中里一日記

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 中里一は現在、百合の同人ソフト『希望入りパン菓子』を制作しています。皆様のご愛顧をお願い申し上げます。

2004年1月26日

小泉首相「大量破壊兵器は未解決」

 「正義なんてこと言う人、嫌いです」とでも言ってくれたほうが説得力がある。

古賀潤議員、ロスの空港で「調査は不十分に終わった」

 この2つの事件を並べると、ひとつの法則が見えてくる――「疑惑は、『かける』側のほうが強い」という法則が。

 アメリカは「大量破壊兵器疑惑」をイラクにかけている。現時点ではもはや、疑惑をかけられる対象としてのイラクは消滅しているというのに、いまだにアメリカは疑惑を『かけて』いる。おかしな構図だ。だが、このおかしな構図のなかでしか、アメリカはアメリカとして存在できない。アメリカは強い――だからアメリカは疑惑を『かける』――疑惑を『かけられる』ようなアメリカは強くない――そんなものはアメリカではない。

 もちろんアメリカは強くない。だから、「大量破壊兵器疑惑」は、「大量破壊兵器(は嘘だった)疑惑」と読むのが正しい。「大量破壊兵器疑惑」はいまや、アメリカとその同盟国にかけられているのだ。

 「大量破壊兵器(は嘘だった)疑惑」という読み方が不自然に思える? では、「学歴(は嘘だった)疑惑」も不自然に思えるはずだ。

 古賀の学歴疑惑という幕間劇が終わったら、今度は小泉と与党の大量破壊兵器疑惑が追及されねばならない。

1月24日

 19日の続き。

 時間オブジェクトは、一次構造の性質を示すうえで例として適している。まず、メッセージと状態変化の関係について。

 時間オブジェクトの状態を変化させる方法は、基本的には二通りある。連続的と、非連続的と。後者からいこう。

 非連続的な変化は、たとえば初期化時に必要となる。初期化前の状態などというものは存在しないので、非連続的に決まっている。このように、目標の状態へとただちに変化させることを、以下では「飛ぶ」と呼ぶ。

 非連続的な変化だけでは、たとえばフレーム単位で構成されているシーケンスを構成できない。もし、あるフレームを構成するシーケンスが「次のフレームに飛ぶ」で終わっていたら、そのフレームはスキップされる。映画のフィルムを切り貼りしてフレームを飛ばしたときのように。もし、一定速度で動く物体がフィルム上に映っていたなら、そのフレームのところで物体は突然ワープして進んだように見えるだろう。もし音声が再生されていれば、そのフレームにあたる区間は抜かされるだろう。

 物体をワープさせず、音声を抜かされないために、連続的な変化が必要になる。時間オブジェクトを、現在の状態から目標の状態まで、時計に合わせて連続的に変化させる――これを「行く」と呼ぶ。フレーム単位で構成されているシーケンスは、「次のフレームに行く」というメッセージをフレーム数-1個含んでいる(-1するのは、最終フレームには「次のフレーム」がないため)

 次に、実行時間とレンダリングの関係について。

 問題:

 フレーム単位で構成されているシーケンスの、「次のフレームに行く」というメッセージをすべて「次のフレームに飛ぶ」に置き換えたものをレンダリングしたら、なにが起こるか。ただしこのシーケンスは、「次のフレームに行く」以外には時間オブジェクトを変化させるメッセージを含まないものとする。

 選択肢:

1.超早送りで表示される

2.最初の一瞬に最初のフレームが表示され、次の一瞬に最終フレームが表示される

3.最初の一瞬に最終フレームが表示され、あとはなにも起こらない

 正解:3

 これは一次構造の定義による動作であり、実装に依存しない。

 1ではない理由を考えてみよう。「超早送り」されるあいだに経過する時間は、いったいどこから生じているのか。時間オブジェクトの連続的な変化は、どこでも生じていない。ということは、時間は点から点へと非連続的に変化するだけで、経過しないのだ。「超早送り」もくそもない。

 しかし実装によっては、シーケンスをレンダリングする実行時間のあいだに、フレームが飛び飛びに表示されてもいいのではないか?

 このような疑問に対してはまず、実行時間と時間オブジェクトのあいだにはなんの関係もない、ということを改めて確認しよう。たとえば、あるフレームを構成するシーケンスが非常に長く、レンダリングにかなりの実行時間を要したとしよう。20fpsのシーケンスなのに0.1秒もかかってしまったとしよう。このとき、そのシーケンスの先頭と、末尾から一つ手前(末尾は「次のフレームに行く」)で、時間オブジェクトの状態を参照したとしよう。2度の参照のあいだで、時間オブジェクトの状態は変化するか?  しない。変化する理由がないからだ。時間オブジェクトの状態変化なしで、つまりゼロ時間のあいだに起こった出来事が、表示される、つまり時間の流れのなかに生きる人間に認識されるとしたら、おかしな話である。

 2ではない理由もやはり、時間は経過しないからだ。最初のフレームはけっして表示されない。

 ここまでは、一次構造の基本的な性質をみた。宣言的プログラミングならではのエキゾチックな性質は、まだまだこれからである。

 HTMLのアンカーへのリンクのように、シーケンス中の任意の地点へと飛び込んでレンダリングしはじめる場合を考える。これを実現するには、その地点までのシーケンスに含まれる、時間オブジェクトの「行く」を「飛ぶ」に置き換えてレンダリングするだけでいいのではないか?  もちろん、この方法でもできる。 だが、もっと面白い方法がある。

 以下後日に続く。

1月23日

 TVアニメの「マリア様がみてる」第3回。

 前回は麻雀がわからなくて悔しい思いをしたが、今回は私の独壇場だ。ちょっとだけ映ったシンデレラの舞台は、ずいぶんおかしなものに見えたと思うが、あれはソ連版シンデレラである。2つ目のカットは、オリジナル版ではガラスの靴を姉たちがはこうとする場面にあたる。ちなみに、「どうして磁石の針は南北を向くんだろう?」というあの問いの正解は、「不思議ね!  とっても気になるわ! 北の果てと南の果てに行けば、なにかわかるかしら?」だ。姉たちの修辞的な答をしりぞけて、シンデレラの科学精神の大切さを説いている。

 柏木の眼鏡… 「トーマの心臓」のサイフリートだとわかった人が、いったい何人――いや、名作なのでかなり多いか。

 (この日記はノンフィクションであり実在の人物・団体と関係があります)

1月20日

Windows Services for UNIX (SFU) 3.5

 日本語ファイル名が通る! 俺はCygwinをやめるぞ! ジョジョーッ!!

1月19日

 昨日の続き。

 HTMLでこん表現をすると、コードは次のようになる。

<strong>こん<em>な</em></strong><em>表現</em>

 strongの指定範囲を終えるために、emの指定範囲も終えなければならない。<strong>こん<em>な</strong>記述</em>は(規格上は)許されない。

 とはいえ、これをもってHTMLの欠陥といえるような大した問題ではない。文章は普通、階層構造をとっている。一つのパラグラフが2つの章にまたがったりはしない。HTMLは階層構造を前提とすることで、要素のレンダリングに必要な情報を制限することができている。すなわち、親要素へと次々にトラバースしてゆくだけで、その要素のレンダリングに必要な情報がすべて揃う(規格上は)。

 だが、時間軸上のシーケンスは、あまり構造化されていないことが多い。映画のシーンの切り替えなどでは、音楽が始まり、暗転し、音楽がやみ、明転する、といったシーケンスがしばしば見られる。こういう当たり前のシーケンスを、HTMLのように記述しなければならないとしたら、それは言語として欠陥がある。

 では、HTMLのようなツリー構造をやめて、単なるリストで表現してはどうか。

 この場合、ある要素をレンダリングするには、それ以前のすべての要素を必要とする。場合によっては、これも耐えられない話ではない。HTMLのリンクで、ページ途中のアンカーに飛んだ場合も、実際のブラウザはアンカーからではなくページ先頭からレンダリングする。レンダリング速度が十分に速ければ、これで誰も困らない(さすがに画像くらいはアンカー付近から先に取得・表示してほしいが)。

 ただ、時間軸上のシーケンスの場合、「実際に時間を経ないと時間経過後の状態が出てこない」というものが含まれていては困る。たとえば、インターフェイスの関係で先頭からしか再生できない音声ファイルなど。また、時間をかけて実行しないと結果が得られないものが含まれていても困る。円周率を100万桁まで求める計算や、ユーザの行動による分岐や、コード自身によって挙動が定義されているコード(=バグのないプログラム!)がこれにあたる。

 このため、シーケンスに含まれる情報を構造化する必要がある。以下にその構造の例を示す。

1.シーケンスが含む情報を、あらかじめ定義されたオブジェクトへのメッセージに限定する。

2.オブジェクトの取りうる状態を、有限個に制限し、これをすべて定義する(有限状態機械)。実際にレンダリングされたときには無限個あってもかまわないが、いかなる状態に対しても、定義された有限個の状態のなかに十分近い状態があるものとする。

3.メッセージによって生じる状態変化が、十分短い時間で計算可能な式により定義されている。

4.オブジェクトは、少なくとも初期化時には、十分短い時間で任意の状態へと変化することができる。

 なお、シーケンスの進行自体も、メッセージとして表現されるものとする。フレームで構成されたシーケンスなら、「次のフレームに行く」というメッセージがあるとする。音声ファイルのように時間経過とともに状態変化が生じるオブジェクトはすべて、時間オブジェクトとでも言うべき単一のオブジェクトを参照しているものとする。時間オブジェクトは、第二項の後半にいう「レンダリングされたときには状態が無限個」あるオブジェクトの一例である。

 この構造を仮に一次構造と呼ぼう。以下後日につづく。

1月18日

Universal Turing Machine in XSLT

 ………………停止問題……


 ネット上のどこでだったか、「手続き的プログラミングの流行は集団的狂気の一形態」と断言している人がいた。

 しかしこれは見方が狭い、というよりも循環論法に近い。「プログラミング=手続き的」という観念が先にあるから、手続き的プログラミングが流行しているように見える。「人工知能=いまコンピュータで実現されていないこと」という定義に似ている。

 スプレッドシートでセル中に式を書ける人の数と、C・VB・Javaプログラマーの数と、いったいどちらが多いか。セル中に式を書くことで実現される機能は、スプレッドシートというものが発明されるまでは、いわゆる「プログラミング」なしにはできなかったことだ。これをプログラミングから除外する根拠は何か。

 HTMLはいわゆる「プログラミング言語」ではないと考えられている。だがPostScriptはプログラミング言語として知られている。HTMLは出発点から大きく離れて、機能的にはPostScriptに近づいているが、たとえHTMLをゼロから再設計しても、けっしてPostScriptのようなプログラミング言語にはならないだろう。

 スプレッドシートやHTMLは、宣言的プログラミング言語として理解すべきだ。チューリングマシンを思い描くのをやめ、プログラムの実行はヘッドの移動によって行われるという先入観を捨てれば、コンピュータの振舞いを記述しているという点で、これらはプログラミング言語である。

 HTMLはチューリングマシンのヘッド位置という概念を受け付けない。が、その記述方法は、順番を情報として生かしている。すなわち、ファイル上で後方に出てくる要素はレンダリングされたページ上では下方に、前方に出てくる要素は上方に、それぞれ配置される。この位置関係は、レンダリングの実行順とは切り離して考えることができる。HTMLを先頭から順にレンダリングしなければならない理由はない。末尾から逆順にレンダリングしてゆくレンダラを作ることもできる。PostScriptではこうはいかない。だからHTMLは宣言的であり、いわゆる「プログラミング言語」に見えない。

 ファイル上の前後関係によって平面上の上下関係を表現できるなら、ファイル上の前後関係によって時間軸上の前後関係を表現することもできる。

 ここで、チューリングマシンの亡霊を徹底的に頭から追い払う必要がある。

 WYSIWYGのHTMLエディタのカーソル上には、チューリングマシンのヘッドが張り付いているのか? ちがう。このカーソルを、時間軸上にもってゆく――チューリングマシンのヘッドと、時間軸上の前後関係は、切り離せるのだ。

 つづく――かもしれない。

1月17日

大気光

 スリーライツ(セラムン)を思い出したのは私だけではないはず……とは言い切れないのがスターズの怖さだ。


 TVアニメの「マリア様がみてる」第2回。

 今回も演出(という次元をすでに超越しているが)に見どころが多かった。新聞部姉妹がロケットエンジンを背負ってドムのようにホバー走行していたが、あれはなにが元ネタなのだろう。

 私は麻雀がまったくわからない。志摩子と祐巳が中庭で、昼食をとりながら麻雀を打っていたとき、卓上でなにが起こっていたのだろうか。気になる。うーむ。

 (この日記はノンフィクションであり実在の人物・団体と関係があります)

1月15日

 聞いた話では、相田裕の「GUNSLINGER GIRL」を読んで語るのが流行っているらしいので、私もやってみる。

 まずは望月三起也の「ワイルド7」を思い出そう。

 「ワイルド7」とは、私の知るかぎり、この世でもっとも面白いまんがである。知らないという読者諸氏のために設定を紹介しよう。まず、ずば抜けた能力のある犯罪者を探し出し、刑事免責などを用いて手下に仕立て上げ、「ワイルド7」というチームを結成する――ここまでは普通だ。映画「レオン」など、他に例はいくらでも見つかる。

 次に、彼らに警察官の身分を与える。ただの警官ではない。警視正の階級、特殊な白バイ、重火器を備え、ターゲットとなった悪人をその場で殺す権限を与えられた、法執行機関ならぬ正義執行機関である――正義執行機関だけならこれもよくあるパターンで、平松伸二の「ブラックエンジェルズ」などがある。が、その機関が犯罪者で構成され、しかも重火器で武装しているとなると、ちょっと類例が見当たらない。

 正義執行機関に重火器を持たせるだけあって、「ワイルド7」に描かれる日本は武器の豊かな国である。やくざまがいの連中は必ず拳銃やショットガンを携行し、かなり気軽に発砲する。気の利いた悪党はみな、ちょっとした軍事力を持っており、ヘリや戦車はいうに及ばず、クライマックスでは潜水艦や駆逐艦まで登場する。この国は大丈夫なのか、と誰しも危ぶむところだが、その危惧のとおり作品のラストでは、ヒトラーよろしく国民的な支持のもとに合法的独裁が敷かれることになる。

 ワイルド7のメンバーは善悪を知り人情に厚く、ときには命令に背いてでも正義を実行する。ワイルド7に権限を与えている政治的事情は不安定である。ワイルド7の司令官は、政治的事情に振り回され、ときに本意でない命令も発せざるをえないが、ワイルド7は自分自身の信念に従って行動する。この齟齬は深刻なもので、作品のかなりの部分は、司令官への不信にもとづいて話が進む。

 しかし「ワイルド7」の魅力は設定やストーリーよりもむしろ、描写にある。建築物の崩壊や、大型車の衝突が、「望月流」というほかないような独特の迫力ある絵で描かれており、まんが的な喜びを存分に味あわせてくれる。

 「GUNSLINGER GIRL」は、表向きは、「ワイルド7」の逆をいく話に見える。

 「ワイルド7」が犯罪者をメンバーにしたのに対して、「GUNSLINGER GIRL」は重度の身体障害のある少女を選ぶ。任務遂行に必要な能力は、「ワイルド7」ではメンバー自身がもともと持っていたのに対して、「GUNSLINGER GIRL」ではサイボーグ化によって得られたものだ。「ワイルド7」は司令官への不信が常であるのに対して、「GUNSLINGER GIRL」は精神操作により指揮官に完全に服従している。

 罪あるものと無垢なもの、力あるものと無力なもの、疑うものと従うもの。対照的なところを羅列していけば、ほとんど「GUNSLINGER GIRL」という作品そのものになるだろう。

 が、「GUNSLINGER GIRL」という作品の魅力は、別のところにある。純真な少女(なにしろ精神操作されているので、その純真っぷりはどこまでも大真面目だ)が、人間の顔をしていない政治過程によって、作り出される――これこそが魅力だ。

 「人間の顔をしていない政治過程」、ここでもまた「ワイルド7」の逆をいく。「ワイルド7」では政治家や官僚に豊かな表情があり、ワイルド7という存在自体が司令官の個性をそのまま反映している。しかし「GUNSLINGER GIRL」にはそのような個性は登場しない。これを、80年代のロリコンまんが・エロまんがで流行した「触手」になぞらえてもいいだろう。犯す男の情念や、清濁併せ呑む司令官の個性を消去し、純真な少女だけを舞台に残す。

 触手――「GUNSLINGER GIRL」の抱える根本的な問題を、ここからたぐることができる。

 現在のエロまんがには、触手はさほど多くない。「純真な少女だけを舞台に残す」という構造そのものが流行らなくなった。さまざまな理由が考えられるが、一言でまとめれば、面白くなかったからだ。「純真な少女だけを舞台に残す」という構造は、読者が「純真な少女」への欲望を抱いているときにだけ成り立つ。読者の欲望を前提にするため、作品は完結性を欠き、すっきりしないものになる。

 この問題を(悪く言えば)ごまかすのが、「ワイルド7」との対立構造である。

 「ワイルド7」は、いわゆるカタルシスをめざす。すなわち、登場人物への感情移入を通じて、出来事への納得感を味あわせることをめざす。ただし、「ワイルド7」のカタルシスは、ねじれた構造をしている。ねじれのないカタルシスは、「水戸黄門」のように、正義と力と法が一致する。「ワイルド7」の正義は法のなかにはなく、力は限られており最後には敗れる。こうしたねじれがあるので、その逆をいく「GUNSLINGER GIRL」が作品として体をなす(「水戸黄門」の逆をいっても作品にならない)。

 「GUNSLINGER GIRL」には、いわゆるカタルシスはない。(よく言えば)ブレヒトのいう異化をめざしている。

 『異化』(Verfremdung)は、あることがらを日常馴れ親しんだ連関からずらすことによって日常感覚とは疎遠な(fremd)もの、見慣れぬものにすること、を意味するが、十九世紀における少数の事例はあるものの標準ドイツ語にはなかった表現である。『異化効果』(Verfremdungseffekt)はブレヒトの演劇技法において重要な意味を持つ。

 …アリストテレスのカタルシス概念を踏襲する古典的演劇手法においては、観客が舞台上の俳優に感情移入を行い、舞台上の虚構が真実であるかのような錯覚を起こさせることによって舞台と観客の同一化をめざす。この同一化はブレヒトによれば、観客の行動性をカタルシス体験において消費させ、批判的判断力を失わせる。これに対して『叙事的演劇』はそうした感情移入を阻止し、観客を舞台上の出来事の批判的観察者にすることをねらう。そのために音楽や文字を利用し、心理的演劇法を意図的に拒否した演技法などによって、芝居の流れを中断させ、演じられた場面をあくまでも『演じられたもの』として際立たせる手法が『異化効果』である。日常的にはありきたりの、分かりきった事柄が『異化』によって舞台上で際立たされることによって、観客はそれまで自明であった日常性への反省的視点を獲得する。ブレヒトの『叙事的演劇』はすでに完成した思考・行動パターンを観客に伝達するのではなく、演じられたシーンをひとつのモデルケースとして提示し、それについての判断を下すよう観客に要求するものである。劇場空間は現実認識の学習過程であり、現実変革への行動を導く思考のいわば実験室である。その意味で上からの啓蒙を自負する教条的マルクス主義の政治演劇と対立する。

 ブレヒトが『異化』によって際立たせようとするのは、資本主義社会における人間の疎外状況(Entfremdung)であり、『異化効果』は最終的には劇場外の現実における疎外の止揚をめざしたものである。…

(『現代思想を読む事典』の「異化」の項より引用。大貫敦子著、今村仁司編、講談社現代新書、51-52ページ)

こちらから又引き

 聞いた話では、「GUNSLINGER GIRL」を読むと、それについて語りたくなるらしい。劇場の外、作品の外で、「語る」という形態でカタルシスを味わう――まさにブレヒトの計画どおりに踊っているわけだ。

 「GUNSLINGER GIRL」の魅力は読者の欲望を前提にするため、作品としての完結性を欠く、とさきほど述べた。異化は、完結性のなさを、必要なものとして取り込める。ブレヒトの計画では、作品は劇場の外で完結するのだから、むしろ完結性があってはいけない。

 だが、こうした異化なるものは、いわゆるカタルシスのように、それ自身で作品として成り立てるものなのか?

 いわゆるカタルシスのある作品は、それだけで作品として成り立つ。だが異化のある作品は、なにかの対立物としてしか成り立たないのではないか? もしカタルシスある作品がなければ、異化を与えることもできず、ナンセンスな存在と化すのではないか?  それも、カタルシスある作品一般を必要とするにとどまらず、異化のある作品はみなそれぞれ、ある種の(カタルシスある)作品に依存しているのではないか? つまり――異化とは、アンチ巨人のようなものではないか?

 もしこの世に、「ワイルド7」的なカタルシスが知られていなければ、「GUNSLINGER GIRL」を読んで語りたくなることも、また「GUNSLINGER GIRL」という作品を作ることも難しかったのではないか? むしろ「ワイルド7」的なカタルシスを発見したことが、「GUNSLINGER GIRL」という作品成立の鍵なのではないか?

 たとえ話をしよう。ソ連では、官僚主義批判がカタルシスとして公認されていた。私の仮説によれば、官僚主義批判によるカタルシスに依存するような、異化のある作品を作ることができるはずだ。そして、この作品を現代日本に持ってくると、まるでナンセンスなものに見えるはずだ。

 こうして見ると、「GUNSLINGER GIRL」は、古いもの2つを上手につなぎあわせた作品だといえる。かたや80年代の触手、かたや70年代の「ワイルド7」。

 触手の弱点を克服した、という点では、評価すべきものがある。が、「ワイルド7」に対してはどうか。

 「ワイルド7」の描写にあったまんが的な喜びは、「GUNSLINGER GIRL」にはない。また「ワイルド7」は、「水戸黄門」のようにありきたりな作品ではない。類例もなく、いま読んでも強い印象を与える。だから、「GUNSLINGER GIRL」を読むことで「ワイルド7」がいっそう面白くなるかといえば、どうもそんな気はしない。おそらく、「GUNSLINGER GIRL」はあらゆる面で、「ワイルド7」よりも、小さい。

 結論――触手ロリコンまんがは読まなくていい。「ワイルド7」は読むべし。「GUNSLINGER GIRL」はその中間。


 …と、これくらい語れば、流行に乗り遅れることくらいはできたことになるだろうか。

1月13日

 ある種の人々は、好むと好まざるとにかかわらず、多くの人々の運命を握っている。その最たるもののひとつが、裁判官だ。

 そういう立場にあるからには、できるかぎり良心的に振舞いたいと思うのが人の常である。私はこういうタイプの良心を堅く信じている――自分の利害が絡まないかぎり、人間はじつに良心的な生き物である、と。

 さて、日本の刑事訴訟は99.9%が有罪で終わる。この数字を見ただけでもわかるように、日本で被告人になるということは、ソ連で党から除名されるようなもので、有罪でないと困るのだ。

 さすがに事が死刑ともなると、「有罪でないと困る」ではすまない。が、執行猶予や罰金では、「有罪でないと困る」の「困る」のほうが、誤判や刑よりもよほど重大な結果を招くことがある。

 もし無罪判決が出たら、検察・警察の当事者は、99.9%勝てるものを負けた無能、それも人権侵害のおまけつき、ということになる。もし事件が無罪で確定したら、彼らはその後の職業生活をずっと、0.1%の十字架を背負って歩むことになる。被告人の名誉や生活が賭けられているならともかく、有罪になってもほとんどなにも失わない場合もある。そんなとき、正義の実現のため懸命に働く人々(検察・警察)に、0.1%の十字架を背負わせるような真似ができるだろうか。それをよしとする良心とは、いったいどんなものか。

 もし事実認定が問題なら、真実への愛がそれをさせるかもしれない。だが法律問題ではどうか。法律をそれなりに解釈することで、正義の人々を救えるとしたら。

 動機は良心だけではない。最高裁の裁判官でないかぎり、判決はあとで覆されるおそれがある。もし覆されて確定すれば、今度は自分が十字架を背負うことになる。安全牌を選ぶに越したことはない。安全牌、たとえば、最高裁の判例を踏襲すること。事実問題にはこの手は通じないが、法律問題にはよく効く。

 正義の人々との連帯を感じる良心と、自分の職業生活を大切にしたい欲とが道連れになれば、それはもう有罪判決以外ありえない。

 松文館裁判の地裁判決には、こうした条件がすべて揃っている。

 社長が逮捕・立件されても松文館は経営が傾いたわけでもなく、不名誉な扱いも受けず、有罪になってもそれは変わりそうもない。わいせつ性の認定の面ではあまり争う余地もなく、争点は法律問題に絞られている。最高裁は、言論界を揺るがす大事件を2度経験し、どちらも有罪判決を出している。これだけお膳立てが揃っていて、「刑法175条は違憲無効であり被告人は無罪」という判決を出すほどの勇者は、そもそも司法試験に合格できないだろう。

 正義の人々を闇に突き落とすことを可とする良心、自分の地位をかえりみない良心、それは想像力の世界のものだ。「自由」という価値は、おそらくは、想像力の世界でしか生き延びることができない。

 だとすると、ではいったい、いま存在する自由は、どこから来て、なぜいまのところは存在しているのか。

 なにか価値あるもののために働く人々が、よそ見をしているその隙に、雑草のように生い茂るのが自由だ。なにか価値あるもの、それは「自由」それ自体をも含む。たとえば「自由の内在的制約」のように。「自由」という価値のために働こうとして自由を見ても、そこにはけっして自由など見つからない。

 だから私は自由のためには働かない。ただ、働きたくて仕方のない人々に、ほんのしばらくのあいだ、よそ見をしていてもらいたいと願っている。

1月12日

 Pythonでコーディングしている。

 慣れない言語を使うと、頭が悪くなったような気がしてくる。うーむ。

1月10日

 ネーミングの勝利:織田信長

 日本は伊達に第五世代コンピュータに大金をつぎ込んだわけではないらしい。

1月9日

 今日の旅はStackless Pythonから始まった。

 Schemeの「継続」というのはなかなか強烈ですな、でもコルーチンや協調的マルチスレッドを使いたいときってむしろ低レベルのときに多いような気がしますな、ドライバとか組み込み系ですな、ちなみにJavaVMのローカル変数はスタックを使わずに実装できるのでオペランドスタック以外のことを「スタック」と言わないほうがよさそうですな、これはコンテクストスイッチ速度と深く関わる問題なので組み込み系では特に重要ですな、でもKVMの例外の扱いなんかを見ると継続っぽいものを嫌っていますな、このあたりオペランドスタックと並んで設計ミスかもしれませんな――などとつぶやきながらGoogleしてゆくと、実に有意義に時間を無駄にできる。

1月8日

 アニメ版「マリア様がみてる」を見た。

志摩子が幼女! こころんより年下!

由乃と令が犬耳! しゃべるとぴくぴく動く!

蓉子がサングラス! いまどき「小麦パニック!」のパクリかよ!

祐巳のツインテールが触覚ていうか触手! 自由自在に動いてる!

聖だけ絵コンテが出崎! ひとりで「おにいさまへ…」ごっこだ!

祥子の背景がいつも百合! 紅薔薇のつぼみなのに!

江利子の顔がフレームで切れてて映らない! お前はマホメットか!

 予想をはるかにしのぐアグレッシブなマリみてである。とりあえず3月末までは死んでも死ねない。

 (この日記はノンフィクションであり実在の人物・団体と関係があります)

1月3日

 昨日の続き。

 「質問をしてはならない」の元ネタは、なんだったか。ゲルショム・ショーレムがらみであることは間違いない(私のカバラ関係の知識はほとんどショーレムからだ)。うろ覚えの記憶をたどって、もう少しだけ詳しく書いておこう。

 二十世紀初頭のこと。宗教学の心得のある青年(たしかショーレム本人ではなく、その友人)が、パレスチナ在住のあるカバリストを訪れて、弟子入りを希望した。それに対してカバリストはまず注文した、「質問をしてはならない」と。

 青年は結局、弟子入りしなかった――とうろ覚えに記憶している。

 この例に限らず、宗教と質問のあいだには、深い因縁がある。禅の公案も、解決すべき問題というより、問うこと自体が重要であるような質問だ。

 こうした考察を極めることで、かつてない切れ味の言葉責めを構築できる――と信じたい。

1月1日

 今日が新年の皆様、あけましておめでとうございます。今年もなにとぞ西在家香織派をご贔屓ください。


 ディオニュソス計画。

 フルコンタクト――この領域でものを考え始めると、新條まゆやあさぎり夕の偉大さが身にしみて感じられる。

 とりあえず、各人の得意技を練っている。アニェスは言葉責めだ。たとえば――と思ったが、事情によりあいにく論が展開できない。

 予定では、ここでジジェクを引き合いに出しつつ、質問することの暴力性と猥褻さを論じ、20世紀初頭にあるカバリストが入門希望者に告げたという言葉「質問をしてはならない」で締めるはずだった。が、ネタにするはずだった本「イデオロギーの崇高な対象」が見つからない。あしからず。

 

今月の標語:

誰か馬になりなさい

――車田正美『聖闘士星矢』

 

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