「百合史・百合論」は在庫僅少のため、特段の事情がある場合を除いて、完売とさせていただきます。印刷等は劣るものの同じ内容のものが、新月お茶の会発行の「月猫通り」2100号に掲載されていますので、今後はこちらをお求めください。
4月29日のCレヴォで、同人エロゲー「CAROL」が発売されました。今後も同人ショップなどで委託販売されます。皆様のご愛顧をお願いします。デモムービー(偽物)はこちらにあります。
もう責任の押し付け合いが始まったらしい。
昨日の続き。
園美虐待説は、百合と対称性の結びつきを前提としている。なぜなら、知世が園美との関係(=性的虐待と被虐待)をパロディとして再現しているという見方は、これを「非対称性」として抽象化しないかぎり成り立たないからだ。
非対称性のほかにも、たとえば権力関係として抽象化することもできる。あるいは、知世が性的虐待について沈黙している点をとらえて、共犯関係として抽象化することもできる。さくらと知世の関係を、権力関係や共犯関係のパロディとみなすのは難しい。
非対称性・権力関係・共犯関係の三者のうちから非対称性を選び出す必然性は、どこにあるのか。CCさくらという作品の内部には見当たらない。また、作品から切り離して面白さの観点から評価しても、非対称性を第一位に推すのは難しい。非対称性という概念はあまりに広すぎる。残るは百合的観点だが、27日に述べたとおり、20世紀後半の一時期に百合は対称性と結びついていた。百合と対称性の結びつきを前提とすることで初めて、知世と園美の関係を非対称性として抽象化できる。
このように検討してみると、園美虐待説の根拠は薄弱である。これも27日に述べたとおり、百合と対称性の結びつきは、ごく一時的な現象だからだ。
とはいえ根拠が薄弱でも、知世の魅力を最大化しようとしたときには有力な説であることには変わりがない。この事実を覆すには、より有力な選択肢を示すほかない。私の知るかぎり、同人界はそのような説を見出すことができなかった。ここに、CCさくらという作品の、百合的な限界がある。
さる信頼すべき情報源によれば、今年7月から放映のTVアニメ「HAPPY★LESSON ADVANCE」が百合入りである公算がますます大きくなった。ハピレスは、百合以外にも見どころのあるアニメなので、読者諸氏もぜひ注目されたい。
一昨日の続き。今週号の「ツバサ」を見るかぎりでは、どうも知世解釈はほとんど展開されずに終わりそうな気配だが、それはともかく。
「知世は母親(園美)に性的虐待を受けている」という説(園美虐待説)は、知世のさくらに対する態度だけにもとづくものではない。知世と撫子がともにロングの黒髪であることや、園美に夫や愛人(=知世への性的虐待に気づいて対応策を取れる第三者)の影が見えないことも根拠になっている。しかしこれらは、否定する根拠がないというだけの消極的なものだ。積極的な根拠はやはり、知世がさくらとのあいだに非対称性を作り出そうと努力している、という一点に尽きる。
この説によれば知世は、園美と自分のあいだにある巨大な非対称性を、いわばパロディとして再現している。映画「禁じられた遊び」で、両親を戦争で失った子供たちが、墓を作ったり十字架を集めたりすることで死をパロディとして再現するように。
性的虐待を自らパロディにするというのは、なんとも不気味な話のように聞こえるかもしれないが、それなりに合理性がある。繰り返すことによって、パターンを把握し、分節化し、名づけ、もともとの体験を認識可能なものにできる可能性があるからだ。このとき、もともとの体験をそのまま繰り返すのではなく、パロディとして再現することのなかに、善なるものが存在する。人は、あまりにもしばしば、もともとの体験をそのまま繰り返す。たとえば日本軍の兵士たちが、部下への虐待を綿々と受け継いだように。
(ゲームや物語に「リアル」「現実」を求める人々は、ある意味で、日本軍的な虐待の連鎖のなかにいる。彼らには善のパワーが足りないのだ)
というわけで園美虐待説は、知世の魅力を最大化しようとしたときの、有力な回答のひとつである。この説によれば知世は、けなげで、善のパワーに満ち、その力で自らを幸せにしている、ということになる。
だが、この説には、重大な欠陥がある。説の内部の矛盾ではない。説の前提に、欠陥がある。以下後日に続く。
上の議論を練っていたら、「イタい」と「泣き」の違いをうまく表現する方法を思いついた。
イタい:善のパワーを発揮しようと呪文をタイプしたら、レベルが低くてまだ呪文を覚えておらず、スペルミスになってしまった状態(読み筋:ウィザードリー)
泣き:善のパワーを発揮しようとしたものの、MPが足りなくて呪文が発動せず、そのまま前のめりに倒れる
原因がレベルなら「イタい」、MPなら「泣き」、と覚えておこう。
Seagate Cheetah 10K.6が66MB/s(外周)出ると聞いて、発作的に買った。
飛ぶように速い。きゅう。
――いや、この感じは「きゅう」ではまだ甘い。「きゅぅ~~~ぅう」くらいか。
「百合史・百合論」は総論であるため、各論には取りこぼしが多い。たとえば、対称性の問題に触れていない。せいぜい、エス関係の非対称性について注意を促したくらいだ。
20世紀後半の一時期、対称性は百合における重要なテーマだった。これは端的には双子物として表れている。男女間にある巨大な非対称性へのアンチテーゼとして百合を捉え、対称性をさらに強めるべく一卵性の双子にする、というわけだ。また私の観察によれば、女同士物を頻繁に描くエロまんが家は、近親相姦物を頻繁に描くことが多い。これも、作家の関心が対象性や類似性にあると考えると、うまく説明できる。
歴史的にみると、百合と対称性の結びつきは、ごく短く弱い。エス関係の非対称性にみられるように、百合史のほとんどを通じて、対称性よりも非対称性が百合的な関心の中心にあった。また今日でも、百合と対称性の結びつきは弱まっている。
さて本題である。CCさくらにおける大道寺知世について。
週刊少年マガジンでCLAMPの新連載「ツバサ」が始まったことは、読者諸氏もすでにお聞き及びかと思う。この「ツバサ」の世界に、CCさくらの主人公たちが形を変えて登場していることも、同時にお聞き及びかと思う。おそらく遠からず、大川七瀬による知世解釈が作品中で展開されるだろう。そのときになって後出しをしたくはないので、いまのうちに大道寺知世を論じておきたい。
百合における非対称性は、多くの場合、制度的なものから生じる。たとえばマリみてのスール関係はその最新版である。しかし知世とさくらのあいだの非対称性は、ほとんど一方的に知世の側から生じている。しかも知世は、「(さくらに着せる)衣装」「ビデオカメラ」といった装置まで持ち出して、非対称性を補強している。
この、もっぱら知世に由来する非対称性は、多くの百合的な考察の対象となってきた。なぜ知世は、さまざまな装置を持ち出してまで、著しい非対称性を作り出そうとするのか?
この非対称性を根拠に、同人界では、「知世は母親(園美)に性的虐待を受けている」という説が広く唱えられた。以下後日。
この日記は、全文検索エンジンに罠を仕掛けることを重要な目標にしている。今日も「ルイセンコ主義」でどなたかが訪れた。ちなみに昨日までしばらくは、「全日本国民的美少女コンテスト」の名前を消されたグランプリ(去年6月19日の日記参照)での検索が非常に多かった。こうして、オタク文化や百合と無関係な人々への浸透を図っているわけだ。
さて、昔からヒットが多い検索キーワードに、「未成年」「取締役」がある。未成年者が株式会社の取締役であるとき、法定代理人の同意を得ずに議決権を行使したら、これは取り消せるのか?――という問題を考察した際に記したことが、ちょうどキーワードになっている。あれから少々進展があったので触れておこう。
第一に、取締役への就任に法定代理人の同意がある場合は、取り消せない。民法6条、
一種又ハ数種ノ営業ヲ許サレタル未成年者ハ其営業ニ関シテハ成年者ト同一ノ能力ヲ有ス
前項ノ場合ニ於テ未成年者カ未タ其営業ニ堪ヘサル事跡アルトキハ其法定代理人ハ親族編ノ規定ニ従ヒ其許可ヲ取消シ又ハ之ヲ制限スルコトヲ得
取締役への就任に同意することは、「営業ヲ許」すことにあたる。「成年者ト同一ノ能力」なのだから、議決権行使の取消もありえない。
第二に、法定代理人の同意なくして取締役に就任した場合である(想像を絶する話だが)。この場合も、議決権の取消はできそうにない。なぜかといえば、未成年者の法律行為を取り消せるのは未成年者を保護するためであって、未成年者の能力を信頼した株主を保護するためではないからだ。
以上、どんな場合でも、未成年の取締役による議決権の行使は取り消せない、との結論が得られた。
この日記は普通、あらゆるリンク等に頬かむりを決め込んでいるが、今日は浮世の定めにより、いろいろと貼り返しておく。私(もしくは影武者)の非公然活動に関心のある諸氏は参考にされたい。
http://head.as.wakwak.ne.jp/games/ ひげ
http://diary2.cgiboy.com/0/fomalhaut/ 16歳
http://mypage.naver.co.jp/y_takai/ めがねっこ
http://www.high-octane.org/ めがね
なお、リンク右側の文章はリンクとは無関係です。
本日、マリみてオンリー即売会「いとしき歳月」にて香織派のスペースにお越しくださった皆様、まことにありがとうございました。今後とも西在家香織派をよろしくお引き立てください。
なお、本日をもって「百合すと2.1」は完売いたしました。夏コミに新刊として「百合すと2.2」を用意いたしますので、それまでお待ちください。また、「ギャル理論による『小春日和情報』」は在庫僅少となったため、特段の事情がある場合を除いて、完売とさせていただきます。
人集めに着手した。詳細は秘密である。
昨日の続き。
報道によれば、「学校放火は政府軍の仕業である」との対抗宣伝がなされているらしい。このような主張が信憑性を備えるには、どんな条件が必要だろうか。
植民地独立運動においては、反動主義的な旧支配者がインフラを破壊することがある。たとえばアルジェリアにおけるOASが有名だ。こうした活動は、支配の維持が絶望的になったときに起こる。
だが、主な目標として学校を選んだケースは寡聞にして知らない。教育はもちろんきわめて重要なインフラだが、社会全体の教育への関心や学校教師といったものが主な地位を占める。それに比べれば、学校という建物は副次的なものだ。それよりも、物自体が主であるようなインフラ、たとえば橋や工場のほうがずっと破壊しがいがある。
というわけで、対抗宣伝の信憑性には、二つの疑問が投げかけられる。
第一に、アチェ州において政府軍は絶望的な状況にあるのか? 長期的にはその可能性が高い。東ティモールで勝てなかったものが、アチェ州で勝てると考えるのは難しい。だが今のところは、政府軍は精力的に作戦を遂行している。インフラ破壊に走るとすれば、国際社会からの介入が激しくなり、軍事行動にストップがかかりそうな雲行きになってからだろう。
第二に、橋や工場よりも学校を優先的に破壊する理由があるのか? これを見出すのは難しい。対抗宣伝は、この点への説明をひねり出してアピールする必要があるだろう。
以上の理由から、GAM側の対抗宣伝は著しく信憑性に欠けると言わざるをえない。
これは、ゲリラ戦の歴史における9・11である。
ゲリラ戦の基本をおさらいしよう。ゲリラ戦とは、政府軍と戦うことではない。毛沢東の16文字戦法に「敵進我退」とあるとおり、政府軍が強力なうちは逃げ回ることを本旨とする。政府首脳部への攻撃は華々しく喧伝されるが、これは宣伝戦に属するものであり、軍事力の行使としては本筋ではない。
ゲリラ戦の第一歩は、行政機関の末端の小役人を、片っ端から殺してゆくことだ。特に警察関係者が重要な目標になる。
これを行うことで、二つの効果が生じる。第一に、政府の行政能力(特に治安維持能力)が低下し、現地住民の政府への信頼が弱まる。第二に、政府軍が派遣され、現地住民との軋轢を起こす。政府への信頼低下をテコに政府軍との軋轢を煽ることで、戦災による失業・生活苦を背景に志願者を増やし、ゲリラは自らを再生産する。ナポレオンの「戦争は戦争を養う」をもじって、「ゲリラ戦はゲリラを養う」といってもいい。
以上がゲリラ戦のABCである。非常に簡単に実行できそうだが、事実簡単である。難しいのはゲリラ戦そのものではなく、宣伝戦、穏健派・中道派へのテロ、内部抗争といった夾雑物だ。
私の知るかぎり、ゲリラ戦のほとんどは、政府への信頼をごく容易に破壊できる環境で戦われる。これができなければまるで勝算がないのだから当然だ。おそらくはそのためにだろう、政府への信頼を再生産する装置=学校が攻撃目標になることはなかった。学校を破壊しても、再生産(フロー)が止まるだけで、ただちにストックが目に見えて減るわけではない。また政権奪取後の建設的な構想があることをアピールするためにも、学校には手をつけずにおくほうがいいと考えられる。
だが今回、GAMは、学校を攻撃目標に選んだ。それも、容易な目標を求めての苦しまぎれではなく、交渉決裂後の第一撃として選んだ。建設的な構想などアピールする必要もなく、ひたすら政府への信頼を崩すことに専念する、というわけだ。
だがこれは、ゲリラ戦の論理を純粋につきつめていったときの必然でもある。ゲリラ戦とは、ゲリラのためのゲリラ戦によって権力のための権力を簒奪するものだからだ。そこには本来、建設的な構想など存在する余地がない。建設的な構想は、ただ宣伝戦のために、あるいは自らの正当性を維持するためにのみ必要なものであり、どちらもゲリラ戦にとっては夾雑物である。建設的な構想が不要なら、学校とは政府の手先にすぎない。短期的な効果は薄いといっても、攻撃がきわめて容易に行えるなら、コストパフォーマンスの観点からは十分に割に合う。
やはり21世紀の戦争は、対テロ・対ゲリラ戦であるらしい。
本日、秘密作戦を発動した。本作戦をセメレ作戦と命名する。
数年ぶりに電撃G'sマガジンを読んだ。
私が記憶を美化しているのかもしれないが、数年前に比べて、魅力がなくなった。具体的には、色づかいの幅が狭くなっている。どのゲームを見ても、よく似た色をしている。
もしかすると、ギャルゲー全体の傾向として、印刷が苦手な領域へと色づかいがシフトしているのかもしれない。だとすると、この問題を制するメーカーが、広告を制するだろう。
マリみてオンリー即売会「いとしき歳月」新刊のためのSSを書いた。タイトルは「粉雪の降る音」である。
絡みで新手筋を繰り出してみた。この手筋は汎用性が高く出来がいいので、いずれオリジナル作品で再利用したい。
「7日間でマスターするレイアウト基礎講座」という本を読んだ。
方法論としては、(プログラミングの)デザインパターンと似ている。概念にいまひとつ直交性がなく気持ち悪いところもそっくりだ。
さて本題である。この本の104ページに、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が小さく載っている。100ページのあいだレイアウトについて考察しつづけたあとにこの絵を見たところ、たっぷり30分間は感動した。なんたる完璧さか、と。
子供のうちに名画のたぐいを、それも印刷で見せてしまうのは、教育上間違っているかもしれない。そうすると名画を記号として見てしまうようになる。よく知っているはずのものをきちんと見るには、特殊な能力が要る。
1991年12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、ソ連は崩壊した。それから12年が経とうとしている。
そろそろ、最後のソ連人が同人エロゲーに出てきてもいいころだ。
有線放送その他でt.A.T.u.がしょっちゅう流れている今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。
歴史的にみれば日本は、古くからの百合先進国というわけではけっしてない。日本の近世は百合の暗黒時代である。「近世の女性にはかなりの性的な自由があった」という類の言説は、百合的に検討すると、きわめて疑わしい。一方ヨーロッパでは、19世紀前半にはすでに百合への関心がみられる。このあたりの比較百合史については、「百合史・百合論」ではまったく触れていないので、挑戦者が待たれるところだ。
明治以降、少女文化のなかで百合はかなりの発展をみせたが、それもヨーロッパと比較してどうかといえば、おそらく突出した地位とはいえない。日本の百合が今日の高みに達したのは、同人誌市場という背景と、セラムンという起爆剤と、やおいという先行者があってのことだ。
というわけで、t.A.T.u.のPVを見下すのはやめておこう。おそらくはあれが、ロシアとヨーロッパの最先端であり、しかも彼らは日本に追いつく客観的諸条件を備えていない。
ゆまに書房から、吉屋信子の少女小説短編集「返らぬ日」が出た。
吉屋信子没後30周年ということで、ゆまに書房のほかに国書刊行会でも吉屋信子の少女小説(「わすれなぐさ」「屋根裏の二処女」「伴先生」)を出しているが、ゆまに書房の2冊(「暁の聖歌」「返らぬ日」)のほうが文献としての価値が高い。
DVD-Rドライブを手に入れた。ロジテックのLDR-42U2、USB2.0接続の4倍速書き込みドライブである。DVD-Rというのは、コストパフォーマンスでいえば明らかにリムーバブルHDDに劣るシロモノだが、やむをえざる事情があった。
とりあえず、付属のWinCDR Lightでは、ディスクアットワンスのCD-Rが焼けない。確かにほとんどのケースでは、ディスクアットワンスの機能は不要なばかりか有害でさえあるが、うーむ。
戦訓を検討した。
・要するに、特殊なヘタレ妹である
・仕掛けでNG(作戦機密により暗号名を記す)を実行し、主導権を確保すれば、妹に貼り付けすぎた設定の数々もあまり負担でなくなる
さらに昨日の続き。
音声認識でリップシンクのアニメを作る製品のうち一番安いのは、Toon Boom Studioらしいとわかった。2万円以下というのは、この種の製品としてはタダのようなものだ。
が、性能のほうは微妙に疑わしい。うーむ。
昨日の続き。
Juliusは、素のままだと、エンロール(話者の声を登録すること)なしで使うことになるシロモノだった。不特定話者・連続音声・大語彙がまともに認識できたという話はまだ聞かないが、Juliusも例外ではない(なお、不特定話者・連続音声・大語彙のどれか一つを外せば、現在の音声認識技術は実用的なレベルに達している)。
それでも一抹の希望を抱きつつ実験してみたものの、予想通りの結果になった。もっともらしい口パクを作るだけならたいした認識精度はいらないのに、それさえも期待できそうにない。うーむ。
「神の代理人」というフレーズを思いついた人間は天才かもしれない。ギリシャ神話の神ならともかく、キリスト教の神を被代理人にしてしまうとは、途方もない発想だ。
こんな雄大な表現が許されるなら、「現実の代理人」という表現も許されるだろう。どうやっても現実の一部分でしかない個人が、被代理人(=現実)を代理してしまうこと――すなわち、「現実はこういうものだ」という主張はすべて、現実の代理人のセリフである。
先月27日の日記で、エロゲーの「らーじPONPON」に強力な敵性電波を感じたと書いた。その後、この敵性電波を分析したところ、「現実の代理人ぶっているのが気に食わない」という結論が出た。
たとえば、主人公の性格に、この思想が端的に現れている。
これほど実も蓋もないエロゲーの主人公を、私はほかに知らない。過剰さもなければ欠如もなく、書割のようでもなければ無個性でもない――認めよう。見事な人間把握であり、ひとりの人間の肖像たりえている。そのことがまさに、私のいう「現実の代理人」のなせる業だ。
過剰さと欠如は実は、演出によってのみ生じる演劇的なものだ。なぜなら、過剰も欠如も、なにかの基準に照らしたときにはじめて生じる。かといって、演出がされていないわけではない。だとしたら主人公は、適当にそれらしいものを見繕っただけの書割になるだろう。そして、とどめに、無個性という演出がされているのでさえない。主人公は十分に、過剰でないほど十分に、個性的だ。
以上に述べたことを、視点を変えて表現すると、こうなる――主人公は、作品中の役割によってではなく、作家の衝動によってでもなく、なにかしら外的で偶発的なものによって、形成されている。
この「外的で偶発的なもの」を語ろうとするその態度が、たしかに見事な人間把握をもたらすと同時に、「現実の代理人」という思想をぷんぷんと匂わせている。
現実の代理人から語られる言葉は、たとえ正しくても、悪い。それは語り手の利益を宙吊りにし、結局は語り手自身をも害する。「私が現実だ」という前提のもとに語られる言葉は、たとえ間違っていても、良い。それは少なくとも、人間の間違いについて、何事かを教えてくれる。
しかしここで人は、もうひとつの罠、「自分の代理人」に陥ることがある。以下後日に続――かない可能性が高い。
音声認識でリップシンク(発声内容と同期した口パク)ができないものかと思い、少々調べてみた。
思ったとおり、3Dモデリング用の製品がいくつかある。音声通話を3Dキャラが口パクしてくれるメッセンジャーまである(SeeStorm Messenger)。しかし製品は価格が問題外なので、Juliusを使ってなんとかしてみたいと妄想している。
富士見書房の雑誌「月刊ドラゴンエイジ」の今月号から連載開始の、東雲太郎の「BK. ブレイド」が百合である。
「プロジェクトA子」を髣髴とさせる作品である。なお、ヤングな読者諸氏のために解説しておくと、「プロジェクトA子」とは、怪力A子とお嬢様B子がヘチャムクレC子を奪い合って戦うアニメである。
百合を描いた経験がないと、こういう筋は簡単そうに見えるが、自由度が低いので実は難しい。森奈津子のように、クンフーに満ち満ちた作家でないと、なかなかきれいに捌けない。振り返って考えれば、「キディ・グレイド」はそのあたりの難しさをよく察知して逃げていた。
「電撃大王」に続く橋頭堡の確保がなるかどうか、今後とも注目していきたい。
エリック・K・メイヤーの「インフォメーション・グラフィックス」を読んでいる。
この本によれば、西洋はルネサンスにおいてすでに折れ線グラフを表現として利用していた。が、印刷術の普及とともにそれは忘れられ、18世紀末になってようやく再発見されたという。そのあいだ、表現としてのグラフが忘れ去られていた理由は――活版印刷に図を挿入するのには多大なコストを要したからだ、と。
俗流唯物論には見逃せない説明力がある。たとえば百合史にとって、GHQによる戦後の学制改革はきわめて重大な転換点だ。このとき中等教育の共学化がドラスティックに行われ、百合の基盤の一部が消滅した。もちろん他の要因も多いが(詳細は「百合史・百合論」にある)、どれも敗戦に起因することでは同じだ。
さてここで、俗流唯物論者が喜ぶような説明を与えてみたい。
同人誌市場は美少女系エロまんがとやおいを生み出したが、表現の多様性という面でみれば、けっして理想郷ではなかった。営業的な観点からはポルノに勝てない萌え市場が、今日の影響力を備えるに至ったのは、インターネットという強制無料制度が発達したためではないか。
エロゲー市場全体の売上が、前年比で30%落ち込んだ、との噂を耳にした。
歴史は教えている。劇画系エロまんがの没落によって生じた余剰人員が、美少女系エロまんがの勃興をもたらした。レディコミバブルの崩壊によって生じた余剰人員が、ボーイズラブの勃興をもたらした。
いまや、ポルノと手を切った純粋な萌え市場の――ということは、百合の番だ。
私は長年、「私はレーガンを許さない」と言いつづけてきた。この見解は今でも変わらない。レーガンのアフガン介入は、アメリカ外交史上屈指の汚点である。オサマ・ビン・ラディンは認識していないが、9・11の名宛人はレーガンだ。
今年2月6日の日記で、イラクの大量破壊兵器疑惑が空振りに終わる公算が高いことを指摘した。どうやら私の読みは当たっていたらしい。バグダッド陥落から1ヶ月を過ぎた現在も、大量破壊兵器疑惑を裏付ける証拠は発見されていない。
もちろん当座は、誰も野暮なことは言わないだろう。だが遠からず、アメリカは確実に報いを受けるだろう。それは、私のように、アメリカの罪を忘れない人間がいるから――ではない。それならむしろ、アメリカは報いを受けずにすむ。人の罪を正しく認識したものは、罪人を憎むことができない。
アメリカの罪をそれと認識することのできない人々が、まるで八つ当たりのように闇雲に、しかしその盲目さのためにかえって的確に、アメリカに報いを与えるだろう。そう、オサマ・ビン・ラディンのように。
さて、私はバグダッドで生まれてカブールで育ち、現在は東京にいる。
というわけで、次は日米戦争である。読者諸氏におかれては、資産の保全に怠りないようお勧めする。
この世には、私の哲学では計り知れないことが多い。
たとえば煙草は、存在そのものが、ありうべからざるものに思える。私としては、「なぜ核兵器を廃絶できないのか?」と問う前に、「なぜ煙草を廃絶できないのか?」と問いたい。
エロゲー・エロまんがにも、理解できないモチーフが多数ある。「絡みの最中に電話」というシチュエーションは、「はじめてのおるすばん」など多数の作品に登場する。が、私にはこれがどうしてもわからない。
また、この世には、眉毛が太い女性にセックスアピールを感じる人々がいる。たとえば赤松健がそうだと推定される。てるき熊(エロまんが家)もそうらしい。いったい、こうした感性を、どのように理解すればいいのか。
これらの重大な謎の数々に比べれば、孫正義の頭の中身など、ほとんど謎と呼ぶにも値しないだろう。
<ソフトバンク>最終赤字999億円 ヤフーBB事業投資が負担
XMLで生きてゆきたい今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。私はXMLSpyをちらちらと眺めている。
どうやら、XMLエディタのGUIを記述するspsファイルなるものがポイントではないか、と思えてきた。もしこれが自在に書ければ、AuthenticなるXMLエディタが無料で使えるようになる。うーむ。
「シュレーディンガーの猫」の枠組みでは、猫を入れた箱の蓋を開けるまでは、猫の生死は決定されない。が、いったん蓋を開けて生死を確認してしまったが最後、猫の生死は決定される。もし猫が死んでいれば、生きている猫はけっして戻ってこない。
今日、見月界夢氏は、この枠組みを打ち破る理論を主張した。
猫が死んでいるのを確認したら、そのまま蓋を閉める。そして、適当な時間が経過したら蓋を開ける。
量子力学的にいえば、熱力学の第2法則は存在しない。トンネル効果というものもある。ということは、量子力学的にいえば、適当な時間の経過後に、箱の中の死んだ猫が原子レベルで再構成されて生きた猫に変化する確率は、必ず0より大きい。ただし、1グーゴルプレックス秒のあいだにこの事象が起こる確率は、おそらく1グーゴルプレックス分の1以下である。
問題は――この事象が起こったとき、「生きている猫が戻ってきた」といえるのか?
発案者の名前にちなんで、この問題のことを「見月界夢の猫」と名づける。
原稿の破棄と、作戦の凍結を決定した。記録として、以下に作戦意図を示しておく。
「百合史・百合論」では、近世の春画およびロリコンまんが・エロまんがの歴史の考察を通じて、大日本ちんこ大好き党とポルノの結びつきを論じた。若衆=ふたなりは、ポルノにちんこが必須であることを示しており、女同士物における張形は、ちんこが登場しない場合には張形という欠如態として登場しなければならないことを示している。
また、やおい・ボーイズラブの考察を通じて、「ほとんど女」=〈崇高な男〉としての受を論じた。男であることが形骸化して純粋に名目的なものになるほど、受は、ある特別な魅力を備えた〈崇高な男〉になる(なお「史論」を未読の読者諸氏は、今年2月24日の日記参照)。
ここから引き出される結論――〈崇高なちんこ〉が可能であり、市場での支持を獲得しうるのでは? この推測自体は正しいと今でも確信しているが、検証は当分お預けである。
というわけで、当面はライズショット作戦を片付けることにしたい。まずは1936年のモスクワを記憶に呼び戻さなければ。
本日コミティアにて西在家香織派のスペースにお越しくださった皆様、まことにありがとうございました。今後とも香織派をよろしくお引き立てください。
「注射器2」というエロゲーを少しやった。
ゲーム開始から3分間は、いままでやったすべてのエロゲーのなかで最高の出来栄えだ。鮮やかで鋭く軽快、文句のつけようがないほど考え抜かれている。主人公の表情を小パネルに出すという新機軸も素晴らしい。
仕掛けそこなった原因を検討した。
陣地の原理(先月24日の日記参照)を適用して、妹にいろいろな設定を貼り付けている。どれをとってもベタな設定ばかりだが、組み合わせによって効果を発揮することを期待したものだ。ちなみに一部を列挙すると、
・孤児
・生まれてすぐに兄と生き別れに
・未亡人
・14歳
同じくらいベタな設定が、あと4つほど続く。
たとえベタな設定でも、一人のキャラにこれだけ並ぶと、読者に理解させつつ話をつなげるだけでも難しい。陣地主義者の苦労がよくわかった。
私は、男キャラの研究をしたことはないが、観察を怠ったこともない。藤本ひとみから佐藤亜紀まで、あさぎり夕から月上ひなこまで、人並には男キャラを見てきた。が、関心が持てないのは如何ともしがたい。
以上の検討からは、「妹の設定をいくつか外し、兄を姉にする」という結論が導かれるように思えるかもしれない。が、こういう消去法をやって、話が面白くなった試しがない。この問題は創造的に解決されねばならない。うーむ。
なお、作戦自体は現在も継続している。現在24枚。
もし、1945年9月1日の日本でこんな光景が見られていたら、日本はもっと愉快な歴史を歩んでいたかもしれない。
子供たちがツルハシを振るって泰安殿を叩き壊す――ボリシェヴィズムの薫り漂う風景である。
現在21枚。
仕掛けそこなった。破棄すべきか。
PEACH-PITの「DearS」を3巻まで読んだ。
理想形は含みにするほうが面白い、という法則があてはまる。「美少女宇宙人と同居」を理想形にするなら、それを含みにして、同居せずに引っ張るほうが面白い。怪獣をなかなか映さない怪獣映画と同じ原理である。
逆にいえば、「美少女宇宙人と同居」を理想形にして、それを最初から実現している時点で、この話は苦しい。
今月の電撃G'sマガジンによれば、TVアニメ「HAPPY☆LESSON」の第2期に登場する新キャラ(九龍ながつき)に、百合が期待できる可能性がある。カンナの轍を踏むとは考えにくいので、7月の放映開始を待ちたい。
新作戦に着手した。これをNGH作戦と命名する。
NGH作戦はその性質上、機密保持を要する。現在公開できるのは、次の3点である。
・百合ではなく男女物
・兄が主人公で妹が主役
・最大200枚程度
ちなみに現在12枚。
財布を忘れない
――プレ・デートに出かける前のチェックリスト
(D. コープランド/R. ルイス「モテる技術」より)