中里一は現在、百合の同人ソフト『希望入りパン菓子』を制作しています。皆様のご愛顧をお願い申し上げます。
OAVの「R.O.D.」全3巻を見た。百合はほとんどなく、単なるアクション物だった。
3巻は切れ味に乏しい。
今月号の「電撃大王」を読んだ。
「PUREまりおねーしょん」の胸の描き方が、うるし原智志風だった。「百合で胸を描くときはこうしろ」という決まりでもあるのだろうか。私的にはあまりいただけない。
Office 2003を手に入れた。
とりあえず、WordのカスタムXMLスキーマ対応を試した。
結論:おもちゃのようなスキーマしか使えない。
XML SPYの足元にも及ばない。没。
空いている電車のなかで、ノートパソコンを使っていると、エロゲーを起動したくなるのは私だけではないはずだ。
…と主張したところ、賛同を得られなかった。この問題はもう少し詳しく論じる必要があるらしい。
まず、エロゲーというゲームの性質を考えてみよう。
ある種のゲーム(大規模なSLGなど)はコンテクストに敏感で、セーブ前になにをしていたのかを詳細に思い出さないと再開できない。このようなゲームは、電車の中で気軽に手をつけられるものではない。しかし多くのエロゲーは、あまり詳細に思い出さなくても再開できる。
また、ある種のゲーム(アクションゲームなど)は、いったん始めると中断するのが難しい。セーブポイントが任意のところにない、リアルタイム性が高くセーブ操作さえ難しい、など。ゲームが中断できないからといって降車駅を逃すわけにはいかないので、こうしたゲームは電車のなかでプレイするには向かない。しかし多くのエロゲーは、任意のところでセーブでき、またリアルタイム性がない。
さらに、ノートパソコンを膝に乗せて使うと、通常の使用時よりも画面が目に近づき、画面が大きくなったように感じる。エロゲーには大画面がふさわしいことは言うまでもない。
以上のように、空いている電車とエロゲーは、基本的に相性がいい。問題点らしい問題点はたったひとつ、他の乗客にゲーム画面を見られた、あるいは音声を聞かれたときに、トラブルを引き起こすかもしれないということだけだ。
シェイクスピアの「テンペスト」を読んでいる。坪内逍遥訳。
グリーナウェイが「プロスペローの本」で撮ったように、引きこもりが幼児的全能感を味わうために書いた物語としか見えない。
しかし――そう、ここで「しかし」だ。幼児的全能感をあざけるのはたやすい。あまりにもたやすい。だから、「しかし」とつなげるしかない。
第4場第1幕、あの有名なくだりを引用する。
ああ、婿どの、きつう驚いて気を揉んでいなさるようじゃが、何も心配には及ばん。余興はもう済んだのじゃ。あの俳優共は、かねて話しておいたとおり、みんな精霊じゃによって、空気の中へ、薄い空気の中へ、溶け込んでしもうた。ああ、この幻影の、礎もない仮建物と同じように、あの雲に冲る楼台も、あの輪奐たる宮殿も、あの荘厳なる堂塔も、この大地球そのものも、いや、この地上にありとあらゆる物一切が、やがてはことごとく溶解して、今消え去ったあの幻影と同様に、後には泡沫をも残さぬのじゃ。吾々は夢と同じ品柄で出来ている、吾々の瑣小な一生は、眠りに始まって眠りに終わる。
まるで中学生の書きそうなことだ、パクリ元がなければシェイクスピアもこの程度、とあざけるのは実にたやすい。
しかし――そう、どうしてもここは「しかし」でつなげなければならない。たとえ、つなげるべき言葉が存在しえないとしても。
おそらくは、そんな言葉がけっして存在しえないからこそ、シェイクスピアは「テンペスト」を書いた。物語は、この世でもっとも擁護しがたいものを擁護することができる。
アンソロジーの「百合天国」を読んだ。
おおむね正しい方向を向いている。
百合の現状ではどうにもならないことだが、多くの作家の思考に硬さを感じる。「描けば百合になる」というような闊達さがなく、百合を枠として、額縁として捉え、「百合を描く」努力をしている節がみられる。この点、「描けばやおいになる」という作家が20年前から掃いて捨てるほどいたやおい・ボーイズラブとは比較にもならない。
しかし、現状はすでに動きはじめている。「描けば百合になる」という作家の1個中隊がコミケに登場する日は、そう遠くないはずだ。
TVアニメの「R.O.D. THE TV」を第8話まで見た。
美紗緒(「魔法少女プリティサミー」)もどきのガキよりも、読子を待ち続けるねねねのほうが、はるかに百合だ。
TVアニメの「ヤミと帽子と本の旅人」の第3回を見た。前半は百合だが、あまり評価できない。
たとえば、なぜ葉月の水着がスク水なのか。これがリリスの趣味なら面白いが(理屈ではほかにありえないが)、そのあたりが明示されていない。スク水という選択の根拠を、リリスの口から具体的に語らせるべきだった。
これが男女物なら、お約束をタテにとってなあなあで済まされるかもしれないが、百合ではそうはいかない。百合は、通常の男女物に比べて、明示すべきことが多い。
リツコ役が井上喜久子。懐の深そうなリツコになりそうだ。
キャラのポーズに注目しながらギャルゲー・エロゲーの資料をめくっていたら、どのキャラも全員同じ性格に見えてきた。うーむ。
月刊ドラゴンエイジ(いうまでもなく、東雲太郎の「BK.ブレイド」の掲載誌)の今月号をぱらぱらとめくっている。
「ギャラクシーエンジェル」の次回の冒頭が予想できる。以前、蘭花×ミルフィーを思わせる展開があったのは、ちゃんとした伏線だったらしい。
「まぶらほ」のギャルのひとりが、上級生の人気を一身に集める小娘である。
どういうわけか自分でもよくわからないが、エロゲーの「Natural Another One」をやっている。とりあえず一回クリアした。
このゲーム、どういうわけか知らないが、主人公に声がついている。
この世には謎が多い。
TVアニメ「ヤミと帽子と本の旅人」の第2回。
原作とはかなり違っていたが、どうでもいい話である点は原作と同じだ。次回もまた、比較的どうでもいい話らしい。百合でない話を先に消化するつもりなのだろうか。
高木信孝の「PUREまりおねーしょん」の1巻が出た。特に注目すべき描き下ろし等はないので、連載を読んでいれば、入手を急ぐ必要はあまりない。
「ヤミと帽子と本の旅人」のTVアニメの第1回を見た。
素晴らしい。21世紀がここにある。読者諸氏はすべからく万難を排してご覧になるべきであると確信する。
また、橘裕の「ガッチャガチャ」の3巻を読んだ。
百合的にかなり話が進んでいる。素子は友里に可菜子を投影していると読んだが、果たしてどう展開するか。というより、素子の目にはかわいい系の小娘がことごとく可菜子に重なって見えると読んだ。
上の2作品とも姉妹百合である(ただし後者は義理)。というわけで、姉妹百合について考えてみた。
やおい・ボーイズラブの古くからの伝統には、兄弟カップルというものがある。たとえば星矢の一輝×瞬などが、この伝統に連なっている。この伝統においては、兄弟という関係は、一種の「赤い糸」へと読み替えられる。二人がカップルである必然性が天下り式に得られることが、大きな魅力になっている。
上の2作品は、この伝統を忠実に受け継いでいる、といえる。しかし私的には、また現代百合が質・量ともに躍進しつつある今日的には、「忠実に」というより「無批判に」と言いたい。
たとえば、兄弟関係はライバル的な対立関係と相性がいい。対して姉妹関係は、対立関係を持ち得ないような自他の未分化な関係と相性がいい。昔ある男が、自分の少年時代を回想して、「友人は自我の一部だった」と表現したが、姉妹関係においては、これと似た状態がまったく違う形式で現れてくる状況が想定できる。
やおい・ボーイズラブでは、ライバル的な対立関係が聖なるものとして描かれ、ほとんど自然現象と同一視される。しかし百合では、自他の未分化な関係を扱いかねている。思えば、「ココロ図書館」の、いいながカメラを通じてこころを見ようとする、という設定は象徴的だった。ここではカメラは、いいなとこころのあいだに境界を作り出す装置として働いていた。これも手ではある。装置によって境界を作り出すことで逆説的に、装置なしには不確かになってしまうような境界であることを示せるのだから。
しかし今は21世紀である。百合はそろそろ、まっすぐに進むことができるはずだ。自他の未分化な姉妹関係を描く百合、それも、分化の道を歩むことのない聖なるものとして描く百合を、そろそろ目にすることができるはずだ。
私がヤボ用にかまけているあいだに、百合的にいろいろと動きがあった。
主人公を男にするという不可解な発想がどこから出てきたのか知りたい。没。
マーケティング能力に致命的な欠陥がある。この作品にみられるような、百合における「綺麗」という概念は、わかりやすく手頃に見えるが、よく調べると単調で勧められない。
「綺麗」という概念をこの作品のように用いたければ、水城せとなの「アレグロ・アジタート」を読み、面白い変化が発見できるかどうかを試すべきだ。森奈津子式のギャグでなければ辛い、というのが現在の結論である。
髪型に苦しむのは誰も同じか。マリみては、髪型に特徴のあるキャラが少ないので、描き分けに苦しむ人が多い。
薔薇の館の豪華さは解釈の分かれるところだが、これといった態度を打ち出していない。ちなみに私は、風情のあるあばら家と解する。
令や聖のようなキャラの描き方は、ここ10年以上、これといった革新がない。そろそろ、新たな一歩を踏み出すべき時期にきている。
というわけで、久しぶりに少コミを読んだ。
新條まゆが相変わらず素晴らしい。いったいどうすれば人は、ここまで新條まゆになれるのか。
あんな声
きいたら…
心も欲しく
なるっ・・・
――新條まゆ『覇王・愛人』より