2005年12月07日

1492:12

 昔話をしよう。
 およそ20年ほど前、人々は、事あるごとに「かわいい」と言った。
 もちろん今でも人々は「かわいい」と言うが、「かわいい」の否定的な面を避けながら、あるいは当てこすりとして、使っている。20年前の「かわいい」には、ほとんど否定的な面がなかった。それは無内容な肯定を示す言葉だった。
 人間の心性が移り変わるように、言葉の意味も移り変わる。
 だが、言葉の字面には、変わることのない本質が潜んでいるように思えることもある。
 もちろんその本質も、歴史的かなづかいと新かなづかいのような断絶があれば、失われるのだが。

 
                         *
 
 晩餐会はなにごともなく終わり、私は陛下をお部屋までお送りする。
 エレベーターのドアが開くと、遠野さんが待っていた。すぐに部屋まで案内してくれるものと思ったが、遠野さんは一礼すると、小さなメモを開いて、言った。
 「財団の法務部からメッセージが届いております。平石緋沙子の件です。
 労働法の規制のため、平石さんの就労は午後9時までとなっております。平石さんは、あくまで陸子さまのご友人として、こちらにお泊りになられます。
 もう午後9時を回っておりますね。ですから明朝までは、平石さんにはお言いつけなどは一切なさらないでください。不当な労役とみなされる可能性があります。
 よろしいでしょうか?」
 「はーい。
 もし私がまずいことしたら、すかさずフォロー、お願いね」
 「かしこまりました」
 部屋にゆく。今度は警護部の担当者はいない。引き継ぎや報告などのほかは、警護部はできるだけ姿を見せずに活動する。
 「ひさちゃーん?」
 陛下がお呼びになると、見慣れたメイド姿の平石緋沙子が、うつむきかげんの姿勢で出てきた。
 「最初に申し上げておきます。昼間のTVのあれは、財団の広報のかたの指示に従ってやったことです。まるきり嘘ではありませんが、まるきり本心でもありません」
 そう言った平石緋沙子の顔は、真っ赤だった。
 「いっぱいリハーサルさせられたんでしょ? わかってるって。
 でも大丈夫。まるっきり嘘でも、ひさちゃんはちゃーんとかわいいよ!」
 「まるきり嘘ではありません」
 陛下はソファにお座りになった。
 「自分のできばえ、ビデオで見た? 見てないでしょう。あれ辛いよね。でも見ないと上手にならないから、いっしょに見よう?」
 その誘いに、平石緋沙子は体をびくっと震わせて、言った。
 「ここは観光地とうかがっておりますが、私はここに来てから一歩も外に出ていません。私は勤務中ではありませんので、自由に行動させていただきます。
 設楽さま、もしよろしければ、散歩におつきあいくださいませんか?」
 平石緋沙子は、すがるような目で私を見た。
 ついさきほどの陛下のお言葉を思い出す――『うわ、ひさちゃん、すごいなー。魔性の女だ。ひかるちゃんを取られちゃうかも』。
 それで、陛下のご様子をうかがう。私と目があうと、陛下は微笑まれた。
 「喜んで。散歩に行く前に、平石さんは着替えたほうがいいでしょう」
 「はい。少々お待ちください」
 平石緋沙子は寝室に入った。
 「陛下の前でも無愛想な子ですね。陛下のようなかたですと、扱いづらいのでは?」
 「扱いやすい中学生なんて、こっちが気を遣っちゃうしー。
 でも、どうして、ひかるちゃんを散歩に誘ったんだろうね? お友達なんだ?」
 「消去法でしょう。遠野さんはまだお仕事ですし、陛下をお誘いするわけにはゆきませんし」
 「ふーん?」
 そのとき、平石緋沙子が私服に着替えて出てきた。半袖のブラウスに、肘まで被う手袋、ブーツにミニスカート。ベルトとポーチとブーツだけが赤く、ほかはすべて黒。手袋のほかはどれをとってもオーソドックスなもので、流行のかけらもないのに、しゃれている。
 「お待たせしました。参りましょう」
 
 田舎だけあって、夜空が暗い。星がよく見える。虫の声だけが聞こえる。
 部屋を出てから一言も口をきかずに、平石緋沙子はずんずんと歩いていた。
 と、立ち止まる。
 「ごめんなさい。私なんかと散歩なんかさせたりして」
 「私は、嫌なことは嫌だって言えるつもりだけど。
 星は見えるし、静かだし、涼しいし。ご機嫌な散歩じゃないの。あとは、平石さんがご機嫌なら、申し分ないな」
 「……はい」
 ゆっくりとした足取りで歩きはじめる。
 「平石さんに嫉妬したら、そのことを隠さない、って約束したよね。
 このあいだ気がついたこと。平石さんは陛下に、『ひさちゃん』って呼ばれてるでしょう。ほかのお側仕えの人は、私以外はみんな苗字にさん付けなのに。平石さんは私とおなじに呼ばれてるんだと思って、嫉妬した。
 もうひとつ。陛下が平石さんの出たTVを、ビデオでご覧になったとき、私はその場にいたの。平石さんに電話なさったときにもね。陛下が大喜びなさったから、嫉妬した。
 平石さんは、最近どう?」
 「設楽さまって、敬語でなくてもしゃべれるんですね」
 「別人みたい? だったら、敬語にするけど」
 「今のほうがいいです」
 「そう」
 歩みをゆるめて、うつむいて、平石緋沙子は言った。
 「……陸子さまと、しっくりいかないんです」
 「どうして?」
 「陸子さまって、なんでも大袈裟で。私を恥ずかしがらせるのが、すごくお好きで。さっきだって、私の出たTVを一緒に見ようだなんて、おっしゃったじゃないですか。
 だから私、陸子さまにいつも、憎まれ口みたいな突慳貪なことばかり言ってしまって。さっきだって、あんなこと。
 陸子さまがもっと落ち着いたかたなら、私だって素直にしていられるんです」
 「陛下が嫌なんだ?」
 「いいえ!」
 歩くスピードが急に速くなる。
 「……いえ、よくわかりません」
 また遅くなる。空を見上げて、
 「昔は陸子さまに憧れていました。夜空の星みたいなかただと思っていました」
 あんな賑やかなおかたの、いったいどこが夜空の星なのか。もしかして文通の手紙が、そういう誤解を誘うようなものだったのだろうか。
 「でも今は、身近すぎて――うまく言えません。
 ……変な話になっちゃいますけど。
 マンガなんかの話で、主人公の片腕が、別の生物やなにかに乗っ取られる、っていうのがあるでしょう。あれみたいな感じです。身体のどこかを、陸子さまに乗っ取られたみたいな気がします。
 なにをしてるときでも、『陸子さまはどうおっしゃるだろう』とか、『陸子さまはどんなお顔をなさるだろう』とか、考えずにはいられません。陸子さまのお側にいないときは、ずっとそうなんです。そのうち身体のどこかが陸子さまになってしまいそうです」
 平石緋沙子の言いたいことは、わかるような気がした。
 「きっとそれだから、平石さんは、陛下にかわいがっていただけるんでしょうね」
 「どういうことですか」
 「どうって――」
 わかりきったことを説明するのは難しい。私にとって陛下のご気性は、ひらがなの字の形と同じくらい、わかりきったことだった。
 「――陛下はナルシストであられるから。
 ただし、自分の姿を鏡に映すんじゃなくて、自分の心を他人に映すの。他人は、自分の心を映す鏡だから。他人という鏡を使って、自分の心を眺めるのが、とてもお好きなかた。
 平石さんは鏡に使われてるから、片腕を乗っ取られたみたいに感じるんでしょうね」
 「設楽さんはどうなんですか?」
 「私は――乗っ取られるほうじゃなくて、乗っ取るほうかな。
 自分が、陛下の身体の一部になってるような気がする。自分の背中から電線がのびてて、陛下につながってるんじゃないかって気がする」
 「わかりました」
 平石緋沙子は歩みを止めた。
 「設楽さんに嫉妬するのは、もうやめます。設楽さんは、陸子さまの一部だと思うことにします。
 だから私、設楽さんのことも好きです」
 陛下の一部――さっきまでなら、そのとおりだったかもしれない。けれど、今は。
 私はその躊躇を隠した。
 「ありがとう」
 「帰りましょう。陸子さまがお待ちだと思います」
 平石緋沙子はきびすを返すと、足早に歩きはじめた。
 私よりいくらか背の高い、平石緋沙子の後ろ姿。それを、かわいい、と思った。
 姿が美しいことは、一目見たときから知っている。笑顔の鮮やかさも、心の素直さも知っている。けれど、このかわいさは、それとは質が違う。
 『かわいい』。それは、そう言われた人よりも、言った人のことを表現する言葉かもしれない。私は、平石緋沙子のことをかわいいと思う、そんな人間だということだ。
 「……そうだ。平石さんにもうひとつ、嫉妬。
 今晩、陛下のお側で過ごせるなんて、うらやましい」
 「毎日ずっと陸子さまとご一緒のほうがうらやましいです」
 私は小さく笑って、
 「嫉妬するのはやめるんじゃなかったの?」
 「――やっぱり嫉妬します。私があさはかでした」
 
 「今日もありがとうね、明日もよろしくね。おやすみなさい、ひかるちゃん」
 「おやすみなさいませ」
 平石緋沙子と一緒に陛下のお部屋に戻り、お暇を乞うと、陛下はあっさりと私を送り出してくださった。
 お部屋には遠野さんはいなかった。もう自分の部屋に下がっているのだろう。陛下と平石緋沙子は、どんな夜を過ごされるのか。
 ドアが閉まったあとも、立ち去りがたくて、何秒かその場を動けずにいた。もし警護部が監視しているのでなければ、もうしばらくそのままでいたかもしれない。
 振り向いて、ドアを開けて、夜伽の役を私にくださるよう陛下にお願い申し上げる――そんな空想を振り切って、私はホテルの廊下を歩いていった。
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Posted by hajime at 2005年12月07日 19:00
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