北極エスキモーが船や弓矢などの知識を失ったことについて考えている。事実かどうか疑わしいと私は考えているが、ここでは仮に事実だとする。
北極エスキモーが種として存続するうえで、船や弓矢の知識は必要なかった、つまり無駄だったのだろう(ちなみに北極エスキモーの生活圏には、弓矢があれば狩れる獲物がふんだんにあった)。西洋文明と接触する前のエスキモーには、姥捨ての習慣があったという。知識から個人に至るまで、ありとあらゆる無駄を排することが、種としてのエスキモーの存続に役立ったのだろう。現代文明から見ると、その厳格なストイックぶりには、ある種の威厳さえ漂う。
だが、北極エスキモーは船や弓矢の知識まで失った。これは「ストイック」なことだろうか。
「先のない老人を捨てるのとは違って、船や弓矢を捨てるのは近視眼的きわまりない」――そんな功利的な話だろうか。
姥捨てによって失われるのは、捨てられる個人の持つ能力だけではない。個人を仲間としてではなく能力として、道具としてみなす態度を助長し、共同体の求心力を弱め、ひいては共同体が危機を乗り越える能力を損なう。
たとえば近代的な軍隊は、孤立した部隊を救出する際、少なくとも表向きは、コストを度外視する。戦争という極限状態にありながら、姥捨てどころか姥拾いをやるわけだ。近代的な軍隊のような組織では、求心力にはそれほどの価値がある。だから船や弓矢を捨てるのと同様、姥捨ても近視眼的な選択といえる。
現代文明もエスキモーと同じく生存競争を生き抜いてきた生存適者であるからには、その価値観の適応ぶりはけっしてエスキモーに劣るものではない。
そしておそらくは現代文明も、北極エスキモーと同じく、船や弓矢の知識を捨てるような近視眼的な真似をしている。
行政や企業や親兄弟が、なにかを「無駄」として捨てようとした瞬間、あなたは決めなければならない。戦うべきか、戦わざるべきか。
ほとんどの瞬間には、戦わざるべきだ。ありとあらゆる瞬間に戦っていたら、ゴミ屋敷ができる。
しかし、ごく稀に、戦うべき瞬間がやってくる。
その戦いはしばしばゲリラ戦の様相を呈する。相手を打ち負かせる見通しはなく、ひたすら敗北から逃れつづけるだけの戦いになる。
ときとして犠牲は耐えがたいほど大きい。まるで近代的な軍隊が孤立した部隊を救出する際のように、コストを度外視するはめになる。
「これを無駄というのは近視眼的だ」と説得してみてもいいが、効果はあまり期待しないほうがいい。特に、口だけで戦おうとする場合には、まずもって効果はない。
こういう戦いだけが、その守るべきものが「無駄」ではないことを証明する。
無駄なものが無駄なのは、あなたがその「無駄」なもののために戦うかわりに、勝算を求め、コストとリターンを秤にかけるからだ。
損得勘定や議論に支えられて存在するものは、価値観ではない。価値観とは、ただ存在するものであり、ただ生き延びるものであり、文明そのものであり、人間の生そのものである。