2005年04月14日

ポルノ産業を本当に潰したければ

http://d.hatena.ne.jp/axgx/
 子供を差別することには、誰も疑問を持っていないらしい。この問題の関係者にとっては、子供は人間ではないのだろう。
 人はいま『18禁』とあまりにも軽く言うが、よく考えてみれば、それは18歳未満の人々をのけ者にする制度、すなわち、差別である。どうして誰も、この根本的な問題に目を向けないのか。
 「青少年を保護するために~」「住み分けすることでしか守れない表現が~」という理由づけは、なるほど合理的ではある。南アフリカ共和国のアパルトヘイトも合理的だった。南アフリカ共和国の経済や治安は、アパルトヘイトの廃止によって大幅に後退し、人々は不幸になった。ではアパルトヘイトを続けるべきだっただろうか。
 根本的な問題がお気に召さないという向きのために、別の方向からも『18禁』を攻撃しておこう。
 「青少年を保護するために~」と唱える人々の顔からは、子供に対する不信と依存が読み取れる。
 不信――子供は判断力に乏しいから、云々。仮に「判断力に乏しい」を事実と認めるとしても、「判断力に乏しいから」と「判断する機会を与えない」は必ずしもつながらない。「判断を見守らなければならない」「失敗があったときにサポートしなければならない」とつなげることもできるし、こちらのほうがより望ましい人間関係のように思われる。『18禁』は子供に「判断する機会を与えない」。
 (ソ連は宇宙ロケットの打ち上げを、打ち上げ前には秘密にしておき、成功後に初めて報道した。なぜか? フルシチョフが回想録で語ったところでは、「失敗を知らせても、国民をいたずらに不安に陥れるだけだから」という)
 「住み分けすることでしか守れない表現が~」と唱える人々の頭からは、「住み分けすることで作り出された表現」についての認識が抜け落ちている。
 表現の内容は、その形式と切り離せない。「住み分け」のやりかたによって、表現の内容は変化する。『18禁』『成年コミック』のように作品を隔離し読者を差別するやりかたと、ボーイズラブのように読者の判断に委ねるやりかたは、それぞれ異なる内容を作り出す。
 比較すべきは、
・『18禁』作品のある世界 vs. ない世界
 ではない。
・『18禁』という隔離・差別によって形作られた世界 vs. 読者の判断に委ねることで形作られた世界
 である。
 公益上の観点からいって、『18禁』という隔離・差別によって形作られた世界を選ぶべき理由があるとは信じられない。市場経済のメカニズムは、「18歳」などという乱暴な線引きよりも、はるかに巧みに読者をより分けることができる。お題目への対策はすでに述べた。そしてなにより、世界は分断されると貧しくなる。
 『18禁』という制度を擁護すべき理由は、ポルノ産業のなかにしかない。
 世界は分断されると貧しくなる――しかし、すべての人々が貧しくなるわけではない。分断されることによって富む人々がいる。これは経済学では、保護と規制、すなわち利権の問題としてよく知られている。
 ポルノ産業にとって、隔離・差別は利権である。市場の中に「性表現」という縄張りを設けて参入障壁を築き上げ、「ソフト」「ハードコア(過激)」という序列を立てている。
 たとえば、「殺人表現」という縄張りのある世界を想像してみてほしい。高所から突き落としたり毒殺したりが「ソフト」、ナイフでめった刺しや機関銃で吹き飛ばしたりが「ハードコア」という世界だ。このような世界では、いまある表現のどれほどが存在できないか。利権を握っている人々が、どれほど低レベルで歪んだ表現を安穏と垂れ流すか。
 反ポルノ運動家やポルノ規制推進派はみな、ポルノ産業と結託しているか、あるいは踊らされている。自由を尊ぶ人々を、反ポルノ運動によって脅しつけ、ポルノ規制によって宥める――そして世界はより深く分断され、ポルノ産業を富ませ、人々は貧しくなる。
 ポルノ産業を本当に潰したければ、方法はひとつしかない。『18禁』『成年コミック』のような隔離・差別を、一切禁止することだ。
 これ以外の政策を唱える反ポルノ運動家を、私は哀れむ。彼はあまりにも知能が低いからだ。
 「住み分け」を唱える規制推進派を、私は憎む。彼は盗みを働こうとしているからだ。それも、私のもっとも愛するもの――表現の豊かさを盗もうとしているからだ。

Posted by hajime at 18:31 | Comments (7)

2005年04月03日

埋め草

 美術館は『モナリザ』だけでは成り立たないし、ゲーム産業はFFとDQだけでは成り立たない。
 かといって、『モナリザ』以外のスペースをアウトサイダー・アートで埋めたり、FFとDQ以外の棚を『デス・クリムゾン』で埋めたりするわけにはいかない。こういうスペースや棚を埋めるために、適度にどうでもいい作品、というものが必要になる。いわゆる埋め草だ。
 個人的で真剣な魂の叫びがこもった作品や、存在すること自体がドラマであるような作品は、埋め草にはなれない。社会性のある、中庸で、条理にかなった作品が、埋め草になれる。
 『げんしけん』という作品は、まさに「埋め草」そのものだ。
 私は社会性のまるでない人間なので、『げんしけん』の社会性については語れない。中庸から程遠い人間なので、『げんしけん』の中庸については語れない。条理の枠を変えたいと願う人間なので、『げんしけん』がいかに条理にかなっているかについては語れない。
 というわけで、『げんしけん』を褒めるのは非常に難しい。質の高い埋め草であることは確かなのだが。

Posted by hajime at 09:09 | Comments (0)