2006年09月24日

1492:68

 司法は個別の具体的な事件を解決するだけなので、憲法判断を直接裁判所に問うことはできない。裁判所は事件を解決するために必要があるかぎりでのみ憲法判断を行う。
 たとえ訴訟の本筋が憲法判断であっても、その本筋から外れたところで原判決の全部を破棄すべき問題点があれば、破棄差戻し判決の際には本筋の憲法判断を示すことはできない。
 今回のケースでは、合憲・事情判決と請求認容の分け方が問題で、一部破棄差戻ししようにも主文の書きようがない、とでもお考えいただきたい――と読者に設定を任せてみる。

 
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 護衛官訴訟の高裁判決が出た。
 憲法判断の部分は地裁判決と似たようなもので、そのため一般には地裁判決ほどは注目されなかった。けれど専門家の見方は違った。この高裁判決をそのまま確定させれば差障りがあり、しかも一部破棄差戻しではどうにもならず、全部を破棄して差戻すしかない、という意見が専門家の大勢を占めた。
 となると、もう一回は高裁と最高裁を通ることになり、かなり時間が稼げる。判決の確定はロシア大統領選挙の直前にずれこむだろう。なにかが起こるかもしれない。
 
 それを切り出したのは緋沙子だった。
 「護衛官訴訟の高裁判決、知ってる?」
 私も緋沙子も、護衛官訴訟のことをめったに話題にしなかった。緋沙子も、関心がないはずはないのに。
 オーストラリアからインドへ向かう飛行機の中だった。まわりは旧西側の白人ばかりで、日本語はわかりそうもない。
 「長引くみたいだってね」
 「早く終わってくれればいいのに」
 長いこと一緒にいるうちに、私は緋沙子のつく嘘がわかるようになった。さっきのはウソ泣きだった、と言い張ったときのような嘘。100パーセントの嘘ではないけれど、あえて口に出すことで、自分を支えようとする嘘。
 早く終わってほしいという気持ちもあるだろう。けれど、避けられない終末が先延ばしになったことを喜ぶ気持ちのほうが、ずっと強いだろう。
 千葉を去ってから初めて、私は訊ねた。
 「いまでも好き?」
 緋沙子は私の目を見た。あまり熱心ではなく、眠そうだった。なにをわかりきったことを、と言いたそうだった。
 「うん」
 『私も』――さりげなく言おうとして、言えなかった。
 けれど緋沙子は感じ取ったかもしれない。
 なにか言いたそうに目を細め、そのまま目をつぶった。それと同時に、毛布の下で手を伸ばし、私の腕をさぐった。私はその手を握って指をからめ、一緒に目をつぶった。
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Posted by hajime at 2006年09月24日 02:46
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