中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

2002年3月31日

ゾンド作戦

 セラムンと第10章を終えた。第10章は難点が多いので、おそらく大幅に書き直すだろう。ううう。

 やたらと引用文献が必要な部分は終わったので、あとは楽勝――だと信じたい。

3月30日

ゾンド作戦

 セラムンが…… あと2ページくらい…… などとつぶやいて、みちはるがまるごと残っているという問題から目をそらしてみる。

パイソン作戦

 完了。

 金床が思ったより効かなかったので、スウェーされるとうまくないが、仕方ない。

3月29日

 「マリア様がみてる 真夏の一ページ」を読んだ。

 13巻――これだけ続けば、花寺ネタに手が伸びるのも仕方のないところか。もちろん世の中にはボーイズラブというものがあり、そこでは巻を重ねるほどにますます女抜きに話が進むようになるのだが。

パイソン作戦

 現在140行。予定どおり攻め倒している。

3月28日

今日の等式: 「萌え」=「かわいい」

 宮台真司は八十年代における「かわいい」という言葉の機能について、次のように喝破した。「サブカルチャー神話解体」46ページから引用する。

 ロマンチックな「かわいさ」が「自分と世界のロマン化」として自閉・自足的なのに対して、キュートな「かわいさ」は、たとえ自分だけで楽しむことがあったとしても、最終的には友達や恋人と「見て見て、これかわいいでしょ」「うっそぉ、しぶ~い」などと言い合えなければ、意味がない。「〈私〉だけの世界」という内向きの思い入ればかりを志向するロマンチックと違って、キュートな「かわいさ」は、「これってあたしっぽい」といった自己意識においてのみでなく、外向きの奔放な、しかし軽くて傷つけ合うことのない対人関係の形成においてこそ、その力を発揮するのである。

 「ロマンチックな「かわいさ」」を「好き」に、「キュートな「かわいさ」」を「萌え」に置き換えて読めば、これはそのまま「萌え」という言葉の機能を説明したものとして読める。

 この「軽くて傷つけ合うことのない」という性質が、萌えコミュニケーションではなく萌え属性そのものにあると勘違いした説があるが、人の古傷をほじくりかえすのはやめておこう。

3月27日

 風邪で倒れていた。ううう。

パイソン作戦

 特にうまい手も浮かばないので、教科書どおり攻め倒すことに決めた。タイトルは「いないいない、ばあ」。

ゾンド作戦

 「ルナティック・パーティー」収録作品の全カップリングをデータベースに入力し、登場回数と攻受の頻度を調べた。

 登場最多はうさぎである。さすが主人公というべきか。亜美、はるか、レイと続く。もっとも受に偏っているのが亜美、次いではるか。みちるの攻っぷりはたいしたもので、16回登場して1回しか受になっていない。受攻の比率がもっとも1:1に近いのは、うさぎだった(11:13)。

 さて、この結果が、どう考えても同人誌市場の大勢をまるで反映していないことを、どう説明すればいいのだろう。

3月25日

ゾンド作戦

 セラムンのカップリングを調べている。

 今となっては知る人も少ないと思うが、私はみちはる主義者である。当然ながらゾンド作戦も、みちはる史観のもとに進められている。私が主な資料としているセラムンアンソロジー「ルナティック・パーティー」においても、みちはるははるみちを圧倒している。よしよし、と思ってGoogleしてみたところ、「みちはる  はるか みちる」は132件、「はるみち  はるか みちる」は295件。

 やはりGoogleのヒット件数はあてにならない。だいたい、「偽姉」が「偽弟」より少ないことからしておかしいと気づくべきだったのだ。

3月24日

 小学生なみに幼稚なアメリカの報道を見ていると、イラクにも1億分の1くらい勝ち目があるかもしれないと思えてくる。

 腹心が大統領就寝場所を通報=空爆のきっかけに-米誌

 「実は我々はすでに火星に人類を送り込んでるんだが、他の国がひがむといけないからナイショにしてるのさHAHAHAHA!」くらいの、どこが面白いのかよくわからないアメリカンジョークを真に受けた馬鹿が、ニューズウィーク誌にいるらしい。戦争の真っ最中に、こんなシビアな情報源を漏らす馬鹿がどこにいるのか。ブッシュJrでも大統領になれる国だけのことはある。

3月23日

ゾンド作戦

 同人(1992年まで)があともう一歩で終わる。明日からはついにセラムンだ。

3月22日

 最近の若者は「マルエン」を知らないということを知り、愕然とした。新メガを知らないのは仕方ないとしても、マルエンを知らないとは。

パイソン作戦

 金床が見えた。あとは仕上げだ。

ゾンド作戦

 当然のごとく同人(1992年まで)が終わらない。ピンクマスターの登場がいつなのかわからないし、それ以前に、どの会社が出したものなのかさえわからない。ううう。

3月21日

パイソン作戦

 金槌は見えたが、まだ金床が見えない。うーむ。

ゾンド作戦

 なんだかんだで同人(1992年まで)は明日には終わりそうな気がしてみるが、たぶん終わらないだろう。ううう。

3月20日

 あのフセインの偽者くささはもはや芸術の域に達していると思える今日このごろ、皆様はいかがお過ごしだろうか。もしあれが本物なら、普段のフセインはよほど念入りに演説を準備しているのだろう。

 ちなみに指導者と眼鏡については、シャルル・ド・ゴールの逸話がある。政治生命の終わり近くにはド・ゴールの視力はひどく衰えていたが、彼は民衆の前ではけっして眼鏡をかけなかった。ニクソンがド・ゴールと車に同乗したとき、ド・ゴールはニクソンに向かって、「沿道に民衆はいるかね」と訊ねた。沿道に人がいるかどうかもわからないほど視力が衰えていたのに、ド・ゴールは眼鏡をかけなかったのだ。理由は――「ド・ゴールには眼鏡はふさわしくない」。

 ド・ゴールの中の人も大変だ。

ゾンド作戦

 少年愛まんがが終わった。同人の見通しは少々厳しいかもしれない。うーむ。

3月19日

 いまどき国家理性を信じている人間がいるとはあまり思いたくないが、いるかもしれない(というよりは確実にいる)のが世の中の恐ろしいところだ。

 確認しよう――国家理性はクソだ。

 トルコ国会は150億ドルの援助を蹴ってアメリカにNOを突きつけた。国家理性には、こんな明白な誤りを犯すことはできない。だから国家理性はクソだ。

 メルロ=ポンティはスターリンの政治裁判を擁護して、「政治に誤りを犯す権利はない」と主張した。たしかに、政治=国家理性にはない。民主主義にはある。誤りを犯す権利があり、実際に誤りを犯す、それが民主主義のもっとも素晴らしい点だ。小泉首相いわく「世論に従うと間違えることもある」。そう、だからこそ民主主義は素晴らしい。

 アレクサンドル・ヤコブレフの「マルクス主義の崩壊」9ページから引用しよう。

世界観の選択は言うに及ばず、どんな些細なものにも選択の自由がないのだから、個人の責任もなければ、良心の裁きも、罪も、悔恨の念もないことになる。

 これが、すべての人が正解だけを選択できる世界、国家理性の天国、人間の地獄、ソヴィエト社会主義共和国連邦だ。

ゾンド作戦

 明日には少年愛まんがが終わる見込み。23日には同人(1992年まで)、26日にはセラムン――ギリギリだゼアニキ!

3月18日

 雑誌コバルトを買い忘れた。ううう。

3月17日

 忙しくなってきたので、「妹魂」というマイナーなエロゲーを始めた。

 ベタな構想をベタにやるのは阿呆だと私は確信しているが、世の中には阿呆が多い。

3月16日

ゾンド作戦

 エロまんがの資料を改めている。

・白夜書房の同人アンソロ「TEA TIME 8」(1990)にはすでにふたなりが登場(pp. 131-145)、女同士物はあり

・ふゅーじょんぷろだくとの同人アンソロ「美少女症候群」(1986)にはふたなりなし、女同士物はあり

・久保書店のアンソロ「レモン・ピープル ベストセレクション 1982-1988」(2001)にはふたなりなし、女同士物はあり

 予想どおり、ふたなりが始まったのは1990年代初頭だ。が、1990年の時点ですでにアンソロに確認できたことは少々意外だった。

・橋本直樹「コミックマニュアル」(1999)には、「レズ物はまったくに近いくらい売れていない」(pp. 123-124)との記述あり

 ただしこの本は、エロまんがの分析が二次資料に依存しすぎていて、エロコメと強姦を混ぜてしまうという初歩的な誤りを犯している。エロまんがでは「強姦はアンハッピーエンドにすべし」というのは鉄則だ。

3月15日

ゾンド作戦

 少年愛まんがの資料を改めている。

 中島梓先生の「美少年学入門」を読んでいたら、「伊賀の影丸」の村雨源太郎(前髪の美少年、伊賀兄弟の末っ子)の得意技が縄とあったのを見て、星矢のアンドロメダ瞬を思い出したのは私だけではないはずだ。

 ちなみにアンドロメダ瞬は弱そうに描かれているが、戦績を検討すると、実はかなり強いという。

3月14日

 「姉妹宣言」の新刊にマリみてSSを書くことになったので、これをパイソン作戦と命名した。

 Kanonのときは舞=マルチン・ルターと佐祐理=カタリナで挫折したので、今度は聖=レーニンと祐巳=ブハーリンで挫折してみたい。

3月12日

ゾンド作戦

 第一部はまだセラムンに突入できない。ううう。

 第二部はなんとか「ポルノ≠〈崇高な性〉」の議論までたどりついた。要するに、「性の商品化」理論、悪書追放ポスト、ビニ本のビニールは全部同じものだという議論である。

3月11日

お知らせ

 西在家香織派は廃屋譚さんと合体で、マリみてオンリー即売会「姉妹宣言」(2003年4月13日大田区産業プラザにて開催)にサークル参加します。


 橘裕の「ガッチャガチャ」(メロディに連載中)が部分的に百合である。しかも姉妹百合だ。

 ただし、この作品、少女まんが史上空前の荒み系(癒し系の対義語)なので読者を選ぶ。バカ女が男に虐待されるシーンほど心の荒む光景はほかに考えつかない。

ゾンド作戦

 セラムンの影響力の巨大さに、いまさらながら驚愕している。作品数が全然違うよアニキ…

3月9日

 TVアニメ「ストラトス4」第9話が部分的に百合だった。

 現在、情報収集に努めているが、第8話が眩暈のするほど妙な話だったので挫折している。


 「ヒューマニズムとテロル」の概要をつかんだ。90ページから引用する。

しかし、一九三八年の世界情勢において、反対派の圧服は、もはや偶然とは見なされない。ブハーリンとその仲間が打倒された。このことは、彼等に対して訓練された警察力と厳然たる独裁が存立していたということを意味するのだが、彼らの挫折はあるもっと本質的なことを意味している。すなわち、彼等を破砕した制度は、歴史の要求するところであったということだ。《世界歴史は普遍的法廷である》とブハーリンはいっている。

 これと同じような尻尾を、おそらくフーコーも出しているはずだ。

3月8日

 メルロー=ポンティーの「ヒューマニズムとテロル」を読んでいる。

 フーコーの馬脚は実はこのへんにある。一度でもスターリンに希望を見出した人々は、みな同じだ。

3月6日

ゾンド作戦

 第四章は現在13ページ、第八章は6ページ、進捗率67%。

 ……あと33ページで同人とセラムンとBLと現代百合を書く? どうも進捗率の数字が怪しくなってきた。

3月5日

 スターリン被昇天50年祭(なにかが違う)を呪って、特別コーナーを設けてみた。

名探偵ヨハンとハインリヒによる『ネギま!』推理

 「僕はハインリヒです。皆様はじめまして、よろしく」

 愛想よく微笑むハインリヒの横で、ヨハンは黙ったまま斜めに首を傾げた。挨拶のつもりらしい。

 「まったくこのあいだの戦争は惜しかったね。あともう一息でスターリンの息の根を止められたっていうのに」

 ヨハンはむっつりと目を細めた。だからお前は駄目なんだ、とでも言いたげだ。

 「僕たちはモスクワを見たんだよ。この目でね。まあいいや…… 問題は『ネギま!』だね? 赤松健の新連載」

 ヨハンは心ここにあらずとばかり、あさってのほうを見ている。

 「えーと、なになに――クラス名簿には31人の生徒が載っているのに、先週号の表紙のアオリ文句には『30人のヒロインが君の恋人』と書いてあります。あと一人はどうしたんですか?」

 傲慢なまなざしを斜め下に向けて、ハインリヒの手にしているメモに目をやるヨハン。

 「簡単だね。生徒のなかに実は一人二役が混じってるんだ。互いに一日おきに登校してる双子の姉妹はいないかな? ……いない? ああそう」

 ヨハンは席を立った。磨き上げた革靴の黒光りをたわませながら、大理石の床の上をゆっくりと歩いてゆく。

 「仕方ない、中身を読んでみよう。……ふーん、やっぱり双子の姉妹がいるのか。じゃあ、どっちかが男だ」

 ヨハンの指先が動き、空中で小さな弧を描いた。「くだらない」のサインだ。

 「よーし、大サービスだ。今週号も読むぞ。……惚れ薬か。ベタなネタから片付けていく方針なのかな? 次は記憶喪失、その次はネギ君の女装、そのまた次は人格入れ替えってところか。……どうでもよかったね。うん、消えた一人の謎だった」

 コツコツという靴音をさっきよりも早いテンポで響かせて、ヨハンは席に戻り、週刊少年マガジンの今週号を開いた。ページをめくった直後、ヨハンは自分の指先を見た。指にインクがつくのが気に入らないらしい。

 「僕がめくってやるよ。なんだい? ここかい?」

 ヨハンが示したのは、「どんな異性にも効く」というくだりだ。

 「これが重要なのかな…… はーん? 明日菜には効いてないぞ?」

 ヨハンは微笑み、ふたたび席を立つ。ハインリヒは胸を張った。

 「異性には必ず効く惚れ薬が、明日菜だけ効かない。つまり、明日菜は男だ。意外性と必然性の完璧なハーモニー! 真相が明らかにされたら、こりゃXファイルどころの騒ぎじゃないな」

 ヨハンは拍手した。ただし、音の出ないように、拍手のふりを。

 「……まだ続きがあるのか?」

 ヨハンはうなずき、床に目を落とした。愉快そうだった。

 「聞こうじゃないか、ヨハン、君の素晴らしい説を」

 薄い唇の端が、微笑みか、あるいは哀れみを示して、つりあがる。ヨハンはハインリヒの耳元に口をよせて、なにごとかをささやいた。

 ハインリヒは顔を険しくした。

 「いや…… その説が…… 君は、その、なんというか…… 真実だと、思うのか?」

 ヨハンは答えず、くるりと踵を返した。その後姿は心なしか、肩をすくめているかのように見える。

 「アオリは誤植だって……? 明日菜に惚れ薬がきかないのは、彼女の両親が魔法使いでどうのこうのっていう因縁話……? 君は、それが本当に、面白いと思うのか?」

 後ろを向いたままのヨハンの指先が、空中で小さな弧を描く。「くだらない」のサイン。

 「じゃあ、ヨハン――」

 ヨハンは振り向いた。その顔も、首も、胸も、手足も、愉快そうで――それ以上に、幸福そうだった。

 「ハインリヒ、君が面白い」

 そして、かすかに笑うようなため息をもらし、ヨハンは、靴音を殺すような足取りで、ハインリヒの横を通り過ぎ、去っていった。

3月4日

ゾンド作戦

 第四章は現在9.3ページ、第八章にも着手して2ページで、進捗率59.3%。

 出てます出てます、電波パワーです!(読み筋:ハンドパワー)

3月3日

ゾンド作戦

 第四章は現在6ページ、進捗率54%。

 電波の出力が今ひとつ上がらない。うーむ。

3月2日

 この数ヶ月というもの、ゾンド作戦のため図書館を回っているので、司書と会う機会が多い。行ったことのない図書館に行くたびに、ココロ図書館のような図書館はないものかと淡い期待を抱くが、あいにく今のところまだ、こころんどころかあると姉にも出くわさない(当たり前だ)。

 というわけで、司書さんといっしょ☆なるエロゲーが気になる今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。

ゾンド作戦

 第四章、少女まんがにとりかかった。現在6ページ、進捗率52%。

 1970年代に入って、ようやく調子が出てきた。やはり私は電波を飛ばさないと調子が出ない。

3月1日

 昨日の続き。

 田村テーゼ流の「世界は欲しているのです」という欲望形は、「共産主義によって人類の問題が解決されることを世界は欲しているのです」というのと同じ、イデオロギーの欲望形の一種だという結論に達した。

 ちなみに「世界は欲しているのです」という欲望形は、至るところに見られる。たとえば古典主義経済学は明らかに、「自由放任が調和をもたらすことを世界は欲しているのです」という欲望形を秘めている。サムエルソンが入門書「経済学」で、この欲望の存在に触れ、自由放任信仰はなにか人間の心の奥底とつながっているのかもしれない、と述べていたのが印象的だった。


 なぜだか知らないが今日の私は、「ネギま!」のエロさを力説していた。

 たとえば、魔法ショタ少年が持っているステッキである。彼は性にアクセスできない存在として描かれている。彼にとって30人の女子中学生はあくまで野生動物のようなヤバい奴等であって、性という色眼鏡で目で見ることはできない。そんな彼が、ステッキという形で外在的に与えられた象徴的な男根を通じて、魔法(=性)にアクセスする。

 ここで問題なのは、ステッキが男根の隠喩であることではない。問題は、ステッキが物として、魔法ショタ少年の身体に属さないものとして、外在的に存在していることである。もしステッキを失っても、魔法ショタ少年は依然として魔法ショタ少年自身のままだ(少なくとも、男が男根を失った場合とは同列に語れない)。いったん失っても、取り戻すこともできる。また、ステッキを誰かの支配下に置かれてしまうこともありうる。つまり、ステッキを通じて、魔法ショタ少年の性(=魔法)が物象化されている。性を物象化し、「純粋な性そのもの」なるものを存在させること――これがエロいのだ。

 ステッキをくるむ包帯にも、ちゃんと意味がある。「性は危険な力であり、普段の生活では儀礼によって封じておかなければならない」――これは、世界中の文化に共通してみられる性の観念である。儀礼のやりかたはなんでもいい。有名な例として、日本のある地方の漁村では、男が真っ裸で作業するときには男根に紐をゆわえる、というものがある。どんなやりかたであれ、男根を儀礼のもとに置きさえすればいい。ステッキをくるむ包帯は、その儀礼だ。だから魔法を発動するときには包帯は解かれる。(ついでに言えば、魔法少女のステッキを男根の隠喩であるとする読みが弱かったのは、多くの場合、この包帯(=儀礼)を欠いていたためだろう)

 以上のような読みはもはや常識――かと思っていたら、私の周囲では、驚くほど理解度が低かった。あまりのことに私は、「ネギま!」のエロさを縷々語るはめになったというわけだ。

 もし、世の人々の理解度が私の周囲と同程度だとしたら、百合の時代はまだ当分来ないかもしれない。うーむ。

 

今月の標語:

異性の手で肉的の誘惑を受けない以上、

処女はある年齢までその欲求を知らずに過ごしてゐるものなのです

(田村俊子、1913年)

 

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