「百合史・百合論」は在庫僅少のため、特段の事情がある場合を除いて、完売とさせていただきます。印刷等は劣るものの同じ内容のものが、新月お茶の会発行の「月猫通り」2100号に掲載されていますので、今後はこちらをお求めください。
4月29日のCレヴォで、同人エロゲー「CAROL」が発売されました。今後も同人ショップなどで委託販売されます。皆様のご愛顧をお願いします。デモムービー(偽物)はこちらにあります。
かねての予想通り、タブレットPCが売れていない。
PC製造業者の産業構造はすでに相当程度まで辺境化されている。ユーザを囲い込むことのできない、ごく簡単に他社製品と取り替えられる共通規格品を製造し、低価格と高品質だけを主な武器にしてゼロサム的な市場競争を繰り広げるようになること――これが辺境化だ。
コンピュータ産業の中央は最初からずっとソフトウェアだったが(なにしろ限界生産費用がほとんどゼロだ)、かつてはハードウェア製造業が不当に高い地位を占めていた。この歪みは、PS/2の敗北、Windowsの勝利、ダウンサイジングによって是正され、ハードウェア製造業は本来の場所へと追いやられるに至った。すなわち、辺境である。
この潮流はもはや覆せないが、技術と資金と野心のある一部の製造業者は、辺境化への抵抗を試みている。そのような製造業者だけが、タブレットPCという構想に乗ることができる。辺境化された状態に適応し、価格競争のみに明け暮れる製造業者には、海のものとも山のものともつかないタブレットPCに投資する理由はない。もしタブレットPCが成功したら、後から追いかけて価格で追い抜けばいいだけの話だ。このキャッチアップがごく簡単であるがゆえに、PC製造業は辺境化したのだから。
逆に、タブレットPCを作るからには、簡単にキャッチアップされるようなものではいけない。高度な技術と多額の投資が必要なものを作り、余裕のある価格設定をしなければならない。
以上の論理的帰結として、タブレットPC製品は、複雑で高価なコンバーチブル型ばかりになる。単純で安価なはずのピュアタブレット型も、不要なドッキングステーションなどを付属させて価格を吊り上げる。
このようなタブレットPC製品は絶対に売れない。第一に、通常のノートPCに比べて高価だ。第二に、タブレットPCの魅力とは無関係なもの、あるいは無関係どころか魅力を殺ぐようなものと抱き合わせにされている。高価なだけならまだしも、不要で有害なもののために金を払わされるのだから理不尽きわまりない。
これが、タブレットPCが売れない理由であり、PC製造業者とユーザのあいだの矛盾(といっても、かつてハードウェア製造業が占めていた不当に高い地位の残滓にすぎないが)である。
MSは、中央を占めるものとして、この矛盾に敏感でなければならず、介入を試みるべきだ。具体的には、PC製造業者のマーケティングに協力(介入)して、抱き合わせのない安価なピュアタブレット型を作らせる。OSのライセンスを事実上無償にして、PC製造業者の投資リスクを一部負担する。電磁タブレット付き液晶の調達を調整して、PC製造業者の部材管理リスクを軽減する、などなど。
……というようなことをCanalysは主張しているのだろう。
こうした状況は、一言で要約できる。すなわち――MSはハードウェア製造業者を辺境化することで躍進のエネルギーを得たが、そのエネルギーはもう残っていない。
歴史は繰り返す。もしかすると、かつてのハードウェア製造業者のようにMSを辺境へと叩き落せる日が、遠からず訪れるかもしれない。
カール=ハインツ・フリーザーの「電撃戦という幻」を読んだ。下巻231ページから引用する。
第一次大戦が終わり、ドイツにおいて軍事史上もっとも奇妙な時代がはじまった。国軍が創設されたが、国軍の将校たちは過去と未来だけに生き、忌まわしい現在をひたすら呪った。
偉大さが永続しない理由の一端はおそらく、忌まわしい現在を呪いつづけることが難しい、というところにある。
「百合姉妹」の2刷が出ている。
私の知るかぎり、返本率が20%を切りそうな兆候はなかった。配本が最適化されていない一部の書店から矢継ぎ早に注文が入ったのを見て過剰反応したのか。「金儲けがしたければこういう注文は無視しろ」というのは、同人誌からハリー・ポッターまでのあらゆる本に通用する鉄則だが(ハリー・ポッターは特約という裏技を使った)、あの体裁で出すだけあって、かなりイケイケの方針らしい。
これくらいイケイケの方針なら、第2号は出るだろう。出なかった場合、2刷にゴーサインを出した責任者を絞め上げる。
TVアニメ「HAPPY★LESSON ADVANCE」の第4話を見た。
予想通り、百合含みの展開になるらしい。
イラク特措法が成立した。しかし法案を通した当の自民党が、「派兵は総選挙後に」などと引き延ばしを図っているのが面白い。
「君子は豹変する」という。大量破壊兵器がまったく見つからない今日このごろ、豹変のタイミングは近いかもしれない。
私は流行に疎い。「お兄ちゃんどいて! そいつ殺せない!」という名文句のことも、今日初めて知った。
「Kanon」には、月宮あゆがなんの脈絡もなく主人公の家で朝食をとっているシーンがある。ある知人はこれを見て、「気持ち悪い」と評した。私にとっては単に楽しいシーンだったので、その人の言うことがよくわからなかった。が、今なら理解できる。
月宮あゆもヤバいが、「いきなりはっぴぃベル」の三間坂ちこりはさらにヤバい。なにしろS県月宮そのままに、見ず知らずの主人公をいきなり「お兄ちゃん」呼ばわりする。そればかりか、主人公はこの電波に一瞬で汚染され、ちこりを妹扱いしはじめる。S県月宮は、「ある日突然お兄ちゃん」な世界をまったくのゼロから築き上げたわけではないのだ。
S県月宮も人並みに、少コミCheese!やボーイズラブを読んでいれば、こんなことにはならなかったかもしれない。新條まゆや刑部真芯の世界は、他人に迷惑をかけにくいように良心的に作られている。ボーイズラブは真似できないところが魅力だ。
この観点からみると、百合はある種の人々にとっては有害かもしれない。うーむ。
Googleにはいろいろな遊び方がある。私は今日、新たな遊び方を発見した。
まず、「ダイエット」「キャッシング」といった、顧客を広く浅くつかまえるタイプの商売のキーワードで検索する。次に、検索結果の右側に表示される、スポンサーの数を数える。このとき、1ページには最大8件までしか表示されないので注意されたい。これを繰り返して、スポンサーの数がもっとも多いキーワードを探すのだ。
現在のところ、「ダイエット」と「キャッシング」がともに20件で並んでいる。「美容整形」12件に対して「豊胸」10件「脱毛」16件というのはなかなか興味深い結果だ。
ちなみに現在の私の記録は「転職」27件である。
加藤典洋の「敗戦後論」を読んだ。
いまなぜソ連なのか? その答が、この本に書いてある。誤りうること――それが革命であり、「選択の自由がない、だから善悪もない」(アレクサンドル・ヤコブレフ)であり、結果論の無限の正しさにもかかわらず行動することである。
というわけで、この本に書いてあることは、もしかすると読者諸氏にとっては既視感あふれる話かもしれない。
ところで、小林秀雄について論じているのを読んで、「女の友情」事件を思い出した。
1936年、小林秀雄は吉屋信子の「女の友情」の冒頭を読むなり激怒し、最後まで読みもしないまま火のような非難を書いて「文学界」に発表した。その論旨はつまるところ――「何かしら厭な感じだ」。評論家は理屈をつけるのが商売だが、このとき小林秀雄はその商売を投げ出した。いったい何が、この食えない男をここまでの行動に走らせたのか。
かつて私は、「男の登場人物が常に類型的なのに、女だけが類型的な世界と生彩のある世界を行き来するのを見て頭にきた」という説明を考えたが、どうやら小林秀雄はその程度のことで「何かしら厭な感じ」などと書いたりしないような気がしてきた。
これは、もしかすると、百合的なものの作用かもしれない。
「女の友情」はタイトルの示すように、吉屋の通俗長編のなかでも百合的な面がかなり強い作品である。小林の非難から引用する。
子供に読ませる本に必ずしも作者は人生の真相を描いてみせる必要はない。
だがあんまり本当の事は遠慮する、或は甘ったれた話し方をしてやるという事と子供を侮る事とは違う。恐らく作者は無意識にではあろうが、これをごちゃごちゃにしている。
まるで子供の弱点を掴まえてひっかける文体である。
「子供」という表現はおそらく、この小説が、女学校を卒業したばかりの女たちの物語であることに由来する。が、もしこの小説に百合的なところがなかったら、小林は「子供」という言葉を使っただろうか。
もしかすると百合には、小林秀雄のように腹の据わった成熟した人間を激怒させるなにかが備わっているのかもしれない。
(ちなみに私は以前、自作の小説の評価として「こんな養護教諭はいない」と書かれたことがある。そのときにはただ驚きあきれたが、いまでは勲章と思っている)
眠い。きゅう。
華麗なるUnicodeの世界(Windows 2000/XP推奨):
261E 根室記念館 |
☞ |
2603 雪ダルマ |
☃ |
2604 スプートニク |
☄ |
262D ソ連 |
☭ |
262E ベンツ |
☮ |
2707 オープンリール |
✇ |
百合的な言葉を探した。
・伴奏
・丘
・手紙
・ハンカチ
・お弁当
・紅茶
……「ピクニック・オン・ザ・ハンギング・ロック」?
「コピーライター入門」を読みながら、百合作品のキャッチフレーズを考えた。
考えているうちに、大日本ちんこ大好き党の強さがよくわかってきた。キャッチフレーズのように、短くてわかりやすいことが求められる領域では、連中は百合に対して圧倒的なアドバンテージを有している。文化は、現在の勝者のものなのだ。
また、セグメント化されていない市場の弱さも痛感した。特に百合では厳しい。
たとえ広告の置かれている場所がBL専用スペースでなくても、やおい絵の青少年が並んでいれば、BLだと判断がつく。つかない人々も多いだろうが、そういう人はけっしてBLを買わないので問題ない。が、ギャル絵の小娘が並んでいるだけでは、百合だとわかれというほうが無理だ。
「ウルトラジャンプ」今月号に載っている、芳沢真由の「クローバーの約束」が百合である。
「ギャラクシーエンジェル」のまんが版を3巻まで読んだところ、昨日の日記の「蘭花がミルフィーユに片思い」というのは誤解だと判明した。
政治家が正直だと何が起こるか。
きっと、思っていることが片っ端から口に出てしまう体質なのだろう。
「月刊ドラゴンエイジ」今月号の「ギャラクシーエンジェル」を読んだら、どうやら蘭花がミルフィーユに片思いしているらしいとわかった。読まなければ。
しかしアニメ版ではそんな噂は一度も聞かなかった。うーむ。
XML Schemaがだんだんわかってきた。
XSLTのような切れ味を感じない。一般性に乏しい解を当てはめているような気がする。たとえばMixed Contentの部分がやたらとヘボいのはそのせいだ。
一般性に乏しい解は、目についた問題を片付けるだけで手一杯になってしまうが、一般性に富んだ解は、解答者の視野をはるかに超えた問題まで解いてしまう。XML Schemaは前者だ。
わけあって、ギャルゲー・エロゲー・BLゲーのタイトルを山ほど見た。
ギャルゲーとエロゲー(萌え系)は大差ない。それに比べてBLゲーは、日本語のタイトル、しかも3文節以上のものがやたらと多い。
…と思って、ふと気づいた。「日本語のタイトル、しかも3文節以上」――これは、私の小説のタイトルの特徴ではないか。
体に染み付いたBL文化はなかなか抜けないものらしい。きゅう。
「ベッカー教授の経済学ではこう考える」を読んだ。著者の片方(夫婦の共著)はシカゴ学派の経済学者、つまり自由経済万歳を唱えてソ連崩壊に高笑いした連中のひとりである。
いかにもシカゴ学派らしく、インセンティブの観点から犯罪を扱っているのが面白い。
どういう心理か知らないが、「警察への支出増大と厳罰化は犯罪を減らす」という主張はあまり人気がない。犯罪を経済的な行為とみなすより、遺伝子や社会問題に全責任を押し付けるほうが、どういうわけか心が安らかになるものらしい。犯罪者をあくまで個人としてのみ考え、統計的振舞いを示す集団として考えることを拒むなにかが、人間の心にはあるらしい。
犯罪者が個人としてのみ扱われる――これはあらゆる意味で危険だ。
政策上の問題は、集団の統計的振舞いを前提としなければ、妥当な解を導けない。社会心理としても危険だ。不特定多数の人々から個人として扱われることを望む人間は、ある割合で確実に存在する。
可能なかぎりあらゆる犯罪者を、歴史と統計の海に沈め、その個性を奪い去り、数表のマス目に押し込めてしまわなければならない。たとえば「スターリンは少なくとも一千万人の死に対して責任がある」というときの「一千万」のなかに、押し込めてしまわなければならない。
こうして出来上がった数表を、なんの感動もなくつつきまわしながら議論できるようになるまでは、犯罪問題についての議論はあまりにも危うい。
私は著者に全面的に同意するわけではないが(1991年の記事で「日本経済はすぐに回復するだろう」と予測しているのを見れば尚更だ)、少なくとも基本的な方向性は、私と一致している。
7月14日付けの文庫週間ベストセラーリスト(日販調べ)では、先週とは違って、「炎の蜃気楼」がマリみてより上位にきている。
これは、マリみてブームが主に、配本の早い都市部の現象であることを示唆しているかもしれない。
懐かしの「セラフィムコール」のキャラクターCD(村雨紫苑)が中古屋に転がっていたので手に入れた。
どうでもいい代物だった。没。
そういえばセラフィムコールのDVDが欲しい。探そう。
「ディルバートの法則」の116ページより。
大声で脅す
大声で話し、非理性的に振る舞え。これを貫けば、同僚だけでなくボスでさえおぬしの意志の前に折れるであろう。持続がカギである。おぬしは理性にはひるまず、自分の主張が通らぬかぎりうるさく不愉快な行動を止めないという明確な信号を送るのだ。この方法が有効なのは、法によって誰もおぬしを殺すことはできぬし、それ以外におぬしを止める方法は存在しないからだ。
最初、犠牲者は嵐が去るのを待つだろう。おぬしが疲れて立ち去るのを期待して。似非マキアヴェリストが大声戦法に屈するのはここである――あきらめが早すぎるのだ。しつこく狂気スレスレを旨とせよ。けっして手を緩めてはならぬ。
思い通りになったら、直ちに犠牲者どもが目にしたこともないような優しい人間に変貌せよ。飴を与えよ。犠牲者のボスを呼んで謝辞を述べよ。人前で犠牲者を褒め称えよ。連中がおぬしに応えたか否かによる反応の落差を際立たせるのだ。
この方法は崩壊家庭で育った人間にとりわけ効果がある。幸い、たいていの人間がこれに該当する。この連中はおぬしが最高の親友だと思い込み始めるであろう。そうなれば、さらにつけこんで振り回すことができよう。
読者諸氏の良心を安らかにする一助になればと思い、ここに抜粋した。
悲しいことに、この手法は、適切に用いさえすれば、驚くべき効果を発揮する。たとえば鈴木宗男はこの手法の達人だった。
秘密作戦を秘密裏に遂行中。詳細は秘密。
TVアニメの「HAPPY★LESSON ADVANCE」を第2話まで見た。
仲西環の演技やママティーチャーたちの役回りなど、いろいろと不安を感じる。
ようやく再開した。
リュドミーラとセットでないと、イリーナが面白くない。うーむ。
スコット・アダムスの「ディルバートの法則」を読んでいる。2ページから引用する。
ある電話会社に勤める課長は部下の“チームワーク”意識を高めようと考えた。会議を開くと彼は集まったチームメンバーに向かって、これから自分はいつもバットを持ち歩くから君らも仕事中はボールを持っているようにと伝えた。一部のメンバーはボールを持ち歩かなくていいように首からぶら下げる方法を考え出した。他の者は課長からバットを奪い取って、そいつで……などと空想した。
八神課長(野中英次の「課長バカ一代」)は実在する。
多人数TV会議の結論:Macromedia Flash Communication Server MX 1.5
私の睨んだとおり、多人数TV会議のサンプルがあった。ただしT.120相当のものはない。
たとえFlashの知識がゼロでも、30分もあればサーバをセットアップできる。クライアントのすべきことといえば、FlashのあるWebページを開くだけで、ほとんどなんの手間もかからない。
このサンプルは、ユーザインターフェイスがよくできている。UVメーターが見やすいところに表示されているので、声が割れるのを避けたり、他の参加者とのバランスを取ったりしやすい。
遅延も小さい。ネットワークトポロジーのあまりよくないところでも、1秒を超えることはない。
そして、なんといっても安い。帯域1Mbps(ADSL同士なら6~8人くらいで同時使用できる)のライセンスが6万5千円。
ただし、一般的なソリューションとしては、スケーラビリティが致命的に欠けていることに注意されたい。
私が調査した他のソリューションについて、感想を書き留めておく。
・Microsoft Exchange 2000 Conferencing Server
Exchange 2000を導入しているような大きな組織なら最善と思われる。会議の開催(サーバリソースの確保、出席者の招待、Outlook 2000のスケジュール表への書き込み)がワンアクションで行えるのは痛快だ。ただし、多人数TV会議を、インターネット上で、クライアントの環境の制約をできるだけ小さく、NATを超えて――などと注文をつけてゆくと、まったく成立しなくなる。
NetMeetingとの組み合わせでは、音声のコーデックが64kbps PCMに限定される(CU-SeeMeならうまくいくのかもしれない)。しかも私がテストしたかぎりでは、音声にリップル風のノイズが入った。H.323なのでNATを超えるにはトンネルが要る。かなり限定された状況でしかソリューションになりえないだろう。
画質はもっともよい。ちょっと手間を惜しまなければ、多人数での会議もできる。が、致命的なことに、音声がない。
・NetMeetingのみ
多人数で安価にT.120を使うには、これしかない。T.120だけならNATも超えられる。
長崎の事件についてコメントするのが流行っているようなので、私もしてみる。
マスコミの報道が気持ち悪い。
こんなときのためにある言葉だ――「気持ち悪い」。なぜマスコミは、確信犯でもない殺人犯ひとりに、あれほど欲情するのか。そう、彼ら(彼らの大多数が中年男性であることを指摘しておこう)は、あの男子中学生に欲情している。「さすが12歳! おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる! あこがれるゥ!」といわんばかりに。
彼らは、自分自身の罪を代弁してくれる存在を、あの殺人犯に見出したのだろう。彼らのなかには実は、あの殺人犯によって代弁されるべき何物も存在していないが、そのためにかえってあの殺人犯は、代弁者としての価値を備える。
彼らの罪を本当に代弁した殺人犯もいる。たとえば宅間守だ。だが彼らは絶対に、宅間守を自分の代弁者とは考えないだろう。彼らは自分自身の罪のかわりに、自分のものではない罪を求めている。宅間守の不愉快さ(自分の罪に向き合わずにいようとして他人の罪を言い立てる)さえも、彼らとまったく同じ種類のものだ。
この構造を、いかにも手垢のついた言葉だが、こう表現してもいいだろう――「消費」と。彼らはあの殺人犯を、犠牲者を、二人と親しかった人々を、消費している。
――と偉そうに彼らを見下す私だが、もしあの事件の犯人と犠牲者がどちらも女だったら、私は間違いなく、犯人に欲情していただろう。私も気持ち悪い人間だ。
紹介するのを忘れていた。
「マリア様がみてる 涼風さつさつ」、「炎の蜃気楼」「楽園の魔女たち」を破る!
あちこちの本屋で売り切れていたのは伊達ではなかった。
昨日の結論、「泣きゲーを作りたければホメロスを読め」の補足。
現代の目からは、オデュッセウスのすさまじい殺戮はとうてい泣けるものではないが、これを泣きとして理解することが「オデュッセイア」を理解する鍵だ。この殺戮は過剰であり、報復を必然的に呼び起すものだった。オデュッセウスは統治者として、公正な秩序を保つべき立場にあるのに、自らそれを踏み破ってしまった。なぜなら――たとえオデュッセウスがかつてのように振舞っても、もう二度と世界はかつての秩序を取り戻さないという残酷な事実から逃避するために。過剰な殺戮という劇的な形で表現されるこの逃避こそ、「オデュッセイア」のラストにおける泣きの核心をなしている。
この逃避は、神の介入なしには逃避のままであり、事実によって追いつかれる。だから、殺戮のあとのペネロペイアとの抱擁は、物語を終わらせることができない。オデュッセウスの殺戮に対する報復が組織され、殺戮が逃避であったことが示されなければならない。そうして事実が追いつこうとしたそのとき、神の介入によって、逃避であったものが事実へと明示的に転換される。この転換が明示的に行われる、というのが重要な点だ。人間の弱さを救済するには、まず人間の弱さを認識しなければならない。
以上に述べた構造は、「長旅と帰還」などという形式にはまったく縛られない。「かつて理想的な秩序があったが、それは永遠に失われた」という信念がありさえすれば、この構造は展開できる。
また、泣き要素もいくつか指摘できる。
たとえば、神話的に長い放浪の旅であったにもかかわらず、妻ペネロペイアはオデュッセウスを待ちつづけていた。他の男と結婚しなかったというだけでなく、「待つ」という情熱を抱き続けていた。「ONE ~輝く季節へ~」のラストを連想されたい。
あるいは、帰還したオデュッセウスを最初にそれと認めたのは、彼の年老いた猟犬だった。子供と犬はいつの世でも、泣き要素の切り札のひとつに数えられる。
ホメロスのオデュッセウスが故郷にたどりついたとき、あれほど残虐に振舞う必然性がどこにあったのか、よく理解できた。
「いったん乱された秩序が英雄によって回復される」というブルジョア的な物語にどっぷりと浸っていると、帰還したオデュッセウスの残虐さは理解できない。オデュッセウスの帰還は、秩序の回復を意味しなかった。物語を無理やりにハッピーエンドで締めくくるデウス・エクス・マキーナは、逆説的に絶望を表現している。
こうして「オデュッセウス」を捉えなおしてみると、「To Heart」のマルチの物語と似ていることに気づいた。
主人公がやっとの思いで手に入れたHM-12は、マルチとの再会を意味しない。このとき主人公はおとなしく悲しむばかりで、オデュッセウスのような過剰で劇的な行動には走らないが、この点で「To Heart」はホメロスにかなり負けている。そして絶望を正しく完結させるデウス・エクス・マキーナ、というわけだ。
今日の結論――「泣きゲーを作りたければホメロスを読め」。
安彦良和の「ジャンヌ」を読んだ。
ジャンヌを描くのは難しいが、勝利王シャルルを描くのはさらに難しい。時代精神に逆らう必要があるからだ。
マキャベリがチェーザレ・ボルジアを賞賛したとき以来、あるいはもっと遡ればプラトンが王に哲学を求めたとき以来、西洋の精神には、英邁な君主、「よいツァーリ」への憧れが抜きがたく存在する。この憧れはけっして人類に普遍的なものではない。たとえば近代以前の中国文化圏(日本も含む)では、英邁な君主は必ずしも評価されない。
思えば、マキャベリがチェーザレ・ボルジアを賞賛したのは、まさにルネサンスという時代がなせる業だった。チェーザレ・ボルジアの事業の結果を見てみよう。差し引きゼロか、赤字である。このような惨めな結果しか残さなかった人間を賞賛する理屈が、いったいなぜ支持されたのか。
よい意図が悪い結果を正当化しないということなら、5歳の子供でも理解できる。だが、的確な行動が悪い結果を正当化しないということは、マキャベリの理解の埒外にあったらしい。人間の理解しうる程度の「的確」のほうが、結果よりも評価に値する――人間のなかに途方もない偉大さを認めたルネサンスならではの論理だ。
ひるがえって、勝利王シャルルの事業の結果を見てみよう。彼がアルマニャック派のトップに立ったとき、フランスは分裂し、荒廃し、侵略されていた。彼が死んだとき、フランスは統一され、復興しつつあり、侵略者を追い払っていた。彼の築いた平和は300年以上にわたって基本的に保たれ、彼の残した官僚制の基盤のもとにフランスはヨーロッパの覇権を争う力を蓄えた。疑いもなく偉大な業績である。
こうして比較してみせれば、真剣な評価に値する君主は誰か、まともに論じる値打ちのないごろつきは誰か、一目でわかる。だが今日でも、チェーザレ・ボルジアが真剣な評価に値するかのような論調がまかりとおっている。勝利王シャルルの臆病さや行動力の欠如をあげつらい、彼を偉大な業績の持ち主としてまともに論じることを避ける風潮が続いている。なぜか?
時代精神、というほかない。マキャベリ的でルネサンス的な人間への過大評価は、今日もなお、「合理性」という枠のなかで生き延びている。
(的確な行動が悪い結果を正当化するという論理――これをもっとも象徴的に表現しているのが、探偵が介入しているなかで連続殺人の起こる推理小説である。そこでは探偵は、殺戮という最悪の結果を阻止できない無力な存在であるにもかかわらず、「合理性」という枠に守られて、秩序を回復する英雄の座を与えられている)
近代以前の中国文化圏においては、勝利王シャルルの偉大さはごく常識的なことであり、ほとんど興味の対象になりえないだろう。しかし現代においては、勝利王シャルルの偉大さは、ひとつの巨大な謎である。この謎を解くことで私たちは、現在について何事かを知ることができるはずだ。
安彦良和の「ジャンヌ」に描かれた勝利王シャルルは、残念ながら、この巨大な謎に挑戦するものではない。だが、謎を投げかけるものにはなっている。一般のジャンヌ・ダルク物にはまず描かれることのない百年戦争の終結が、ここには描かれているからだ。
XML SPYを触っている。
いやはや大したもんですな素晴らしいですな21世紀ですなXMLのドリームを実現してますな今時XML文書を手で書く奴はメソポタミア文明からやりなおしたほうがいいですなCocoonでXSLTも楽勝ですなXMLは知らなくてもXML SPYは知っておくべきですな、などとつぶやきながらTutorialをやっている。図をいじってXML Schemaが作れたり、まるでHTMLエディタのようにXSLTが作れたりするのだから痛快きわまりない。
百合の可能性があるとの情報を受け、TVアニメの「ダイバージェンス・イヴ」を少しだけ見た。
ほとんど全キャラが大袈裟な巨乳だった。私の経験によれば、百合と大袈裟な巨乳は相性が悪い。なぜだろう。
というわけで、新情報があるまで無視する。
多人数TV会議の試み。
OpenMCUがダメくさい。良好なコンディションのもとでも、音声に周期的にリップル風のノイズが入る。おそらくはバグだ。またT.120が使えないのはやはり辛い。
他にどんなものがあるかと思って調べてみると、H.323とT.120を使った選択肢はどれもみな突拍子もないほど高価だ。具体的にはMicrosoft Exchange 2000 Conferencing Server(100万円コース)、Lotus Sametime(単品売りさえしていない)などがある。
H.323とT.120を離れて同等のもので検討すると、Macromedia Flash Communication Server MX(6万円コース)がもっとも安価に思える。しかもHTTPトンネリングが使えるのでVPN要らずだ。ただしNetMeetingと違って、出来合いのクライアントとサーバでできているシステムではないらしい。もしサンプルにNetMeeting+MCUの類似品が入っているなら、これを導入するのだが。うーむ。
「百合すと2.2」の指定物件候補。
・うおなてれぴん「しすこれ」
・森永みるく「メア」
私の知るかぎりでは、可南子のようなキャラから面白い変化を繰り出すのは難しい。現代百合で可南子のようなキャラが日陰者扱いされているのは、なにもポリティカル・コレクトネスに配慮した結果ではなく、面白くするのが難しいからだ。
かといって可南子の登場が無駄なわけではない。こういう、一見すると無駄のような動きを通じて間接的に、いろいろなものが配置転換できる。
私のカンでは、可南子は間接的に黄薔薇ファミリーに効いてくる。容姿が変数として扱われるなら、令と由乃のあいだの絆は定数として扱われ、いわば旋回軸を形成する。今回の結末の、「人の本質」という物象化されたモデルは、令と由乃のあいだの絆を通じて脱物象化されるだろう。
(物象化されたモデル:
DQNの第一法則は、差異がアプリオリに存在すると確信することだ。この第一法則からは、次の結論が導かれる。「人種間には人種差があるから、人種間の合理的差別は許される」。いうまでもなく、ここで検討されるべきは、「人種差」というモデル自体である。そのようなモデルがなぜ必要なのか?
数年前に流行った問題、「性別にはセックスとジェンダーがある」。ヒント――「セックス」という差異を認識する必要はどこにあるのか?
そして今回の問題、「人には表面と本質がある」。表面と異なる「本質」なるものを想定する必要はどこにあるのか?)
この世でもっとも馬鹿馬鹿しい8文字を思いついた。
「リアルなパンチラ」
この8文字を、新月お茶の会の某氏に贈る。
VPNでNATを越えてNetMeetingで多人数TV会議しようと試みている。クライアントの回線はADSL、MCUはとりあえずOpenMCU。
つなげるのは簡単でも、性能を出すには試行錯誤の固め打ちだ。まずVPN接続のプロパティから。
・VPNサーバの種類の設定で、「ソフトウェア圧縮を行う」を外す
・TCP/IPのプロパティ内の詳細設定を開き、全般タブのなかの「リモートネットワークでデフォルトゲートウェイを使う」を外す
そしてNetMeetingのオプション。
・全般タブ内の「帯域幅の設定」でLANを指定する
・オーディオタブ内の「改良された~DirectSound~」にチェックを入れる(XPの場合は無効)
・個人的には、オーディオタブ内の「無音検出を手動で調整する」を選択し、スライダーを一番右に寄せるほうがいい
まだまだあるかもしれない。
問題点を列挙すれば、
・OpenMCUは音声がおかしい(数十秒周期で割れる)ような気がする
・ホワイトボード等がまったく使えない
さらに、ADSLなのにMCU―クライアント間で1秒以上もの遅延が生じるケースが発見されている。私のアジトとMCUのあいだでは往復で300ms程度。うーむ。
広告批評・編の「私の広告術」を読んだ。
結論:
そこそこの広告なら研究すれば作れるようになるが、それ以上のものは、研究とは無関係な領域にある。少々以上の効果のある広告はすべて、この領域に存在する。
こういう残酷なものが、私は好きだ。
イタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」を読んだ。古典を中心とした評論集である。
いつもながらに日和見主義的だった。特に苛立ったところを引用する。20ページ。
いっぽう、王子や女王の不運は、貧しさのイメージを〈踏みにじられた権利〉の概念につなげる。これは、正しい秩序は回復されなければならないという思想を表すものであって、フランス革命以来、現代までの社会意識にとっては、不可欠な定点(概念が初歩的な図式をかりて浸透することが可能なファンタジーのレベルにおいて)なのである。
こうした論法が許されるなら、「よいツァーリと悪いツァーリ」の神話さえも、革命的精神の精華に仕立て上げられるだろう。
ZDNetの記事から。
しかしこれらの主張を煎じ詰めれば、どれも同じことを言っている。「SCOは悪く、われわれは正しい」ということだ。この姿勢は、筆者の言う「技術者の致命的欠点」から来るものだ。「物理学の試験に合格したので、自分は何でも知っている」という信念だ。
筆者にこの知恵を与えてくれたのは、大学2年生のときのルームメートで、電気工学を専攻していたマイク・フォスターという学生だ。彼は、あらゆる問題に対する答えを持っており、その答えというのは死刑や一律課税といった、現実生活にはとても適用できないような非常識極まりない単純なソリューションばかりだった。
誤解しないでいただきたいのは、筆者はトランジスタを設計できる人々はもちろん、乾式壁を作れる人々にさえも畏敬の念を抱いている。しかし科学的精神の中には傲慢さが宿されており、その傲慢さはとどまるところを知らない。
おそらくこの傲慢さは、ルネサンスに端を発する。だが、近代自然科学の発生とは、必ずしも結びつかない。
近代自然科学と、現実の複雑さを無視する傲慢さ――この二つを現在の目で見れば、明らかに結びついているかに見える。「ガリレオが空気抵抗を無視できたのはこの傲慢さのゆえだった」などと言えば、俗耳に入りやすい説のできあがりだ。しかしケプラーの業績は、まったく逆の繊細さを示している。
このあたりのいわく言いがたい複雑な関係が、まさにこの世の複雑さというわけだ。うーむ。
技術者出身で大統領になったのは、
ハーバート・フーバーとジミー・カーターだけだと
いうのも偶然ではない。