香織派の推進する某計画に関するサイトを、近日中に公開します。いましばらくお待ちください。
4月29日のCレヴォで、同人エロゲー「CAROL」が発売されました。今後も同人ショップなどで委託販売されます。皆様のご愛顧をお願いします。デモムービー(偽物)はこちらにあります。
コミティアにて香織派のスペースにお越しくださった皆様、まことにありがとうございました。
香織派の推進する某計画についての新刊を頒布しました。しかしWeb上では、サイトを現在準備中のため、いましばらくお待ちください。
やはり豹変は近そうだ。
セーブ時のミスで、5時間分の作業を吹っ飛ばした。きゅう。
告白。
コミティア65に予定していた新刊「百合すと2.2」は落ちます。
なお、香織派の推進する某秘密計画については、滞りなく進行しています。
電撃G'sマガジンの最新号(10月号)にて、11月号から新連載の読者参加企画「ストロベリー・パニック(仮)」なるものが発表された。百合と銘打っている。
次号から連載だというのに、イラストレーターの名前がないのが気になる。うーむ。
向井敏の「文章読本」を読んでいる。
はるか昔、各種文章読本を読み比べたとき、これがベストとの結論を得た。しかしいま読むと、高度で胡散臭い技術への無関さが、教科書的に思える。
上等なネタをうまい切り口で正しく並べれば、よい文章ができるのは当たり前だ。しかし現実には、そうでない場合にも書かなければならない。そのとき、どうやって誤魔化すか。私流にいえば、どうやって側面を守るか。真に高度な文章技術のほとんどは、華やかな見せ場を演出するためではなく、つつかれると具合の悪いところを気づかれずにやりすごすためにある。
秘密作戦に従事していたため、日記も書けなかった。
腕のいいコピーライターは、腕のいいプログラマと同じくらいの偉業をなしとげる生物だとわかった。噂によれば彼らは、一晩にキャッチフレーズを百も二百も書くという。信じがたい。
TVアニメの「D.C. ~ダ・カーポ~」を第8話まで見た。
音夢に凹む。妹にとどまるかと思えば嫉妬を出し、嫉妬を出したかと思えば妹の皮をかぶる。まるで変位抜刀霞斬りだ(読み筋:「カムイ伝」)。
「君子は豹変する」という。豹変することなく、右に左にふらふらとして態度を定めないのは、愚かさの証明だ。もちろん、「愚か」というのはこの地上に住む人々のほとんどが持ち合わせている属性なので、現実には非常にしばしば観察される行動でもある。だから、いろいろと嫌なことを連想させられて心凹む。
主人公の一番近くにいるギャルが、心凹むような行動パターンの持ち主であるのは、「To Heart」以来の常道なのだろうか。
DNSの闇の奥を覗き込んでみた。
恐ろしく深い。特に、ドメイン名登録とDNSの実際の作用がどう関連しているのか、まだわからない。うーむ。
えびふらいの「おしえてお姉さん」を読んだ。
母娘レズは世に数多いが、本書収録の「春に咲く花」において、人類は未踏の領域へと踏み出したかもしれない。
久しぶりに甲子園の試合を最後まで見た。
SFでよくあるパターンのひとつに、高河ゆんの「アーシアン」のように、人間以上の存在が人類の善悪や価値を採点する、というものがある。この採点に、もし高校野球を入れることができるなら、人類の価値の総計は必ずプラスになるはずだと私は確信している。
業界騒然。
もしかして、NHK衛星ですごいメンバーにアニメを作らせて、「おにいさまへ…」ごっこをするつもりだろうか。ひびき玲音の絵ではどうしても「おにいさまへ…」ごっこにはなりそうもない。
TVアニメの「D.C. ~ダ・カーポ~」を第2話まで見た。噂に聞くほどいかれた作品ではない。が、褒めるべき点もない。
また、TVアニメの「おねがい☆ツインズ」を第5話まで見た。これまた褒めるべき点がない。
注目すべきは、この2本の平凡なギャルアニメのどちらにも、百合的な要素がわずかながら盛り込まれている点だ。いまや歴史は必然へと向けて前進しつつある。
夏コミにて香織派のスペースにお越しくださった皆様、まことにありがとうございました。香織派の収益は、百合の普及発展のために有効に活用されます。
ヤボ用で、東大病院の入院棟に行った。
さすがは天皇が入院したところだけあって豪華だ。私の知る大学病院が、まるでマレーシアあたりの地方都市の開業医のように思える。
小室直樹の「痛快! 憲法学」を読んだ。
著者のB級感は、ソ連本の頃から変わっていない。大きくダメなわけではないが、いろいろ小さくダメだ。
微妙な点がいろいろあるが、2つだけ指摘しておく。まずは、ミュンヘン宥和のトラウマを、キューバ危機で美化している点について。
第2次大戦のあと欧米の政治家は、ミュンヘン宥和がトラウマになった。「全面戦争の可能性に震え上がってはならない」――これはこれで正しい認識ではある。
このトラウマを実際に発動した結果は、どんなものか。キューバ危機はその一例ではある。では、朝鮮戦争はどうか。
この戦争は、事実はどうあれ、当時の西側の目にはこう見えた――「西側の支配地域のなかでもっとも重要性の低いところを齧り取ろうとする東側の試みである」と。これはちょうど、ヒトラーによるズデーテンラント併合の試みに相当するかに見える。というわけで西側は韓国支援に乗り出した。西側だけで45万人(うち韓国軍30万、他の西側軍15万)の死傷者も、東側を次の一歩に進ませないためなら割に合うものだったと思えただろう。これはこれで正しい認識ではある。
ミュンヘン宥和のトラウマを誉めるなら、このような血塗られた結果を引き合いに出すべきだ。このような結果を前にしてこそ、このトラウマのくだらなさがわかる。このトラウマは、たとえるなら、「小便を我慢して膀胱を破裂させるよりも小便を漏らすほうがいい」というようなものだ。正しいが、くだらない。
ナチスドイツの勢力拡大は、ミュンヘン宥和やラインラント進駐においてではなく、ベルサイユ講和条約において決定されていた。ヒトラーは、英仏の厭戦感よりも、ベルサイユ体制の不公正さからより多くの利益を引き出していた。
第二に、戦後日本における権威の崩壊を非難している点について。
戦前型天皇制の終焉によって、若者がアノミーに見舞われ、衝動的で無軌道な行動に走っている、と著者はいう。では、現代日本の若者の暴力犯罪の少なさはどういうわけか。現代日本は多くの面で、人類史上もっとも楽園に近づいた社会だが、なかでも若者の暴力犯罪の少なさは特筆すべきものだ。経済的には日本に劣らないほど豊かな社会はいくつかあるが、いずれをみても、若者の暴力犯罪の数は、日本と比較するのもおこがましい。
心情的にはどうあれ統計的にみるかぎり、著者のいう「権威の崩壊」なるものを憂える根拠はどこにも見当たらない、と断言する。三島由紀夫は、世の中が悪くなっていったからではなく、良くなっていったからこそ死ななければならなかったのだ。
今日はV-J Dayである。
黙祷している人々を、TV越しに見るたびに考えさせられる――スタッズ・ターケルの「よい戦争」に描かれているような、完全な勝利者としてのアメリカ像を認識している人が、このなかに何パーセントいるのだろう、と。
予見しうるかぎりの将来において日本が、正義と力のない戦争を戦って負けることはありそうにない。日本がこれから直面するであろう事態はすべて、「よい戦争」という誘惑、人類の明るい未来(かつてこれは「共産主義」の枕詞だった)という誘惑、正義という誘惑である。戦争被災者を悼み自己同一化することが、正義という誘惑に抵抗する力になりうるのか。
現在の日本は、戦前の日本よりも、戦前のアメリカに近い。戦争を回避する道について考えるなら、日本側ではなくアメリカ側を持つほうが、より多くのことを考えさせてくれるはずだ。
鈴木忍の「全寮体験、みんなでたべて」を読んだ。
勃起―射精のアナロジーなしに女同士物の絡みを描くことの難しさについて考えさせられた。原理的にはそう難しくないと思えるが、実例が稀な現段階では、名人芸を要するかもしれない。
訳あって市営プールに行ったところ、新たな真理を発見した。すなわち――競泳型スクール水着は、旧型スクール水着とは比較にならないほど萌える。
いったい、旧型を支持している人々は、競泳型の実物を見たことがあるのだろうか。もし読者諸氏が旧型の支持者で、競泳型をあまり見たことがないのなら、明日にでも近所の市営プールに行くことを強くお勧めする。
今年の司法試験の論文試験、憲法の第一問:
以下の場合に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。
1 再婚を希望する女性が,民法の再婚禁止期間規定を理由として婚姻届の受理を拒否された場合
2 女性のみに入学を認める公立高等学校の受験を希望する者が,男性であることを理由として願書の受理を拒否された場合
1はどうでもいいとして、2が実に面白い。問題自体があまりに面白いので、私自身はなにも面白いことが言えないくらいだ。うーむ。
どおくまんの「暴力大将」を読んでいる。
これほどまんがらしいまんがも珍しい。矯正院(戦前の少年院)でバトル、第二次大戦の戦場でバトル、そして戦後のヤミ市でバトル。
ジープをぶん投げて戦闘機を撃墜するような無茶苦茶な話なのに、妙なところで戦闘のディテールがよくできているのも見所だ。砲の発射速度、艦船の加速、航空攻撃のリズムなど、それらしさが出ている。
XML SpyでGUIなXMLエディタを使っている。XML Schema文書をもとにして、HTMLエディタ風にXML文書を編集できるという、いかにも21世紀な代物である。
見栄えは素晴らしく、HTMLエディタに負けない。が、使い勝手は負ける。また、大きな文書ではスピードが落ちる。
列挙型のファセットがあるとないとでは入力効率が大違いなので、XML Schema文書は派生を使って多段に組むのが必須である。組まずにやったらひどい目にあった。
眠い。きゅう。
リカヴィネが流行る今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。私のアジトにはフィギュアを置く空間などないので、まったく手を出せずにいる。
私がフィギュアなるものを知ったのは10年以上も前、同人界を知ったのと同時だった。同時のフィギュアの完成度は、1985年頃のロリコンまんが界と同レベルだった。リカヴィネの写真(なにしろ現物がないので)を見るたびに、まるでライト兄弟からアポロ計画までの進歩を見るような思いがする。
アールビバンの経営が成り立つくらいだから、スパムが儲からないはずがない。
高度情報化社会とは、バカから金を毟る方法が増える社会のことだと予想した論者がもしいたら、ぜひ知りたい。その論はきっと、堺屋太一の「平成三十年」式の未来予測とは同日に論じられないような、素晴らしく啓発的な議論に満ち満ちているはずだ。
眠い。きゅう。
ヤボ用と秘密作戦がたてこんできたので、「南国あばんちゅーる」というエロゲーを始めた。
並行してクンデラの「不滅」を読んでいるせいか、やけに面白い。しかしだからといって、エロゲーを作るうえでクンデラが有効かというと、そんな気はまったくしない。おそらく、もっと不安に満ちた何物かが必要だ。
野梨原花南や前田珠子はともかく榎木洋子にまで敗れたとなると、フロックではすまされない。待ちに待ったBLバブルの崩壊が、いよいよ訪れたのか。
ミラン・クンデラの「不滅」を読んでいる。
古典的な運動戦である。奇想がない。
エリヤフ・ゴールドラットの「ザ・ゴール」を読んだ。
アメリカのそのへんのMBAは、限界生産費用の話も知らないらしいとわかった。ミクロ経済学を知らずにどうやって製造業社を経営するのか、いまひとつ想像がつかない。
物語中で非難され廃棄されているところの「コスト基準」なる尺度も、わけがわからない。もしかすると、社内政治の妥協点として、政治的な価値のある尺度なのかもしれない。このあたりの闇の深さこそ、経営学の醍醐味のような気がする。
歴史上の会戦を論じて、どうすれば勝てたかを指摘するだけなら、士官学校の生徒でもできるという。どうすれば成功するかを指摘するだけなら、問題としてさほど高級とはいえない。誰もがみな成功を願っている状況で、それでもなお内的な要因によって失敗する、などということが起こるのはなぜか? それが私は知りたい。
斎藤美奈子の「モダンガール論」を読んだ。
良妻賢母主義の消極的・抑圧的な性格と、ロマンチック・ラブ・イデオロギーの積極的・動員的な性格は著しい対照をなしているが、このあたりが見逃されているのが疑問だ。
「欲望史観」というなら、欲望がいかに構成されるかに敏感でなければならない。欲望が構成されたものであるという視点が欠けているために、「どんな行動にも、それに当てはまる欲望を後付け式に引っ張ってくることができる」という事態に陥っている。たとえば、国家総動員を歓迎する草の根ファシズム(草の根的でないファシズムなど20世紀には存在しなかったが)の欲望が、なぜ個人主義的な欲望を押しのけることができたのか、まるで説明がつかない。
ちなみに、「良妻賢母主義とロマンチック・ラブ・イデオロギーのあいだに表面的な違いしか認めない」という種類の誤りは、フーコーにまで遡れる。このためフーコーは、西欧流市民社会とソ連体制のあいだの巨大な違いを認めなかった。
この誤りはおそらく、革命の否定から必然的に導かれる。それもフーコー流の否定、つまり、マルクス・レーニン主義を信奉した過去とその否定をめぐるドラマが背後にある。が、うまく説明できない。うーむ。
「日本の論点2003」を読んだ。
一部のマイナー政治家の文章が面白い。ナンセンスなまでの正論と冗談じみたデタラメが併置され、不思議な説得力をもって主張される。つまり、ツッコミどころ満載だ。これが政治家の主張というものか、と納得した。メジャーな政治家はツッコミへの防御が厳重なので面白くない。
マイナー政治家のもつ不思議な説得力は、電波を漏らすようになったポンコツ学者と比べるとよくわかる。ポンコツ学者の電波な主張は迷妄によるものにすぎず、マイナー政治家のデタラメな主張は利害にもとづいている。