ソフトウェアには2種類ある。それを作ったプログラマ本人が使うものと、そうでないものと。
前者は金にならない。それはプログラマの周囲に自然発生する。この種のソフトウェアのうち、もっとも有名なのはLinuxカーネルであり、もっとも影響力があるのはGCCである。
プログラマを養うのは後者だ。マルクスが目からビームを出しながら解説してくれそうなシチュエーションだが、やめておこう。
もっとも美しいソフトウェアは、常に前者である。
何年か前のことだ。私は、17世紀ヨーロッパのくだらない商業絵画を集めた企画展を見に行く羽目になった。どう贔屓目に見ても、絵の具以下の価値しかないような絵ばかりだった(絵の具は実に美しい。もし機会があったら、よく見てほしい)。「見るに耐えない」とはああいう絵をいうのだろう。しかし、その中にたった一点、見るに値する作品があった。ほほう、と思って釣り書きをみると――それは、商業画家の組合の事務所に飾るために描かれた絵だった。
華々しい成功を収めたオープンソースソフトウェアを、思いつくだけ挙げてみてほしい。Linux、JBoss、MySQL、Eclipse、Mozilla。分野はさまざまだが、これらはみな、プログラマが使うソフトウェアだ。
OpenOffice.orgを日常的に使うプログラマというものを、私はうまくイメージできない。労力を最小化しようとしたとき、OpenOffice.orgという選択肢が合理的になるためには、いったいどれだけの不自然な前提条件が必要になることか。そして、そういう不自然な前提条件に耐えられるプログラマは、まず間違いなく、よいプログラマではない。
(MSを宗教的に嫌悪しているプログラマは、ほぼ例外なく、よいプログラマではない。反MS教の信者として生きることは、人生を困難にする。よいプログラマは、楽をするためなら、自分の宗教をいとも簡単に捨てる)
OpenOffice.orgは、異端児なのだ。有名なオープンソースソフトウェアのなかで、ただひとつ、よいプログラマに愛される見込みがない、という意味で。
もちろん、時代は変わりつつある。
委員会が設計したプログラミング言語は常に呪われた運命をたどってきたが、もしかするとJavaは、初めての勝利を得るかもしれない(ただし、ここでいうJavaとは、AspectJを含む。Inter-type declarationなしのJavaは、手の込んだ冗談か、あるいは狂気の兆候だ)。OpenOffice.orgが、Javaと同様に、ルールブレイカーにならないという保証はない。
だが、分は悪い。お勧めできる銘柄では到底ない。
Mac mini 1.25GHzを手に入れた。
MacOS Xは無視してPPC Linux(Debian Sarge)を入れ、IBMのJava SDK 1.4.2を入れた。SciMark 2.0aでベンチマークを取ったので、ここに載せておく。なお、このマシンはメモリを1GBに増設してある。
SciMark 2.0a
Composite Score: 172.6253207144057
FFT (1024): 137.341784739832
SOR (100x100): 206.31209598707412
Monte Carlo : 30.393508007771494
Sparse matmult (N=1000, nz=5000): 152.1262735962719
LU (100x100): 336.9529412410789java.vendor: IBM Corporation
java.version: 1.4.2
os.arch: ppc
os.name: Linux
os.version: 2.6.8-powerpc
Mac mini 1.25GHz + MacOS 10.4 + Apple Java 5.0のスコアが見つからないが、私の予感では、おそらくIBMのVMの圧勝である。
エレーナ・ボンネル『サハロフ博士と共に』を読んだ。
もう20年も昔のことを、誰が覚えているだろう。ソ連の水爆研究を指導した物理学者アンドレイ・サハロフは、水爆実験の成功から約10年後、核軍拡に反対して平和活動に乗り出した。さらには「民主化」というあの永遠のテーマに触れ、党の敵対者となった。
高度な機密情報と高い地位を併せ持つサハロフを、あっさり殺そうとしなかったのは、ソ連が飛躍的に進歩したことの証明だった。ソ連は、民主的な政府を持つところまではたどり着けなかったが、殺人をためらうところまでは行けたのだ。
殺人をためらうことはあっても、人権侵害にはなんの躊躇もない。サハロフは、24時間年中無休でKGBに干渉(「監視」というのはあまりに穏やかな表現だ)されて過ごすことになった。サハロフの妻エレーナ・ボンネルも、サハロフと運命を共にした。干渉下に置かれただけでなく、サハロフ・バッシングのための道具としても使われた。
本書は1986年、サハロフが干渉から解放される直前、ボンネルが心臓等の手術のため西側に出国した際に書かれた。滞在期間のわりに厚い本で、構想ゼロでとにかく書いたという様子が、文章からもありありと窺える。
しかし本書の最大の見所は、KGBでもなく民主化闘争でもない。168ページから引用する。長くなるが、どうか目を通していただきたい。
こうしたアメリカ人の多くは、軍縮や戦争と平和などの問題について率直に意見を言う。核の冬、スターウォーズ、公害について話す。人類を待ち受けるあらゆる恐怖について。みな、それぞれの分野で有能だ。あるいは、自分が無能だと感じる私たちなどから見ると、有能に見える。けれども実際、会ってみると分かるが、彼らの本当の関心は生活にある。もちろん、その他の問題にも関心をひかれている。彼らは未来について――それが自分個人のであろうと、人類全体のであろうと――何の恐れも抱いていない。こうした人々は、核戦争に異議を唱える医師でもなく。軍縮について非政府レベルでの話し合いを続ける科学者でもなく、大勢いる専門家でもなんでもないのだ。彼らはこうした恐怖についてひっきりなしにしゃべり、書く。ほとんどプロといってもいいようなやり方で、ときには、本来の仕事を忘れてまで。だが日常生活においては、自分たちの話すことにちっとも頭を悩ませたりはしていない。きちんと仕事を持ち、ずっと先の休暇プランを立てている。家の購入や改装、税金が控除になるような新しい保険といったこと。家での朝食、ビジネスランチ、奥さんや友人との夕食。彼らの生き方が私は好きだ。
それに彼らは、ぐっすりとよく眠る。自分たちが何百万人という他人の眠りを妨げ、破壊していることに気づいていない。その意味では医師は特に興味深い存在だ。彼ら自身が何と言っているかは知らないが、世の中には不眠症や神経症、そうした病気すれすれの症状が蔓延している。医師たちは、そういった症状を作り出したとはいわないまでも、その活動は確かにそういう状況を支えている。ゴーリキーで、郵便局で働くある女性が私に言ったことがある(まだ私たちが人々に話しかけることを許されていた時代だ)。彼女は自分のワンルームのアパートを改装し、新しいじゅうたんを買おうと思っていると。だがしばらくして彼女は、「でもそうする甲斐があるかどうか分からない、もうすぐ戦争が起きるというから……」。
もしかしたら、ここアメリカでは、いわゆる単純な人々は(彼らのどこが単純なのだろうか、と私は不思議に思うが)、あの女性と同じように、じゅうたんを買っても意味がないと思うかもしれないが、インテリはそうは考えないことは確かだ。面白い現象だが、これを理解しようとするのは私の仕事ではない。
確かにそれは、エレーナ・ボンネルの仕事ではない。私の仕事だ。
「じゅうたんを買っても意味がない」という思い。そのような思いがあったという歴史的事実は、もうなかば忘れられている。もう誰も、そんな思いをかきたてようとはしないからだ。冷戦を知らない子供たちには、この思いを真剣なものとして捉えることは絶対にできない。おそらく今から100年も過ぎれば、カルトが使うあのおなじみのパターン、「世界は滅亡するが義人(=私たち)だけは救われる」パターンと混同されてしまい、「じゅうたんを買っても意味がない」という思いの内実は永久に失われてしまうだろう。
私は、命あるかぎり、「じゅうたんを買っても意味がない」という思いの側に立つ。私は冷戦の最後の生き残りだ。
はんつはいてないで有名な『蒼い海のトリスティア』だが、「トリスティア」の語源はなんなのか。
作中の名前のかなりの部分がロシア・ソ連から取られていることからいって、ロシアの詩人オシップ・マンデリシュタームの詩「トリスチア」が直接の語源だと思われる。
さらにこの「トリスチア」は、ローマの詩人オウィディウスの作品からとられている。