中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

2003年4月30日

 報道によれば、道路占拠で話題の白装束集団は、「共産ゲリラ」を仮想敵にしているという。どうやら彼らにとっては、日本はネパールらしい(ネパールでは毛沢東主義(自称)の共産ゲリラが活動中)。

 ああいうカルトの教義を見ていてつくづく思うのは、どうしてああネタの源泉が狭くて古いのか、ということだ。なぜいつも、いつまでも、ニコラ・テスラやライヒなのか。ネタを掘り起こす努力を放棄したその態度だけで、胡散臭いというよりも退屈な連中だとわかる。


 BLゲーム雑誌の「GAMEピアス」を読んだ。

 まだタイトル数が少ないのに、こんなにページ数のある本を作って大丈夫なのかと心配してしまう。

 個人的には、BLゲームはコンシューマ移植を前提にしないと厳しい、とみている。BL市場全体における、強く動機付けられたユーザの割合からいって、PCゲームだけでは辛い。

4月29日

 最近の秋葉原のエロゲー屋はどこも、「ヤミと帽子と本の旅」の在庫をずいぶん抱えているらしい気配である。ずいぶん念入りに販促をやっていたので、出荷数もかなりのものだったのだろう。

 「百合史・百合論」では、まさに「ヤミと~」を例にとって、「エロと二股をかけない純萌え作品を18禁で売るのは消極的で不利」と論じたが、どうやら的中してしまったらしい。

4月28日

 明日はいよいよ同人エロゲー「CAROL」の発売日である。読者諸氏のご愛顧を重ねてお願い申し上げる。


 いまさらながら、よしながふみの「西洋骨董洋菓子店」の4巻を読んだ。

 機動の神様だ。

4月27日

 エロゲーの「らーじPONPON」を少しだけやった。

 この強力な敵性電波は、いったいなんなのか。80年代と90年代の最悪の複合体がここにはある。

4月26日

 「キディ・グレイド」を最終回まで見た。

 百合的にはOK程度だが、あの巨大ロボットには目からビームが出た。


 情報は受けていなかったものの、念のためにTVアニメ「ストラトス4」をチェックした。やはり百合とは言いがたい。

4月25日

 CAROL発売直前ということで、偽CAROLを再公開した。


 「GAMEピアス」(マガジン・マガジン)第7号の広告ページによれば、今年夏に百合専門誌「百合姉妹」が創刊されるという。

 挙がっている作家も、キャッチコピーも、「カサブランカ革命」に通じる重たさがある。危うい。

4月24日

 今月22日の続き。

 機動と並んで根本的な概念に、「陣地」がある。

 設定ノートなら何冊でも書けるが作品はさっぱり完成しない、という話をよく聞く。機動のセンスがなく、フィクションを構築陣地としてしか見ることのできない人々だ。なお私は機動主義者なので、機動のセンスのない作家や作品を心の底から馬鹿にしている。もしあなたが、「設定ノートなら何冊でも書けるが~」に該当するなら、この先は読まないほうが健康にいいだろう。

 機動主義の観点からは、設定は単なる定数にすぎない。フィクションの舞台が1980年であろうと1950年であろうと大差ないように、ローマカトリックに奇天烈な秘密機関があろうと、火星の内部が空洞でその内壁に人間が住んでいようと、その設定自体にはなんの意味もない。問題はただ、設定がどのように開示されるか、という一点にかかっている。

 が、現実の市場の動きは、このような機動主義からの評価だけでは説明できない。設定は、単なる定数以上のものとして働いている。この、単なる定数として還元できない部分を説明するのが、「陣地」の概念である。

 陣地の観点でみても、1980年と1950年には大差はない。が、ローマカトリックに奇天烈な秘密機関があることや、火星の内部が空洞でその内壁に人間が住んでいることには、少々意味がある。この二つが融合して、「火星の内部が空洞でその内壁に人間が住んでおり、ローマカトリックの奇天烈な秘密機関と関係がある」となると、ちょっとした意味がある。これをどんどん長くしてゆくと、神聖モテモテ王国のネタになると同時に、意味が増してゆく。この意味が、陣地である。

 私のような機動主義者にとっては、陣地を感覚的に理解することは難しい。それでも解釈を試みるなら、陣地の魅力の根源は、「短絡化した世界解釈モデル」にある。

 ユダヤ陰謀論や近代オカルティズムは、短絡的な世界像を提供する。行動決定のプロセスの不透明さを飛び越えて、「ユダヤの陰謀」ですべてを説明しきってしまう。これが「短絡化した世界解釈モデル」である。だが、日常生活でこうしたモデルを適用することはできない。「ユダヤの陰謀」は、結果論と同じく、常に無限に正しい――つまり、ナンセンスだ。

 このナンセンスを封じ込める装置としてフィクションを利用するのが、陣地である。分厚い設定ノートで構築された堅固な陣地によって、読者は日常生活の不透明さから切り離され、短絡的な世界像を楽しむことができる。1980年と1950年に大差がないのは、どちらにしろ日常生活の不透明さから逃れられないからだ。ユダヤ陰謀論は、2003年にナンセンスであるのと同様、1980年にも1950年にもナンセンスだ。

 機動の美しい空虚さに比べて、陣地は、人間的欲求にしっかりと根を張っている。おそらくはこのために、築城術の化け物のような作品(「月姫」など)はしばしばヒットするが、逆に、鮮やかな機動を実現した作品は営業的に報われないことが多い。

 ちなみに私は、昔から気になっている――「『社会的予防措置』や『革命的合法性』の名のもとに内務人民委員部が暴力を振るう国・ソ連」という設定は、陣地として読まれるのか、それとも、1950年や1980年として読まれるのか?

4月23日

 都内某所にて、と学会の某会員と会談した。「百合史・百合論」を次の学会で紹介していただけるとのこと。

 聞くところでは、次のトンデモ本大賞の最有力候補は「ゲーム脳の恐怖」だという。たしかに、「脳内革命」以来の大型トンデモ本だ。

4月22日

 百合が複数の橋頭堡を確保した現在、またマリみてによって「質から量へ」への転換が起こった現在、香織派の目標達成に必要なのは、橋頭堡という点を面へと広げてゆくことである。百合的なるものを拡大再生産の軌道に乗せ、「量から質へ」の転換を呼び起こさなければならない。

 が、香織派としては、その先を見通す必要があるのではないか、と思えてきた。橋頭堡→面の制圧という直線上に、ジャンルコード獲得はあるのかどうか。もしかすると、もう一段階の飛躍が必要かもしれない。

4月21日

 TVアニメの「キディ・グレイド」を第14話まで見た。

 昨日は文句をつけたが、百合的には納得のいくものになっている。この程度の作品がこれだけやれるようになるとは、現代百合も進歩したものだ。


 しばらく前に、この日記でいうところの「機動」の概念について質問を受けた。

 これを理解するには、まず「含み」の概念を理解しなければならない。含みとは将棋用語に由来し、日常的にいうところの「主導権」を精緻化した概念である。

 将棋では、有利な側が最善手を指し続けているあいだは、不利な側が逆転することはできない。ところが、不利な側にも「主導権」に似たものがまったくないわけではない。たとえば、重要な筋の歩が切れていて駒台に歩があれば、歩を打つ可能性(=含み)によって相手の行動を制限できる。「歩を打つぞ、打つぞ」とプレッシャーをかけるわけだ。実際に歩を打てる(=含みを実現する)のは一度きりだが、含みを実現しないでいるあいだは、相手の行動を制限しつづけることができる。打ってしまわないかぎり、「打つぞ、打つぞ」と言い続けられるわけだ。多くのゲームではこの種の能力は、有利な側(=主導権を握った側)に偏在するが、将棋では、不利な側も少なからぬ含みを残していることが多い。

 含みとは、「次の一手」を考えるときに利用できる、静的な概念である。この静的であることが、「含み」という概念を実り多いものにしている。将棋の手を流れとして、動的に把握するのは素人だ。流れを切断し、それまでの手を忘れ、目の前の局面をまるで宇宙誕生の瞬間から存在するものであるかのごとく、自分自身とまったく無関係なよそよそしいものとして把握すること――これが最善手をもたらす態度だ。

 ところがフィクションにおいては、事は完全に逆転する。そこでは動的なものだけが意味を持つ。作品全体を通じて変化しない定数は、ほとんど意味を持たない。たとえば、「1980年と1950年のどちらが物語の舞台として優れているか」という問題は、主人公の名前の音の響きよりもずっと小さな意味しか持たない。

 しかし、名前の音の響きも静的なものではないか? そうではない。言葉のシーケンス、音のシーケンスは、常に動的なものだ。和歌や俳句が躍動するのは、シーケンスが動的なものであることによる。

 和歌や俳句は、ミクロの機動から成っている。機動の見事な例として、「菜の花や月は東に日は西に」という句がある。「菜の花」という小さなささやかなものが、「月」「日」という大きなものとつながることで、印象的な対比が描き出される。

 ここで注意すべきは、「菜の花」は必ずしも「小さなささやかなもの」とだけ結びつくわけではない、ということだ。菜の花は、黄色であることや、食べられることとも結びつく。菜の花のもつ広い意味合いが、「月」「日」が持ち出されることで遡及的に「小さなささやかなもの」へと縮退している。

 この縮退はちょうど、将棋の手を指すことに喩えられる。うまい手がいくつあっても、実際に指せるのはただ一つだ。「菜の花」の持つあらゆる意味合い(=うまい手)のうち、「小さなささやかなもの」だけが選び出されて実現されることで、他の意味合いはいわば、生まれる前に死ぬ。

 人間はこのとき、まるで宇宙誕生の瞬間にはすでに他の意味合いが死んでいたかのように思い込むことがある。このような態度では、シーケンスの動的な性格はけっして発見できない。この種の遡及的な思い込みを痛感させてくれるのが、ソ連崩壊前と後の、ソ連本の違いである。ソ連崩壊前に書かれたソ連本は、最低のものであってさえも、みるべき点がある。ソ連の持っていたあらゆる意味合いが、まだ死んでいないからだ。それに対して崩壊後の本は、ひとつの意味合いで統一されている。すなわち「失敗」だ。

 ソ連崩壊の前と後に、同時に立つこと――これが「機動」という概念の展開される地平である。

 フィクションを作るうえでは、作者は、ソ連崩壊の前と後に同時に立つことを求められる。なにしろ作者は結末を知っているのだから。結末へと縮退するプロセスを、結末から眺めるのではなく、プロセスそれ自体として把握すること、これが「機動」である。

 機動の視点からは、結末へと縮退するプロセスは「縮退」などというものではない。ここで、「含み」の静的な視点を取り戻さなければならない。

 軍事的には、機動の本質は選択権にある。機動力に優れた部隊は、状況によっては、火力や規模で優る鈍足な部隊を引きずりまわし、さらには撃ち破ることさえできる。機動力に優れた部隊は、戦う時と場所と相手を選ぶ能力が高いからだ。たとえば、機動力に優れた部隊ひとつが、鈍足な部隊三つのどれかと戦う状況にあるとしよう。機動力に優れた部隊に選択権があるといっても結果的には――ソ連崩壊後の視点から見れば――どれか一つとしか戦えない。だが、鈍足な部隊の側は、三つすべてが戦いに備えなければならない。手抜きをしても相手にはけっしてわからないとしても、だ。鈍足側は、三倍の部隊に備えをさせることによって負担は三倍になり、それだけ資源を無駄にする。三択問題でどれか一つに賭けることもできるが、その場合、敵の三倍の兵力を揃えたこと自体が無駄遣いだったことになる。これはまさに、含みによって行動が制限されている状況だ。

 私が「機動」という言葉を選んだのは、「ソ連崩壊の前と後に同時に立つ」ことを必然的に内包しているからだ。選択権とその行使が一度きりの出来事として認識されるなら、「縮退」で済ますこともできる。選択権行使の結果が出るまではなんともいえないし、結果が出てしまえば、結果の出ていない世界はけっして戻ってこない。結果論は常に、完璧に正しい。だが、「機動」という概念の地平では、「わからないから、わからない」「わかったから、わかった」などという態度はありえない。選択権を持つ側であれ持たれる側であれ、対処すべき物事を示す概念、それが「機動」だ。動的であると同時に静的であり、しかも不可逆的なプロセスの前後を自在に行き来する――この、一見して途方もない作業を圧縮したのが「機動」という概念なのである。

4月20日

 小説・アニメ・まんが・ゲーム、どんな分野とジャンルであれ、作家と名のつく人々に勧めたいことは、ただ三語に尽きる。すなわち考えろ、もっと考えろ、あくまで考えろ。

 というのも最近、TVアニメの「キディ・グレイド」の革命騒動の回を見ていたら、絶望的な気分に陥った。特権階級が別荘用惑星でソ連共産党幹部ごっこをして悦に入っていたら(なにしろ「彼らは労働者です」だ)、市民革命が起こって楽しいな、という筋書きである。党幹部ごっこがサマになっていれば、これはこれで愉快な話だ。問題は、どこをどう裏読みしても、党幹部ごっこに見えない、というところにある。

 暴力に全面的に依存しながら支配を維持するのはあまりに高くつくと同時に不安定なため、支配者は、暴力への依存を減らす方法を探し求めるほうがいい――人類は、遅くとも二千年前には、この法則を発見していた。現代では、理性のある人間なら誰でも、このくらいのことは発見できる。

 この法則から、「暴力に全面的に依存している体制では、その支配層は、暴力への依存を減らすことに血眼になっている」という結論が導かれる。もし血眼になっていないとしたら、安定やコストを度外視した刹那的な発想に陥っているか、あるいは、暴力への依存を見えなくする目隠しをさせられているか、どちらかだ。党幹部の場合、この両方だった。すなわち、社会主義国家とは最終的な共産主義体制の樹立までの一時的なものに過ぎず、また、進んだ社会主義のもとでは暴力に依存した支配など存在しているはずがない。

 しかるに「キディ・グレイド」の革命騒動では、支配層は自覚的に暴力に依存しながら、暴力への依存を減らそうという真剣な努力をしていない。金持ちの集団がコストや安定性を度外視するはずがないので、これは、どのような前提を立てても、合理的に説明することができない事態である。

 結果として、この革命騒動は、「肥え太ったブルジョアがプロレタリアの生き血を啜っている」式の戯画ですらない。考えるのを手抜きしたというだけの、悪い評価にさえ値しないシロモノになっている。

 これほどひどくはないものの、「ラ・ピュセル 光の聖女伝説」(日本一ソフトウェア)にも、同じ種類の手抜きが感じられる。たとえば、男を外見で選ぶ女に惚れたハゲ男の話では、外見の価値を強力に擁護しなければならなかった。でないと、ハゲ男もその惚れた相手も、まるで阿呆に見える。阿呆な連中だというならそれでかまわないが、阿呆を真面目に扱う話は阿呆だ。別にこの程度の手抜きは珍しくもないが、私の知るかぎり、マール王国シリーズではこんなことはなかった。

 こうした問題はすべて、ただ考えるだけで、避けることができる。考えるのはタダだし、どこでもできる。すなわち考えろ、もっと考えろ、あくまで考えろ、だ。

 ちなみに現代百合は、思考を手抜きすると、途方もなくガタガタなものができる。思考を手抜きするために参照できるものが少ないためだ。現代百合の魅力は、こんなところにもある。

4月18日

 日本一ソフトウェアの「ラ・ピュセル 光の聖女伝説」というゲームをやっている。

 戦闘システムはかなりよくできているが、話はそれほどでもない。百合ではないからだ。

4月16日

 同人エロゲー「CAROL」がマスターアップした。

 イベント画・背景あわせて260枚超、さらにシナリオは1.5MBの、ヘビー級作品である。これが1800円とは金持ちの暇人もいたものだ。

 どう厳しく見ても、豪華さだけは満点の一作である。読者諸氏のご愛顧を願う。

4月15日

 D. コープランド/R. ルイスの「モテる技術」を読んだ。

 情熱にまさる才能はない。この本は、そのもっとも偉大な才能を備えた人々のためのものだ。モテたい――ただその一心から、人生を変え、世界を革命し、宇宙征服さえやってのける人なら、この本はまさにうってつけだ。たとえあなたが55歳で、友人も家族も資産も収入もなく、醜男であろうとも、真に心の底から「モテたい」と願うなら、この本はあなたを確実に「モテる男」へと導いてくれるはずだ。

 とはいえ、考えてみてほしい。

 もし、この本の調子で「ヤセる技術」などという本を書いたら、売れるだろうか。ダイエット産業が、「健康的に痩せること」を売っていると思ったら大間違いだ。「健康的に」というのは消極的な決まり文句にすぎない。実は「痩せる」でさえ真のセールスポイントではない。ダイエット産業の真のセールスポイントは、「ラクに」だ。

 情熱という偉大な才能なしに、「なんとなく太っているのは嫌だから」という消極的な動機にふさわしい無為安楽にひたりながら、痩せること。ダイエット産業が売っているのは、「痩せる」ではなく「ラクに」だ。消極的に動機づけられ、消極的に消費する人々を相手にするとき、商売は、驚くほど効率よく利益をあげられる。

 しかしこの本は、そのようなおいしい商売の正反対のところにある。そのため、この本は、「マジ」と「ネタ」という二項対立の偽りを告発するものになっている。272―273ページから引用しよう。

プレ・デートに出かける前のチェックリスト

・入浴する

・体臭に気をつける

・髭を剃る

・歯を磨く

・鏡で全身をざっとチェックする

・髪形を決める

・服装は決まっているか。きれいに洗濯され、必要ならアイロンがけされているか。汚れやシミはないか

・彼女を待っている間にすることを持っていく

・時計を忘れない

・少なくとも、三つは恋に関する質問(または話題)を用意していく

・心の準備はできているか

・車を掃除しておく

・デートの時間は三〇分から七五分までにする

財布を忘れない

・目標をはっきりさせる

・彼女にセックスする気があった場合に行く場所を考えておく

・コンドームを持参する

・恋に関する質問や会話を声に出して練習しておく

・約束の場所に早めに着けるように家を出る

・次のデートでは何をするか、計画を立てておく

 ネタであると同時にマジであること――これが、人間のもっとも偉大な才能、情熱である。

4月14日

 西在家香織派は、マリみてオンリー即売会「姉妹宣言」にて、未曾有の大勝利を獲得した。スペースにいらしてくださった読者諸氏に厚く御礼申し上げる。


 TVアニメの「キディ・グレイド」を見ている。

 現在第9話である。百合をちらつかせているが、情報によれば、最後までちらつかせているだけらしい。

4月12日

 今月7日付けの週間ベストセラーリスト(日販調べ)で、マリみての順位をチェックした。

 結果:前田珠子(レーティング1257)は抜けなかったが、これに迫る勢いを見せた。どうやら私のカン(去年12月24日の日記参照)はいい線をいっていたらしい。

 しかし実際に抜けためぼしい作家が高遠砂夜(レーティング1021)だけでは、計算処理上は厳しい評価をつけざるをえない。片山奈保子(レーティング1089)や榎木洋子(レーティング1119)あたりの、手頃なメンバーとぶつからないものか。

4月11日

 眠い。きゅう。

4月10日

 廃屋譚・LOVERSOULの同人ゲーム「CAROL」の作業を手伝っている。

 正規表現も知らないような人々が、いったいどうやってゲームを作っているのかと思うと気が遠くなる今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。この世界では、コツコツやる奴はご苦労さんどころか、バグという形で莫大なマイナスを生産する。

4月9日

 宮崎駿の「泥まみれの虎」を読んだ。どう考えても、「千と千尋の神隠し」の40倍くらい面白い。

 ソ連といい、戦争といい、人間の愚行はなぜこんなにも面白いのか。


 TVアニメの「キディ・グレイド」第1話と、同じくTVアニメの「宇宙のステルヴィア」第2話を見た。

 「キディ・グレイド」は、ルリ改(リュミエール)がやたらに頬を赤くするのが気に入った。ところで、リュミエールという名前に水様を思い出して仕方ないのは私だけではないはずだ(読み筋:アンジェリーク)。

 「宇宙のステルヴィア」は没の可能性が高いと判明したので、新情報が出るまでは無視することに決めた。

4月8日

 魚喃キリコの「blue」が映画化されたとの情報をいただいた。が、「キディ・グレイド」をチェックするほうが先になりそうな気がする。

ゾンド作戦

 完了。

 寿命が縮んだ。これほど大規模な作戦は、もう二度とやれないだろう。百合に栄光あれ。

 しかし本当に寿命が縮むのは、実はこれからだという気がしないでもない。

4月6日

 「締切を守る」という表現はどうも気分がへこむので、「祖国を防衛する」と言い換えてみることにした。

 「私」という表現も気分がへこむので、「我々」と言い換えてみることにした。

 というわけで――我々には祖国を防衛する義務がある。

今日の標語

神よ、締切を護りたまえ

(読み筋:ロシア帝国国歌)

4月4日

ゾンド作戦

 あと10ページまで来たので、版組にとりかかった。

 どうも1ページ組むのに3分ほどかかる。なんとか1分にまからないものか。

4月2日

ゾンド作戦

 史上最強のボーイズラブ論を書き終えた。

 あと5日でウテナ、マリみて、将来の百合、謝辞を書き、表紙と目次を作り、版組する――我ながら愉快なスケジュールだ。

4月1日

ゾンド作戦

 今日一日で12ページくらい書いたような気がする。

 今日中にボーイズラブを抜けるはずだったが、計算違いだ。第10章に加筆したのが厳しい。もちろんこれも、今月の標語のとおりなのだが。

 

今月の標語:

「以前からの予定の通りだ」

 

[メニューに戻る]