中里一は現在、百合の同人ソフト『希望入りパン菓子』を制作しています。皆様のご愛顧をお願い申し上げます。
「CROSS†CHANNEL」というエロゲーをクリアした。
傑作を褒めることはたやすい。駄作をけなすこともたやすい。そしてどちらも、同じように退屈だ。傑作がどのように素晴らしいか、また駄作がどのようにひどいか、それは作品自体がもっともよく語る。その程度のことを言いたいのなら、点数でもつけておけば用は足りる。
だから私は、作品の語らないことを語ろう。褒めるかけなすかでいえば、けなすことにしよう。
かつてどこかで私は、エロゲーの原画に必要な三つのものを列挙したことがある。すなわち、「樋上いたるよりマシな体、針玉ヒロキよりマシな服、高2→将軍よりマシな顔」である。しかし今や、針玉ヒロキは例として不適切になった。
まずはこちらをご覧いただきたい。上の三条件を主張したときに、私の念頭にあったのはこれだった。いかれたデザインセンスである。そして現在の針玉ヒロキはこちら。善悪を超越した別世界に到達している。改心した、わけではない。いかれ具合の方向は同じままで、よりダイナミックに、より強まることで、この境地に達している。
私は寡聞にして、針玉ヒロキの服装デザインを褒める声を聞いたことがないが、けなす声は頻繁に聞いた。「止マレ」という忠告は氏の耳にも届いていたことだろう。しかし氏は進んだ。それが勇気なのか、それともただほかに道がなかっただけなのか、私にはわからない。なんにせよ、忠告に従って改心したようなデザインよりも、はるかに見るに値するものにたどり着いたことは確かだ。
断言しよう――百人のうち百人があこがれる正しさよりも、百人のうち一人だけが共感する誤りのほうが、よい。もちろん、ただ誤っているだけでは、あまりにも取るに足らない。Natural2における針玉ヒロキの服装デザインのように。だが誤りは、ダイナミックに強まることで、正しさよりも優れたものになりうる。
正しさは、どれほど輝かしいものでも、「正しさ」という額縁に収められた行き止まりである。「検閲される出版物は、よしんばそれがよいものであっても、悪い。しかし自由な出版物は、たとえそれが悪いものであっても、よい」というマルクスの言葉は、けっして「よい出版物」、擁護するだけの価値があるものを擁護した言葉ではない。擁護するだけの価値がないものを、その誤りのゆえに、正しさよりも優れたものになりうる可能性のゆえに、擁護したのだ。
「CROSS†CHANNEL」の問題点は、「誤りは正される」という前提にある。
(以下ネタバレを含むため注意されたい)
冬子は親しい相手に病的に依存するというので、孤独に耐えて生きるべきだと主人公に判断される。だが、親しい相手になれないというだけにとどまらず、病的に依存しつつ生きる苦しみの多い生そのものを、主人公が否定する根拠はなにか。
主人公は、自分が健常でないことに劣等感を抱いており、この劣等感は最後まで解消されない(健常に等しい状態になったと感じ、劣等感に悩まされなくなったからといって、劣等感そのものが消えたわけではない)。対するに曜子は、強くダイナミックに、自分自身の誤りを生きている。この二人が対決して、なぜ主人公が勝つのか。
「誤りは正される」という前提があるからだと考えると、多くのことがすっきりと説明できる。たとえば、半永久的に繰り返される同じ一週間、という仕掛け。ほぼ無限に等しい時間があれば、たしかに、誤りは正されるだろう――古典主義経済学の、「長い目で見れば、すべてうまくいくようになる」という主張のように。
このような前提に、私はまったく同意できない。
長い目で見れば、人は必ず死ぬ。時間は「すべてうまくいくようになる」プロセスではなく、歴史は正しさへと向かう道のりではない。だからこの世には、革命が起こる。「革命は有罪だが、歴史もまた有罪である」――トロツキーの言葉だ。
この作品の、よくできた部分を褒めることはたやすい。だが、この作品を褒めるわけにはいかない。
細かい部分で気になった点を。
群青学院を成り立たせるために必要な法律(以下「群青法」と呼ぶ)は、現行憲法に照らすとどうやっても違憲なので、作品の舞台になっている国は現実の日本とはかなり異なると考えられる。それも、改憲や、クーデター等による憲法停止ではなく、制憲以前にすでに世界史が異なるはずだ。
というのも群青法は、社会防衛・特別予防(ヤバい奴らを隔離・治療・更生すること)・性格責任論(犯罪を犯さなくても、ヤバい奴だというだけでぶち込める)を内容とする、いわゆる新派刑法学にもとづく必要がある。新派刑法学以前には、特別予防という思想そのものがなかった。「自由放任こそ正義」というのがブルジョアである。
新派刑法学が有力になってきたのは19世紀の後半からで、20世紀初頭に栄えた。たとえばソ連刑法は徹底した新派であり、まさに群青法を可能にするようなものだった。またナチスドイツは性格責任論を大幅に取り入れ、隔離更生どころか絶滅を図った。
ナチスドイツとソ連。この2国が20世紀前半に、性格責任論を使ってなにをしたか――というわけで第二次大戦後、性格責任論とそれにつながるものは、西側では完全に支持を失った。現代世界の何パーセントかは、ポスト・ナチスとアンチ・ソ連でできている。
というわけで、この作品の世界は、日本がポスト・ナチスでもアンチ・ソ連でもないような世界史を備えるはずだ。
それだけで済めばいいが、さらに問題がある。崩壊後の支倉家への捜査を警察が嫌った理由として、市民生活への不介入が述べられている。作品世界の法が群青法を可能にするほど社会防衛に重きを置いているのだとすると、行政が市民生活への介入を嫌うとは考えにくい(ソ連を見よ)。それに、たとえ犯罪はまだ起きていなくても、「ヤバい奴」を発見できれば十分なのだ。
このような矛盾をうまく説明するには、ほとんどローマ時代にまで遡って、現実のものとは異なる世界史を構想する必要があるだろう。
重箱の隅をつつくような話ではある。だが、性格責任論や特別予防の背後にあるものへの、意識の希薄さが窺える話である。つまり、「正しさ」への意識の希薄さが、窺える話である。
インストーラ。
それは、天使も踏むを恐れるところであり、ヘル・エッジ・ロードであり、この世の複雑さを意味する。完全な世界では、本物のプログラマだけがインストーラを書くことを許される(現実には、そうでないプログラマもインストーラを書いている――そう、この世界は不完全だ)。
このリストに次の項目を付け加えたい。
Visual Basic 6.0のディストリビューション・ウィザードを作ったプログラマは、本物のプログラマではなかった。このウィザードに内蔵されているインストーラには、印象的なバグがいくつもある。たとえば、日本語ユーザ名の環境でインストールすることができない。
「みずいろ」や「Angelio」のインストーラを書いたプログラマは、本物のプログラマではなかった。前者はアンインストール時に、後者はインストール時に、無関係なファイルを削除する危険を秘めている。
幸いなことに、今日、「なにがよいインストーラか」という問いに答える労力はかなり軽減されている。よいインストーラに求められるものは、この文書に書かれているとおりだ。ここに書かれている要求をすべて満たし、また、無数にある暗黙の要求(トラブルシューティングに役立つログを作成するなど)もすべて満たしたインストーラ(というよりもゲームディスク)を作成する――まさに本物のプログラマにふさわしい仕事だ。
以上、完全な世界についての話をした。以下、不完全な世界についての話をしたい。
すべてのエロゲーが、コントロールパネルの「プログラムの追加と削除」からアンインストールできるようになることを望む。
ご覧のとおり私は薄情者だが、ときには人助けをしたい気分にもなる。
もし読者諸氏が私と同じ気分であれば、コミックゼロサム1月号増刊「WARD」第1号掲載、高遠るいの読み切り「たかやかなえのおうじさま」を応援されたい。具体的には、アンケート葉書を発送されたい。高遠るい氏は善人とはいえないが、私は悪人正機説である。
さて本題である。
同じ雑誌に掲載の、藤枝雅の「飴色紅茶館歓談」が百合テイストで、一読に値する。
勇気は感嘆符のようなもので、美徳にかぎらず、どんな行為でも派手に見せる。
このような勇気ある行為に対しては、それなりの敬意を払うべきだろう。というわけで読者諸氏にご紹介した。
ホテルの事業主体・(株)アイスターの関連企業一覧。また、「アイスター マルチ商法」。
「白詰草話」というエロゲーをやっている。
感心する。がんばっている、よくできている――しかし、技がかかっているような気がしない。
同じ感覚を、「マブラヴ」というエロゲーでも抱いた。制作費も、情熱も、創意工夫も申し分ない。だが、技がかかるかどうかは、それとは違う次元の問題だ。
冬コミあわせの同人ソフトの内容が決まった。題して「ちょー百合史・百合論(仮)」。ビジュアルノベルの掛け合いで、「百合史・百合論」の超ダイジェスト版(中学生程度)を講義する。
また、「百合すと3」についてはまだ検討中である。
TVアニメの「ヤミと帽子と本の旅人」第7話が、すごいことになっている。
主人公(葉月)はこれまで、お姉さまチックなクールビューティーぶりを披露してきたが、今回は――品位上の問題があるためこの日記では詳細を述べられないが――姉を恋するあまりトチ狂った行動を繰り広げる。
「B級ホラーで笑う」という話はよく耳にするが、この場合のホラーはたいてい「13日の金曜日」のようなスプラッタ物で、サイコホラーで笑うという話はあまり聞かない。しかし「ヤミと帽子と本の旅人」第7話は、サイコホラーでありつつ爆笑物である。しかも、笑わずにいられないのと同時に、ちゃんと恐ろしい――一言でいえば、素晴らしい見物だ。
第7話だけを見ても、この恐怖と笑いはあまり感じられないかもしれない。かならず第1話から順に視聴されるようお勧めする。
MSのコードレスキーボード(Wireless Optical Desktop Pro)を手に入れた。チルトホイールのマウスとセットになっているものだ。
キーボードがコードレスになると、不要なときは一瞬でどけられるので、机が広くなる――誰でもわかる理屈だが、実際に使ってみるまでは、この広さを想像するのは不可能に近い。
チルトホイールは、予想通り、あまり面白くない。だいたい左右スクロールが必要になる状況はかなり特殊だ。
今月号の「ドラゴンエイジ」を読んだ。
東雲太郎の「BK.ブレイド」が最終回である。打ち切り感あふれる終わり方を見て遠い目をする今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。「ドラゴンエイジ」ともこれでお別れである。
「ギャラクシーエンジェル」が私の予想を外してきた。「もしかして――――…」のあとは「あたしのこと好きなの?」というお約束のボケが続くはずが、こんな馬鹿な! 完璧を確信するあまり書き留める必要さえ感じなかったほどの予想だったというのに! 「水戸黄門」で、印籠を出さずに話が終わると抗議の電話が殺到するというが、その気持ちがよくわかった。
今度の冬コミの香織派は、ジャンル:同人ソフトでスペースを取っている。申し込み時には『希望入りパン菓子』を発売する計画だったが、あいにく間に合わない。というわけで、なにかお茶を濁すようなものを作りたいような気がしている。
つまらないソフトならイベントで売る意味がないので、イベント限定でしか売れないような、一発ネタを探している。
6日の続き。
ここまで延々と議論を展開してきたが、Aの恋心を主人公に告げる第三者役として、茜が使えることを思い出した。
これはまずい、なんとか取り繕えないかと頭をひねったものの、どうにもならない。ひどい見落としである。
というわけで、予定していた議論の続きを簡略に述べて終わりにしたい。
BがAの思いを知りつつ主人公に告白する理由、それはもちろん、Aの心に名誉ある地位――恋敵――を占めたいと願ってのことである。このような名誉ある地位を願う動機はもちろん、Aへの恋心である。
この横滑りを、「本物には手が届かないから代用品の偽物を」というような、本人>身代わりのヒエラルキーによって理解してはならない。Bにとっては、横滑りは必要不可欠なものだ。Bは、横滑りを可能にするためにこそ、恋愛対象として同性のAを選んだ、ともいえる。
Bが主人公と交際を始めたあと、Aが昏睡に陥ることで、この横滑りは(一時的に)完成する。主人公の傍らにいるときBは、自分がAの身代わりであると感じると同時に、主人公がAの身代わりであると感じる。
これで話が終わるならよくあるパターンだが(本当によくある。嘘だと思ったら、佐藤亜紀の「戦争の法」を読まれたい)、この話の味噌は、「本人」であるAが戻ってくる、というところだ。それも、時間の流れを超えて。
一方で、3年という時間の積み重ねは、Bにとっての主人公に少なからぬ「本人」性を与えていた。だからBはこう考えざるを得ない――主人公とBが、Aと再会したとき、主人公の「本人」性がAの「本人」性をしのいでしまい、主人公が「本人」になってしまうのではないか?
これを避けるためにBは、Aを「本人」にとどめておく工作を発案する。Bと主人公の交際歴を隠蔽し、Aの前では主人公の「本人」性を隠すことである。もちろん、Bは自分を突き動かすメカニズムを知らず、その場その場で適当な口実を見繕う。
Bの発案した工作が、いつまでもAを「本人」にとどめておけるはずもない。きわめて不安定な、どこにどう転ぶかわからない状態が出現する――となったところで中盤である。主人公は、事故のショックと将来への不安に震えるAと、理解に苦しむいきあたりばったりな振舞いを始めたBに挟まれ、ドラマチックな日々に投げ込まれる、というわけだ。
……こうして演繹的に述べると、ずいぶん独創的な展開に見えるが、「Bと主人公の交際歴を隠蔽する」という結論から帰納的に考えれば、かなりの蓋然性をもって引き出せる展開である。この展開の蓋然性の高さを示すために論証を重ねようと思ったが、すでに述べたとおり、茜の存在を見落としていたため破綻した。きゅう。
西在家香織派は冬コミにサークル参加します。火曜日・西こ18aにて皆様のお越しをお待ちしております。
昨日の続き。
昨日の内容紹介について、「君望は遙エンドよりも水月エンドのほうがより星矢的である。なぜなら、水月エンドにおける遙の
水月エンドを星矢的に解釈する場合、
とはいえ
以上、水月エンド派の主張を紹介した。
しかし私はこの説をとらない。仮に
なお念のため確認すると、こうした議論に対して、「君望はもともと星矢的な話ではない」というツッコミを入れることは自然法により禁止されている。
昨日の続き。
議論を続ける前に、実物の君望がどんな話か、軽く紹介しておきたい。聖闘士星矢アレンジの侍魂リミックスでお送りする。
神殿の中央に鎮座している聖杯=鳴海孝之。そこへひとりの
「こ、これが…… 鳴海、孝之……!」
彼女は震える手でおずおずと孝之を手にとった。
その時!
「
ズシャァァァァァ!!!!!
必殺技を受けて、遙の五体が宙に舞う!
技を繰り出したのは、
「下等な
そう言って水月は、孝之を手に取った。遙はうつ伏せに倒れたままで、生死さえ明らかでない。
孝之を持って立ち去ろうとする水月。そのとき遙の手がぴくりと動いた!
「待て……」
水月は足を止め、初めて遙を見た。
「死んだふりをしていれば、命だけは助かったものを。
満身創痍の体を気力で支え、立ち上がる遙。
「
「
バシュゥゥゥ!!!!
遙の放った鎖が、孝之に絡まった!
水月の眉がかすかにつり上がる。
「フ…… 冥土の土産だ。貴様の執念だけは認めてやろう。
これでたしかに、とりあえずのところ、孝之を引き止めてはおけるな。しかしこの鎖を解かないかぎり、貴様も動けまい」
遙は、手のひらを広げて水月に見せ、唱えた。
「夜空に星が瞬くように……」
「なんだそれは?」
「溶けた心は離れない……」
「 …………! まさか貴様、さっき孝之を手にしたときに!」
「たとえこの手が離れても……」
「
「二人がそれを、忘れぬ限り」
孝之の表面に、遙の手形が浮かび上がり、輝く!
「
ゴゴゴゴゴゴゴ!!!!!
孝之はいまや、猛烈な力で遙へと引き付けられている!
しかし水月は平然と、孝之を引き付ける力に対抗し、孝之を握りつづけていた。
「フ…… どうした、あと一押しだぞ? 種切れか? まさか、この程度の攻撃で
遙は「
「孝之を見てください。……孝之(=聖杯)は、あなたを映していますか?」
水月は孝之に目をやり――そこに、自分の姿が映っていないことを発見した!
「誇り高い
「
ゴシャァァァァァ!!!!!
水月の
が――
「誇りだと……? フ…… 笑止! 私には孝之のほうが大切だ」
見開きページで大見得を切る水月。
次ページ見開き――
スローモーションで膝をつき――孝之を握りしめる指が緩み――崩れ落ちる水月。
(遙エンド・完)
ところで、上の紹介でご覧いただいたように、遙エンドの遙は
昨日の続き。
私が持っていた事前情報によれば、「君が望む永遠」(略して「君望」)は悲劇だという。では、悲劇の引き金には、どんな出来事がふさわしいか。
誕生や出会いでは、悲劇ではなく不条理なB級ホラーだ。なにが出てくるのかわからないのだから。死や別離は、悲劇の終わりではありうるが、引き金ではありえない。あとになにが続くにしろ、それは悲劇の終わりを飾るものにすぎず、劇的なものを含まない。
ふさわしいのは、再生や再会だ。
たとえば、「劇画オバQ」。オバQが人間界を去ってから15年後、オバケの世界から戻ってきて、成長した大原兄弟やその友人たちに再会することで、小さな悲劇の引き金が引かれる。15年のあいだに大原兄弟やその友人たちが変わったこと自体は、なんら悲しむべきことではない。変わらずにいたオバQが彼らと再会してしまったことが、悲劇だ。
また、たとえば、ギリシャ神話のオイディプス王の物語。殺されたはず(再生!)のオイディプスが父母(ライオスとイオカステ)の前に再び現れたとき、悲劇の引き金が引かれる。もしオイディプスが、ライオスやイオカステとまったく無関係な人物であったら、これは物語にならない。
さて本題である。ヒロインAの昏睡開始と目覚めのうち、悲劇の引き金としてふさわしいのは後者、目覚めのほうだ。悲劇の始まりは幸福な状態のほうが、メリハリがあって華やかだ(終始不幸な話もあるが。実物の君望はこちら)。というわけで、ヒロインAの昏睡中、主人公は幸福であると予想される。「去るものは日々に疎し」というごとく、Aの昏睡をよそに、主人公は楽しくやっていると考えるのが自然だ。主人公の恋人がヒロインBであるという推測は、この点でも裏付けられる。
昏睡から目覚めたときのAは客観的には、「劇画オバQ」のオバQと似た状況にある。Aを傷つけたくないと願う主人公は、世界の変化のうち特にAにとって辛いと思われるものを一時的にでも覆い隠し、オバQの悲劇を少しでも和らげようとするだろう。
さて、ギャルゲーの法則に従えば、Aは主人公に恋心を抱いていると推測される。恋愛がらみの話である以上、一時的にでも守るべきはこの恋心、という展開になるのが自然だ。では、主人公はどのようにしてAの恋心を知ることができるか。本人の言動からではありえない。Aの友人を経由したと考えるべきだ。友人なら誰でもいいわけではなく、Aが元気なうちには主人公にそれを知らせたりしないような友人でなければならない。
このような友人として、Aの昏睡中に登場する第三者を使うのは、構成に緊密を欠き面白くない。ここはずばり、Bだとするのが面白い。Bは、Aが主人公に恋していると知りながら、Aの取り計らいを受けて主人公に恋を告げるのである。なぜか? 以下後日。
誤解は創造の源である。
わけあって、「君が望む永遠」(DC版)なるギャルゲーをしている。有名なゲームなので、プレイしていない読者諸氏も話のさわり程度はご存じかもしれない。私も、いくらかの予備知識をもってゲームを始めた。
私が知っていたのは、おおよそ次のようなことだ――ヒロイン格の小娘が二人おり、主人公はそのうちの一方とつきあいはじめること。ヒロイン格二人のうち一方(仮にAとしよう。他方をBとする)が、事故かなにかで、長期にわたる昏睡状態に陥ること。それから数年後、昏睡から目覚めたAが、主人公とBのあいだに波乱を巻き起こすこと。主人公はAを傷つけたくないと願って行動するが、裏目に出るらしいこと。
ゲームを開始すると、最初に、水月なる小娘がヒロイン格で登場した。闊達な振る舞いの似合う、水泳部の強豪である。主人公と水月の気のおけない関係が延々と描写される。次いで、遙なる小娘がこれもヒロイン格で登場した。内気なお嬢様である。主人公は水月を仲立ちにして遙と知り合い、さらに水月の取り計らいのもと遙から恋を告白され、男女交際を始める。
これを見て私は、水月がAだと考えた。
人間関係をみると、主人公―水月―遙という構造が最初にある。主人公と遙が交際を始めたあとも、水月は主人公―遙の関係の後見人として存在感を発揮しつづける。もし遙がAだとしたら、主人公―水月の関係は基本的に元の木阿弥に戻るだけだ。これでは、ゲーム開始からしばらく(=結末に次いで重要な部分)を主人公―水月の描写に費やしたことの意義が疑わしくなる。水月という後見人を失って、主人公―水月の関係が宙に浮く、という筋書きのほうがはるかに自然だ。
さらに、事故に逢うという点でも、水月のほうがふさわしい。水月は水泳部の強豪であり、選手として将来を嘱望されている。対して、遙はただのお嬢様である。どう考えても、水月が事故に逢うほうが、ずっとドラマチックだ。また、それでこそAが目覚めたあと、主人公がAを傷つけたくないと願うというものだ。
いかがだろう。主人公―遙の関係が延々と描写される前の段階では、水月がAであると考えるほうがはるかに自然ではないか。
以上の前提のもと、私はこの先の展開を予想した。以下後日に続く。
岡すんどめの「姫雛たちの午後」を読んだ。
かつて、2001年12月9日の日記で、掘骨砕三の「おにくやさん」はポルノとしては素人であり、これを褒めるのはQuiche Eaters(「本物のプログラマはPascalを使わない」でいうところの)のやることだと指摘した。しかし掘骨砕三の考えたこと自体は面白く、注目に値する。
本書は、掘骨砕三によって提起されたテーマを、Real Menの鑑賞に堪える形で表現することに成功した。
類似のテーマはかつて、ぶのけの「花嫁学園」でも提起された。が、ぶのけは、自ら提起したテーマを考え抜くことに失敗した感がある。また、テーマのもつ意義を十分に把握していなかったのでは、と思わせる。こうしたことはたとえば、主人公の死という安直な結末や、主人公の友人の精神や生命が見るべき葛藤もなく失われるという展開に表れている。
本書に収録された作品が、マリみてブームの最中に描かれたことは、おそらく偶然ではない。たとえ因果関係がなかったとしても、歴史はそれを遡及的に作り出すだろう(この日記自体も、そのような歴史の営みといえる)。
かつてこの日記で指摘したように、マリみては、具体的な身体についての描写を慎重に避けている。しかるに本書は、マリみてとはまったく別方向に、しかし確実にある共通点をもって、身体を扱う。
共通点が見えない? では、こう仮定してみよう――マリみてが沈黙してきたのは、日常的な身体についてではなく、百合的に再構成されているべき身体である、と。
日常的な身体、経験的な身体、(あえていうなら)リアルな身体は、百合的ではない。これは、やおい・ボーイズラブと百合のあいだの根本的な違いのひとつだ。リアルな身体は、やおい・ボーイズラブ的でありうる。「やおい穴」という慣習は、やおい・ボーイズラブ的な身体にとって必須のものではない。必須なのは、勃起―射精する身体だ。身体(という認識のシステム)は、勃起―射精を中心的なところに位置づけている。
対して百合では、いうまでもなく、勃起―射精する身体のネガとしてでない女性の身体を構成する必要がある。このような身体は、どんなものであれ、リアルな身体ではない。百合には、月経を扱う話がしばしば見られるが、ネガとしてでない身体を提示する試みとして理解できる。
本書に描かれた身体を、このままで百合的なものとして読むには、23世紀の感性が必要だろう。とはいえ、百合を進歩させるうえで重要な示唆を含んだものであることは間違いない。必読の一冊といえる。
何気に
車に変形した上
残酷な制裁が
始まった!!
――古賀亮一『ニニンがシノブ伝』より