せるような単純な構築物ではない。それは深い必然性をもって社会のさまざまな部分と複雑に結びついている。また複雑なばかりでなく、非常に魅力的な構築物でもある。でなければ、いったい誰がわざわざ先入観を築いたり改めたりするだろう。魅力がなければ、単にうち捨てられ、忘れ去られる。

 さて、話はここから大転換を遂げる。

 「花右京メイド隊」――「鋼鉄天使くるみ」――「HAND MAID メイ」――そしてアニメ化されない幾多のまんが。

 これらのテクストに登場する「メイド」とはいったい何か。

 もっと直接に問おう。これらのテクストに登場する「メイド」は、いったい誰を代表=表象しているのか?

1月3日

 「おにいさまへ…」のDVDを見ている。

 宇宙制覇を目指して作られただけあって(嘘)、いつ見ても宇宙一のアニメである。「やりすぎだ」と思えるうちはまだ全然やり足りていない、ということがよくわかる。


ゾンド作戦

 先月11日・13日の続き。

 ジェニファー・ロバートソンの「踊る帝国主義」は1935年事件のあらましを紹介している。私は先日来ずっと、その記述に妙な違和感を覚えていたが、原因がわかった。

 「踊る帝国主義」によれば、女優Eは令嬢Fと心中未遂を起こしたことになっているが、「婦人公論」の報道によればこれは事実と異なる。令嬢Fはホテルの自室でひとりで自殺を図ったのだ。

 考えてみると、「踊る帝国主義」には「タカラジェンヌ」の語は出てきても、「ヅカ・ガール」の語は出てこない。また私が最近調べた範囲では、ロバートソンの引用した文献以外で「クラス・エス」なる語が使われた形跡は発見できていない。「踊る帝国主義」の記述の信頼性は、私が期待していたほどではないような気がしてきた。

1月2日

 「ヤミと帽子と本の旅人」というエロゲーをやっている。

 百合とギャルが必然性をもって結合した、21世紀を感じさせる作品である。ようやく世界がここまで進歩したかと思うと、感に堪えない。

1月1日

 新年あけましておめでとうございます。

 旧年は百合にとって大躍進の年となりましたが、本年もさらに前進を続けるべく、香織派は全力を尽くす所存です。

 

今月の標語:

花のサン・ジュストさまだわ!

(TVアニメ『おにいさまへ…』より)

 

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