「百合史・百合論」は在庫僅少のため、特段の事情がある場合を除いて、完売とさせていただきます。印刷等は劣るものの同じ内容のものが、新月お茶の会発行の「月猫通り」2100号に掲載されていますので、今後はこちらをお求めください。
4月29日のCレヴォで、同人エロゲー「CAROL」が発売されました。今後も同人ショップなどで委託販売されます。皆様のご愛顧をお願いします。デモムービー(偽物)はこちらにあります。
ヤボ用から解放されたので、本を読んでいる。
ニーナ・コスマンの「レーニンよりママが好き!」。ソ連はひどい国だったが、この本の著者ほどではない。著者はソ連の悪よりも、自分自身の悪を表現している。自分の父母が育ち、幼い日の友人が暮らした国を、愛情の欠片もなく悪しざまにのみ描き出して恥じないその感性は、パーヴェル・モロゾフもかくやと思わせる。賭けてもいい、ソ連では著者は、体制に順応しきった優等生、小さなデニス・イワーノヴィチ(「ノーメンクラツーラ」の)だったにちがいない。おそらくはソルジェニーツィンが、逮捕される日までそうだったであろうように。
悪の表現――これは逆説的にではなく、真正面から評価すべき点かもしれない。これほどまでに完全無欠の悪を表現した作品は、なかなかお目にかかれない。この本を読めば、悪人を気取って悦に入るマルキ・ド・サドの主人公たちが、馬鹿を通り越して白痴に見えること請け合いだ。
デマルコとリスターの「ピープルウェア」。「モテる技術」と同じく、この本に書いてあることをほぼすべて実行できれば、必ず生産性は上がる。「なんだ、簡単簡単」と思うなら、あなたはまだラエトライルの意味を理解していない。
てくてくの「テクノエキス」。思考の量と質が、エロまんがほど効いてくるジャンルは少ない。思考以外のものではカバーできない何かが、かなりの比重を占めている。よくわからない、という向きはこの本を読むといい。
指定物件候補。
・ヤミと帽子と本の旅人
取り上げるトピックの候補。
・百合テイスト(「双恋」など)
「百合姉妹」を通読した。
大筋では、昨日の日記に付け加えるところはない。あの悪夢の「カサブランカ革命」からはるかに前進したという一事だけでも、個人的には高い点をつけたい(とはいえ「EG」からさほど前進したとも見えないが)。しかし、この雑誌の置かれた客観的諸条件は、私よりも辛い点をつけるだろう。
内容のほうは順当に、紺野キタと森永みるくが良く、林家志弦に納得し、小野塚カホリに疑問がある。
小野塚カホリに疑問があることは最初からわかりきっているが(いままでの作品における百合のあしらいかたを見れば一目瞭然だ)、これを編集部の浅慮とみるのはおそらく適切でない。
昨日述べたように、「B5の雑誌」という形態からは「女性向け」という読者層設定は不可避だ。この読者層設定からは、小野塚カホリという選択には非の打ち所がない。これは浅慮ではなく熟慮にもとづく一貫性であり、編集部がプロフェッショナルに検討した結果と考えるのがおそらく妥当だ。この一貫性、プロフェッショナリズムによって、「B5の雑誌」という形態の抱える根本的問題がはっきりと浮かび上がってくる。
それにしても――保健室が多い。
現代百合にとって保健室がこんなにも重要なものだとは、いまのいままで知らなかった。かくなる上は保健室独裁に対抗して、図書室というオルタナティブや、屋上の復権を声高に叫ばねばなるまい。
百合物件リストを「百合すと2.1」(2002年10月発行)のものに更新した。
更新作業を進めながら、「百合すと2.2」(夏コミ新刊予定)の内容を検討した。古い参考指定物件をばっさりと切り(なにしろ最初の選定が3年前だ)、代わりに「百合史・百合論」からのフィードバックを入れたい。うーむ。
忘れないうちに指定物件候補をリストアップしてゆこう。
・僕と、僕らの夏
・灰羽連盟
・キディ・グレイド
ヤボ用が立てこんでいるため、「百合姉妹」を通読することさえできない。
現時点での評価を述べれば――百合の地力(まだコミケのジャンルコードを獲得していない)や編集者の方針(百合をかなり狭義に解釈している)に比して、形態が大きすぎる。
形態について。
B5の雑誌で838円は苦しい。この価格設定は、継続的に広告が入ることを前提にしているはずだが、百合の地力からいってこの前提は怪しい。たとえ部数はある程度出ても、女性読者数が見込めないとわかれば、スポンサーは広告を引き上げるだろう。また特集ページ等も存在意義が怪しい。商業誌で指定物件紹介をやってどうするのか。A5のアンソロジー形式で160ページ・876円なら、ぐっと魅力ある本になったはずだ。
百合解釈の狭さについて。
これは、善意にみれば、形態上の問題が反映されたものかもしれない。B5の雑誌という前提からは、「広告を取る→女性読者を前提とする→もっぱら女性向け」まで一直線であり、「もっぱら女性向け」という前提からは百合解釈は狭くならざるをえない。もちろん、「もっぱら男性向け」という前提を立てても、同じように百合解釈は狭くなる。
これはあまり言いたくないことだが、「百合史・百合論」の中心的テーマのひとつは、「誰が百合を読むかを問題としない」という点にある。「問題にしない」がテーマなのだから、それについて触れることができない(だからこの解説もルール違反であり、あまり言いたくない)。「誰が読むのか」という問題を、それこそ智夏のように忘れた地点にこそ、百合は幅広くまた力強く存在しうる。あるいは、こう言い換えてもいい――「百合の読者というものが百合作品に先立ってあらかじめ存在している」という発想をやめ、「百合作品によって百合の読者が作り出される」のだと考えるべきだ。
というわけで、続刊があるとすれば、広告への依存をなくし、A5・160ページ・876円のアンソロジー形式に変更し、読者層を想定することをやめるべきである、と助言したい。もっとも、私の助言が当たっているとすると、第2号が出るかどうかも怪しいが。
眠い。きゅう。
香織派の目標達成はいまや、可能性の問題ではなくタイムテーブルの問題になりつつある。この前進にともなって、旧来の百合の内部矛盾がいよいよ深化してきた。百合の普及発展は、短期的には、量的拡大と質的発展のサイクルの速度によって制約される。しかし中長期的には、この内部矛盾を克服できるか否かが鍵になるだろう。
深化しつつある内部矛盾はいくつかあるが、そのなかで目下のところ最大にして緊急の矛盾、「悪場所主義」に対する闘争を香織派は宣言する。
最初に、「悪場所」とは何かをご存じでない読者諸氏のために解説しておこう。
鎖国をみてもわかるように、江戸幕府のイデオロギーは反グローバリズムの最たるものだ。近代科学的な「均質で一様な宇宙」というイメージは、江戸幕府にとっては恐るべき異端思想でさえあった。なにしろ朱子学によれば、天と地があるように支配者と被支配者があるのだから、天と地の等質性を唱えることはアナーキズムに等しい。
このようなイデオロギーはもちろん、差別による支配を生み出した。適当なところで線を引く――ただそれだけで支配が維持されるのだから、支配者にとってこれほど便利なものはない。門地による差別は現在でも、部落差別問題としてよく知られている。
この差別による支配のメカニズムを、場所に対して適用した結果が、「悪場所」である。
悪場所では、悪場所以外の場所(仮に「善場所」と呼んでおこう)とは違う特別の制度が運用される。具体的には、芝居町や遊里が悪場所とされた。芝居小屋や郭の経営者は、営業場所を悪場所に限定されるかわりに、特別制度による経営上のメリットを享受した。たとえば遊里なら、女郎の身柄を拘束するうえで便利な制度がいくつも提供されていた。
悪場所によって幕府は税収などを合理化できたと同時に、善場所をガス抜きし、なだめ、支配しやすい場所にすることができた。悪場所で演じられ称えられた偽の革命が、現実の革命を封じ込めた。「太夫が客を選り好みする」というたぐいの言説や行動は、まさに偽の革命だった。こうした偽の革命を、大衆的な想像力の発揮として称揚する向きもある(現在では田中優子など)。しかし百合的な観点は、偽の革命の欺瞞を暴き出している(「百合史・百合論」参照)。
偽の革命への称揚は、戦後のある時期から盛んになり、一部では「悪場所」という言葉が肯定的な意味で使われるようになった。偽の革命として自由な想像力が発揮される(そして不自由な善場所をガス抜きし維持する)場所だから素晴らしい、という論理だ。悪場所称揚・偽革命称揚の論理から、ポルノを悪場所として擁護する、などという発想もなされた。しかし香織派がいう「悪場所」はもちろん、偽の革命への弾劾をこめた否定的なものだ。
さて本題である。
旧来の百合の内部には、百合を悪場所とみなす流れがある。この流れでは、もっとも典型的には、百合をポルノの変種として認識する。また、いわゆる「耽美」という概念による認識も、悪場所主義の一種といえるだろう。以下後日に続く。
上遠野浩平の「しずるさんと偏屈な死者たち」を読んでいる。
女言葉が辛い。これは百合作品の制作上、かなり重要なポイントなので、我が身の非力を省みず状況を述べてみよう。
まず、女性キャラのセリフが実物そのままでは萌えもへったくれもない。これは絵と同じだ。そのへんの小娘がしているような洒落た支度をそのまま絵に起こしても、萌えとはかけ離れたものにしかならない。かといって、いい加減に女言葉を使うべきでもない。これも絵と同じだ。リボンなどの萌えパーツを無自覚・無批判に使った絵の見苦しさは、読者諸氏もご存じではないかと思う。
萌えパーツへの価値観が十人十色であるように、万人が納得できるような萌える女言葉の例を示すのは難しい。それでもなんとか良い例として津原やすみの「あたしのエイリアン」シリーズ、などと挙げてみても、読むことのできる人はごく限られているだろう。うーむ。
市ヶ谷の防衛庁に行った。
厚生棟の小さな本屋の棚に、かわぐちかいじの「ジパング」が全巻揃っていた。雑誌の棚には軍事関係の雑誌がずらりと並び、「軍事研究」が平積みである。
しかし安心されたい。レジの前には、百合の橋頭堡の一角「電撃大王」が平積みされていた。百合はここでも浸透しつつある。
高坂りとの「プラネットガーディアン」3巻を読んだ。
作者の脳が変な次元とつながっているような気がする。高屋奈月の「フルーツバスケット」を読むと心が荒むという人々は、これを読むと和むだろう。
「作戦」から「計画」へと微妙に計画名を変更した。
計画のスローガンを決めた。「我々は百合におけるCLAMP、百合における赤松健になる」だ。
XSLTでブイブイいわせたい今日このごろ、「最新XML+XSLTサンプル集」を読んでいる。
XSLTは21世紀感覚あふれる言語なので、仕組みはわかっても、なかなかカンがつかめない。カンをつかむには実例を見るのがよかろうと思い、サンプル集を読んでいる。
XSLTの字下げがおかしい、末尾にvalue-of select="."を置く重要テクニックが(いまのところ)出てこない、などなど文句のつけどころは盛りだくさんだが、これより優れたXSLT本がそうたくさんあるわけでもなさそうだ。とはいえ、XML SPYの使い方を覚えたほうが近道のような気もしないでもない。
わけあって、東武東上線の朝霞台のさらに先の某駅まで行った。
人口密度のわりに本屋がヘボいことに驚愕した。聞けば、「エース桃組」が置いてある本屋など近所にないという。対して、飲み屋の充実ぶりには驚くべきものがある。もっともこれは、私のアジト周辺との比較なので、比較対象が悪いのかもしれない。私のアジト周辺は世界的にも稀な、サラ金と飲み屋街のない都市なのだ。
これは象徴的な事例だが、他の見聞とあわせて、私はひとつの仮説に達した。
日本の都市住民は、オタと非オタに階層分化しつつあるのではないか? 私の訪れた某駅は非オタ階層の居住地で、私のアジト周辺やマチダ(お忘れかもしれないが、私はマチダ系だ)はオタ階層の居住地になっているのではないか?
階層が異なると、文化的環境が異なる。だから非オタ地帯の本屋には「エース桃組」が置かれない。もちろん話す言葉も違ってくる。オタ階層は「三倍」「世界最強」「妹」といった言葉に独自のニュアンスを感じ取り、「萌え」に代表される独自の論理体系を備え、「はわわわわ」「うぐぅ」といった翻訳不可能なボキャブラリを用いる。
傾向としては、オタ地帯で育った子供はオタに、非オタ地帯で育った子供は非オタになる。だから非オタ地帯で育った生粋の非オタの子供は、あるときオタ地帯に踏み込むと、知らない雑誌がいくつも本屋に当たり前に並んでいるのを見て驚くのだ。
単なる訪問ではなく引越しなどしようものなら大変だ。クラスの他の子供たちは、同じ標準語をしゃべっているようなのに、話が通じない。知らない人でも二言三言しゃべっただけで余所者だと見抜かれてしまう。
というわけで、これから人の親となる人々には、子供の教育のことを考える以前に、居住地を慎重に選ばれるようお勧めしたい。階層を後から金で買おうとすると、高くつくだけでなく、莫大な労力も伴う。
「押し貸し」「カラ貸し」というのは最近有名になった手口だが、なんともよくできた手口だと思う。特定のターゲットへと集中されることなく無作為にばらまかれ、しかも割に合う暴力――現在の日本では、これを効果的に抑制するのは、案外難しい。
こんなうまい手口が最近の発明とは少々信じがたい。サラ金への法的規制を狙った世論誘導を感じる。だとすると、こんな回りくどいことをしなければ法案が通らないほどに、サラ金の政治力は強くなっているわけだ。
かつてアルバニアでは国民の約半数がネズミ講に加わった。このネズミ講の成長過程ではもちろん、ネズミ講の資金力が政府内の良心的な人々を圧倒した。TVのCMにサラ金のCMがあまりにも多い今日このごろ、似たようなことがサラ金で起こるかもしれない、と思わされる。
深夜に一人でタクシーに乗った。もちろん人の金で。
タクシーは、幹線道路でない細い道をよく通る。特に、私が利用した区間の大半は、細い道だった。延々と続く細い道のどこにも、途切れることなく、人家がある。言葉にすれば「人家」と抽象化してしまうほかないが、私の目の前を過ぎていったのはすべて、具体的な建築物だ。
これが鉄道沿線なら、それほどの驚きもない。鉄道沿線に人が住むのは、経済的にみて当然だ。幹線道路沿いでも似たようなものだ。が、今日の私が見たのは、幹線道路から離れた細い道のまわりに、途切れることなくびっしりと立ち並ぶ人家だった。「経済性」のような抽象的な要因によることなく、それらの人家は、ただ存在する。
どれひとつをとっても、よく似通っていると同時に、まったく似て非なる――つまり、具体的な建築物としての人家の数々。これら具体的な建築物を購入あるいは賃貸して住んでいる、具体的な人々。ただし深夜のことであり、私の目に映ったのは、人ではなく建築物だけだった。そのためにかえって、具体的な人々の具体性が胸に迫ってくるのは、なぜだろうか。
具体的な建築物は数限りなく目の前を流れてゆき、私はその具体性に圧倒された。街灯、並走車や対向車のライト、商店と人家の明かりが流れてゆくさまを、シスプリRePureのBパートの亞里亞のような目で、眺めた。いまならわかる、あの亞里亞のビジョンは、まったく合理的なものだ。この世界は確かに、ああいう具合に具体的な姿をしている。
40分間の亞里亞ビジョンの料金は、1万円。なんとも有難味のある体験だ。
WebカメラでTV会議する環境を整えている。
カメラはKW-UC330A、アキバでもっとも安い(2000円)Webカメラである。以前からヤボ用でいろいろと使っていたので、これを選んだ。なんといっても、ドライバがクソでないことがわかっているのが有難い。ハードウェアの出来の95%まではドライバで決まるといっても過言ではない。
これをTV会議に使う際のコツは、Video Capture FilterのCustom Propertyで「Low Light」のスライドバーをFrame Rateに寄せることだ。 顔色は悪くなるが、フレームレートには替えられない。
現在、Googleで「妹」を検索すると、次のような結果が出る。
全日本 妹選手権!!
2002.12.03. 「大事にしてね お兄ちゃん」, 「見てないで 手伝っ
SaTa.'s Nikki Time [みさきチェック] - 2003/ 6/13 (金) ...
最新日記妹 みさきチェック お気に入りに追加してね。 9656
妹を攻略できません
妹を攻略できません. 当エロゲ中の妹キャラは現在、攻略できま
新作情報
うちの妹のばあい(はぁと) Windows95/98/2000/ME/XP 2003年5月30日発売予定
妹属性判定
あなたの妹属性度を判定します 正直に答えてねお兄ちゃん☆.
妹教大付属小学校
「愛少女ジャスティス・フロン」ファンサイト + PC美少女ゲーム 攻略・
Schwester Schutz=Staffel
妹親, 衛隊. Schwester Schutz=Staffel. W, hat's new ? 2003.04.06.[妹名鑑]に[朔夜]・[アンジェリカ]・[ソ
妬き妹どっとこむ
Ta-Ta-'s Labo for Web 妬き妹どっとこむ☆ 18歳未満の方は退出してくだ
SANSPO.COM
>>今日のニュース >>バックナンバー >>音楽 なっち妹の安倍麻美がお披
新宿学園妹系イメクラ「妹は優等生」
新宿学園妹系イメクラ「妹は優等生」オフィシャルホームページ. ...
現在の日本における「妹」とは、こうした概念であるらしい。
こうした理解をもとに、次の記事を読んでみる。
人生は厳しい。
ギリャロフスキー「帝政末期のモスクワ」、1985年5月20日発行。
ギリャローフスキイ「世紀末のモスクワ モスクワとモスクワ人」、1985年6月30日発行。
この2冊の本は、どちらも同じ、「モスクワとモスクワ人」という本を底本にしている。2冊を読み比べることで、いかに翻訳があてにならないものかを知ることができる。
たとえば「モスクワにて」の冒頭で、夜中の2時に鶏の「コケコッコー」という鳴き声をあげたのは誰か。中央公論社版を読むとそれは御者だが、群像社版ではまるで自然に鶏が鳴いたように書かれている。
また、翻訳のポリシーの違いが見えるのも面白い。群像社版では固有名詞をそのままカタカナで書いているが、中央公論社版では固有名詞に和訳をあてている。
しかし中央公論社版のほうが翻訳として優れているかというと、私としては、群像社版(中田甫訳)に軍配を上げたい。固有名詞に和訳をあてるよりも、カタカナの羅列のほうがイメージを喚起する力が強いような気がするのは、私がSF・ファンタジー系の文化に染まっているからだろうか。
ちなみに、ソ連時代の革命にちなんだ地名は、イメージ喚起力という面では素晴らしい。「マルクス大通り」「ゴーリキー通り」「レーニン丘」などなど、名前を聞いただけでも行ってみたくなる地名ばかりだ。
絶滅へのカウントダウンが囁かれはじめてから久しい習俗、「ヤンキー」について。
暴走族といいヤンキーといい、この種の人々はどういうわけか、右翼的な風俗を好む習性がある。これは人脈上のつながりから生じるものだという説が有力だ。とすると、そういう人脈から切り離された孤立地帯なら、左翼的な風俗を採用したグループがいてもおかしくない。
そう、たとえば――スプレーで壁に「すべての権力をソヴィエトへ」「共産主義=ソヴィエト権力+全国の電化」と落書きし、クラクションで「インターナショナル」を演奏し、ハコ乗りしながら赤旗を掲げるのだ。グループの名前はもちろん「××市ソヴィエト」である。
……と書いてから考えてみると、これは左翼的というより、ソ連的な風俗だった。うーむ。
要注意物件リストを更新した。「ぷちモン」を格下げし(B→C)、「BK. ブレイド」と「双恋」を追加している。
うおなてれぴんの「しすこれ」を読んだ。姉フェチの妹が姉をいじろうとして冷たくあしらわれる話である。
芸術的に微妙な作品である。たとえば、登場人物の髪はほぼ全員が黒ベタで、白やトーンは色物キャラだが、主人公の姉妹は大ぶりなリボンをつけている。また、主人公たちはバレエ部員で、バレエ絡みの話があちこちに出てくるが、「巨乳のバレリーナ」という無茶なものがちゃんと無茶なものとして描かれる(なにしろロンドン帰りの天才バレリーナだ)。
いろいろと微妙な均衡が成立しているなかで、「姉フェチの妹」という無茶なものが、なにかしら微妙な説得力を備えている。作品中のあちこちで微妙にちゃんとバレエしているように、微妙にちゃんと姉妹愛が成立している。
というわけで、この作品は、百合的な姉妹愛について考察するうえで必須の物件といえる――かもしれない。微妙だ。
しかし作品としては微妙どころではなく面白い。やや入手困難だが、読者諸氏もぜひ読まれたい。
雑誌「ドラゴンエイジ」(富士見書房)今月号の、東雲太郎「BK. ブレイド」を読んだ。
絵の荒さが危険水域に達しているが、今後とも百合で進むようなので、大目に見たい。
コンピュータ業界を見ていると、「ありてあるもの」の存在がいきいきと感じられる。
たとえばQWERTYキーボードが典型的だ。これは、あるがゆえにある。過去にあったという事実だけが、現在、そして未来にあることの唯一の根拠になっている。
独自拡張HTMLも、あるがゆえにある。ブラウザは、NetscapeとMSによる独自拡張に対するサポートを打ち切るわけにはいかない。ということは、今後とも独自拡張を使ったページは再生産される。それを根拠にしてまた、独自拡張に対するサポートを打ち切れないという客観的事実が再生産される。煙草や核兵器のなくなる日があまりに遠く思えるように、table要素のレイアウト的使用がなくなる日は、あまりに遠く思える。
これはもしかすると、ある意味で、神の存在証明のもっともモダンな形式かもしれない――「ありてあるもの」は存在するのだ、と。私たちはみな、QWERTYキーボードという神や、独自拡張HTMLという神のしもべであり、神々を無根拠に崇拝(根拠のある崇拝などありえないが)すべき運命にある。
崇拝などしていない? だが、おそらくあなたの使っているキーボードは QWERTYキーボードだ。そして、あなたが必要とする情報を載せているページの何割かは、独自拡張HTMLを使って書かれているはずだ。私とて例外ではない。なにしろ、このサイトの大半のページは、charset=x-sjisで書かれている。もちろんキーボードはQWERTYだ。私たちは、自分の信念にかかわらず事実として、これらの神々を無根拠に崇拝している。
事実として崇拝していながら「崇拝などしていない」という信念を抱けば、それはかならず、「QWERTYキーボードは正しい」「独自拡張HTMLは正しい」という不可思議な(=無根拠な)確信へとゆきつく。この現象は心理学的には、認知的不協和として知られている。自分の行動(=QWERTYキーボードを使っている)を正当化するために、自分の認識のほうを変えてしまい(=QWERTYキーボードは正しい)、しかも自分ではその原因をけっして悟ることができない。
革命が無神論を要求する理由は、まさにここにある。人間が思い描くことのできる神とは、認知的不協和に対する汎用の正当化装置にほかならない。汎用装置への不信任を発端として、あらゆる無根拠な崇拝、あらゆる「ありてあるもの」に対して全面的な不信任を突きつけようとする試み、それが革命だ。
眠い。きゅう。
刑部真芯の「囚 ―愛玩少女―」の1巻を読んでいる。
「禁断」よりもさらに強くなっている。あまりに強いので、読んでいるだけでこちらも強まってくる。
C. MuscianoとB. Kennedyの「HTML&XHTML 第5版」(オライリー)を読んだ。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ(ジョジョ風)
最初に、私自身のことを言い訳しておきたい。
私は、規格準拠は良いことだと知っている。もし、あるものを作ろうとするときに、規格準拠する方法としない方法があって両者のあいだに優劣がなければ、迷わず前者をとる。しかし、規格準拠の道があまりに険しく、しかも得られるものがあまりに少ない場合には、規格準拠を捨てることを厭わない。
この比較衡量を行う際には、規格準拠を弁護するために十分な努力が払われなければならない。無知や怠慢のために規格を無視すれば、結局は自分自身を害することになる。なぜなら、XHTMLのような公的規格は普通、私よりもはるかに賢い人々が調査検討を重ねた末に策定したものだ。同意するかどうかはともかく、耳を傾けるだけの価値はある。
さて、本題である。
著者らはXHTML 1.1を、ばかげたレベルにまで高度化された標準の一例であると考えています。学術的には優れているかもしれませんが、使いものになるとは思えません。
(511ページ)
XMLは読もうとすれば読めるってだけで手で書くもんじゃ無ェってことも知らねーのかドッ低脳がァァァァ!!!!
なお、いうまでもなく、「メモ帳でXMLを書きましょう」式の入門書もド低脳である。
前にも説明したように、テーブルのセルの中には別のテーブルを置くことができます。このようなテーブルのネストは、複雑なテーブルの表示を可能にするだけでなく、フォームのレイアウトにも有効に活用できます。
(527ページ)
いまどきテーブルをレイアウトに使うんじゃねェェェェこのカスがァァァァァ!!! テーブルのネストもやめろって言われてんだろーがよォォォォ?!?!?!?!?!
というわけで、良識ある人々が読む本とは思えない。ましてや5800円も出して買うような本ではまったくない。
付言すれば、規格への態度として現実的な解は3通りある。
・HTML 4.01 StrictとCSS1、および一部のCSS2
もっとも一般的な解である。が、携帯電話からは読めない。
・HTML3.2でCSSなし
もっとも楽な解である。楽なので、私は基本的にこの線に沿っている。携帯電話からも読めるらしい。なおcharset=x-sjisはご愛嬌だ。
・XHTML 1.1とCSS2の大部分。同じソースからXSLTで生成したHTML 3.2版のページを併置する
もっとも理想主義的な解である。このサイトもいつかはこの解へと移行したい。なお、現在の中里一日記はXHTML1.1だが、HTML3.2版のページなどない。そのため現在では、携帯電話からはこの日記は読めないらしい。あしからず。
森永みるくの新刊「メア」を読んだ。
いったい何年前の連載かと思ったら、1998-1999年だった。そして最終回は描き下ろしである。カイザーペンギンの連載でもあるまいし、いったいどんな経緯でこの原稿が掘り出されたのだろう。世の中には不思議なことが起こるものだ。
話のほうは雑然としているので結論だけを述べると、百合で締めくくっている。
私の分析によれば、伊藤乃絵美(With You)の髪型はおそらく、最適形状にかなり近い。
萌えキャラの髪型は、輪郭からなにかが突出しているほうがよい。マルチの耳、メイドが頭につける飾り、俗に「触覚」「アホ毛」と呼ばれる一本だけ飛び出した毛――これらはみな、輪郭からの突出部を形成している。
突出部は、正面からよく見えるほうが、より最適に近い。この点で通常のポニーテールは、たとえばマルチの耳に劣る。正面からではポニーテールの大半は背中に隠れており、根元付近が氷山の一角のように頭の上に見えるだけだ。また、ツインテールのポニーテールに対する優位はここにある。ツインテールの突出部は正面からよく見える。
そして、突出部は、あまりにも見慣れたものであってはならないが、あまりに突拍子もないシロモノであってもならない。平凡と非凡の両方が嫌われる。ギャルゲーにしばしば登場する、巨大すぎるリボンをつけた髪形に不信感を抱くのは私だけではないはずだ。
これら二つの要請をもっともよく満たす突出部、つまり髪型の最適形状はなにか?
伊藤乃絵美の片ポニーは、おそらくその候補のひとつに挙げられるだろう。ツインテールの片方を解いただけで、ちょっと見慣れない髪型になるという魔術。また、左右非対称の利点にも注目したい。左右非対称の髪型は、突拍子もないシロモノとはいえないが、見慣れた髪型でもない。ギャル的な髪型を創作しようとするなら、まず左右非対称にすることを検討すべきだろう。
私は、以上の認識にもとづいて、新たな髪形を創作した。しかし秘密作戦なので詳細は秘密である。
読者諸氏は、「ハイチ人幸福説」なるものをご存じだろうか。
大リーグの公式戦で用いられるボールはハイチで作られる。昔、大リーグの本塁打数が特異的に多かった年、ちょうどハイチで政変が起こって独裁者が倒されていた。いったい誰が思いついたのか、野球と政変を結び付け、「独裁者を倒したので今年のハイチ人はいつもより幸福で、そのためいつもよりも縫い目を強く締め付けてボールを作り、そのためよく飛ぶボールが作られ、そのため本塁打が増えた」という説明が(冗談で)なされた。なんとも幸せに間の抜けた説だ。これが「ハイチ人幸福説」である。
バットの中に詰めたのがコルクでなく、もっと愉快なものだったらよかった。たとえば、幸福なハイチ人などが。
香織派は夏コミにサークル参加します。日曜日の東パ-39bにて、皆様のお越しをお待ちしております。なお、今回は文芸ではなく評論ジャンルでの参加となっておりますので、その旨お気をつけください。
というわけで、香織派は文芸スペースから脱出した。
今回の夏コミでも文芸は土曜日の西館だが、同じ西館に配置されているジャンルといえば、歴史・音楽・芸能である。東館はFCで埋まっている。JUNEもギャルゲーも男性向創作もない。これでは香織派はまったく戦えない。
香織派は、無茶な予想はいくらでも公言するが、大本営発表はしない。今日もこの伝で、歴史の歩みの遅さを認識してみよう。
認識しよう――現段階においては、百合それ自体よりも、百合テイストのほうが受ける。
たとえば電撃G'sマガジンの連載「双恋」では、百合テイストを入れた白鐘姉妹が他のペアを人気で圧倒している。百合そのものにはゆかず百合テイストで押し切った「キディ・グレイド」製作陣の戦略眼は卓越していたといえよう。逆に、現段階で頭から百合そのものに突っ込むのは、名人上手か百合電波使いでなければ、それは英雄的行為と呼ぶべきものだ。
(なお、「カサブランカ革命」のごとき代物は、英雄的行為ではなく自殺行為という。失敗しさえすれば英雄になれると思ったら大間違いだ)
これは、期待と現状のギャップからくる過渡的なものだ。第一に、ほとんどの人々はまだ百合物件にあまり触れていない。第二に、人々はみな、百合に秘められた巨大な可能性を鋭く感じ取っている。このため、人々の期待はきわめて大きいが、まだ百合の現状をあまり認識しておらず、期待が現状から乖離している。百合のノウハウの蓄積が少ない現状では、百合に秘められた巨大な可能性を形にするのは、多くの労力と才能とリスクを伴う作業である。
このため現段階では、百合そのものに挑戦して英雄を目指すよりも、百合テイストによって人々の期待を煽るほうが、確実に受けを狙える。
もちろん香織派と私は、そのような退屈な戦略には走らない。だが読者諸氏は、それぞれ己の信じる道を歩まれたい。
世に「即物的」と言われるものは、実際には、ほとんど物に即してなどいない。それは実際には「即先入観的」とでもいうべきものだ。真にひたむきに物に即していれば、それは必ず、詩的な様相を帯びる。その証拠に、千々岩英彰の「色彩学概説」、12―13ページより引用する。
(3)開口色
開口色(aperture color)とは,小さな穴をとおして見える色で,光がどこからきているかという知覚を伴わない色をいう.実例としては,色彩計や光度計を覗いたときの色がある.澄み切った青空の色も開口色にあたる.物体の色も小穴をとおして見ると,空の色と同じ様相を帯びる.物の材質感は消え,硬さが取れ,混ざり気がなく,爽やかで,美しい色に見える.
普段私は、全文検索のリファラーには反応しないことにしているが、今回ばかりはどうにも耐えられない。
最近、拙作「小春日和情報」での検索が多いのはなぜだろう。あれこれ想像をめぐらせていると、羞恥のあまり体が震えてくる。
恥をかいてこその商売とはいえ、この感覚はいつまで経っても慣れない。きゅう。
私には夢がある、とマーティン・ルーサー・キング牧師は言った。
ボクにも夢がある、と貴島望は思う。
――『小春日和情報』20ページ