大島一洋『芸術とスキャンダルの間』(講談社)を読んだ。
吉薗佐伯の件が気になり調べたところ、「吉薗資料」なるものがすさまじい。東日流外三郡誌は田舎のイカサマ師の笑える仕事だったが、これは笑えない。「人間の根源的な不愉快さ、有害さ、いたたまれなさ、不気味さ、場違い・見当違い・お門違い」とはこのことだ。
吉薗佐伯について少し説明を。1994年、吉薗明子という人物が、「父の遺産」と称して、多数の未発表の佐伯祐三作品(自称)を売ろうとした。河北倫明という美術界の大物がこれを真作と主張したことから騒ぎが大きくなり、さらに「吉薗資料」がそこに絡んで、現在も陰謀論者が好んで食いつくネタとなっている。この、吉薗氏が所蔵していた自称佐伯祐三作品が「吉薗佐伯」である。吉薗資料は、作品の出どころを説明するために吉薗氏が持ち出してきた書簡である。佐伯祐三やその妻からのものをはじめ、多数の関係者からの書簡(名宛人は吉薗氏の父)があるということになっている。
現在ネット上で見られる吉薗佐伯は、贋作というにはあまりにも似ていない、大胆不敵なまでにヘタクソな絵だ。あまりにも大胆なので、「もしかして真作では」と思う人もいるだろうと理解できる。小さい嘘は普通に嘘くさいが、大きすぎる嘘は嘘くささとは違う臭いがする。
吉薗佐伯だけならケチな贋作事件だが、吉薗資料はすさまじい。
・「どうやって吉薗氏の父が、未発表の佐伯作品を多数手に入れたのか?」
→「吉薗氏の父は佐伯のパトロンだった」
・「佐伯祐三の暮らしや人間関係はかなりよくわかっているが、そこに吉薗氏の父は出てこない。それに吉薗氏の父にはそれほどの資力はなかった」
→「吉薗氏の父は陸軍のスパイだったんだよ! スパイだから他人の目にとまらないように佐伯祐三に接近できたし、スパイだから裏金がたくさんあったんだよ!」
・「『少年倶楽部』の小説みたいな話ですな。吉薗氏の父のスパイ活動を裏付ける、吉薗資料以外の資料は?」
→「ありません」
あらすじだけ見ると、ハハハご冗談を、としか言いようがない。だが吉薗資料の作者は、この乱暴なあらすじを、目もくらむような戦線拡大――嘘につぐ嘘――によって押し通そうとする。陰謀論者の思考パターンそのままだ。
東日流外三郡誌は、原本全文が長らく発表されなかった。作者(和田氏)はちゃんと制作していたのだが、さすがに筆跡で一目瞭然と思ったのか、生前には外に出さなかった。作者は、原本全文を制作する几帳面さ(=過剰な情熱)を発揮する一方で、目的(=信者からずるずると小銭を巻き上げる)を忘れなかったのだ。こういうセコさが、東日流外三郡誌を芸術ではなく、ただのつまらない偽物にしている。
だが吉薗資料には、芸術の可能性を感じる。少し調べただけでも、「吉薗佐伯を売る」という目的をはるかに越えた、偽史への過剰な情熱が伝わってくる。そこには、人間の根源的な不愉快さ、有害さ、いたたまれなさ、不気味さ、場違い・見当違い・お門違いが炸裂しているのではないか。そのありさまは「芸術は爆発だ」という言葉そのものなのではないか。
落合莞爾という作家は、吉薗資料に親しく接しているらしい。落合氏は、吉薗資料の全文を、写真版で公開すべきだ。それは絶対に「巨大スーパー・マーケット」に文化商品として陳列されることはないだろうが、まぎれもない芸術であり、覗き込む者を震え上がらせるにちがいない。
「美学」の喪失−−<芸術>の死後どこに行くのか?
美学の本を何冊読んでも意味がわからなかったが、これでようやくわかった。
私は永遠の反文化をひとつ知っている。それも、一発ギャグのような代物ではなく、作品といえる形式と技術と社会性を備えた手仕事だ。その不気味さ、醜さ、強さは、一流の芸術作品と呼ぶに値する。が、その作品をここで紹介して知名度を向上させても、メリットがあるのは作家本人ただひとりで、残りの全人類にとっては不愉快かつ有害なだけなので、紹介しない。
もし読者諸氏がその作品を求めるなら、この文章の読者としてではなく個人として、思わぬところで偶然に出くわさなければならない。私の知っている作品以外にも、そういう作品はきっとあるだろう。
人間の根源的な不愉快さ、有害さ、いたたまれなさ、不気味さ、場違い・見当違い・お門違い――そうしたもののなかには、永遠に「存在しない」ことにされつづけるしかないものがある。もしそれに出くわしてしまったら、その真実には深く打たれながらも、「これはなかったことに」と言うしかない、そういう作品がこの世には存在する。
そういう作品を、なんだかんだと理屈をつけて「巨大スーパー・マーケット」の商品にしようとする連中がときどき現れる。こういう連中が出てこられなくなるような「美学」を私は希望する。