中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

お知らせ:

 中里一は現在、百合の同人ソフト『希望入りパン菓子』を制作しています。皆様のご愛顧をお願い申し上げます。

2003年12月31日

 冬コミにて香織派にお越しくださった皆様、ありがとうございました。


 これを読んでいる読者諸氏はすでに2004年を迎えていることと思う。といいつつ、これを書いている私もすでに2004年を迎えている。あしからず。

 TVアニメの「ヤミと帽子と本の旅人」最終回を見た。

 第7回といい最終回といい、豪胆な話である。(以下ネタバレ)葉月は将来、自分の実の娘に性的虐待を加え、さらに娘が16歳になったらその最愛の娘を失う運命にあるのだ。イブというキャラを印象的に描いていることは認めるが、なんともいたたまれない気持ちにさせられる。

12月29日

 西在家香織派は明日、コミケ3日目(火曜)西こ-18aにて、皆様のお越しをお待ちしております。新刊は「百合すと3」を用意しております。


 「百合すと3」を印刷中。その隙に日記を更新中。

 神よ新刊を救い給え。


 TVアニメの「R.O.D -THE TV-」を16話まで見た。

 ねねねのハードボイルドはよくあるが――読子、三十路にしてあの見事な受っぷり! 新時代を感じさせる受だ。


 ディオニュソス計画。

 防具(18禁)なし・寸止めなしのフルコンタクトでいけるかどうか、各方面の調整を図ってみたい。

 新條まゆも、あさぎり夕も、フルコンタクトで戦っている。それに同人流通では、防具は法令上の意味を持たないはずだ。

12月27日

 電撃G'sマガジン2月号の表紙が、待ちに待った白鐘姉妹である。

12月26日

 「百合すと3」、執筆中。

 今回の目玉は、「百合史・百合論」の歴史部分の超ダイジェストである。


 このガイドは、エロゲー(「マブラヴ」など)をやって知識を得たのかもしれない。

「まだ刀を持った侍いる」  京観光通訳 増える無資格ガイド

 今度は「あやかし忍伝くの一番」をやって、「まだ忍者いる」と誤解してみてほしい。

12月24日

 12月25日がクリスマスな皆様にメリー・クリスマス。

 ちなみにロシア正教ではクリスマスは1月7日である。


 次期主力プログラミング言語を選定した。

 結論:Python

 プログラミング言語を選ぶときの基準を、思いつくままに述べてゆこう。筆頭に挙げられるのは、

・なんについてであれ「純粋」な言語は避ける

 民族主義が吹き荒れる21世紀に生きる人間なら、どんなものであれ思想的に「純粋」なものは拒否すべきだ。純粋な構造化言語、純粋な関数型言語、純粋なオブジェクト指向言語、すべて避ける。

・実装が複数ある言語が望ましい

 実装が複数あることのメリットは計り知れない。実装のバグを検出するうえでの苦労が少ない、ライセンス条件を選択できる可能性がある、対応プラットホームが広がる、など。

・デバッガが強力

 一発完動教に入信しないかぎり、デバッガのよしあしは言語そのもののよしあしと同じくらい重要である。MSのサポートする言語はこの点で非常に有利だ。かつて私がC++を主力言語にしたのも、Visual Studioのデバッガの強力さによるところが大きい。

・関数プログラミングができる

 Cがこれほど長い寿命を保った秘密は、関数ポインタにある――と言ってもそれほど大きな間違いではないはずだ。関数ポインタを返す関数を書いたことがない人は、Cをよく知っているとはいえない。ラムダ計算は近い将来、高階関数と同じくらい重要なものとみなされるようになるだろう。

 さて、以上の条件をすべて満たす言語が、いまや存在する。Pythonだ。lispとALGOLの雑種であり、JavaとCの2種類の実装があり、かなり高機能のIDEを備え、ほぼ完全に関数プログラミングに対応している。

12月19日

アフガンを戦場にした彼らは法廷に差し出されなければならない。私は決して許さない。

 ソ連のアフガン占領政策は多くの面で誤っていた。女性解放政策もそのひとつだ。

 ムジャヒディンが求めていたのは、たしかに、「自由なアフガニスタン」ではあっただろう。しかし、ここでいう「自由」の語は、進歩主義者のいう「自由」ではまったくない。進歩主義者は考える――国が自由になれば、産業は発展し、教育水準は上がり、人々は権利意識に目覚め、女性は解放されるだろう、と。ムジャヒディンのいう「自由」はこうだ――ソ連人がいなくなれば、古い法が復活し、人々はふたたび部族の秩序に従うようになり、女は男のように学んだりしなくなるだろう、と。

 もちろん、すべてのムジャヒディンがこうだったわけではない。マスードのように、欧米のマスコミに受けるタイプの人々もいた。だがマスードは、パリで学んだインテリである。アフガニスタンの農村の支配層に、欧米のマスコミ受けする思想が浸透しているわけがない。タリバン政権のもとで、女性の地位が元の木阿弥どころかいっそうひどくなったのは、タリバン指導層の妄想や気まぐれによるものではない。動かしがたい政治的現実にもとづいた、必然性のある政策だった。

 ソ連が女性解放を推し進めたのは、こうした政治的現実のなかだった。だがこれもやはり、妄想や気まぐれによるものではない。進歩主義の代表を自任するソ連にとっては必然だった。必然ではあるが、誤りにはちがいない。いわゆる「諸悪の根源」とは、こうした避けがたい誤りから、遡及的に見出されるものだ。

 「私は決して許さない」という言葉が、女性の口から、ムジャヒディンに向けて発せられたのは、こういうわけである。もちろん私はレーガンを決して許さない。

12月17日

 クンデラの「不滅」を再読している。ゲーテについての話が続いているところだ。

 アニメ版「To Heart」の神岸あかり以来、クリーンナップに腹黒いキャラを入れるのが定番になっているが、どんなに腹黒くてもベッティーナの前には児戯に等しい。ロマン派はこの糞を、恋愛の殿堂に飾ったのだ。人間の良心は、少なくとも19世紀ヨーロッパに比べれば現代日本は、格段に進歩したらしい。今日のギャル作品は、ベッティーナのような女を、認識することさえできないだろう。

 ベッティーナが語られるどころか存在自体が認識不可能な世界で、どうやってアニェスの魅力を輝かせるか。頭の使いどころである。

12月14日

 ディオニュソス計画。

 2・3・4番と代打はすでに埋まったとすると、残り2人をどうするか。この問題は、野球理論によって、二つのレベルに分割される。ひとつは、1番打者+下位打線1人かそれとも下位打線2人か、というレベル。もうひとつは、それぞれの打順にどんなキャラをあてるか、というレベルである。

 資源を集中させる方針からいうと、下位打線2人が合理的に見える。が、1番打者は「よくあるパターン」に頼れるので、実はさほど資源を要しない。「よくあるパターン」のキャラは、描写が少々すかすかでも、ユーザの先入観によって補完されることが期待できる。しかしとりあえずは下位打線2人でいくとしよう。

 年増対ロリの年齢軸、集団主義対個人主義(集団主義が色あせて久しいので、この対立は別のものに差し替えるかもしれない)の思想軸はすでに取られているので、それ以外の軸を打ち出す必要がある。それも、クリーンナップあるいは主人公との対立軸でなければならない。

 主人公のモデルに浅葉未来をあてることで、軸のひとつは自動的に決まる。家族や友人に愛されているかどうかの孤独軸。本来なら3番打者にあてるべき重要な軸だが、諸般の事情から3番打者は明朗闊達なロリにしたいところなので、下位打線に回したほうがよさそうだ。(おかみき最大の欠点は、孤独軸がすべて腰砕けに終わったことだと思う。みずゑも桐山家もあのとおりだ)

 4番打者のモデルがアニェスなら、当然ローラが必要になるが、これは代打に取られている。ではほかにどんな軸がアニェスに設定できるかというと、ちょっと見当たらない。

 やはり、3番打者が決まらないことには、下位打線も決まらない。しかし私には、明朗闊達なロリはよくわからない。うーむ。

12月13日

 いまだかつてなくヤボ用がたてこんでいるので、かねて用意の新作戦を脳内で発動した。ディオニュソス計画である。

 マルチギャル構造・野球理論にもとづくキャラ配置と、序盤の仕掛けが当面の課題である。ギャル数は6(+主人公)。ただし、クリーンナップ2人に思い切って資源を集中し、その他4人には冷や飯を食わせる。

 とりあえず4番打者のモデルを、ミラン・クンデラの「不滅」のヒロイン・アニェスに大決定した。また、代打として主人公の実の姉を配置することも決まっている。

 4番が年増なら、必然的に3番はロリになる。シンプルかつ最強のモデルを探したい。

 主人公のモデルに浅葉未来(久美沙織の「丘の家のミッキー」主人公)、2番打者のモデルに西在家うらら(「丘の家のミッキー」ヒロイン)を配置することを検討している。未来―うららは、話を進めるうえで実に便利な構造である。

 序盤の仕掛けはほぼ決まった――『「妹売ります」。そして姉の手で4人の少女に四重売りされてしまった主人公!』。

12月1日

 有名コピーライター数名に反戦広告のキャッチフレーズを書いてもらう、という企画を昔どこかで見たことがある。そのなかに、「行かない人がやりたがる」というものがあった。

 その企画で出てきたキャッチフレーズのなかではかなりよい出来ではあったが、どうも黒さが足りない。戦争はもっと黒い。コピーライターは、黒いものを白だと言いくるめても逆はやらない商売なので、こういうことになったのかもしれない。

 そこで私は、このキャッチフレーズをこう書き換えたい――「行かせる人がやりたがる」。

 行かせる人。それはもちろん、「軍部」だの「財閥」だのといった陰謀集団ではなく、国民のことだ。いや、もっと黒く言わなければならない。我が子を徴兵に取られて、戦地へと送り出す両親のことだ。

 民主的圧制のもと、彼らが被害者のごとく言われつづけて60年近い。しかし彼らのほとんどが亡くなった今日、そろそろ言ってもいいだろう。我が子を戦争に取られることは、最高にめざましく感動的な、他人事である。

 まず、それは強制的に行われる。自分の意思でやることなら善悪や損得の判断も働くところだが、強制されるというところがミソだ。これは、エロ系レディコミにおける強姦を考えるとわかりやすい。強制されるというシチュエーションは、善悪や損得から離れた空間を作り出すことができる。だから、我が子を戦争に取られて感動したとしても、倫理的に壊れた悪魔のような人間だということにはならない。

 また、国家や世界という大きなものに、自分が参加していると感じることができる。この、「大きなものへの参加」という感覚が、国民を動員するうえで大きな力があったことはよく知られている。国策協力運動に奔走した人々のほとんどは、誰かからインセンティブを受けたわけではなく、自分の観察と考えにもとづいて戦争が正義にかなうと判断していたわけでもない。参加することが楽しかった、いわばボランティア感覚だった。

 そして、なんといっても、負傷するのも死ぬのも、自分ではなく我が子だ。自分の子ほど感情移入しやすい相手はこの世にない。彼らは、自分の息子を媒介にして、空想上の負傷や死を、ドラマチックに味わうことができた。媒介を通すことが決定的に重要だ。自分自身の身に降りかかった負傷や死は、どこまでも退屈なもの、単に避けるべきものでしかない。

 徴兵による戦争、それは感動をも大量生産する。

 4年前にもこの日記で紹介したことだが、ふたたび引用しよう。「文学史を読みかえる」研究会・編の「〈転向〉の明暗」(インパクト出版会)68ページ、平塚らいてうの言葉である。

 岡本かの子さんの出征将士を想ふ散文詩を拝誦し、事変以来、皇軍勇士の心境に神を見、彼らが現人神にまします天皇陛下に、帰命し奉ることにとつて、よく生死を超越し、容易なことでは到達し得ない宗教的絶対値に易々としてはいつてゐることにひどく感激してゐたわたくしは、ようこそ言つて下さつたと、まことに同感至極で、おそらくこれは銃後の日本女性大衆すべての今言はんと欲してゐるこころでありませう。

 『おのれをすてし将卒のいづれも顔の美しき』永瀬清子さんの詩の一節、いかにもいかにも。新聞写真やニュース映画を見つつわたくしもいつもうれしく、又有難く思ふことはこれです。あの朗な、自然の笑ひを浮べた顔!  天皇陛下の萬歳を唱へて死ぬ時も笑つて死ぬといふのも本当でせう。陛下の御稜威のもとにおのづから大悟の境に安住し得る日本人は、思へば何といふ仕合はせな国民なのでせう。

 他人事とは、こういうことだ。


 さて、ここからが本題である。

 徴兵による戦争では、こうしたプロセスはすべて不可避的に発生する。国民の動員が必要とされ、また戦争の勝敗には一切の言い訳が許されない以上、戦争の指導部がどれほど善悪を尊重する人々であろうと、上に述べたような感動回路を使って「行かせる人がやりたがる」状態を作り出すことは避けられない。

 だから今でも、戦争というと、期待してしまう人がいるのだろう。素晴らしき感動の他人事を。

 しかし今では、そうはいかない。なんといっても、徴兵制はすでにない。誰も強制されず、誰も善悪や損得から離れることができない。死ぬのはすべて、その可能性を十分に理解してそれを選んだ人々である。あるいは、理解すべきだったが理解しないまま選んだ馬鹿な人々もいるかもしれないが、こういう無礼なことは言わないのがブルジョアの礼儀だ。

 今日ではもはや、「行かせる人がやりたがる」状態が成立しないことは明白だ。また、平塚らいてう的な感動の他人事も、どうにもならないほど純度が下がってしまった。「あの朗な、自然の笑ひを浮べた顔!」も、彼らが自分なりの算段を立ててその道を選び、まともな給料を受け取って働いているのだと思うと、素直に感動する気にはなれない。誰でも苦労はしているのだから。

 素晴らしき感動の他人事はいまや、TVで感傷的なBGMとナレーションをべったりとつけて、ようやく成り立つ程度のものに成り下がってしまった。だからアメリカ人は、ジェシカ・リンチの暴露を冷たくあしらった。素晴らしいと思っていたものの嘘が暴露されるなら、興奮もあるだろう。はじめからどうでもいいようなものが嘘だと暴露されても、興奮もなにもない。

 こうして戦争はいまや、国民にとって、自分自身のものになった。

 自分自身のもの、つまり、他人を媒介しないもの、ドラマチックでないもの。ありていに言えば、金の問題である。

 去年一年間で、8000人以上が交通事故で死んだ。これはもちろん、イラクで死んだ米兵の数より何十倍も多いが、まったくドラマチックではない。酒気帯び運転に必ず実刑を科するなどの強烈な行政的手段を取れば、交通事故による死者をただちに半減させることは難しくないが、もちろんそんなことは実行できない。これが、国民にとって自分自身のものであるということ――金の問題である。

 現在の戦争が金の問題であることに、アメリカ人はすでに気づいている。しかし日本人が気づくには、まだしばらくかかりそうだ。できれば、あまり損が出ないうちに気づいてほしい。

 

今月の標語:

あの朗な、自然の笑ひを浮べた顔!

――平塚らいてう

 

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