ナチス幹部アルトゥル・グライザーの愛人について、ユルゲン・シュトロープの証言が残っている。カジミェシュ・モチャルスキ『死刑執行人との対話』(恒文社)141ページから。
「(中略)彼女は乗馬には目がなく、騎兵隊や乗馬用の馬、厩舎のにおい、乗馬靴に関係があるものなら何にでも興奮したものだ」
「馬の汗と馬糞のにおいだけで性的に興奮するという好色な女のタイプがあることは事実です」とシールケが口をはさんだ(彼が長年風俗警察に勤めていたことは前に述べた)。
この風俗警察とやらの内部資料を読んでみたい。
*
「俺の葬式には来るんじゃねえぞ。お前は泣き虫だからいけねえ。めそめそした葬式なんざ、ガキの葬式だ」
それがアーサー・グラハムの別れの言葉だった。
私は何秒もかかって、コックニー訛りを英語に、英語を日本語に翻訳した。理解したときにはもう、アーサーの姿は、空港の雑踏にまぎれて見えなくなっていた。
緋沙子を見ると、何事もなかったかのように空港の地図を調べていた。
「……グラハムさん、どこかお体が悪いの?」
「知らない。そういうことは言わないし、訊いても答えない」
私はもう一度、雑踏のなかに、アーサーの姿を探した。見つからない。どうしようもなかった。
けれど、もし見つけても、どうしようもなかった。私にも緋沙子にも、病気を治すような奇跡の力はない。緋沙子が付き添うこともできない。なら、緋沙子の言ったとおり、アーサーは訊いても答えないだろう。ごく短い付き合いではあるけれど、アーサーがそういう人だということは、もう私にもわかっていた。
そして緋沙子も、アーサーと同じ、そういう人だ。
私は緋沙子のそばにいる。だから緋沙子は私にならきっと告げてくれる。
私は緋沙子のそばにいる。それは素晴らしいことだ。
ため息をひとつついてから私は、人目をはばからず、緋沙子を抱きしめた。
私の腕のなかで、緋沙子は言った。
「ひかるは、陸子さまのところに帰るんでしょう」
*
私は知っている――私はきっと陛下のお側に帰る。望んでいるのでもなく、信じているのでもなく、知っている。
自分の背中から電線がのびていて、陛下につながっているような気がする。
だから私はなにも言えず、まるで石になったように、ただそのままでいた。
緋沙子は私の腕のなかから抜け出して、自分のスーツケースをつかみ、
「チェックインカウンターはあっちだって」
と、すたすたと歩きだした。それでやっと私は石になるのをやめて、そのあとについてゆく。
「緋沙子――」
呼びかけると、緋沙子は足をとめて振り返り、感情のない声で、
「続きは家についてから。……ちょっと荷物みてて」
言い置いて、早足で売店にゆき、新聞を買ってきた。
「けさの新聞、読まなかった?」
英語の苦手な私が、新聞まで読むわけがない。
緋沙子は新聞をめくり、その記事を探し当てて、私に見せた。旧西側の新聞には珍しく、陛下と美園の写真が載っていた。
緋沙子が言った。
「護衛官訴訟の判決期日が決定。同時に、日本最高裁長官が異例の予告。訴訟の長期化を避けるため破棄自判するとのこと」
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