H. G. ウェルズは偉大な作家だった。SFはいまもウェルズに大きく影響されている。
現在のSF作品がウェルズに似ている、という意味ではない。問題は、SFと縁遠い人々の頭のなかにある「SF」のイメージだ。それは現在でも圧倒的に、ウェルズだ。
ファンタジーに比べて、SFは売れないという。この現象の原因については、いろいろな説が唱えられているが、要するに、はっきりしない。この機に乗じて、私も新説を唱えたい。「人生の壮士的な面をウェルズが憎んだから」、という説を。
若き日の吉屋信子にも、ウェルズと同じ傾向がうかがえる。人生の壮士的な面への憎しみ。そして、敗北によって逆説的に自己を正当化する敗北主義。
戦前少女小説の百合で、こうした傾向を示す作品は、あまり見つからない。むしろ、吉屋に抗議するかのように、むやみなほど肯定的な作品が目立つ。だが、百合のイメージを変えるうえでは、無力だった。
*
私はくつろいでいた。
最初はなにかと言葉をかけていた美園も、次第に黙りがちになり、今ではただ私の身体や頭を撫でるだけになっている。
ときどき、その表情を盗み見る。穏やかで優しい。それを見て、考えさせられる。私にこんな格好をさせているから、こういう顔になっているのだろうか。拘束具を使うことには、前から興味があったと言っていた。ほかのことでは、こういう穏やかな顔にはなれないのだろうか。もしそうなら、美園のしたことには、同情の余地があるかもしれない。
同情の余地を探すまでもなく、私はもう半分くらい、美園を赦していた。約束はすべて守ってくれた。私が苦しくないよう、細やかに気を使ってくれた。
とはいえ、どんなに赦しても、もう二度と美園を家にあげたりしないだろう。
ぽつりと美園が言った。
「平石さんが公邸に入ったときに、保安部から説明を受けました。平石さんと陸子さまの関係について。
平石さんは、陸子さまの文通相手でございました」
文通と並行して、電子メールをやりとりするようになったこと。陛下がご両親のつてをたどって、協力してくれるイギリス人を見つけたこと。他人名義のパスポートの件は、緋沙子がひとりでやりとげたこと。私がすでに知っていることに混じって、初耳のことも聞こえてくる。
「陸子さまが平石さんのことを、どう思っておられるか――私は陸子さまではございませんので、私なりに推し量ったことを申し上げます。
ひかるさまは、陸子さまにとっては、いうなれば母親のようなかたでございます。ところが、平石さんが相手では、なかなかそういうわけにはまいりません。この違いを、どうかお忘れなく。陸子さまが、ひかるさまを愛するように平石さんを愛しておられるとは、お考えになりませんよう」
美園はそこで黙った。考えをまとめているらしかった。
「平石さんの育ちには、陸子さまのお育ちと似通ったところがございます。そのためでしょうか、陸子さまは、平石さんにご自分を重ねていらっしゃいます。それで平石さんを愛しておられるのですが――同じくらい、憎んでおられるのだと思います。
憎む、というと、おだやかならぬことのように聞こえますけれど――可愛さあまって憎さ百倍、とでも申せましょうか。
陸子さまは感情表現の素直なかたです。ご自分の感情がどんなものかをよくご存じで、扱い方を心得ていらっしゃるのでしょう。けれど、こと愛情に限っては、どうも苦手になさっているようです。
……ひかるさまを相手になさるときだけは、素晴らしくお上手ですが――だから私は、ひかるさまは陸子さまと歩まれるべきだと申し上げたのです。ひかるさまはご存じないでしょうが、陸子さまは、誰にでもああではございません。ことに、平石さんがお相手のときは」
その説明は、私が見てきたことに、よくあてはまった。緋沙子のことを話すときの冷酷な態度は、緋沙子への愛憎が不器用に表れたものだ。
美園はしばらく、先を続けずに、私の頭を撫でていた。
「――ですから、陸子さまは平石さんの前で、いつも苦しんでおられます。
ひかるさまは、そうした苦しみを、まるでご存じありません。
好きだから、大切にする、慈しむ――ひかるさまの世界は、それで済んでしまいます。陸子さまは、そうではございません。
陸子さまの苦しみをご存じないままで、陸子さまと平石さんの関係をご覧になれば――平石さんをかばって、陸子さまを責める、という次第になりましょう」
私は反論したかった。陛下が苦しんでおられるのは事実としても、だからといって、緋沙子をもてあそんでいいということにはならない。たとえ陛下に罪がなくても、緋沙子をかばう以外のことはできない。
「陸子さまと平石さんの関係が深ければ深いほど、陸子さまが悪者に見えてしまいます。ですので、関係の深さを思わせるような事実は、みな伏せてきました。ひかるさまには陸子さまと結ばれてほしいと、願っておりましたので。
……それももう、過ぎたことでございますが」
もし口枷がなければ、訊ねたかった。
緋沙子のことを、どう思っているのか。幼く、よるべのない身の上で、暮らしのすべてを陛下に頼っている。助けてあげたいという気持ちはないのか。
そんな私の思いを知らない美園は、私の両手を握った。
しばらく、指先や手のひらを撫でていた。やがて、身体をかがめて、唇を指先に近づける。約束違反だ。私は手をひっこめた。それだけで美園はすぐに気がつく。
「申し訳ございません。唇で触れないとの約束を、忘れておりました」
愛おしそうに、残念そうに、何度も指先を撫でさする。
ふとその手が止まった。
「――ひかるさまを、さらってゆくだの、……萌えるだのと、そんなことばかり申しておりましたけれど、……もっとふさわしい言葉で、私の気持ちを申し上げるべきかと存じます。
ひかるさま、私は――」
そこで言葉は止まり、かなり長い時間、そのままだった。
「……やはり、このままがよいでしょう。こんなときに人並みの口をきけば、言い訳がましく聞こえます。でも――」
また間を置く。
その優柔不断に、私はいらいらしてきた。ありきたりの愛の言葉をひとつやふたつ並べたところで、美園のしたことが覆い隠せるはずもない。
「ひかるさま――」
それでも、耳をそばだててしまう。
「……私は、陸子さまをお慕い申し上げております」
Continue