中里一日記: 2011年09月 Archives

2011年09月29日

Mobile SafariのJavascriptで約物のアキ調整

 商業出版物でも組版ルールがデタラメな末法の世の今日このごろ、組版ハッカーの皆様はいかがお過ごしですか。私は某文庫が縦組みなのに句読点をぶら下げないことに憤っています。おそらくInDesignのデフォルトが縦組みでもJIS X 4051なのが悪い。
 今回のお題は、Mobile SafariのJavascriptで約物のアキ調整。受けのカッコに句読点が続くときにはベタ組、起こしのカッコが続くときには二分アキ、どちらも約物なのにこれはいかに、という問題を解く。
 あらゆる文化と同じく、アキ調整のルールも多分にアドホックなものだが、アドホックなものをすべてカバーしようとすると面倒なので、ほとんどのケースをカバーする簡単なルールを作れないものかと考えた。

 いきなりだが結論。
 
1. 約物のグリフは全角とする
2. 文字にはデフォルトのアキが前後に設定されている、と考える
 受けのカッコなら後ろに二分アキ、中黒なら前後にそれぞれ四分アキがデフォルトで設定されている、と考える。漢字ひらがなカタカナでは、前後ともデフォルトのアキ量はゼロだと考える。
 
3. 文字には「吸着性」のものとそうでないものの2種類がある、と考える
 約物はたいてい吸着性であり、漢字ひらがなカタカナはすべて吸着性ではない。
 吸着性ではあるが約物かどうか定かでない文字として、全角空白がある。約物ではあるが吸着性でない文字として、繰返し記号がある。
 吸着性でない文字はすべて前後ともデフォルトのアキ量がゼロである。逆は真ではなく、前後ともデフォルトのアキ量がゼロだが吸着性の文字として、全角ダッシュがある。
 
4. 前後の文字が両方とも吸着性であれば、その文字間のアキは、前後の文字のデフォルトのアキ量のうち小さいほうだけを残し、大きいほうは捨てる
 受けのカッコに句読点が続くときを考えよう。受けのカッコはデフォルトでは後ろに二分アキで、句読点の前にはデフォルトのアキはない。0.5と0で、小さい方は0、つまり受けのカッコに句読点が続くときはベタ組となる。
 受けのカッコに起こしのカッコが続くときはどうか。起こしのカッコは前に二分アキだから、0.5と0.5で、今度は二分アキとなる。
 
5. 行頭・行末にアキがきたときには、そのアキは捨てる
 つまり行頭は常にベタ組する。
 
 以上。
 キーになるのは文字の「吸着性」という概念である。この概念を導入することで、ほとんどの場合を十分美しくカバーできる。
 
 実装はどうなるのか。
 グリフからデフォルトのアキを削るのは簡単で、span要素でCSSのmarginをつければいい。
 行頭のアキを捨てるため、半角空白をアキに使う。アキ量の調整としてspan要素でCSSのletter-spacingをつける。
 ただし、常にアキを半角空白にしていると、行頭・行末の禁則が崩れるので、禁則が絡む場合は文字のmarginだけで調整する。
 行末が揃わないのはWebkitなのでどうしようもない。CSS3のtext-justifyの実装待ち。
 あと、画面が小さいので節約のため句読点をぶら下げにした。
 ほぼiPhoneとAndroid専用

Posted by hajime at 15:21

2011年09月08日

杉田かおる『杉田』(小学館)

 「信頼できない語り手」というが、そもそも信頼できる語り手がフィクション以外にいるとしたら、その人はアカシックレコードかなにかを見ているにちがいない。また、そんな話が対機説法より楽しいとも思えない。
 とはいえやはり信頼度の高低はあるわけで、杉田かおる『杉田』(小学館)の信頼度の低さには驚愕した。
 たとえ言っていることが1行ごとに矛盾していても、その矛盾する姿そのものが真実、という自伝もありうる。お役所の報告書のように理路整然とした自伝は、「そんなに筋の通った人間がいるものか」という疑いを免れないだろうが、反証しやすいぶん信頼度は高い(反証されるまでは)。ほとんどの自伝はどちらの極端でもなく、流行りの物語に実名を入れただけのドリーム小説もどきのパッチワークで大部分が埋まっており、埋めきれない隙間にときどき真実が顔をのぞかせる。
 さて本書のどこがどう驚愕なのか。7ページ:

 生涯の伴侶となった彼との出会いは、本書にも登場する二十四時間マラソンでトレーナーを務めてくださった方の、結婚披露パーティーだった。その席上、彼とたまたま隣り合い、話す機会を得て、話が弾んだ。それが二〇〇四年十月三十一日のことで、純粋な感性、つきない話題、奥深い人間性、確固たる個性、スマートな話し方を強く印象づけられて、忘れられない人となった。

 仮にも自分の夫(結婚から7か月後、本書の出版から5か月後に離婚)を表現するにあたって、まるで結婚披露宴の司会のような社交用の紋切型を並べるとは、いったいどういうことか。また「生涯の伴侶となった」もおかしい。本書を書いた(ゴーストライターを介してではあるが)ときすでに離婚を決めていてこう書いたのだろうか。どちらも高度なギャグだと思いたかったが、本書を読み進めるうちに、著者は本当にこういう言葉で語り考える人間だと認めないのは難しくなった。
 8~9ページ:

 彼もわたしも、ともに「ひらめき」の結婚だった。お互いの生きてきた人生、そして、今を理解するのに長い時間はまったく必要がなかった。たったの二か月でしかない短い時間の中でも、わたしたちは十分に理解しあい、お互いを思いやることができ、愛を育むことができた。
 そのなかで、いちばん大切なものは心なのだということも、あらためて確認した。感動する心、他者を思いやる心、優しさを分かち合う心、よりそう心、受容する広い心、その心を共有できたからこそ、わたしは彼のプロポーズを即座に素直に受け入れた。

 著者は「心ぉ? なにそれAV女優の名前?」というニヒリストで、このくだりを爆笑しながら書いている、と想像したかった(せめてゴーストライターはそうであってほしい)。しかし、幼少からの日蓮正宗の信者で、破門前の創価学会で広告塔として献身的に活動し、さらに破門後は学会とのしがらみを断ち切って日蓮正宗についたほどの篤信の人と知ると、そんなニヒリストとは考えづらくなった。
 著者は父のことを「詐欺師」「しかも、悪いことに、本人には詐欺をしているつもりがないらしい。本人の意思で詐欺をしているわけではなく、口が勝手に動き、人を騙しているらしいのだ。つまり天才的な詐欺師なのだった」(17ページ)と書く。著者自身も26歳のときにひどく泣かされ、たまりかねて著者の母(著者の幼いときに離婚)に、「あのお父さんは、本当にわたしのお父さんなの?」と尋ねると、「あのお父さんは、本当のお父さんじゃないのよ。血のつながりなんか全然ないのよ。安心しなさい」(37ページ)と言われる。
 著者の母なりの思いやりかもしれない、と疑うところだ。著者の母にしてみれば、夫とは離婚して久しく、娘はもう26歳であり、今さら血縁関係ごときで嘘をついても大した罪ではない、と考えてもおかしくない。が、本書の書きぶりは、こんな疑いの念を毛ほどもうかがわせない。疑いの念を隠しているのか、あるいは本当に疑いが浮かばなかったのか、いずれにしろ語り手の信頼度は底抜けに低い。
 自分の夫と「生涯の伴侶となった」と称する神経と、「血のつながりなんか全然ないのよ」を疑わない感覚は、見事に通底しており、抗いがたい説得力をもって一個の世界観を描き出している。もしこれが一から十までゴーストライターの創作であり著者とは無関係だとしたら、圧倒的な筆力とはこのことだ。ぜひ創作であってほしいと強く願うが、しかし著者の実生活を見ると、本書の描き出す世界観とあまりにも一致しているように見える。
 著者が恋人に振るう暴力の話も、やはり通底している。131ページ:

 いずれにしても、相手の優しさがほんものなのか、それを確かめようとして究極の暴力になるのだった。これでも、わたしのことを嫌わないで、優しくしてくれるの? とそんな気持ちを暴力としてぶつけてしまうのだった。(中略)
 優しい彼であればあるほど、殴ったり、蹴ったり、言葉の暴力を浴びせたり、無理難題を押しつけたりした。相手の貯金が底をつくほど、金を使わせたこともある。

 著者の書きぶりには、自分のしていることが父にそっくりだと気づいているような気配はない。
 こういう具合に本書は、驚異的なまでの一貫性をもって、語り手の世界観――せめてカリカチュアであってほしいが――を打ち出している。その結果、語り手の世界観以外の一切、つまり語られている内容が、まるで信頼できない。
 嘘をついていたり矛盾したりしている、というのではない。語り手が嘘をつき矛盾する瞬間は、語り手の物語が事実と衝突し摩擦を生じている瞬間である。語り手の物語とはほとんどの場合、流行りの物語に実名を入れただけのドリーム小説であり、事実と衝突して摩擦を生じる瞬間がなければ、元のドリーム小説と選ぶところがない。語り手はいったいどんな顔で、事実との摩擦をやりすごすのか――ほとんどの自伝とドリーム小説のあいだの決定的な違いはここにある。
 しかし著者は事実との摩擦をやりすごすことはない。著者の世界観には、事実との衝突が存在しない。「生涯の伴侶となった」と語るとき、「離婚することもありうる」という考えが浮かばないか無視する。『血のつながりなんか全然ないのよ』と言われたことを語るとき、「嘘かもしれない」という考えが浮かばないか無視する。こういう語り手にとって、いったい事実なるものは存在するのだろうか。事実を世界観に容れないのだから、語り手の信頼度は限りなくゼロに近い。
 著者にとって風景に類することは、事実をそれなりに反映しているかもしれない。潮出版社や聖教新聞社の広告には毎月のように、池田大作が名誉博士号をもらったという見出しが載る。あれはいったいどういうつもりなのかと常々首をかしげていた私だが、本書の106~108ページで語られる池田の人物像を見ると、もしかしたら池田は本気で名誉博士号のコレクションを自慢しているのかもしれない、と思える。とはいえ、こういうことはジャーナリズムの役割であり、自伝としての価値はそこにはない。
 
 本書に『杉田』というタイトルをつけた人は慧眼だ。本書には著者の世界観だけがあり、その外がない。

Posted by hajime at 00:15 | Comments (2)

2011年09月02日

革命後の世界を求めて

 赤松啓介『非常民の民俗境界』(明石書店)を読んだ。
 分類としては一応、民俗学の研究書になるかもしれない。祭祀・差別・性・階級などさまざまなテーマを扱っている。しかし結論や概要のある論文ではなく、本書自体が民俗のありようを証言する一次史料となっている。
 著者は、戦前の加古川流域(兵庫県)で行商・共産系の社会運動・民俗学の調査の3つを同時に行ってしていたという人物で、社会生活のドブの底に浸かって活動した過去にふさわしく、いかがわしく迫力のある読み物になっている。本書の記述がどこまで事実を反映しているかというと疑問符がつくが、いかがわしさを含めつつ書き記す著者の態度には、見るべき真実がある。
 本書を読んで、私はぐったりと疲れた。本書の調査対象となった農村の内輪ぶりに打ちのめされた。

 
 「内輪」とは、たとえば本書247~248ページ:

 そこでよくいわれるのは、若衆仲間の目的・役割・昨日というものだ。甚だしい例は香川県小豆島四海村小江の若者組で、正月二日の若者入りから同十五日までの間にイイキカセという十五章の口頭伝承を暗誦できるようにしなければならなかったという。四百字詰原稿用紙にして八十五枚になる、厖大なものだが、先輩の口授でおぼえたらしい。
 その内容は「分団へ来る身まわり、頭に帽子、鉢巻、頬かむり、腰に手拭い、煙草入れはせられず、足に下駄、せきざ、表つきの下駄なおもってはけず」と禁止条項、「けいざい」は「小若衆はマッチは月に小箱五箱、炭は年に一俵」と制限(中略)微にいり細にわたっている。
 こうした若衆仲間の条目というものを、私は一部の研究者のように信用しない。おそらく明治維新後の新作だろうし、記憶してみても役に立つわけでなく、要するに新参者を苦しめるのが目的である。こうしたものには必ずウラがあって、なんとか抜け道があり、それが半公然と認められていただろう。余所者にはそれがわからないだけで、こんなものをマトモに記憶したり、暗誦させられていたと思うのはバカだ。

 裏表を使い分ける不透明性、くだらないことを指図する権威主義、「新参者を苦しめる」という行動パターン、しかも強制参加。こういう若衆仲間が実力組織としてのさばり夜這いを仕切っているムラが、「性的におおらか」だったり「開放的」だったりするわけがない。ムラの裏表に通じ、権威を振りかざし、劣位の者をいじめ抜いて楽しむ有力者だけが「おおらか」で「開放的」な性を思うままに堪能し、他の者は有力者のおこぼれにあずかり情けにすがる惨めな思いを強いられたであろうことは火を見るよりも明らかだ。
 著者は階級的には行商という低い地位にあったが、ムラの裏表に通じるなどの面では有力者だったはずで(でなければ戦前の農村で共産系の社会運動などできない)、そのため間抜けなお人よしの視点を欠くように見える。女性の視点を欠くのは言わずもがなだ。人は地べたを這いずる者の視点を嫌い、有力者の高みから気持ちよく物事を眺めるのを好むものだから、著者の視点を批判することなく著者の本を読んで、「戦前の農村は性的におおらかだった」などと抜かす人が多い。本書252ページにも、「このようにして、ムラの若衆たちは娘や後家たちを性的対象として支配した」と書いてあるのに、こういうくだりは都合よく読み落とすらしい。
 若衆仲間がどんなに感心できない組織でも、組織内だけで活動が完結していれば、それは「内輪」ではない。ムラの実力組織としてのさばり支配を及ぼすところに、「内輪」性が生じる。若衆仲間の支配は、251ページで述べられているような非道なものもあれば、弱者への配慮が行き届いた温情的なものもあっただろう。しかしどちらも「内輪」という点では同じだ。弱者の苦しみに配慮することはあっても、他者の自由を尊重することはない、「他者」や「自由」という発想さえなさそうな態度が、私の言う「内輪」である。
 
 「子供が13歳ごろになると、ムラの後家や年寄りが性の手ほどきをする習慣があった」という話に感心して、「昔の農村はしっかりした性教育を行っていた」と言い出す人がいる。しかしこの話にも私は感心できない。
 第一に、本書の記述をどう読んでも、性病から身を守ることを教えているようには読めない。
 ろくな避妊具もなくしかも高価だった戦前に、性病から身を守っていては、ハレの日限定ならともかく日常的な夜這いは不可能になるだろう。明治の日本を見た外国人によれば日本中梅毒だらけだったというが、むべなるかなだ。政府の夜這い弾圧・貞操奨励は、梅毒にかかっていない兵士や労働者を求めたからでもあるはずだが、著者は性病について一言も書いていない。ムラの支配体制にとって不都合なことを教えず梅毒にかからせるような「性教育」に感心する人がいる、という事実に暗澹たる気持ちになる。
 第二に、「性の手ほどき」なるもののありかたが、これもまた内輪だ。235ページ:

 紀州の勝浦では娘が十三、四になると、老人を頼んで女にしてもらい、米、酒、桃色フンドシを、その礼として贈った。おそらく相手をした老人の方から赤腰巻、カンザシなどを返すか、先に贈ったものと思われる。また十三、四の少女が、若い青年などに臼を切ってくれと追い廻している地方もあったらしい。臼を切れとは、水揚げしてくれということで、初潮のあった娘が、若い衆や熟練者に自ら性教育を依頼したのである。攝丹播地方の民俗でいうと、こうした習俗はムラごとに違うので、いろいろの型式があったとよりいいようがない。初潮があればすぐ夜這いがくるムラもあるし、発毛するようにならないと相手をさせないムラもある。娘仲間で相談して生涯の相談相手になるような壮・熟年男性を選定してやるのもあるし、早い者勝ちというのもあった。また、春・秋の宮祭り、秋や冬の粟島講、地蔵講などにオコモリ、ザコネで水揚げというのもある。最末期の段階では祖母、叔母などが連れて参り、かねて頼んである熟・老年の男性に破瓜してもらったという。まあお初穂、水揚げはなかなか難しいもので、若い未熟な男たちには頼まれぬということだ。

 「この者は性行為ができることをここに証する」という証明書を求める思いは、おそらく人類の大部分にあるだろう。「もしかしたら自分は証明書を得られないのではないか」という不安は理解できるし、上記の引用のような儀式化は、そうした不安への現実的な対処だろう。
 だが、「この者は性行為ができることをここに証する」という証明書が効力を発揮するのは、「性行為」をきわめて狭義に捉えた場合だけだ。同性愛行為さえ含まないほど狭い「性行為」である。性行為を広義に捉えれば、その外縁は果てしなく広がっており、その全域にわたって有効な証明書など馬鹿げている。
 とはいえ、ムラの成員として機能するだけなら、きわめて狭義の性行為さえできればいい。ムラの「性の手ほどき」がきわめて狭義の性行為に集中するのは当然といえる。
 ムラの教育がムラの都合に沿うのは当然――なぜなら、ムラとは内輪の世界だからだ。ムラの子供とはムラにとって、その自由を尊重すべき他者ではなく、ムラのために機能すべき部品だからだ。身を守ることを教えれば部品として機能しなくなるのなら、温情をとらずに非道を選び、教えない。それが内輪の論理である。
 ムラの「性の手ほどき」は、ムラの成員として機能するために必要なきわめて狭義の性行為を、性の中心に据える。このとき、自由を尊重することや、善き生の追求を助けることは、まったく眼中にない。
 そして現在の日本でも、ある意味で、内輪の論理は生きている。
 身を守ることさえ教えない非道はすでに終わった。しかし、きわめて狭義の性行為のほうは、いまだに性の中心に据えられている。「ムラの成員」が「夫婦」「カップル」に変わっただけだ。善き生の追求はしばしば「よいセックス」の追求へとすりかえられ矮小化されている。
 
 機能のための行為から、善き生のための認識へと、性の中心は移り変わる必要がある。
 百合は、少なくとも私が興味をひかれるような百合は、いわば「革命後の世界」を垣間見せてくれる。たとえその革命が現実には不可能なものだとしても。

Posted by hajime at 02:13 | Comments (0)